エホバの証人の社会的なトラブルで、輸血に次いで多いのが武道拒否に伴う問題である。輸血のように直接命に関わるというわけではないが、この教義の被害者になるのは学齢期にある子供たちなので、その子の一生に重大な影響をもたらしかねない。親にとっては何とも心を痛める教義の一つであろう。
たいがいの場合は、学校側が妥協して融通をきかせてくれる(レポート提出、見学参加を許すなど)ので、それほど深刻な事態には至らずにすんでいる。しかしそうでないときは、進級できないとかスムーズに卒業ができないといったやっかいな問題が起きてくる。時には退学になってしまうような最悪のケースも生じている。
去年の春先にも、神戸のある商業高校で起きた問題が報道され反響を呼んだ。「二年生の男子生徒10人が、格技(柔道)の授業を宗教上の理由で受けることができないとして拒否し、学校側の説得にも応じず、大半が進級をあきらめ、退学して定時制高校などへの転校しかないとの意思を固めている」という報道であった。
こうした武道拒否による学校側とのトラブルは、他のキリスト教会には見られず、ほとんどエホバの証人特有の問題になっている。もちろん、この教えもそれなりの聖書解釈に基づいて作られてはいるが、ものみの塔協会独特の教義の一つといえる。この教義にも、いかにもものみの塔協会らしい独善的な感性が反映されている。
問題点はだいたい次の二点に集約される。
これらの質問に対する答えが“イエス”であれば、格闘技は避けるべきであるという結論になるが、しかし、“ノー”であれば、やるかやらないかは単に個人的な問題にすぎないということになる。
一般に行なわれている格闘技には多くの種類がある。生命の危険を伴うようなものもあれば、護身術として役立つものもある。中にはクリスチャンにとってふさわしくないようなものも確かにあると思う。ただ、問題になっているのは格闘技すべてではなく主に学校で行なわれている武道なので、その点に絞って考えてみることにしたい。
ものみの塔協会が格闘技を禁じている最大の聖書的根拠は「平和の原則」である。ほかにも、格闘技の起源とか悪霊崇拝につながる危険性などを問題点としてあげてはいるが、学校で行なわれている格闘技に関していえばとうてい通用する論理ではない。
基本になっているのはあくまでも、格闘技と聖書の説く平和の精神とはあわないという論議である。
その点について「学校とエホバの証人」という小冊子(p.29)には、次のように説明されている。
エホバの証人は聖書が次のように述べる人々の一人でありたいと思っています。「彼らはその剣をすきの刃に、その槍を刈り込みばさみに打ち変えなければならなくなる。国民は国民に向かって剣を上げず、彼らはもはや戦いを学ばない」−イザヤ2:4.
聖書はまた、こう述べています。「できるなら、あなた方に関するかぎり、すべての人に対して平和を求めなさい」。(ローマ12:18)これらの原則を生活に当てはめると、格技に対する私たちの態度にも影響が及びます。それにはボクシングやレスリングはもとより、柔道、剣道および相撲などの武道が含まれます。これらの武道は今日スポーツとみなされています。エホバの証人は、広くスポーツと呼ばれているものを学校が教育の一環として取り入れていることに異議を唱えたいとは思いません。しかし前述の聖書の原則を考慮するとき、ほとんどのエホバの証人は格技を練習することは良心的にできないと感じています。なぜなら、そのような技術は、実際に人と争うときに用いられることがあり、そうした技能に心得のある人は問題の解決法として腕力に訴える場合のあることが観察されているからです。ですから、エホバの証人はそのような格技には加わりません。証人の若者たちはそのような競技に参加することを免除していただくよう願い出ますが、授業時間内に行われる他の体育教育の教科課程には喜んで、できる限り協力いたします。
格闘技は今日スポーツの一種と見なされるようになってはいるが、ものみの塔協会から見るとそうではない。したがって、格闘技をすることは聖書の教える「平和の原則」、その精神に反している、平和を求める人は格闘技をすべきではない、戦いの方法を学ぶのは非クリスチャン的だというわけである。
説明を読むとわかるように、この教義の規準になっているものは、ものみの塔協会の幹部、統治体の武道に対する感覚である。絶対的な根拠は何もない、私たちはこう感じるのでそのようにすべきだという論法である。まず最初に、武道はダメという一義的な感性があって、それを成立させるために他の人が納得しやすい平和の原則を持ち出してきているにすぎない。
それは、この見解の前提になっている非常に重要な論点について、何の説明もしていないことからわかる。格闘技禁止の正当性を主張するのであれば、次の二つの質問に明確に答えて然るべきである。
もしこれらの点について納得のゆく説明ができるのであれば、この格闘技拒否の教義もそれなりに成立するかもしれない。しかしそうでなければ、「どうしてもそう感じる人はそうすればよいであろう。何も自分の感性を他の人にまで押しつけることはない」という程度の教理にすぎなくなる。
この格闘技拒否の教理に伴う問題点を明らかにするのは少しも難しいことではない。ポイントは実に単純で、スポーツかそれともそうでないかという点だけである。聖書的にどちらかに断定することができるのか、それとも単に感性の問題に過ぎないのかということが、判断の分岐点になる。
平和の精神そのものに反対の人はいないであろう。互いに平和を求めることに異論のありようはずがない。イザヤ2章4節の「剣をすきの刃に、槍を刈り込みばさみに打ち変える。国民は国民に向かって剣を上げず、もはや戦いを学ばない」という聖句は、国連の目標、標語にもなっている。また平和を願う人であれば、学校で子供たちに人殺しの訓練をさせることに賛成するような人はいないはずである。
したがって、トラブルの原因は聖書の述べる平和の精神そのものにあるのではない。そうではなく、それを格闘技に当てはめるものみの塔協会の適用の仕方、その一点にあるといえる。
ものみの塔協会は、武道は単なるスポーツではない、それは戦いの方法を学ぶことである、極端に言えば人殺しの訓練にも通じる、武道を習うと闘争本能が刺激されて有害である、と主張している。ものみの塔の幹部、特に教義を作っている統治体のメンバーはそのように感じるらしい。
しかし繰り返すが、今日武道をそのように考える人はほとんどいない。軍隊の訓練ならいざ知らず、一般にはもはやスポーツとみなすのが普通である。柔道はオリンピックの種目になって、はや20年以上になる。
この感性の違い、ものみの塔協会と、一般社会の見方の食い違いがトラブルの最大の原因になっている。それでも、もう少しものみの塔協会も一般の感性を踏まえたうえで説明をしているなら、もっと理解もされようが、自分たちの見解を主張し、ただそれを押し付けるだけでは反発されても当然であろう。
スポーツだと思う人には格闘技はスポーツにすぎない。そうでないと感じる人には単なるスポーツではない。これは感性の違いだからどうしようもない。
このような場合、立証の責務は異なった意見を主張する側にある。どちらかに一本化するのであれば、異なった感性の人々をも納得させるだけの証拠が必要になる。それを提出できないのであれば、ものみの塔協会も絶対的な教義として人に課すべきではない。自分の感性を信者に押し付けるというのは、キリスト教の崇拝の原則に真っ向から反することである。
他のキリスト教会は格闘技をどのように考えているのであろうか。私たちの調べた範囲では、ものみの塔協会以外に、格闘技を禁止している組織はほかになかった。総じて、問題意識すら持っていないというのが諸教会の状況である。
あるクリスチャンは護身術のためにと、子供に剣道を習わせているそうである。比較的戒律が厳しいといわれるモルモン教でも、身体を鍛えるのは好ましいことだから、武道は差し支えないということであった。
戦時下ならいざ知らず、現在の武道に対する社会的な意識では、もはや「平和の原則」と抵触することはないというのが、他の一般的なキリスト教会の判断のようである。
今日多くの国々で格闘技はすでに、スポーツや護身術の一種と考えられるようになっている。これは否定のできない事実である。学校の授業に武道を導入することに反対した人々は、軍事化の動きを危惧したのであって、別に武道そのものに反対したのではない。剣道が本当に人殺しの訓練の意味を持つのであれば、日教組やPTAも決して黙ってはいまい。
もちろん、行う人の動機や目的、あるいは状況によって格闘技の持つ意味も変わりうるとは思う。身体を鍛えるため、精神修養のためという人もいるだろうし、あるいはケンカに強くなるためという人もいるかもしれない。ものみの塔協会が格闘技を非とする原則として上げているイザヤ2章4節の「戦いを学ばない」に、反する人もそうでない人もいるはずである。これは、表面だけでは単純に決めることのできない問題である。
したがって、格闘技が単なるスポーツ以上の意味を持つか否かは、格闘技を行う人の動機と、それが行われる状況によって決まるといえる。あくまでもスポーツだと思っている人にはスポーツ以上の意味はない。特殊な状況を持ち出したり、自分たちの感性を根拠にして良いの悪いのというのは、大いに間違っている。
いかなる人も信仰の主人になってはならない。コリント第二1章24節の述べる通りである。
「わたしたちは、あなたがたの信仰を支配するつもりはなく、むしろ、あなたがたの喜びのために協力する者です。あなたがたは信仰に基づいてしっかり立っているからです。」(新共同訳)
格闘技に対する感じ方、受け止め方は決して一様ではない。その意味は人の感性や様々な状況によって異なってくる。同じことは闘争精神についても当てはまる。武道は有害な闘争精神のみを育むわけではない。事実は決してそうではないことを物語っている。すべてを一律に考えることはできないのである。
紛争や戦争、争いを生み出すような闘争精神であれば確かに有害なものといえる。クリスチャンがそのような精神を育むのは間違ったことであろう。しかし闘争精神をすべて一括して悪いと決めつけることはできない。なかには必要な闘争精神もある。
例えば、使徒パウロはクリスチャンに邪悪な霊の勢力と「闘う」ように勧めている。(エフェソス6:12)内面の戦いを止めることは、邪悪な精神に犯されてゆく結果を招く。それはクリスチャンにとって真に致命的なことである。これこそ、格闘技拒否などで平和を愛しているというポーズをとるよりも、はるかに重要な問題である。またテモテ第二4章7節では「わたしは戦いを立派に戦い、走路を最後まで走り、信仰を守り通しました」と述べて、信仰の戦いを続けるよう励ましている。このように、聖書は私たちにすべての戦いを禁じているわけではない。闘うことが良いか悪いかは闘う相手、対象、目的、動機、状況によって異なってくる。
セネカは「生きることは戦うことである」と語ったと伝えられている。確かに人はいろいろな意味で毎日戦って生きている。人体には病原菌を含め、様々な異物が侵入してくる。もし免疫機構がそれらの外敵と戦うことをやめてしまったら、人間はたちまち死んでしまうに違いない。意識外のこうした戦いの他にも、ストレス、事故、災害など人生における戦いには様々なものがある。
このような生命の敵と戦う上で武道はどのような意味を持つであろうか。ほとんど関係ないという人もいれば、大いに役立ったという人もいるはずである。おそらく状況は人様々であろう。すべてを禁止しなければならない必然性はまったくない。
ものみの塔協会は「ほとんどのエホバの証人は格技を練習することは良心的にできないと感じています。なぜなら、そのような技術は、実際に人と争うときに用いられることがあり、そうした技能に心得のある人は問題の解決法として腕力に訴える場合のあることが観察されているからです」と述べているが、これは真摯な態度で武道に取り組んでいる人にとってはとうてい承服できない発言であろう。
むしろ「武道の道はまったく逆である。そういうさもしいあさはかな根性の人に礼を教えるのが武道である」という反論が、当然出てくるものと思う。
武道を習うと暴力的な傾向が強まるとか、格闘技を行わない人の方がより平和を求めるようになるなどと、単純に言えるものではない。現に格闘技を身に着けていても平和を愛する人もいれば、格闘技には全く無関心でも、暴力的な人や争いを起こす人は大勢いる。平和的か暴力的かは、一概に格闘技を行う、行わないで、決めつけることはできないのである。
それに、平和を乱すものは必ずしも実際の暴力行為や争いだけとは限らない。言葉による暴力もあれば、権力の濫用という暴力もある。心の中の暴力は非常に陰湿で質が悪い。しかもすべての暴力行為の根になる。
学生のエホバの証人が皆、平和を求める点でものみの塔協会の宣伝通り模範的であるなら、この教義に対する反発もかなり少なくなるものと思う。それほど徹底して平和を愛するというのであれば、周囲の人もそれなりに「なるほどそういう主旨であれば」と納得するかもしれない。
しかし、平和の精神により武道を拒否するという人々が、他人の迷惑も顧みず利己的な態度をとったり、ときに陰で不良グループの仲間だったり、いじめに加わっていたなどということがあると、反発はより大きなものとなっても仕方がないであろう。武道拒否などと騒ぐ前にもっとやることがあるのではないか、といわれるのも当然である。形だけの平和では意味がないのだから。
武道にこだわるよりもクリスチャンとしての精神態度を重視する方が、はるかに大切なことだと思う。ヤコブも指摘しているように、非産出的な争いは何といっても利己的な渇望から生じるわけだから(ヤコブ4:1,2)。
争いの根に取り組むことは、武道禁止などとは異質の問題である。真のクリスチャンならば、むしろ、そちらの方に取り組むべきであろう。神が求めておられるのも真に平和的な精神のはずである。