12章 不必要な戒律

(1) ものみの塔協会の戒律

 この章で取り上げるのは、行事、祝日、習慣、冠婚葬祭、学校生活などにおいて、ものみの塔協会が公的にあるいは暗黙のうちに禁止している事柄である。
 かつてのユダヤ教ほど膨大な戒律があるわけではないが、ものみの塔協会の規則もかなりの数に上る。どうも最近は、次第にその数が増えてきているようである。1985年に出された「学校とエホバの証人」というブロシュアーには、その傾向が顕著に現れてきている。おそらくものみの塔協会のすべての戒律を守ろうとすると、通常の社会生活および学校生活は不可能になるだろう。これは、特に子供たちには大変な精神的負担になっている。
 その土地によってかなり異なる面もあるが、禁止されているのは以下のようなものである。

《祝祭日》

 主な祝日を月ごとに並べてみたが、もちろんこのほかにも祝祭日はまだたくさんある。基本的にはそれらの祝日はすべてふさわしくないとされている。クリスチャンが祝うべき唯一の記念日は、キリストの死の日、主の記念式ということになっている。
 祭りや記念日の多い地方に住んでいるエホバの証人ほど、家族の他の成員や地域社会とのトラブルが多くなる。

《その他の禁止事項》

《勧められていない事柄》

 これらは、表向きは「勧められていないこと」になっているが、組織の是認を得るという点では、ほとんど禁止されているようなものである。この勧めを受け入れない人は、特権コースからは外されることになる。
「学校とエホバの証人」の25ページには、

  「証人の若者たちやその親が考慮したい重要な質問は次のとおりです。クラブ活動は学校の授業時間内に限られていますか。クラブ活動は学校の注意深い監督を受けていますか。クラブに入ると、家族あるいは会衆の活動でより良く過ごせる放課後の時間が取られるようになりますか。結局、何かのクラブ、あるいは学校の組織に子供たちが加わるのを許すかどうかを決めるのは、証人である親の責任です。」

と記されているが、巡回大会や地域大会で行う実演には、もう少し組織の本心が表れている。
 子供たちがクラブに入ろうか、何かのスポーツをしたいがどうしようかと親に相談する。すると、親はものみの塔協会のいろいろな出版物を持ってきて、子供と特に否定的な面を話し合う。結局、最後は集会や奉仕に差し障りがあるのでやめるということにする。ほとんどがこのパターンで終わるものばかりである。
 規則としてはっきり制定されていなくとも、良くないとされているものはまだ他にもたくさんある。そうした数々の点については、ものみの塔誌や目ざめよ誌、王国宣教(成員向けの会報)などで、随時扱われることになる。それらの指示に精通するのは大変なことである。その資料は実に膨大な量に達するからである。右へ行ったり、左へ行ったり、ときどき組織も方針が変わるので、長老たちや親にはなおさら負担となっている。

《禁止の理由》

 組織としてのポリシーは別にあると思うが、聖書的な理由としてあげられているのは主に次の二つである。

  1. 世から離れている(ヨハネ17:16)
     「かれらもこの世のものではありません。」とイエス・キリストが語ったので、弟子たちは世から離れていなければならないというわけである。クリスチャンが世俗的すぎるのは確かにふさわしいことではないにしても、この適用の範囲がどこまでなのか、誰がそれを制定するのかということは大いに問題になる。
       ものみの塔協会は、一般の行事や習慣、慣行にそのまま当てはめている。したがって、厳密に適用しようとすれば、それだけ禁止事項が増えてゆくことになる。

  2. 宗教的な清さ
    • 20 いや、わたしが言おうとしているのは、偶像に献げる供え物は、神ではなく悪霊に献げている、という点なのです。わたしは、あなたがたに悪霊の仲間になってほしくありません。
    • 21 主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできないし、主の食卓と悪霊の食卓の両方に着くことはできません。 (コリント第一10:20,21)
    • 14 あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。
    • 15 キリストとべリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか。
    • 16 神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。そして、彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
    • 17 だから、あの者どもの中から出て行き、遠ざかるように』と主は仰せになる。『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
    • 18 父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる。』 (コリント第二6:14〜18 新共同訳)

 ものみの塔協会は、自分たち以外はみな大いなるバビロン、すなわち悪霊的な宗教と決めつけているので、他の宗教に関係のある行事、祝日はすべてダメということになる。そういう行事に参加することは、悪霊崇拝に連なることであり、神の不興を招くとされている。極端に字義的に解釈すれば、触れることすら汚らわしいということになってしまう。「疑わしきはすべて避けよ」である。
 これが、起源にこだわるゆえんとなっている。「学校とエホバの証人」の20、21ページを見るとわかるが、そこでとり上げられている正月、節分、母の日などはみな、起源が問題であるということになっている。古くから伝えられている行事や習慣は、ほとんどが宗教的ないわれや起源を持っている。地方に残っている行事には、素朴な土俗信仰と結び付いたものが多い。起源を問題にしてゆくと、良いものはほとんどなくなってしまう。
 しかし、ものみの塔協会もずっと前から起源を主な禁止の理由にしていたのではない。かつては全く逆のことを言っていたときもあったのである。

   ゆえにクリスチャンにとって気にする必要があるのはおもにどんな事ですか。ある象徴またはデザインが何千年も前におそらく何を意味したか、あるいは遠い他の国でそれがどのように見られているかではなく、自分の住む土地で、大抵の人にとってそれが現在何を意味しているかということです。・・・・
   偽りの崇拝に使われてきたデザインは様々のものが数多くあるため、もし人が手間と時間をかけるならば、身の回りにあるほとんどすべてのデザインには好ましくない結びつきのあることに気づくでしょう。しかしなぜそんな事をするのですか。それは不必要に心を悩ますことではありませんか。しかもそれは頭と時間を最善に使う方法ですか。(目ざめよ!1977年4/8号p.14,15)

 起源ではない、現在それがどう見られているかということが重要なのであるという考え方である。ものみの塔協会としては、珍しくものわかりの良い記事であった。
 今は、起源などはクイズ番組の問題になるような時代である。一般の人で起源を知っている人はほとんどいない。何も時代錯誤的な論議を蒸し返す必要などないはずなのに、どうして再び起源の論議を持ち出してきたのであろうか。おそらくこれは、R・V・フランズ兄弟の指摘するように、組織のポリシーのなせる業に違いない。ものみの塔協会は、戒律強化の方針を取り始めたということであろう。

《組織上の理由》

 主な理由は霊的な清さのため、この世の業や悪霊的な習慣で神の会衆を汚染させてはならないということであった。しかし、どうもこれは表面的な理由にすぎないように思われる。
 ものみの塔協会の組織としての最大の動機は何か−それは間違いなく組織の拡大である。拡大はエホバの祝福、是認の印ということになっているので、拡大が続いているかぎりは苦しい言い訳を考えずにすむ。そして何よりも拡大は、幹部の特権の向上をもたらすのである。これは別にものみの塔協会に限ったことではなく、組織宗教というのはみなそういう形態になっている。
 この点から言えば、戒律が多くて信者に負担をかけるというのは、マイナス要因になるはずである。楽園と地上での永遠の命の希望に心ひかれても、戒律の大変さでつまずいてしまう人は決して少なくないからである。しかし、それでもあえて戒律を増やそうというのはなぜであろうか。
 この背後には組織としてというよりも、組織の幹部としての動機が働いているように思える。統治体の目が内部に向くとき、どこに焦点が当てられているかが問題になるわけである。
 R・V・フランズ兄弟の内部告発によると、統治体が組織内の様々な問題を討議するとき最も腐心していたのは、「組織をどう支配するか、いかに組織の支配体制を強化するか」ということであったという。そうであれば、戒律主義強化の背景には統治体の組織支配の願望があると見て、まず間違いはないであろう。そして、組織としての動機よりは、幹部としての動機、すなわち権力志向の方がより勝っているということでもあろう。戒律を多くすれば、組織の権力は強化されるからである。
 もう一つは伝道である。これも結局は組織支配の一貫になるが、余計なことには携わらずにひたすら伝道に打ち込んで欲しい、あるいはそうさせたいという組織の欲求が背後にあると考えられる。伝道、集会に追い立てられるような生活を可能にするには、戒律を多くして成員を縛るのが手っ取り早い方法になるからである。

(2) 細かい戒律は不要

 霊的な清さ、クリスチャンとしての清さは、戒律を守ることによって達成されるわけではない。もちろん、すべての戒律が必要ないということではないが、清さの規準を戒律に置くのはキリスト教の進展からすれば、時代錯誤的な行き方になる。
 ものみの塔協会は、自分たちは戒律主義ではないというかもしれないが、実質はそうなっている。彼らは動機や姿勢、精神態度よりも、組織への盲従、組織の戒律への従順を重視している。その態度や考え方はパリサイ人的な行き方に非常によく似ている。
 戒律主義は霊的な清さをもたらすよりも、むしろ、人間性の欠如や内面のゆがんだ醜さを助長してきたという皮肉な側面を持っている。「律法によらなければ、わたしは罪を知らなかった。例えば、律法が『むさぼるな』と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったのである」(ローマ7:7)というようなことが、戒律主義には多く生じうるのである。
 こうしたことは何もユダヤ教やキリスト教に限ったことではない。宗教全般に広く見られる現象である。清貧と厳格な戒律を謳い上げた僧院や修道院、禅寺で、いったい何が行われてきたかを考えてみればよい。もちろん、清さの完成や悟りをめざして誠実に努力した人も大勢いた。しかし、多くの場合、裏では醜くゆがんだ欲望によるアブノーマルな世界が繰り広げられてきたのである。そこには歴史の豊富な証言がある。これは、いまさら試してみる必要のないくらい、繰り返し繰り返し実証されてきたことである。

《真の清さとは》

 神を愛するとは神の戒めを守ることです(ヨハネ第一5:3)、と使徒ヨハネは述べているが、戒律を強調するのと愛を強調するのとは全く姿勢が異なってくる。「本当に神を愛している人はその戒めを守るはずです、つまり、本当に神を愛しているのかいないのか」を問題にするのと、「神を愛するとはイコール神の戒めを守ることです、戒めを守っていれば良いのです」というのは、主旨がぜんぜん違う。
 イエス・キリストが強調したのは内面の状態、心のあり方のほうであった。次の聖句は、弟子たちが伝統を守らないとパリサイ人に非難されたことに対するキリストの反論である。

 キリストは決して手を洗わないで食事をすることを勧めたのではない。問題にしているのはパリサイ人の姿勢である。彼らは手を洗う洗わないというようなことに目くじらを立てながら、それよりもはるかに重要な内面の清さをないがしろにしていたのである。
 人を本当に汚すのは内面の醜さである。戒律主義というのは、心の醜悪さのカモフラージュに使われることが多い。

 この指摘の通りであろう。何よりもまずは、杯と皿の内側を清めよ!である。そういうことを脇に置いといて、祝日、慣習、冠婚葬祭等にこだわるのは無意味である。ものみの塔協会はパリサイ人と同じように順序が逆になっている。真っ先にすべきことは内面を清くする努力であろう。
 だいたいが戒律主義というのは偽善者を生み出しやすいのである。ポーズを決めてかかる宗教家にろくなのはいない。すべての人がそうだとはいわないが、外を飾る度合いと内面の醜さはほぼ比例関係にあると考えてよい。
 キリスト教の理想は愛の律法のみである。最終的には愛の律法だけで細かい戒律はすべて不要になるのが、キリスト教の完成された姿である。(ローマ13:8〜10)。戒律は減っていく方が望ましい。そうであれば、その組織は健全な発展を遂げているといえる。  ものみの塔協会はそれとは正反対である。成長しているのではなく後退していっている。組織の権威で戒律を増やそうとするのは、時代錯誤的な行き方である。戒律の強化で本当に問題を解決することはできない。組織としてはそういう方法を採用する方が楽なことかもしれないが、それは真のキリスト教をめざす者のすることではない。
 思い切って戒律を捨て、クリスチャンとしての内面を強化する方向に向かうほうがはるかに勝っている。キリストが勧めたのはそういう道なのだから、こちらがそれに徹して天に問うてゆくならば、必ず神も答えてくれるはずである。

《天の権威に道を譲る》

 絶対的な根拠がない、そう言えるだけの聖書的な裏付けがないというときには、無理して組織の権威で答えようとするのではなく、素直に天の権威に道を譲ればよいと思う。神が本当に主権者であって、キリストが羊を導いているというのであれば、天は霊的な裁きを通して答えを出してくれるはずである。もし、何の答えもないのであれば、それは答えを出さねばならないほどの問題ではない。キリストはそのように判断したに違いないくらいに考えておけば、それでよいのではなかろうか。
 誕生日を祝ったら偶像崇拝になるのか、応援歌一つ歌うくらいで世の精神に汚れてしまうのか、祭りを楽しんだら悪霊崇拝に加わったことになるのか、これは組織が判定すべきことではない。是認するかしないかを決めるのは天なのだから、先走って越権行為などせずに黙って神とキリストに委ねればそれでよいのである。組織は余計なことなどせずに、天に委ねることを教えるべきであろう。
 もしその行為が本当に神からみて間違ったことであり、正確な知識に基づかないものであれば、それなりの結果が出てくるはずである。そういうことを行ない続ける人々は、次第に次の聖句のようになってゆくはずである。

 神が間違っている、ふさわしくない、是認することはできないと判定したのであれば、その人は聖霊を取り去られる。そうするとだんだん非とされた精神状態が現われるようになる。ねたみ、そねみ、憎しみ、激発的な怒りなどを制御することができなくなってしまうのである。そういう徴候が出てきたら、間違っていたのだと思えば良い。致命的にならない前に悔い改めれば、神に捨てられてしまうことはないだろう。天の恵みも戻ってくるはずである。
 判断を神に委ねることができないという人は、理解力に欠陥があるのではない。問題なのは心の方である。動機にやましいところがなければ、答えを天に問うことができるはずである。そうすることができないとすれば、もっと別の動機に支配されている証拠になる。ものみの塔協会の場合は組織支配という強力な動機があるので、宣伝や公約とは裏腹に、裁きを天に委ねることができないのである。
 ここ数年、私たちの実験してみたことからすると、祝日、冠婚葬祭等の分野におけるものみの塔協会の戒律は、全部とは言い切れないかもしれないが、そのほとんどは不要であることがわかった。ほぼそう断言しても差し支えないと思う。
 神は天地の創造者である。これほど変化に富んだ世界を創造した神が、あれほど物分りが悪く堅苦しいということは、神性から考えてもありえないはずである。狭苦しくしているのは、神ではなくて、統治体の精神の方であろう。


ものみの塔の終焉
 昭和63年4月25日 印刷
 昭和63年4月28日 発行