1985年6月、川崎市で交通事故にあった小学生が輸血を拒否して亡くなったという事件は、センセーショナルな問題としてマスコミにも大きく取り上げられた。その後も輸血に関連した事件が相次ぎ、宗教上の理由から輸血を拒否するというエホバの証人の立場は広く知られるようになった。
ものみの塔協会の教義の中でも、この輸血禁止は最も社会的な摩擦を引き起こす戒律である。即、生命が関わってくる問題なのでそれは当然のことといえよう。基本的人権、人命尊重という点では一つの社会問題ともいえる。
世界的な組織を有するキリスト教の団体で、輸血禁止の教義を唱えているのはものみの塔協会の他にはない。そうした点を考えると次のような疑問が沸いてくると思う。はたして、輸血にはどの程度の聖書的根拠があるのか。また、本当に緊急時であっても命をかけてまで守らねばならないほどの戒律なのか。神はそうした点をいったいどのように見ているのか。
この章ではこうした問題点を取り上げることにしたい。まず最初に、ものみの塔協会があげている輸血禁止の根拠から検討を始めることにする。
輸血の歴史は中世にまでさかのぼるといわれているが、本格的に行なわれるようになったのは第一次世界大戦以降とされる。その当時は、ものみの塔協会もP・S・L・ジョンソン等の内紛で、輸血どころではなかったようで、組織の幹部も、まだ血の律法と輸血の関係に注目するには至っていない。
血の神聖さと血の誤用に関する記事が、ものみの塔誌に登場するようになったのは1927年ころからと伝えられている。しかし、すぐに輸血禁止が教義として定められたわけではなかった。組織の戒律として制定されるのは、第二次世界大戦の終了する1945年ころのことである。その年までには、「血を避けるように」という聖書中の禁令は輸血にも当てはまるとの見解が、世界中のエホバの証人に発表されるようになった。(「1976年 エホバの証人の年鑑」p.222参照)
その後、この問題については多くの出版物で論じられてきたが、それらをまとめるとだいたい以下のような論議になる。
神は創造者として「血」についてすべてのことを知っており、命の与え主として「血」をどう扱うべきかを定める全面的な権利を有しておられる。それゆえ人は創造者の律法を尊重しなければならない。
神は大洪水の直後、ノアに対してはじめて「血」についてのご自分の見解を明らかにされた。
その規定は創世記9章3、4節に記されている。
「生きている動く生き物はすべてあなた方のための食物としてよい。緑の草木の場合のように、わたしはそれを皆あなた方に確かに与える。ただし、その魂つまりその血を伴う肉を食べてはならない。」(新世界訳)
血の律法には直接関係のないことであるが、新世界訳のここの翻訳は少々変である。「その魂つまりその血を伴う肉」と訳すと、魂=肉(血を伴う)となってしまうからである。こだわらなければそれほど問題にならないかもしれないが、ものみの塔協会の教義にはたしか、魂=肉というのはなかったはずである。
新共同訳では次のようになっている。
「動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない。」
この血に関する禁令は、極めて重要な道徳的原則として、全人類に課せられた神の律法であった。「血」は「命」と同格に扱われており(レビ17:10〜14.申命記12:23〜25)、非常に神聖なものとされている。殺された動物の「血」を注ぎ出すことは、生命が創造者からのものであり、同時に命が神に依存するものであるという認識の表明を意味していた。この聖句が直接述べているのは動物の血に関してであるが、人間の血についてはなおのこと当てはまるはずである。神が動物の血でさえ神聖なものとみなされるのであれば、神の像に創造された人間の血はそれ以上に神聖なものとみなされて当然である。
このように、人類史の初期に、神は血についての考え方を明らかにされ、殺人と血を食べるという行為を禁止されたのである。
ノアに与えられたこの禁令はモーセの律法にもそのまま取り入れられた。しかし、これは律法下のイスラエル人にだけ当てはまるというものではなかった。というのは、キリスト教の体制に移ってからも、この律法の順守は引き続き求められることになったからである。
西暦49年にエルサレムで開かれた会議の際、非ユダヤ人でキリスト教徒になる人々が守らねばならない事柄について、次のような決定がなされた。
「すなわち、偶像に犠牲としてささげられた物と血と絞め殺されたものと淫行を避けていることです。これらのものから注意深く身を守っていれば、あなた方は栄えるでしょう。健やかにお過ごしください」(使徒15:29 新世界訳)
このエルサレム会議の決定から、初期クリスチャンたちは、「血を食べてはならない」という命令をキリストによって廃止されたモーセの律法とは区別し、恒久的に守らねばならない神の要求と受け取っていたことがわかる。
その点について、ドイツ、ゲッティング大学の教授ヴァルテル・ツィメルリはこのように注解している。
「最初のユダヤ人クリスチャン会衆は、使徒15章に伝えられる決定の中で、モーセを通してイスラエルに与えられた律法と、ノア[を通して]全世界に与えられた命令との区別を明らかにした」−Zurcher Bibelkommentare (「エホバの証人と血の問題」p.12)
この命令が一時的なものでなかったことは、使徒たちの活動の記録から理解できる。そこにはエルサレム会議から約10年後の状況について記されており、当時のクリスチャンたちが「血を避けなさい」という決定に従っていたことが述べられている。(使徒21:25)
さらに、2、3世紀の神学者たちが残した文献は当時のクリスチャンたちが、「血を避けなさい」という命令を忠実に守っていたことを物語っている。
したがって、「血を避ける」という戒律は単に一時的な戒律として与えられたものではなく、人類が恒久的に守るべき戒律として制定されたものであることがわかる。
では、この律法は具体的にはどのようなことに当てはまるのだろうか。血の律法が適用される範囲について、ものみの塔1982年1月15日号は次のように述べている。
「神のお考えを知らなかったり考慮に入れなかったりする大勢の人は、人間の血液を輸血に用いることをよしとします。また土地によっては、人々がブラッドソーセージのように食物に動物の血を混ぜて食べるところもあります。血の誤用の例はこれだけではありません。と殺した動物の血で肥料を作ったり、それをドッグフードやキャットフードに加えたり、他の商品に加えたりして利益を得ようとする実業家もいます。・・・・・・律法が取り除かれた後も、神はクリスチャンに「血を避け」ねばならないと指示されました。それで、エホバの証人は血を食べることも輸血を受けることもしないのです。また、血の様々な商業的な利用をも是認しません」(p.30)
文字通り血を飲むのはもちろんのこと、輸血、血の入った食品を食べること、さらに血を商業的に利用することなどは、神の律法に対する違反行為であると断定している。
輸血については「とこしえの命に導く真理」p.167で、さらに次のように説明されている。
今日の、人間の血の使い方についてはどうですか。血に命をささえる力のあることを知る医師たちは、病人の治療にあたって、自由に輸血を採用しています。これは神の御心にそうことですか。輸血は血を「食べる」こととは異なると考える人がいるかもしれません。しかし、患者が口から物を食べることができない場合、医師はときに輸血を施すのと同じ方法で養分を取らせるのではありませんか。聖句を細かに調べ、『血から離れていなさい』、また『血を避けなさい』と命じている点に注意してください。(使徒行伝15:20,29)これはどういう意味ですか。医師が酒類を避けなさいと命じた場合、それは酒を口から飲んではならないが、直接に静脈に注入することはさしつかえないという意味ですか。もとよりそうではありません!それで、『血を避ける』ということは、血をいっさいからだの中に入れてはならないという意味です。(下線はものみの塔協会)
聖書が書かれた時代には輸血というものがなかったのだから、とうぜん輸血という言葉は聖書中には出てこない。しかし「血を避けなさい」という神の命令は、明らかに輸血にも当てはまる。注射で取り入れることも口から摂取することも、結果的に血を体内に取り入れることに変わりはないからである。
以上が、輸血は「血を避けなさい」という神の命令に違反するものであるとする、ものみの塔協会の見解である。エホバの証人はこうした組織の説明を少しも疑うことなく受け入れている。
ものみの塔協会は、輸血禁止が緊急時で生命に関わるような状況であっても固守しなければならない規則であると主張している。これは決して、日本支部のコメントのように、成員の自由意志に任せられているような規則ではない。
なぜ、命をかけてまで守らなければならないのか、その理由として、「話し合いのための聖書の話題」という小冊子は以下の点をあげている。
ロ.命を救うからといって神の律法を破ることは正当化されない
- (1) 従順は犠牲に勝る
- サム前 15:22(神は犠牲より従順を喜ばれる)
- マルコ 12:33(心をこめて神を愛することは捧げ物をすることよりはるかに価値がある)
- (2) 家族に対する愛はキリストへの愛に次ぐ
- マタイ 10:37(キリストよりも家族に愛情を持つ者はキリストの追随者としてふさわしくない)
- (3) アブラハムは従順に息子を捧げようとした
- ヘブル 11:17〜19(神に対する信仰からアブラハムはイサクを犠牲として捧げようとした)
- 創世記 22:9(アブラハムは息子イサクを縛って祭壇の上に寝かせた)
- (4) 神の律法より自分の命を大切にするのはゆゆしいこと
- マルコ 8:35,36(自分の魂を救おうとする者はそれを失い、良いたよりのために自分の魂を失う者はそれを得る)
(41.血 p.23参照)
はっきり断っておかなければならないのは、これらの聖句は決して無条件で輸血に適用できるものではないという点である。エホバはパリサイ人的な体質の神ではないので、明確な適用が規定されていない律法を機械的にすべて同じレベルのものとして見ておられるわけではない。加えて、ご自分の民が置かれている状況を無視して、規則のみを優先するような神でもない。
ここにあげられている聖句を輸血に適用するには、「輸血禁止が神によって定められた絶対的な律法である」という条件が不可欠になってくる。もしそれが満たされないとすれば、これらの聖句とその論議は輸血の教義には当てはまらないことになる。判断の分岐点となるのは、「神が本当に輸血をしてはならないと定めたのか、それとも定めたのはものみの塔協会にすぎないのか」ということである。
エホバの証人はものみの塔協会に教えられている通りに受け取っている。だから、輸血をしなければ助からないというような状況に直面した時には、命をかけて戒律を守らなければならないという圧力の下に深刻に悩むのである。死にたいと思っている人は誰もいない。ただ、輸血禁止が絶対的な律法だと思っているので、神に対する忠節が試されているのだとしか考えられないのである。
最近の日本支部のコメントとは異なり、最初からものみの塔協会がそういう主旨で教えていたことは間違いのないことである。
それは次の経験によく示されている。
マリー・M・グリーサムは、彼女の弟ダン・モルガンが経験した事柄をよく覚えています。ガンの末期にあった彼は、輸血をきっぱりと拒絶したためにニューヨーク市のある退役軍人の病院から三度追い出されました。四度目の入院が認められた時も、なお彼は輸血を拒否しました。グリーサム姉妹はこう語っています。「それは1951年8月のことで、ダンは1951年10月に54歳で亡くなりました。ダンはとても幸福で平安そのものでした。死ぬちょうど四日前、彼は別の姉妹に、自分はまもなく眠りにつくけれども、忠実を保つことができ、またキリストの追随者の『小さな群れ』のひとりになるという大きな報いがあるので幸福だと語りました」
・・・・グラティス・ボルトンの場合を考えましょう。彼女は、脾臓に通じる大動脈に脈瘤ができているので脾臓を切除しなければならないと医師から言われました。それで、輸血をしないという条件で手術を受けることに同意しました。・・・・彼女の主治医は約束を守りました。・・・・医師はこう言いました。『ボルトンさん、あなたの神エホバを絶対に見捨ててはいけませんよ。医学のあらゆる歴史や記録からすれば、あなたはとっくに死んでいるはずです。あれほど多量の血液を失って、しかも生きた人はいまだかつていませんからね』。わたしは答えました。『デイビス先生、わたしはエホバを捨てるつもりは毛頭ありません。でも、エホバの証人は今日信仰治療を教えてはいないのです。わたしたちは良い医師と看護婦の方々に感謝しています。それに、みなさんはわたしの命を助けるために一生懸命努力してくださいました。でも、血に関するエホバのご命令に従ったので、わたしたちすべては祝福されてきました』。(「1976年エホバの証人の年鑑」p.224)
ものみの塔協会は、このような経験談を豊富に取り上げ、神の律法を破ってまで自分の命を救おうとするなら、むしろ、永遠の命を失う結果になるということを強調している(マタイ16:25)。
この規則が命を賭けてまで守らねばならない戒律として定められていることは、絶対に間違いがない。
川崎で起きた輸血拒否事件の際、日本支部はマスコミに対して次のようなコメントを発表している。昭和60年6月7日付の朝日新聞には「本人の意思を尊重」という見出しのもとにこう記されている。
「聖書は「創世記」「レビ記」(以上旧約)「使徒行伝」(新約)の中で動物などの血を食べることを禁じている。肉を食べるのはかまわないが、血は「命」を表しており、地面に注いで神に返す、という考え方からだ。輸血も「血を食べる」と同じに解釈している。戒律として課しているのではなく、あくまでも本人の意思を尊重している。」(下線は発行者)
これを聞いて驚いたエホバの証人は多かったのではなかろうか。私たちは、あのコメントは絶対におかしいと思った。
組織の取り決めによると、輸血をした場合には、審理委員会が開かれることになっているからである。長老、監督たち用のテキストである「王国宣教学校の教科書」59ページには、排斥に値する罪として、「『血を避け』ようとしないこと(ほとんどは輸血)」がはっきりと記されている。事実、輸血をして排斥された人もいるし、長老の場合は自分の家族(妻や成人した子供が信者)が輸血を受けると、その職を解かれる確率はきわめて高いのである。
したがって、輸血拒否は組織的なレベルで求められている「戒律」であって、本人の意思に任せられているような規則ではない。本当にそうであれば、大勢のエホバの証人が死なずにすんだはずである。エホバの証人はみな輸血を絶対的な戒律として受け止めている。だからこそ、彼らは自分の、あるいは子供の命を犠牲にしてまでも輸血を拒もうとするのである。
輸血そのものの論議からは離れるが、支部のコメントについてもう一言触れておくことにする。このコメントは、日本支部の偽善的な体質を如実に物語っている。「輸血禁止」の教理を規則化したのは神に対する忠誠を第一に考えているからであると宣伝しておきながら、都合が悪くなると、戒律として課しているのではないなどと責任回避をするのである。確かにどんな規則も最後には、守るかどうかは本人の意思次第ということになるが、それを持ち出すのは詭弁である。はっきりいえばこのコメントは公のウソである。そう感じた人は少なくなかったはずである。
おそらく、これはまずいと、言った本人も内心では思ったのではなかろうか。常識で考えれば誰でもわかることである。戒律として課されていないものを、成員が命をかけてまで守ろうとすることは、通常ありえないからである。
事件の直後に日本支部から送られてきた内部向けの手紙では、すべてはマスコミを用いたサタンのワナ、エホバの証人の拡大をねたんだサタンの悪質な攻撃ということになっていた。これは、創価学会などでよく使う「大作先生の法難」式の手である。大なり小なり組織宗教であれば、だいたいどこでも使っている手段である。
あのときは一種異様な雰囲気があったので、日本支部も特殊心理状態に陥って、一時的な責任逃れに詭弁を使ってしまったのではなかろうかと思っていたのであるが。ところが、最近もまた同じことを発言したという。クリスチャンの普通の感覚では考えられないくらいに、偽善のレベルが上がっているのかもしれない。
命をかけてまで守らなければならないのか、それとも、そこまでする必要はないのか、この問題を決するカギはやはり聖書である。聖書に本当に根拠があれば、クリスチャンは輸血を拒否すべきだということになるが、しかし、もし根拠がないのであれば、実にばかばかしいことになる。ものみの塔協会のために死んでも、神の誉れになるわけではないからである。しかも、日本支部のコメントのようなものが出てくるのであれば、なおさらそう言える。
血を食べてはならないという命令はあっても、輸血という言葉は直接聖書の中には出てこない。したがって、問題は聖句の適用一点に絞られることになる。「血を避けなさい」という神の戒めを、はたして輸血に適用できるのか否か、それが分岐点になる。
聖書は輸血を禁止しているのか・・・・そんなことは絶対にない。愛の神がそのような理不尽なことを要求するはずはない。ものみの塔協会の解釈は間違っている。輸血禁止の教理は聖書の曲解、独善的なこじつけに基づくものである、諸教会は主張している。
輸血拒否の根拠とされている「血を食べてはならない」、「血を避けなさい」の解釈についての反論は、以下のようなものである。
「聖書が禁じているのは根本的には流血の罪である。生命尊重の教えが聖書の教えだ。輸血と流血は全く別である。輸血は生命尊重に基づくが、流血(殺害)は逆である。」(「エホバの証人はキリスト教か」千代崎秀雄著p.18)
これは「血を避けよ」の規定の背後にある「精神」を問題にした論議である。輸血は生命尊重の精神、流血は人命軽視の精神・・・全く違うではないか。それをいっしょにするのはとんでもない暴論であるという主張である。
流血行為も輸血もともに、体外に血を出すという点では同じであるが、しかし、上記の指摘の通り、その目的や主旨はまったく異なっている。したがって、「血は神聖なものなので、神の取り決め以外のことにはいっさい用いてはならない。それ以外はみな流血行為である」というものみの塔協会の主張は、「血を出す」という点だけに目を止めた論議といえる。規定の背後にある精神を無視しないと、そういう主張は出てこない。精神を基準にして考えれば、輸血は流血行為ではない、血に対する不敬な行為ではないという結論になる。
では、どちらに注目するのがクリスチャンとして正しいことなのかといえば、それは明らかに規定ではなく背後にある精神の方である。律法の規定そのものにこだわる方式は、パリサイ人的な体質を反映するものであって、キリストによって断固として退けられた宗教モードである。
やはり、次のように考えるのが妥当であろう。
血の禁止は人のためにあるので、人が血の禁止のためにあるのではない。
戒律とかきまりとか言う法律に題する定文化されたものは、状況の変化や当事者の個性や能力を無視する。そしてその適用を誤れば、その存在目的に反するものになる場合すら出てくる。だから決して万能ではない。だからイエスは言われる。
「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」(マタイ福音書22:36より39)
このように一番大切なものは愛である。だからパウロも言う。「愛は律法を完成するものである(ローマ人への手紙13章10節)」と。間違えてはいけない。律法(戒めなど)の下に愛があるのではない。愛の下に律法があるのである。イエスの戦いはまさにここにある。(「エホバの証人」内藤正俊著p.17〜18)
さらに、エルサレム会議で出された禁令は、主に「血を飲む、血を食べる」という当時の習慣を対象にしたものであるとする論議がある。厳密には、輸血は血を食べることや飲むことには当たらないというわけである。
「問題は血を避けるすなわち、間違っても食べてはいけないというわけだが、輸血は果たして、食べるあるいは飲む行為なのだろうか。
食べるといえば普通、口からはいり、胃に入り胃液や酵素によって分解され、腸で栄養分として吸収され、不要物は便として出る。
ところが輸血された血液は、分解されず、そのまま血管内でもとの血液のまま生き続ける。そしてそれは元のものから変質してはいけない。だが口から入れたものは、その形も、その物の要素も、働きも、全く別の物質として体内に入る。これからしても、輸血と食べる事とは全く別のものである。」(「エホバの証人」内藤正俊著p.20〜21)
輸血はダメなのか、それともかまわないのか、結局これは、論点の絞り方、論議の組み立て方によるといえよう。今まで検討してきたように、聖書からは解釈しだいでどちらの結論も導き出すことができる。ただ、キリスト教の精神からすると、ものみの塔協会の方が圧倒的に不利だとは思うが。
結論として言えることは、この教義には絶対的な根拠はないということである。神の是認を得るためには輸血を拒否しなければならないというようなことはない。「血を避けよ」だけでは聖書的には断定できないのである。
輸血禁止は、単にものみの塔協会の権威で絶対化されている教義にすぎない。この教義は1945年ころに導入されたようであるが、ちょうどこれは「統治体」の教義が確立された時期と重なっている。おそらく、この教義も純粋に聖書的な理由というよりは、組織のポリシー優先で制定されたものであろう。
唯一の神の組織の証のため、殉教の記録を打ち立てるため、諸教会との対比を鮮明にするため、流血の罪を他宗教に負わせるため・・・デメリットよりもメリットの方が大きいと判断したのであろう。純粋に信じて被害にあった人こそいい迷惑である。
ものみの塔協会や統治体の是認を得るためには、輸血は拒否しなければならないかもしれないが、神の是認を得るには必ずしも必要ではない。もし神が本当にものみの塔協会の言う通りに、輸血は絶対ダメだと判断しているのであれば、輸血をしているクリスチャンには神の霊的な呪いか糾弾が臨んでいてもよさそうなものである。しかし、現実を見るかぎりでは、そのような徴候は全くない。神も輸血にはそれほどこだわっていないということであろう。
ただし、私たちも基本的には、輸血をしないほうがよいのではないかと考えている。しかし、これは主として宗教上の理由に基づくものではない。そういう意味もまったくないというわけではないが、健康上の理由による方がはるかに大きい。
輸血は一般に考えられているほど安全な治療法ではない。エイズ、血清肝炎その他の血液感染症の問題はあるし、血液不適合の危険性もある。特に輸入血液の場合は危険性が高い。血友病患者にエイズ感染者が増えていることはそれを物語っている。赤十字が保証するほど輸血は安全ではない。しないですむならば、それに越したことはない。
しかし、緊急時は全く別である。輸血しか方法がないというのであれば仕方がないであろう。可能性があるかぎりは、生きることに全力をあげるべきだと思う。その方が命を与えてくださった神の主旨にもかなうはずである。何も、ものみの塔協会ごときに命を捧げる必要はない。彼らは神ではないのだから。