ものみの塔協会が、ハルマゲドンの特定の年を指定して物議をかもしたのは、1975年が最初ではない。大きな騒動となった年としては、1975年の他にも1914年と1925年がある。
新しいエホバの証人は、1914年はラッセルの預言の外れた年ではなく、聖書預言が劇的に成就した年だと信じている。総合的な情報が全く与えられていないので、預言の外れた年だといわれると驚くに違いない。ほとんどの人は、外れたといって騒いだのは背教者だぐらいにしか思っていない。1925年について知っている人はたぶんいないはずである。最近の記事では、1925年について取りあげたものは一つもない。ラザフォードは「1925年は1914年よりも確かかもしれません」と発言したのであるが、予言が外れてしまった後で、「馬鹿なことをしてしまった」と後悔したと伝えられている。こういうことは、組織が正直さの自己宣伝に使えると判断しないかぎり、雑誌に登場することは絶対にないので、新しいエホバの証人は全く知らないのである。
次第に、1975年も1925年の仲間入りをしそうになっている。時の経過と共に、1975年の出来事を知らないエホバの証人が増えているからである。ただ、1975年には、1925年と比較すると人類創造の6000年という教義上の意義があるので、簡単に消えてしまうことはないと思うが、ものみの塔協会がうやむやにしてしまう可能性は強い。1975年の様々な問題を明確にしておくことには、それなりの意義があることと思われる。
一部のエホバの証人が勝手に騒いだのではない。1975年騒動の責任は、確かにものみの塔協会の側にある。騒いでもおかしくないような記事が数多く出版されているし、大会でもその種の発言が少なくなかったからである。
おそらく、1975年狂想曲を奏でる点で、最も貢献したのは巡回監督たちであろう。彼らは諸会衆を回っては終わりの日を強調して歩いた。テープに取ってあるわけではないので物的証拠ははないが、当時を知っている人であればよく覚えているはずである。(もっとも、吹聴して歩いた人は忘れてしまったかもしれないが。)特に1972年、1973年はそういう意味では非常に顕著な年であった。その地方によって多少は異なるかもしれないが、1975年フィーバーが最も白熱したのはそのころであったように思う。
ものみの塔協会は1975年の予言が外れたあと、「私たちは一度も1975年にハルマゲドンが来るとか、終わりが来るというようなことは述べていません」と断言したのであるが、この発言の真偽は意味合いによって異なってくる。直接そういうことを述べていないということであれば、確かにそれはそのとおりである。また、彼らが預言をしなかったというのも事実である。
しかし、間違いなく予言はしたのである。そう受け取られても仕方のないような発言はかなりの数に上る。
それは以下の資料に見る通りである。
「神の自由の子となって受ける永遠の生命」より
エホバ神がこの第七の千年紀を休息と解放の安息の期間とし、全地の住民に自由をふれ示すための、大いなるヨベルの安息にされるのは、全く適切なことではありませんか。・・・人類の前途には、・・・キリストの千年統治があるからです。・・・「安息日の主」イエス・キリストの支配が、人間生存の第七の千年期と時を同じくしていることは、単なる偶然ではなく、エホバ神の愛の目的によるのです。」(p.30,43節)
ご存知のように、安息日の律法とは6日働いて1日休むという制度のことであり、ヨベルの律法とは、50年ごとに奴隷の解放や負債の免除、所有地の回復などをふれ告げる律法のことであった。イスラエルの民にとって、ヨベルの年は大いなる解放の日、自由の年となった。(ただし、イスラエルの歴史では、この律法が満足に守られたことは一度もなかったとされてはいるが。)
一日を千年とする神の基準でいえば、人類にとっての大安息は千年間、それは大いなるヨベルの年、キリストの千年統治に相当するというのが「自由の子」の説明である。
確かに、1975年にハルマゲドンが起きるとは書いていないが、ハルマゲドンは『千年統治の前』に生じることになっているので、「1975年は人類創造の六千年の終わる年、千年統治は第七千年期」とはっきり書いてあれば、1975年までにハルマゲドンが起きると考えるのはむしろ当然であろう。事実、当時のエホバの証人はほとんど皆そのように受け止めたのである。
さらに、目ざめよ誌1969年1月8日号には、次のような思わせ振りな記述が載せられていた。
「わたしたちが、『終わりの日』の最後の数年に生きていることを証明するもうひとつの方法があります。・・・
これは前記の証拠が(アダムがBC4026年に創造されたということ)、一九七五年を、この事物の体制の終結の時として明示しているということですか。聖書が明確にそう述べていない以上、だれにもそう言うことはできません。しかしこれだけはたしかです。それは一九七0年代に、人間がいまだかつて経験したことのないきわめて重大な危機が訪れるということです。
この記事には、終わりに日の『最後の数年』と確かに書いてある。「数年」という以上普通は2、3年、仮に最大限譲歩したとしても9年までである。この記事が正しければ、終わりは1978年までに来ていなければならなかったのである。
「人類がいまだかつて経験したことのないきわめて重大な危機」とは何であろうか。この当時の感覚でいえば、エホバの証人なら誰でも大患難、ハルマゲドンのことだと考えた。もちろん、執筆した人もそのことは知っていたはずである。
この他にも、まだまだたくさんの資料がある。代表的なものとしては、1968年8/15日号、1970年1/1日号、1974年3/15,5/1,9/15日号などをあげることができる。
ものみの塔協会が終わりまでの期間を指定し、1975年について多くのことを予言していたのは、間違いのないことである。
なかには冷めた人もいなかったわけではないが、そういう人は非常に珍しい存在で、体制側からは霊的に未熟な人、信仰の弱い人という評価がなされていた。全体的には、熱病にかかっているような雰囲気があった。あれが一義的な教理の作り上げる特殊心理状態なのかもしれない。純粋で熱心な人ほど感染しやすく、組織の宣伝の影響を大きく受けたのである。特に若い人々がそうであった。
若い成員の多くは、未信者の親に反対されながらも、大学へ行くよりは必要の大きな地へ開拓者として赴くことが神の使命であると考えた。ものみの塔協会も、「開拓奉仕は二度と繰り返されない業です、機会を逃すべきではありません」といって若い人々をけしかけたのである。大学をやめ、仕事をやめてそのようにした人もいた。
また、大患難が迫っているのだから、子供を設けるのはふさわしいことではありませんとか、結婚は新秩序へ行ってからすべきですという発言もなされていた。今はそのようなことより、宣べ伝える業に専念すべきだというわけである。なかには、伝道から注意をそらすものはみなサタンだ、と主張する人までいた。
1975年狂想曲は多くの人に様々な影響を与えた。人生の方向が全く狂ってしまった人は少なくない。
ものみの塔協会も、1975年にハルマゲドンが起きるのではないかと本気で信じて、真剣に人々に警告したというのなら、まだ罪は軽いと思う。少なくともそうであれば、動機そのものに偽りはないからである。残念ながら予言は外れたとしても、自分は使命感に従って行動した、神に対して正直な良心は守ったという自覚は残るはずである。
しかし、もしそうでないとすれば、それは理解不足とか、熱心さのあまり判断を早まってしまったというレベルの問題ではなくなってしまう。クリスチャンとしてはもっともっと深刻な問題になる。それは根本の動機が腐っていることを意味している。
はたして、ものみの塔協会の幹部はどちらであろうか。エホバの証人には気の毒であるが、ものみの塔の幹部の場合は動機に欠陥があるというパターンの方である。彼らの責任の取り方が、何よりもその点を雄弁に物語っている。
ただひたすら1975年フィーバーをあおっていたものみの塔協会が、手の平を返したように豹変し出したのは、1974年の夏の地域大会からであった。
「終わりは近い。今よりも緊急な時はありません。滅びは迫っています。もはや、残されている時は尽きようとしています。エホバが行動を起こされる時は間近に迫っています。キリストが諸国民を一掃する時はすぐそこまできています。わたしたちの救出の日は戸口までやって来ています」といった具合に、言葉を尽くして終わりを強調していたのが、一変してしまったのである。
今度は、「私たちは決して特定の日や年に献身したのではありません。生きているかぎり、そして永遠までもエホバに仕えることを決意したのです。例え1975年に終わりが来なくても、私たちはエホバに仕えることを止めたりはしないでしょう。特定の日に重きを置きすぎていた人々がいるなら、今すぐ直ちに理解と信仰を調整すべきです」というふうになった。
1974年の大会でこういう種類の話を聞いたとき、終わりの日はいったいどこへいったのかと、考え込んでしまったことを思い出す。東北地方で1975年フィーバーに非常に貢献したある巡回監督がいた。地域大会の会場でその巡回監督と話をする機会があった。
大会の主旨が、その巡回監督が教えて歩いたこととはあまりにも異なっていたので、「兄弟、終わりの日はどうなってしまったんでしょうね。1975年には、もうハルマゲドンは来ないということでしょうか。」と聞いてみた。こちらとしては多少皮肉のつもりもあったのだが、「終わりの日はいつ来ても、エホバに仕えていればそれでよいということではないでしょうか」と、明るい顔で返事をしたのが非常に印象的であった。
自分が何を教えて歩いたのかという自覚が全くなかったのである。まだほんの数カ月しかたっていないのに。これは実に驚くべきことであった。今思えば、あれがものみの塔協会の典型的な体質だったのかもしれない。巡回監督にしてみれば組織が言ったことだからという意識であろう。自分の発言に責任を感じないということは、そういう背景でしかとらえようがない。
水をさすような大会のプログラムにもかかわらず、たいていの人はまだ組織の真意に気がついてはいなかった。今に決定的な発表があるのではないか、何か特別な集会の発表があるのではないかと期待していたのである。そういう非公式の手紙や噂は、かなり活発に組織内を飛び交っていた。
やがて待望の1975年がやって来た。しかし、何かが起きるような気配は全くなかった。春がすぎ、夏が近づくころには、もうハルマゲドンは来ないのではないかと、たいていの人は思うようになった。そういう雰囲気を組織も察したのであろう。その年の夏の大会で、1975年にはハルマゲドンはあり得ないという決定的な講演が行なわれた。
1975年狂想曲はものみの塔協会には、圧倒的な黒字で終わった。次の表を見ていただくとよくわかると思う。
平均伝道者数 | 増加率 | |
1973 | 1,656,673 | +3.8 |
74 | 1,880,713 | +13.5 |
75 | 2,062,449 | +9.7 |
76 | 2,138,537 | +3.7 |
77 | 2,117,194 | -1.0 |
78 | 2,086,698 | -1.4 |
79 | 2,175,403 | +0.5 |
77年と78年は減少しているが、79年には増加に転じている。いずれにしても、75年狂想曲により一気に百万台から二百万台に入ったことは、揺るぎない成果として残ったのである。
親族に1975年までと約束したり、やめることを固く決意していた人もいたので、もちろん無傷では終わらなかった。中には、公に謝罪すべきであるとものみの塔協会に迫った人もいたようである。
しかし、あらかじめ張った防衛線が功を奏し、被害は最小限に食い止められた。ところによっては、少なからぬ騒ぎはあったと伝えられているが、組織全体にはそれほど大きな影響はなかったのである。
1975年の問題を批判するとき、諸教会がよく持ち出すのは、申命記18章20〜22節である。そこには偽預言者の見分け方について、次のように記されている。
ただし、その預言者が私の命じていないことを、勝手にわたしの名によって語り、あるいは、他の神々の名によって語るならば、その預言者は死なねばならない。」あなたは心の中で、「どうして我々は、その言葉が主の語られた言葉ではないということを知りうるだろうか」と言うであろう。その預言者が主の御名によって語っても、そのことが起こらず、実現しなければ、それは主が語られたものではない。預言者が勝手に語ったのであるから、恐れることはない。(新共同訳)
この聖句をものみの塔協会に当てはめるとどうなるであろうか。厳然たる事実からすると、確かに諸教会の指摘していることは正しいということがわかる。
ものみの塔協会が予言したのは事実であるし、自分たちを預言者として紹介した記事も確かに出ている(1972年7/1号p.406「彼らは自分たちの中に預言者がいたことを知るであろう」)。そして、その予言がすべて外れてしまったのもまた事実である。現実に実現しなかったのだから、ものみの塔協会は間違いなく『偽預言者』ということになる。そういわれても仕方がない。確かにその通りなのである。
ところが、諸教会が期待するほどには、この指摘はエホバの証人に対してあまりインパクトがない。外部の人からすると不思議に見えるのではないかと思う。
結局のところ、ものみの塔協会は非常に狡猾であったということになるかもしれない。新しい人は当時の状況をよく知らないということもあるが、ものみの塔協会の責任転嫁の戦法が実にうまく機能したというべきであろう。
多くの人の意識では、1975年騒動はすでに終わった問題になっている。騒いだのは調整できなかった不信仰な人たちであるくらいにしか思っていない人が大多数である。
組織のごり押し、信者への責任転嫁の論法がまかり通るには、それなりの背景と体質がある。
この点でものみの塔協会に非常に有利に働いているのが、「常に最新の理解に従ってください」という組織の教育方針であろう。「真理の光が増し加わったのです」という宣伝の下に、古い見解はどんどん捨てられて行く。調整される前の理解を教える人は、遅れた人とみなされる。最新のものみの塔誌に精通していることは、組織内の評価を高めることに貢献する。
こうした背景があるので、昔のものみの塔誌を持ち出してきても、「あれは古い見解だから」の一言で片付けられてしまうことが多いのである。ものみの塔協会は、自らの作り上げたこのような体質をフルに活用している。
最初の宣言は一種の詭弁であった。
エホバの証人の出版物は、聖書の年代記述から考えて人間存在の満6,000年は1970年代の半ばに終わるということを示してきました。しかし、それらの出版物は、その時に終わりが来るとは一度も述べていません。それにもかかわらず、この問題に関してかなりの個人的推測がなされてきました。それで、「『その日と時刻』がわたしたちに告げられていないのはなぜですか」と題する大会の話は実に時宜を得たものでした。その話は、神がいつ終わりをもたらすかその厳密な時をわたしたちは知らない、という点を強調しました。(1975年1/1号p.27)
この雑誌は、ものみの塔協会が豹変した1974年の夏の地域大会についてコメントしたものである。「終わりが来るとは一度も述べていません」と宣言している。
先にも記したように、この宣言自体大いに問題なのだが、それよりももっとひどいのは『それにもかかわらず、この問題に関してかなりの個人的推測がなされてきました。』という陳述である。
人間存在の満6,000年について、「大いなるヨベルだとか、キリストの千年統治開始の年と一致する」などと推論したのはいったい誰であったか。それは他ならぬ、ものみの塔協会だったのである。ところが、「自分たちはそういうことはしていない、やった人は個人的にしたのだ」ということにしてしまった。組織の正式な機関紙で公表しておきながらである。内心では、この記事に疑問を感じた人は少なくなかった。
ここで使われているのは、言葉の一つの意味だけを問題にして、全体の意味をはぐらかすという詭弁のテクニックの一つである。
ともかくも、これで騒いだのは騒いだ人の方に責任があるのだということにしてしまった。
次に行なったのは、なぜ1975年に終わりが来ないのかという教義的な説明である。
では以上のことは何を意味するでしょうか。それはこういうことに過ぎません。そうした要素や、またそれらの要素から生まれ得る幾つかの可能性がある以上、アダム創造から最初の女の創造までにどれほどの時が経過したかを、はっきり言うことはできない、ということです。それが一か月、数か月か、または一年といった短い期間であったのか、あるいはもっと長い期間であったのか、わたしたちには分かりません。しかし、それがどれほどの期間であったにせよ、神の第七「日」、すなわち神の大安息日が始まってからどれほどの時がたっているかを知るには、その期間を、アダムの創造以後経過した時間に加えなければなりません。そういうわけで、人間が存在し始めてから6,000年たったということと、神の七番目の創造の「日」が始まってから6,000年たつということは、全く別の問題なのです。そしてこの点に関してはわたしたちは、自分たちが時の流れをどこまで下っているか知りません。(1976年10/15p.629,25節)
簡単に言えば、アダムが造られてから、動物に名前をつけること、女の創造などの出来事があったので、1975年にはハルマゲドンはありません、その期間のことが聖書には記されていないので、終わりを推測することは不可能ですという説明である。この記事も大会の講演(1975年夏の大会)をまとめたものである。これで、教理的な説明のけりはついたのである。
1979年で伝道者数の減少が収まると、ものみの塔協会も強気になった。本格的な責任転嫁の開始である。
「神の自由の子となってうける永遠の生命」という本が発行され、その中に、キリストの千年統治が人類生存の第七千年期に当たると見るのは極めて妥当であるという注解があったことから、1975年という年に関するかなり大きな期待が生じました。そのときにも、またそれから後にも、それは単なる可能性に過ぎないということが強調されました。しかし不幸にして、そのような警告的情報と共に、その年までの希望の実現が、単なる可能性よりも実現性の多いことを暗示するような他の陳述が公表されました。後者の陳述が警告的情報を覆い隠して、すでに芽生えていた期待を一層高める原因になったらしいのは残念なことでした。
「ものみの塔」誌は、1976年10月15日号の中で、特定の日だけに目を留めるのが賢明でないことに触れ、次のように述べました。「こういう考え方をしていなかったために失望している人がいるなら、そういう人はみな、自分の期待に背いて、あるいは自分を欺いて自分を落胆させたのが神の言葉ではなく、自分自身の理解が間違った根拠に基づいていたためであることを悟り、自分の見方を今調整することに注意を注がねばなりません」。「ものみの塔」誌が「みな」と言っているのは、落胆したエホバの証人全部ということです。したがって、その日を中心とした希望を高める一因となった情報を公表することに関係した人々も、これに含まれます。(1980年6/15p.17,18。5,6節)
断言したことなどすっかり忘れて(まちがいなく意識的に無視)、自分たちは単なる可能性を示したに過ぎないということにしている。しかも、私たちは警告したのだと。これで悪いのはすべて調整できない人のせいになってしまった。
警告というのも本当は眉唾ものである。次に引用するは、1975年7月15日号に載せられた夏の大会の宣伝である。
1975年は、間違いなく、非常に意義のある興味深い出来事のあった年として歴史に残る年となるでしょう。そうした出来事の中には、4日間にわたるエホバの証人の「神の主権」地域大会があります。この大会は出席した人々にとってとりわけ長く記憶に残るものとなるでしょう。・・・(p.448)
もし、1974年の夏の地域大会から本気で警告を開始したのであれば、警告に徹するべきであった。「1975年は・・・歴史に残る年になるでしょう」などという思わせ振りなことは、書くべきではなかったのである。こういうことをものみの塔誌に載せればどういう影響があるか彼らは十分に知っていたのだから。
1984年になると、もっと大胆な記事が出た。諸教会はキリストの再臨に関して怠惰で霊的な眠りを誘ってきたのに対し、ものみの塔協会は目覚めるよう勧めてきたと述べたあとに、次のように記している。
なるほど、聖書の年代学の裏付けのあるように思えた期待が予想通りの時期に実現しなかったのは確かです。しかし、神の目的が成就されるのを見たいと熱心に望むあまり多少の過ちを犯すことは、聖書預言の成就に関して霊的に眠っているよりもはるかに好ましいのではないでしょうか。モーセも40年の計算間違いをして、イスラエルの苦悩を取り除くために早まって行動しようとしたのではありませんか。(1984年12月1日号p.18,14節)
乱暴な論議である。モーセも間違いを犯したから良いではないか、警告したのだから自分たちは正しかったのだという主張である。ここまで来れば、もう完全な開き直りである。
これが、ものみの塔協会の責任の取り方である。彼らが正直に真実を認め、謙遜に間違いや過ちを改めることなど、とうてい期待できないことがよくわかると思う。この体質は今に始まったことではない。長い間、ものみの塔協会はこういうやり方で通してきたのである。エホバの証人も組織が改善するなどとは考えない方がよいだろう。
そろそろまずいなというころになると予防線を張り、都合の悪いときはひたすら沈黙、徐々に責任転嫁を計り、もう大丈夫だということがわかると開き直る。ものみの塔協会は、今後もこのパターンを踏襲してゆくに違いない。
1975年騒動はすでに過去のものになろうとしているが、教義上の問題はまだ残っている。一つは、1975年は本当にアダム創造以来六千年の区切りになるのかということであり、もう一つは大いなるヨベルの問題である。
1975年の計算は正しいことになっている。これはまだ否定されてはいない。したがって、この観点に立つと、私たちは今、アダム創造から罪が入るまでのエポックにいることになる。アダムは今年の秋には14歳を迎えることになる。
アダムが造られてからの出来事を整理してみる。
問題はこれがどのくらいの期間になるかということある。それによって、1975年からハルマゲドンまであとどれほどの時間が残されているかの目安がつくことになる。
神は少しも急ぐ必要はなかった。時間は有り余るくらいあった。しかし、一般的には、これはそれほど長い期間ではなかったとされている。「アダムは最初から成人として造られた。彼には生計を立てるという問題はなかった。エデンの園にいたのは原種だったので、動物の種類はそれほど多くなかった。神は初めから人を男と女を造る予定でいた。産めよ増えよという命令が与えられていたのに、二人にはまだ子供ができていなかった。」こうしたことがその理由としてあげられている。
C・T・ラッセルはこの期間を数年、終わりの時の計算では2年と考えていた。
ものみの塔協会は、1975年の夏の大会の講演、1976年ものみの塔誌10月15日号以来、この問題については沈黙したままである。もっとも、もう答えようがないとは思うが。
アダムは何年一人でいたのか、罪が入るまでにどのくらいの期間があったのかーもちろん正確なことは誰にもわからない。しかし、ある程度の妥当な範囲というものはあるだろうから、いずれ、1975年についてはそれなりの結論が出るはずである。
対型的ヨベル、大いなるヨベルとは、ものみの塔協会の説明では、イエス・キリストによる千年統治のことであった。この見解をさらに拡張する記事が1987年1月1日号に登場した。この記事はヨベルを霊的に拡大したもので、クリスチャンはすでにヨベルを祝っているという主張であった。
検討してみると、すぐに幾つかの論理上の欠陥や矛盾点が目についた。それに、もうヨベルを祝っているのだと言われても、末端のエホバの証人にとっては、ものみの塔協会の体制の中でそういう気分になるのはかなり難しいことだろうと思われたので、1986年12月18日付けで次のような質問を本部に送ってみた。
(1) 1/1号p.21,11節にはクリスチャンのヨベルが罪とその影響からの自由をもたらすものであることが述べられています。
しかし、今まで私たちが学んできたことからしますと、罪から解放するキリストの完全な犠牲を予示していたのは、むしろ、多くの動物の犠牲に関する律法の方でした。言うまでもなく罪の許しは血を注ぎ出すことなしにはありえません。(ヘブライ9:22)
それでこの研究記事のように、ヨベルの予示している事柄に罪からの自由を含めるとすると、ヨベルの律法は動物の犠牲に関する律法をも含んでいたということになってしまいますが、それでよろしいのでしょうか。もしそうだとすると、そのように言えるのはどうしてでしょうか。
あるいは、もしそうでないとすると、ヨベルに罪からの解放を含める聖書的根拠にはどんなものがあるのでしょうか。(贖罪の日は、あくまでも贖罪の日であると思いますので)
(2) 経済的自由、社会的自由と罪からの自由、義認を比較すると聖書的には罪からの自由のほうがはるかに重要であると言えます。ヨベルの律法の基本的な特徴は前者の方です。解放、自由という観点だけでヨベルの意味を罪からの解放にまで拡大すると、その特徴における比重は、むしろ後者の方に移ってしまうことになると思います。それでよろしいでしょうか。
(3) p.24,6節の副見出しは、「1919年ー最初の解放」となっています。1919年が最初ということは、ラッセル兄弟のように1919年より前に死んだ現代の油注がれた残りの者たちは、「このヨベルの解放」を祝わなかったことになりますが、そのように受け取って宜しいのでしょうか。
もしそうであるとしますと、ラッセル兄弟たちが祝ったヨベルはどんなヨベルでしょうか。それは西暦33年から始まっているクリスチャンのヨベルということになるのでしょうか。そのように考えることが正しいとすれば、33年と1919年のヨベルにはどのような違いがあるのでしょうか。
(4) クリスチャンが祝うべき祭りに対型的な仮小屋の祭り(14万4千人ーAD33年から天へ行くまで、その他の人々ーバプテスマを受けてから千年統治後の最後の試練が終わるまで)があります。この祭りはクリスチャンが、その住むべき地の完全な住人になるまでは祝い続けるべきであるとされています。ヨベルの祝いはこの仮小屋の祭りの期間と対応するのでしょうか。またクリスチャンは相続地にはすでに帰っていても、そこを所有してはいないということになるのでしょうか。
(5) ヨベルを罪からの解放に拡大することには、どんな産出的な意味があるのでしょうか。
予想したことではあったが、この質問に対する返事はなかった。間もなく同年の3月1日号に興味深い記事が出た。何とヨベルの記事は、百年を越えるものみの塔誌の歴史の中でも、ベスト23に入る画期的な記事だというわけである。しかも、ものみの塔の記事は、選ばれた統治体の成員による綿密な検査を受けたものである、と述べられていた。
それで、次のような前書きを添えて、もう一つの質問を送ることにした。
1987年1/1号の研究記事が、108年に及ぶものみの塔誌の歴史の中でも23の重大記事の一つにあげられるほど重要な記事であるとは全く知りませんでした。普通の記事でも綿密な検査をされているということですので、1/1号ほどの記事ならなおのこと、徹底的に検査し吟味なさったものと思います。そうであれば、私の質問に答えるのはそれほど難しいことではないと思いますので、よろしくお願い致します。
「追加の質問」
言うまでもなく、ヨベルは世襲地に戻る制度です。AD33年、クリスチャンとなった人々は、新しい契約に基づき新たにその身分を得たのであって、その身分に戻ったのではありません。これはヨベルの特徴に合いませんが、この点はどのようにお考えでしょうか。神と人間の関係における歴史的回復という点では、確かにそのように言えると思います。しかし、解放、自由だけでヨベルにあてはめるのは何とも無理があるように感じられますが、いかがでしょうか。
返答はものみの塔誌上でもけっこうですと申し添えたのであるが、いまだに何の解答もない。
統治体は歴史的な記事だと全世界に向かって宣言したのだから、神と人に対して責任を感じるのであれば、何らかの形で答えるべきであろう。ただひたすら沈黙というのは、はなはだ無責任な態度である。どれもこれも彼らにとっては都合の悪いことなのであろうが、それでもクリスチャンとして一片の良心が残っているのであれば、少しくらいは誠意を示してもよいはずである。
まともな返答がもはや全く期待できないというのは、何とも寂しい話である。統治体とものみの塔協会は、今まで何度も繰り返してきた公約不履行をこれからも続けて行くに違いない。