黙示録には極めて特異な一人の娼婦が登場してくる。彼女の名は秘義であって大いなるバビロンと呼ばれている。もちろんこの女は文字通りの女ではない。他のところでは大いなる都市とも呼ばれている。
神の前に大いなるバビロンの罪は非常に重い。ついに彼女の罪は天にまで達し、神により有罪の判決を受ける。その滅びは速やかに臨み、荒廃は徹底的なものとなる。復興することはもはや永久にない。神の民は大いなるバビロンと共に滅びることのないよう、急いでそこから出るよう勧められている。
聖書預言によると、大いなるバビロンは滅ぼされることに定められているので、その正体を見分けるのは非常に重要な問題であると言える。裁きの時が到来してからでは、遅くなってしまうからである。
そのためにはまず、大いなるバビロンの特徴をしっかりと押えておく必要がある。
黙示録17,18章に記されている記述から、大いなるバビロンの特徴、あるいは識別するためのポイントを整理してみると、だいたい次のようになる。
当然のことながら、ここにあげた特徴のすべてにかなうものが「大いなるバビロン」なのであって、一つか二つしか合わない組織であれば、大いなるバビロンとは断定し難い。すべての条件を満たしていない組織の場合は、どの程度バビロン的であるとかないとか言えるくらいなものであろう。大いなるバビロンであると断言するには、あくまでもこれらのすべての条件を満たすものでなければならない。
大いなるバビロンが何を表すかについては、数多くの解釈がなされている。その中の代表的なものを以下に上げてみる。
これらの様々な見解を整理すると、
というだいたい二つの考え方にまとめることができる。
前述の二つの見解が同時に成り立つことは、ほとんど百パーセント不可能である。なぜならキリスト教そのものとキリスト教に敵対する勢力が、全く同じものを表すということはあり得ないからである。1が正しければ2は間違いであり、2の方が正しければ1の方が間違っている。意味合いや視点を変えれば両方の解釈が可能であるというようなことはない。
この両者のどちらがより聖書にかなった見解であるかは、先にあげた「十の条件」と比較してみると明らかになる。
証拠は圧倒的に1の方に有利である。地の王たち同士で淫行を行うということも考えられなくはないが、大いなるバビロンは「地の王たち」と淫行を行うとはっきり述べられている以上、大いなるバビロンを地の王と同一視することには無理がある。2の解釈はまずこの基本的な条件に合わない。
もっとも、宗教と政治が一体となった古代イスラエルの時代であれば、王国同士の淫行が普通であろうが、エルサレムやローマが心霊術を多用して政治を行っていたという証拠はない。それにローマの場合は「情夫である王はいったい誰だったのか」という問題が残るし、エルサレムの場合は「全世界に大きな影響力を有するような都市ではなかった」という点がネックになる。古代のローマやエルサレムはすでに滅んでしまった。現在のローマもエルサレムも厳密な意味ではもはや宗教都市国家ではない。
加えて、黙示録は「主の到来の日」すなわちキリストの再臨に焦点をあてた預言書であるとされている。古代のローマやエルサレムを主な対象として記された書ではない。大いなるバビロンを乗せた野獣は、大いなるバビロンを倒したあとイエス・キリストと戦って滅ぼされることになっている。それが生じるのはキリストの再臨の時なので、大いなるバビロンの最終的な実態は「キリストの再臨」の時に示されるはずである。この点も2の解釈とは合わない。
やはり妥当なのは1の解釈であろう。これならだいたい黙示録の描写全体に当てはまる。もちろん9と10はまだ生じていないので確定できないが、十の条件とも矛盾する点はない。
したがって、大いなるバビロンとは、一言でいえば、「偽りの宗教全体」ということになろうか。
ものみの塔協会の解釈も基本的には先にあげた1の解釈と同類のものである。しかし、強烈なのは、身勝手というべきかもしれないが、その適用である。大いなるバビロンの定義は次のようになっている。
「唯一まことの神エホバの真の崇拝と一致しない教えや慣行をもつ宗教すべてを包含する、偽りの宗教の世界帝国をいう。キリスト教世界は同帝国の最も有力な部分であり、偽りの宗教はサタンの組織の一つの重要な部分となっている。」(「論じる」p.112、「救い」p.234、「楽園」p.209)
キリスト教世界を一括して大いなるバビロンとするのは事実と一致しないが、この定義そのものは必ずしも全部間違っているというわけではない。「偽りの宗教の世界帝国」というとらえ方は、大いなるバビロンの本質をつかんだものであると言える。しかし、問題となるのは、組織レベルでの実際の適用である。
ものみの塔協会は同時に、唯一まことの神エホバの真の崇拝を押し進めているのはエホバの証人だけ、他の宗教はみな間違った教理を奉じていると教えている。つまり、実際に主張していることは、自分たち以外はすべて大いなるバビロンだということである。言い換えれば、神の裁きを生き残るのは自分たちだけで、他の宗教は全部滅びてしまうというわけである。
ものみの塔協会のこの教義、冷静に考えると極めて独善的かつ一方的な教義だとの感を深くするが、この教えが成り立つには、少なくとも二つの条件が必要になる。その条件が満たされないのであれば、この教えは完全に否定されたことになる。
その二つの条件とは
さて、事実はどうであろうか。結論からいえば、この二つの条件とも絶対に成立しないと断言できる。ものみの塔協会自体、単に大いなるバビロンの大合唱を繰り返すだけで、少しも実のある証明はしていない。おそらくこの立証は今後とも永久に不可能であろう。
様々な宗教組織を調査して見ると明らかなように、ものみの塔協会のいうほど現実は単純ではない。それほど簡単に大いなるバビロンかそうでないか、はっきりした色分けができるわけではない。たいていの組織はバビロン的なところもあれば、そうでないところもある。ものみの塔協会も決して例外ではなく、厳密に調べるとかなりバビロン的な要素が濃い。最近は特にその傾向が顕著になってきているように思われる。
さらに組織と個人という問題もある。ものみの塔協会は他の宗教組織に属していれば、個人がどうあろうが皆大いなるバビロン一色で見てしまう。これは実に理不尽で非聖書的な見方である。
第一神殿時代のエルサレムは背教した都市として、数多くの預言者から糾弾されている。確かに組織体としては、大いなるバビロンの一部といえるような状態にあった。それでは神はその中に住む人を皆ことごとく背教者とみなしたのであろうか。聖書を読むとわかるように、決してそのようなことはなかった。神は組織は組織、個人は個人として評価し、扱っているのである。
よく大いなるバビロンの代名詞のようにいわれるカトリック教会であるが、なるほど単一の宗教組織として黙示録の描写にもっともよく合うのは確かにローマ・カトリック教会であろう。バチカンという都市を擁し、膨大な富を蓄積している。その財宝は値段がつけられないほどであるという。中世ヨーロッパの歴史をひもとくまでもなく、カトリックの歴史は政治的な色彩に色濃く縁取られている。加えて十字軍戦争、三十年戦争、ナントの大量虐殺、異端審問、魔女裁判等々流血の罪にも事欠かない。
しかし、そうだからといってカトリック教徒がすべてバビロン的かというと、現実は決してそうではない。中にはものみの塔協会の幹部などより、よほどバビロン的でない立派な人もたくさんいるのである。献身的な生涯を全うしたクリスチャンも決して少なくない。
ものみの塔協会は1919年以来大いなるバビロンから出てきたと、事あるごとに宣伝している。この年は清い国民の誕生の年ということになっており、以来バビロン的な要素は組織から一掃されてきましたと主張しているのであるが・・・。はたして本当にそうであろうか。
大いなるバビロンの特徴をものみの塔協会にあてはめてみると次のようになる。
確かに、ものみの塔協会は戦争に行って文字通り人を殺したりすることはないが、今回広島町で起きた大量排斥事件を始め、組織の都合で裁きを曲げた事例はかなりの数に上る。ものみの塔協会自身が教えてきたとおり、霊的にはそれらはすべて流血の罪、宗教上の殺人になる。
もう一つ問題となるのは輸血拒否の教義であろう。この教義が神の是認を得るため、絶対に必要なものであるのなら話は別だが、そうでなければ(不可欠なものでないことは後の章で論証する)輸血を拒否して死んだ人々の血に対する責任は、すべてものみの塔協会の上に降りかかる。
ものみの塔協会は、外部に対しては自分たちは清い民であり、すでに霊的パラダイスを楽しんでいると宣伝してきたが、内部の実態はそれとは大幅に異なっている。
笑顔で表面を上手に取り繕いながら、心の中はねたみやそねみの精神に満ちている人。組織の権威をかさに平気でウソをつく協会の幹部たち。うわさ話が好きで、陰口、悪口、中傷を言い歩く特権好きの姉妹たち。こういう状態を放置しておいて霊的パラダイスなどとはとんでもない話である。
大いなるバビロンが悪霊的な宗教だとするなら、ものみの塔協会も十分その資格にかなっている。汚れた精神とは悪霊的な精神に他ならないからである。
「しかし、あなた方が心の中に苦々しいねたみや闘争心を抱いているなら、真理に逆らって自慢したり偽ったりしてはなりません。それは上から下る知恵ではなく、地的、動物的、悪霊的なものです。ねたみや闘争心のあることろには、無秩序やあらゆるいとうべきものがあるからです。」(ヤコブ3:14〜16 新世界訳)
大いなるバビロンを一言で表現すると、“偽りの宗教”ということであった。ものみの塔協会がいかに偽善的かは、今回の事件で完全に立証された。新世界訳聖書にも教義にも偽りがあり、この点では疑問の余地なく大いなるバビロンの一部であるといえる。
ものみの塔協会は、他の宗教組織すべてを大いなるバビロンと決めつけ、自分たちだけが真の崇拝を行っている唯一の組織であると主張してきた。偽宗教のバビロン的な世界帝国の滅びを生き残るのは自分たちだけなので、生き残りたいと願う人はものみの塔協会の管理下に入らねばならないと教えてきた。しかし、今まで検討してきたように、幾つかの点を除いては、ものみの塔協会も大いなるバビロンの特徴を十分に満たしていることがわかる。しかも、バビロン的な要素は次第に増えつつある。
皮肉なことに事態は今や、ものみの塔協会の主張とは全く逆になっている。神の裁きを生き残りたいと願う人は、ものみの塔に入らねばならないどころか、そこから出なければならなくなっている。組織の中に留まっていてはむしろ危ないのである。ものみの塔が“偽りの塔”であることが明らかになった今、神の民は速やかにそこから出るべきであろう。
今後いつの日か、ものみの塔協会が大いなるバビロンの教義を改正することがあり得るだろうか。おそらくはそれはないものと思われる。論理的には疑問の余地なく否定されたとしても、ものみの塔協会がこの教義を放棄することは考えにくい。会員を増やし、教勢を拡大することを至上命令としている以上、たとえその排他性、絶対性を強化することはあっても、捨て去ることはまず考えられない。というのも、ものみの塔協会のような体質の組織は、そのような教義を採用しなければ、その組織に入るべきあるいは留まるべき必然性がなくなってしまうからである。