この世には「神の組織」と「サタンの組織」以外にはない。すべての人は意識するしないにかかわらず、そのいずれかの組織に属している。中立、中間はあり得ない。唯一の神の組織はエホバの証人、その他はすべてサタンの組織、エホバの証人の伝道を受け入れようとしない者や敵対する者はすなわち神の敵、そのような人々はやがて大患難で滅びることになると、ものみの塔協会は教えている。
この神の組織に関する教えはものみの塔協会にとって最大の意義を持つ。というのは「神の組織」という概念は、預言の解釈を含めほとんどあらゆる教理の土台になっているからである。組織の教義がエホバの証人に及ぼす影響は非常に大きい。膨大な量の規則や戒律の設定など大概がこの教理を規準として定められている。
この教理は、統治体を始めとするものみの塔の幹部には非常に都合のよい教理でもある。格好の言い訳や口実を与えてくれるのみならず、逆に相手の方に責任を転嫁してしまうこともできる。さらに都合の良いことには、エホバの証人をものみの塔協会に引き止めておく最も強力な理由にもなる。この教理はものみの塔協会の常套手段、最後の切り札でもある。
「神の組織に敵対する者は皆サタンです。決して惑わされてはなりません。エホバは組織を確かに導いておられます。たとえ、組織に間違いや問題があっても、やがてエホバが正してくださいます。あなたは組織の中にいてその時をじっと待つべきです。組織を疑うようになりサタンのワナに陥ってはなりません」とか「組織の問題を正すのはあくまでもエホバであり、イエス・キリストです。それは神権組織を通して行われます。あなたが行うのではありません。先走ることは不信仰、不忠節の罪を犯すことであり、僭越な行為に他なりません。神を待てるかどうか、あなたの信仰が試されているのです。」という具合に用いるわけである。
単に質問や嘆願をしただけなのに、それが彼らにとって都合の悪いものであれば、いつの間にか組織に対する反抗、先走った行為にされてしまう。あるいは、「確か最初に問題となることをしたのは組織の方だったはずなのに、それはどこかへ行ってしまい、気が付いたらこちらの方が悪いことになっていた。最後には完全に問題がすり替えられてしまっていた」というようなことになりかねないのである。この程度の欺きは狡猾な幹部にとってはたやすいことであろう。
神の組織、神の組織とあまりに強調されるので、すでに強迫観念になっている人もいる。組織の否認は神の否認、組織の是認は神の是認である。こうなると組織は神そのものになる。
この神の組織の教理こそ、ものみの塔協会の最大の武器といえるものであろう。
ものみの塔協会が外部から最も批判を受けているのは、その偽善的、排他的、独善的、秘密主義的な体質である。これは、ものみの塔の幹部と何らかの否定的な面で関わりを持つことになった人々が、一様に口にすることでもある。末端の信者がこういう一面を目にする機会はめったにない。幹部にとって都合の悪いことでもなければ、なかなか表面には出てこない部分だからである。
好意的な人には天使の顔でも、そうでない人には不遜なもう一つの本当の顔が現れてくる。特に見切りをつけた成員に対してはそれが顕著になる。ものみの塔協会の極めて陰湿な一面が姿を表す部分である。もっとも、組織とは大概そういうものであろうが、純粋に信じていた成員ほどそのギャップに驚くことになる。
こういう傾向はなぜか宗教組織に特に強いように思えるが、それなりの理由は確かにあるに違いない。宗教界ほど本音が建前によって、妙にゆがんでしまう世界は他にないからである。
統治体、支部委員などの幹部はこれをいったいどのように考えているのであろうか。直接聞いてみたわけではないのでハッキリしたことは言えないが、どうも反応からするとあまり問題意識は持っていないようである。目をつむっているのか、どうしようもないと思っているのか、そういう体質の方がむしろ性にあっているのか、それはわからない。もしかしたら意外と第二の顔は本人の自覚に上らないのかもしれない。進歩した人は二つどころか幾つもの仮面を持っているであろうし、真剣な人ほど「好意的でないものは皆サタン」と本気で信じてしまうわけだから、どうしようもないのかもしれない。
ともかく、ものみの塔協会の体質、大多数の幹部の高姿勢で尊大な態度の元凶になっているのはこの教理である。もっとも、公的な場では彼らは気持ちが悪いほどていねいだし、概して組織の代表者は姉妹たちには親切であるが。ものみの塔協会の改善は(それが可能であればの話だが)この教理の改正なくしてはあり得ない。真理の組織だというのであれば、まず真っ先にこの教理から正すべきであろう。
組織の定義それ自体はほとんど問題はないが、ポイントをはっきりさせるために定義の検討から始めることにしたい。最初にものみの塔協会の定義と辞書の定義を比較してみることにする。
「ある特定の仕事もしくは目的のために各人の努力が調和的に作用するようにまとめられた人々の集合体また社会集団。組織の成員は、管理のための種々の取り決め、また一定の規準や要求によって結び合わされます。献身し、バプテスマを受けて、エホバの証人となる人々は、生まれつきの関係や強制などにはよらず、個人的な選択の結果としてエホバの組織に加わります。それらの人々は、エホバの地上の組織が教えている事柄や行っている事柄のゆえに、またその組織が進めている仕事に自分も加わりたいという願いのゆえに、その組織に引き寄せられます。」「聖書から論じる」(p.293)
「(ある目標を達成するために)人または物が一定の役割や地位をもって集まり、秩序ある全体を組み立てること。また、その組み立てられたもの。」(学研国語大辞典)
組織の基本的な概念は、「取り決め」「秩序」であり、それに基づいて構成されたものが「組織」であるとする考え方には、全く問題はない。だいたいどの辞書もそういう定義になっている。
これを基にして「神の組織」を簡単に定義してみると、
と定めることができる。サタンの組織の場合は「神」を「サタン」に変えればそれでよい。
ここで注意を要するのは、1も2も厳密で絶対的な定義ではないという点である。キリスト教の体制という大きな枠組みはあっても、その中の細部に至るまでの絶対的な神の取り決めというものは確立されていない。それは今日聖書解釈に絶対的なものがないのと同じである。神が直接、絶対的な方法で決定しない限り、万人の認める絶対的な規準を定めるのは不可能なことである。したがって現実には、取り決めのほとんどがその教団の裁量しだいで決められているのである。
さらに、自称神の取り決めに従う人々、つまり偽善的な神の組織や本人たちは誠実かつ真剣であっても大いなる錯覚を冒している組織等と、本当の神の組織は区別して考えねばならない。それに組織全体と個人の問題もある。ある組織がサタン的だといっても、その中にいる人のすべてがサタン的だとは限らない。神の取り決め、それに従う人の意味合いによっては、判定がかなり変化しうるのである。
こうした幾つかの問題点はあるが、論議を進めて行く基準としては、神の組織の定義は「神の取り決めに従う構成体」ということでよいと思う。
不思議なことに「論じる」の本には組織の定義は載っていても、神の組織の定義は記されていない。組織の定義に単に「神の」をつければそれでよいと考えているのかそれとも、神の組織を明確に定義するとものみの塔協会に都合が悪いのでそうしないのかはよくわからないが、後の方に「今日のエホバの見える組織をどのように見分けることができますか」という項目を設けてごまかしている。これは意図的になされた可能性が高い。なぜなら神の組織を厳密に定義しようとすると、本当はものみの塔協会が困ることになるからである。
ものみの塔協会は聖書の取り決めから出てきた組織ではなく、カエサルの法律に基づいて作られた組織である。神が直接ものみの塔協会を作るようにと指示したわけではない。事実、協会の会長や副会長、会計秘書などの役員は、神権的な方法ではなく「聖所を汚した」とされる民主的な選挙(「2300日」の項目参照)で決められている。「ものみの塔協会を作るようにという神の取り決めは聖書のどこに記されていますか」と問われたら、おそらく返答に窮するであろう。神の組織の条件を別に定めて、それにかなっているから神の組織であるという言い方しかできないからである。
ある組織を100パーセント神の組織、サタンの組織と断定するのであれば、その組織は100パーセント神の取り決めに従っているか、サタンの取り決めに従っているかでなければならない。ところが現実には、はっきりそのように言い切れる組織はほとんどない。そもそも取り決め自体、100パーセント断定することができない以上、基準の設定すら難しいのである。たいていの組織、人は、ある部分は神であったりある部分はサタンであったり、またあるときは神であったりあるときはサタンであったりする。100パーセントの神の組織、サタンの組織などといいうものは、天の領域は別にして現実には存在し得ない。ただし、後のほうで取り上げるが、神が明確な行動を起こした場合は別である。
サタン的な要素を指摘されたらどうするか。ものみの塔協会の場合は「人間は不完全だから」という得意のせりふで逃げることにしている。不完全は誰がもたらしたんですか。・・・直接はアダムですが元凶はサタンです。ですから私たちの責任ではありません。・・・そうですか。でも不完全さは根源的にはサタンから来たものでしょう。それではやっぱりサタン的なところがあるということになりませんか。
これは一種のパラドックス(逆説)であろう。
神は常に一つの組織しか用いられなかったのでしょうか。「もちろんそうです。神が同時に二つの組織を用いたことなどありません」とものみの塔協会は主張する。「あなたは地上の楽園で永遠に生きられます」という本は、その点について次のように述べている。
エホバが二つ以上の組織をお用いになった時代がかつてあったでしょうか。ノアの日には、ノアおよびノアと共に箱舟の中にいた人だけが神に保護されて大洪水を生き残りました。(ペテロ第一3:20)また、第1世紀にもクリスチャンの組織が二つ以上あったことはありませんでした。神が交渉を持たれたのは一つだけでした。「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ」でした。(エフェソス4:5)わたしたちの時代においても、神の民のための霊的教えの源は一つしかないことを、イエス・キリストは予告されました(p.193)
この他にも、23章「目に見える、神の組織」の項目の中には「神の組織が一つである」とする理由がさらに幾つかあげられている。あわせてその根拠を整理してみると、だいたい以下のようになる。
これらの項目は大旨正しい。ただ、6はイエス・キリストが到来して、弟子たちと清算をした後でなければならないという時節的な条件はあるが。
1〜6の項目は基本的には正しいとしても、こうした根拠を基にして神の組織は常に一つであったとするのは早計である。この教理は適用と状況を画一化しないと成り立たない。総合的には聖書の歴史と現実を忘れたあまりにも単純な見方であるといえる。
組織の最小単位は家族と考えることができる。そういう意味では地上に神の組織が一つしかなかった最初の時は、エデンの園の時代といえる。この時には、神の設けた取り決め以外のものはなかったし、地上で他の取り決めに従う人間も存在しなかった。
その次に神の組織がはっきりしたのはノアの時代である。箱舟を作るようにとの神の定めに従ったのはノアの家族だけであって、他の人々はその取り決めに加わろうとはしなかった。やがて大洪水は「生き残った8人」対「滅ぼされた邪悪な人々」という形で、「神の組織」と「サタンの組織」を明確に区別するものとなった。
さらに、神が律法契約を通して組織された国民はイスラエル民族だけであったという点も指摘されよう。神がイスラエル以外の国民と契約を結んで、何らかの組織を作ったということはない。また、紀元1世紀ペンテコステの日にクリスチャン会衆が発足したとき、聖霊を注がれたのは12使徒を中心としてエルサレムに集まっていた人々だけであった。他にどこかで聖霊が注がれて、独自に別のクリスチャン会衆が組織されたというような記録は全くない。
こういう事例ばかりを見せられると、ものみの塔協会の教理はやはり正しいではないかとエホバの証人は考えるかもしれないが、”忘れてはならない”、こういうケースは聖書の歴史からすると、ほとんど例外的なことなのである。多くの場合、神の組織とサタンの組織の明瞭な区別はつかない。神の明確な行動がなければ判断は非常に難しいのである。サタンのしもべは常に「義の奉仕者、光の使い」に装っている。偽物と本物を見分けるのはそれほど易しいことではない。これは多くの信仰の人々を悩ませてきた問題でもある。
ものみの塔協会が主張するほど、現実は決して単純ではないのである。これは一律に神、サタンと簡単に決められるようなテーマではない。この問題には、神の組織の意味合い、取り決めのレベル、預言的な時節等々の様々な要素が関わってくる。決して無条件で「神の組織は唯一である」とは言えないのである。
出エジプトしたイスラエルの民はシナイ山でモーセを仲介者とし、神と律法契約を結んだ。その時以来、イスラエル国民は組織された神の民となった。それはキリストがやって来て律法契約を終了させるまで続いた。この間、神の組織はどうなっていたであろうか。本当に一つしかなかったのであろうか。
確かに限定された意味においては神の組織は一つしかなかったといえる。しかし、これはあくまでも限られた範囲ということであって、決してあらゆる意味で成り立つということではない。
当時、神が正式に認定した契約は律法契約であり、それ以外にそのような契約は存在しなかった。そして律法契約を結んだ組織は唯一イスラエルの民であった。したがって、そのような意味、つまり、法的な意味においては、神の組織は一つしかなかったと言える。
しかし、神の組織にはもう一つの側面がある。すなわち実質的に神の取り決めに従っているかどうかという問題である。律法契約という取り決め下にいるというだけでは不十分である。本当に神の取り決めに従っているのかどうかが大きな問題となるのである。聖書的にはこの要素の方がはるかに重要な意味を持つ。法的意味と実質的な意味の双方において神の組織でなければ、真の神の組織であるとは言えないのである。
法的な意味においては神の組織は一つ、しかし、実質的な意味においてはそうではないという状況は、イスラエルの歴史上普通のことであって決して珍しいことではなかった。むしろ、国民全体が背教してしまい、神の組織とは名目だけであって、実質的にはサタンの組織と言えるような場合が非常に多かったのである。
典型的なのは、バビロニア帝国に滅ぼされてしまった時のイスラエルの状況である。この時イスラエルは法的には神の組織であった。形式的には、ソロモンの建てた神殿でエホバの崇拝を続けていたし、律法契約も依然として有効であった。しかし崇拝の実質においてはどうであったろうか。エレミヤ、エゼキエルなどの預言者たちの糾弾からわかるように、イスラエルはもはや神の組織とは言えないような状況にあったのである。行っていることは神の取り決めなどとはほど遠いサタン的な精神に満ちていたものであった。
当時の状況についてエレミヤは
「盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、知ることのなかった異教の神々に従いながら、わたしの名によって呼ばれるこの神殿に来てわたしの前に立ち、『救われた』と言うのか。お前たちはあらゆる忌むべきことをしているのではないか」
(エレミヤ7:9,10 新共同訳)
と記している。
神の唯一の組織イスラエルは、神の組織とは表面的、神が律法契約を破棄していないというだけの法的意味、実質的にはむしろサタンの組織になっていたと言えるのである。
イスラエルの最初の王となったのはサウルである。彼は当初は神に忠実な良い王であったが、やがて神の指示やその取り決めを無視するようになり、ついにはエホバに捨てられてしまう。
その後、油注がれて王になるよう任命されたのはダビデであった。しかし彼はすぐに王位に就くことができたのではない。サウルに妬まれて命を付け狙われ、逃亡を余儀なくされる。そして荒野を何年間も放浪した後ようやく即位するのである。それでもただちに全イスラエルの王になったわけではなく、初めは二部族の王にすぎなかった。サウルの家とは七年余に及ぶ戦争があった。このダビデの物語はよく知られていることなので、詳しい説明は要らないと思う。
ここで問題になるのは、サウルがおかしくなってからダビデの王権が完全に確立されるまでの期間についてである。この間、神の組織はいったいどうなっていたのであろうか。
もちろん、サウルもダビデもイスラエル国民に属し、共に律法下の体制にいたので、そういう大きな意味では組織は一つであったと言える。しかし、実際には二人はいつまでも同一の組織の中にいたのではない。やがてダビデはサウルのもとを離れ、二人はそれぞれ独自の組織を形成するに至る。
イスラエルの体制全体を掌握していたのはサウルの方である。ダビデのもとに集まったのはごく少数の人々であった。サムエル記上22章2節はその時の様子について「困窮している者、負債のある者、不満を持つ者も皆彼のもとに集まり、ダビデは彼らの頭領になった。四百人ほどの者が彼の周りにいた。」(新共同訳)と記している。ダビデについたのは反主流派の人間ばかりであった。
ではダビデのものに形成されつつあったこの組織は、どちらの組織になるのであろうか。はたして神の組織として認められていたのであろうか。心の中ではダビデの方が神の是認を得ていると考えていた人もかなりいたのかもしれないが、何といっても法的に神の組織の体制全体はサウルの配下にあった。彼がそのような見方を許すはずがない。一般的にはアビガイルの愚かな夫、ナバルの「ダビデとは何者だ、エッサイの子とは何者だ。最近、主人のもとを逃げ出す奴隷が多くなった。」(サムエル記上25:10 新共同訳)という受け止め方が普通であったと思われる。まさかサウルが「私はダビデを妬んで彼の命を狙いました。ダビデは仕方なく逃げ出したのです」と素直に真実を語るはずがない。当然「ダビデは逃亡者だ、主人を捨てて逃げたのだ、王位をねらうよからぬ輩だ」と宣伝したに違いない。
サウルが実際どんなことを行ったのか、詳しい記録がないのでよくわからないが、ナバルの言葉は当時の一般的な見方を反映したものであろう。ダビデの組織は体制派からは認められない存在であったと考えられるのである。
それでは神ご自身はいったいどのようにご覧になっていたのであろうか。この間ダビデが神の是認を得ていたのは確かなことである。イスラエルの体制からは退けられても、神から見捨てられるようなことはなかった。そういう意味ではダビデの組織は、まさに神の組織であり、決してサタンの組織などではなかったといえる。
ダビデの組織が実質的には神の是認を得た組織であったとすれば、サウルの組織の方はどういうことになるのであろうか。ものみの塔協会のいうように神の組織が一つしかないと仮定するなら、ダビデを認めればサウルの方は否定するしかない。もしそうだとすると、実質的にはサウルの組織はサタンの組織だったということになるが、はたしてそう言い切れるであろうか。
サウル自身が神に否認されていたのは間違いない。しかし、それは必ずしも即サウルの組織全体の否認を意味しているわけではない。サウルの組織をサタンの組織だと断定すると、おかしなことになってしまう。別の困った問題が起きてくるのである。
ダビデとヨナタンといえば、美しい友情の代名詞のようになっている。ものみの塔協会もヨナタンを高く評価し、「千人に一人の人物、勇敢で、忠節で、利他的な人」と述べている。(1980年2/15号)まさかこのようなヨナタンを、サタンの組織の一員ということなどとてもできないであろう。
では、ヨナタンを神の組織の成員とすると、どういうことになるであろうか。現実にはヨナタンはダビデの組織の中にいたのではない。彼はサウルの子であり、その後継者としてサウルの組織を代表する人物であった。ヨナタンを神の組織の一員、彼が属する組織を神の組織とすると、サウルの組織も神の組織ということになってしまう。そうすると現実には、神の組織はダビデの組織と合わせて二つ合ったという結論になってしまう。
ところがサウルが不忠節になってからは、サウルの組織は神の取り決めと真っ向から反することを再三にわたって行うようになった。サムエルかを脅かし、ダビデの命を付け狙い、祭司の町ノブの住民を虐殺している。こういう命令を発するほどサウルは悪霊的になっていたのである。聖書は、サウルが神の霊的裁きを受けて聖霊を取り去られると、すぐに悪霊の攻撃に悩まされるようになったと記している。(サムエル記上16:14)いうまでもなく、このような組織のトップの状態や行為は神の組織の業ではありえない。
このように考えてくると何とも妙なことになる。法的契約関係からいえば、神の組織は一つ、しかし現実には神の組織は二つに分かれて争い合っている。実質的には神の組織とサタンの組織が入り乱れているという複雑な状況になっているのである。
こうしたことは何もダビデの時代に限ったことではない。規模や関係の程度はそれぞれ異なっても、様々な時代にごく普通に見られたことである。アブラハムとロト、ヨセフの家とイスラエルの民、追い出されたエフタとイスラエルの家、イエス・キリストの伝道期間等々数多くの例を上げることができる。
結局、神の組織は一つであるといっても、「一つ」の意味が問題になるのである。加えて、取り決めのレベルの問題もある。「神と契約下にある組織」「神の認めている組織」「神の義認している組織」「神の用いている組織」これらは常に同一であるとは限らない。一時的には諸国民さえ神に用いられた組織になっている。神の決定的な裁きがなければ、現実には入り乱れていることの方が多いのである。
繰り返すが、これは意味の意味を考えずに単純に論じられるようなテーマではない。「この世には神の組織とサタンの組織しかない。神の組織はただ一つ、あとは皆サタン」というものみの塔協会の教義は、現実とは遠く掛け離れた、あまりにも単純で短絡的、一義的、御都合主義的な教義と言わざるをえない。
最初は一つだったキリスト教も、現在では何千という教派、宗派に分裂してしまった。小さな組織まで入れるとその数は膨大なものとなる。はたしてものみの塔協会の教える通り、この数ある組織を「ただ一つの神の組織」対「その他のサタンの組織」に分けてしまうことができるのであろうか。その一つの神の組織がものみの塔協会か否かは別にしても。
この点でカギを握っているのは「小麦と雑草、あるいは小麦と毒麦の例え話」である。同様のものとしては他にも「引き網の例え話」などがある。これらの例え話はキリスト教がどのように進展し、最終的にどうなるかを示したものである。
その中の代表的な「小麦と毒麦の例え話」と、イエス・キリストの語ったその解き明かしを聖書から見てみることにする。
「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったのではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」
それから、イエスは群集を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。人の子は天使たちをを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行なう者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。そのとき、正しい人々は、その父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」(マタイ13:24〜30,36〜43 新共同訳)
この例え話とその解説からわかるのは、「キリスト教が最初は小麦だけの真のクリスチャン、すなわち純粋な唯一の神の組織から始まっても、すぐに毒麦、まがいもののクリスチャンに汚染されてしまう。その結果、神の組織と偽善的なキリスト教の組織との明瞭な見分けはつかなくなる。そういうことをするのはサタンであって、神の組織とサタンの組織が混在する状態は“終わりの時”まで続く。しかし終わりの収穫が始まると神の組織とサタンの組織は分けられる」ということである。
従って、神の組織が唯一か否かを決めるポイントは一点に絞られることになる。み使いたちが派遣されて小麦、真のクリスチャン、聖徒たちを集める時が到来したのかどうかということである。すでにその時が到来したのであれば、どこかに世界的なネットワークを持つ真の神の組織が存在するはずである。ただしこれは、一度は聖徒たちが地上で集められると仮定したうえでのことではあるが。まだその時でないとすれば、聖徒たちの集合はこれから行われることになろう。
1914年の問題のところで詳しく検討するが、現在の諸情勢から判断すると、終わりの時はまだ到来していないと言えるようである。そうであれば、今は神の要素とサタンの要素が混在する時代、神の組織とサタンの組織が入り乱れている時代ということになろう。ものみの塔協会の現実もこの位置付けにピッタリする。
自分たちを唯一の神の組織であるとするものみの塔協会の論理も、一応は小麦と毒麦の例え話の線に沿って組み立てられている。「終わりはすでに始まっている。(ものみの塔協会の教えにはいろいろな終わりの日があって、もっともよく知られているキリストの臨在による終わりの日は1914年、収穫の終わりの日は1870年代、千年統治も裁きの終わりの日といわれている)収穫の時期はすでに到来した。全地の小麦クラスのクリスチャンは、ものみの塔協会を通して各地の会衆に集められている」といった組み立てである。
この主張は二つの前提を土台としている。それは、
というものである。
ものみの塔協会の教えはひとえにこの前提にかかっている。これが崩れてしまえば、その主張もすべて崩壊してしまう。
1については「1914年」の問題のところで詳しく論じるので、ここでは2の点について検討することにしたい。神の組織の条件については、ものみの塔協会が上げているもので十分だと思うので、それを基にして吟味してみることにする。
ものみの塔協会が上げているのは次の七つである。
「聖書から論じる」p.297より
今日のエホバの見える組織をどのように見分けることができますか
- (1)それはエホバを唯一のまことの神として真に高め、そのみ名を大いなるものとしている。−マタイ4:10 ヨハネ17:3
- (2)それはエホバの目的におけるイエス・キリストの重要な役割、すなわち、エホバの主権の立証者、命の主要な代理者、クリスチャン会衆の頭、支配するメシアなる王としての役割を十分に認めている。−啓示19:11−13;12:10.使徒5:31.エフェソス1:22,23.
- (3)それは神の霊感によるみ言葉に堅く従い、教えと行動の規準をすべて聖書に基づいて定める。−テモテ第二3:16,17.
- (4)それはこの世から離れている。−ヤコブ1:27;4:4.
- (5)それは、その成員の間に、道徳的に非常に清い状態を保つ。エホバご自身が聖なる方であられるから。−ペテロ第一1:15,16.コリント第一5:9−13
- (6)それは、その主要な努力を、聖書がわたしたちの時代のために予告した仕事、すなわち神の王国の良いたよりを証しのために全世界で宣べ伝える仕事のために傾ける。−マタイ24:14.
- (7)人間の不完全さがあるとしても、その成員は、神の霊の実、すなわち、愛、喜び、平和、辛抱強さ、親切、善良、信仰、温和、自制を培い、かつ実際に示し、それによって一般の世とは異なるようになる。−ガラテア5:22,23.ヨハネ13:35.
上記の規準をものみの塔協会自体に当てはめるとどうなるであろうか。宣伝を抜きにした実態はだいたい以下のようなものである。
こうして見てみると、ものみの塔協会は雑誌の誇大宣伝ならいざ知らず、厳密にはとうてい神の組織とは言い難い状況にあることがわかる。それでは、神の組織でなければサタンの組織ということになってしまうのかというと、どうもそうとは言い切れないようである。
だいたいどっちかに決めつけてしまうというのは、ものみの塔的一義的な発想であって現実的ではない。現実には、すべての組織がそうであるが、サタン的なところもあれば神にふさわしいところもある。どっちか一方というのは、よほど極端な組織でなければあり得ない。もちろんあるとすれば今のところは間違いなくサタンの方であるが。ものみの塔協会が神の組織に見えるという人はそういう部分しか見えないか、あるいは見ない人である。全面的にサタンの組織に見えるとすれば、それは偏見や先入観に基づいて眺めているせいであろう。
ものみの塔は神の組織か、それともサタンの組織か。そのどちらでもない。サタンと神が半々くらい、偽善的な幹部ほどサタンに近くなる。これが現実的かつ妥当な判定であろう。
ものみの塔協会の最後の切り札、都合が悪くなった場合の最後の逃げ道は「やがてエホバが正してくださる、それを待てない人は不信仰だ、僭越だ」である。
エホバがいつ?どのように?・・・それは誰にもわからない。すべてはエホバによることなのだから。神が定めの時にご意志にかなった方法で行ってくださるはずであるということになる。具体的な保証は何もない。
皆が忘れてくれればそのままうやむやにしてしまう。どうしても扱わなければならないものは、まず一生懸命理屈を考える。これで成員を納得させられる、あるいはごまかせるという有力なものが見つかると、ただちに「やはりエホバの組織です」という顔で堂々と行う。ちょっと弱いな、根拠薄弱だなというものは、皆の記憶が薄れた頃にさらりと変更してしまう。
現実にはものみの塔協会の対応のパターンはこの程度なのだが、エホバの証人はエホバの名を出されるとどうにも弱い。組織の中にいると幹部の“へ理屈”に簡単に瞞されてしまう。
よく考えてみるとコラとダビデの場合は全く違うのである。この相違はモーセとサウルの違いに基づいている。二人とも神の組織、イスラエルの指導者であるという立場は同じであった。ところが決定的に異なっていたのは、サウルは霊的な裁きを受けてすでに神から否とされていたのに対し、モーセは神の義認を得ていたという点である。このゆえに、サウルに対するダビデの離反、反逆は必ずしも神に対する反逆にはならなかったが、モーセに対するコラの反逆は神に対する反逆を意味するものとなったのである。
モーセの場合は、何らかの過ちや間違いを犯しても、神の義認を得ていたので全体としては神が導いていることになった。その過ちや間違いは神の義認を失うほどのものではなかった。したがって、イスラエルの民は問題があっても神が正してくださることを期待して待っていればよかったのである。
しかし、サウルの場合は事情が大いに異なっていた。彼は神の義認を失っていたので、その過ちや間違いは致命傷になった。やがてエホバが正して下さるのではないかと待ち続けていったらどうなったであろうか。おそらくサウルの家と共に滅んでしまったに違いない。組織と個人、何が神に対する忠節か、いずれの道が神への忠節になるのか、カギとなるのは神の義認である。エホバの霊的な裁き、聖霊の判決がどうなっているかがターニングポイントになる。
もう一度強調する。その組織が本当に神の義認を得ているなら、その中にとどまって神が行動されるのを待てばよい。しかし、そうでなければすべての努力はやがて徒労に終わる。神が癒し不能とみなしたものは、誰も癒せないからである。
カギとなるのはその組織のトップに対する神の霊的裁きである。その点から判断すると、ものみの塔協会はもはや癒し不能であることがわかる。日本支部は偽証を改めるどころか、ますます偽りの宣伝を流している。R・V・フランズ兄弟の経験に示されるように、この点では統治体も全く同罪である。しかも、彼らはこうしたことを意識的に行っているのである。全員が真相を知っているとは言えないが、組織体として知らないということは絶対にありえない。なぜなら、彼らはその点をはっきり指摘されており、それに対して偽りの宣伝で答え応じているからである。
統治体を初めとする幹部に対する神の義認が取り去られたことは、今回の事件によって法的にも実質的にも立証された。エホバの天の法廷が実際に機能しているのであれば、神の霊的な判決の影響は間もなく明らかになるはずである。