7章 1914年にキリストは臨在していない

(1) 1914年の計算の仕方

 エホバの証人は「1914年に終わりの時が始まった、キリストの臨在は1914年に開始された」と固く信じている。この教えは「神の組織、思慮深い奴隷級」の教義と並んで、ものみの塔協会の最も重要な柱となっている。エホバの証人が終わりは近いと強調する最大の根拠は、1914年ーキリスト臨在説である。

《C・T・ラッセルの閃き》

 この1914年という年を初めて提唱したのは、ものみの塔協会の初代会長、C・T・ラッセルであった。それは約百年以上も前のことで、「1976年エホバの証人の年鑑」には次のように記されている。

  「C・T・ラッセルは、『異邦人の時;それはいつ終わるか』と題する記事を書きました。それは1876年10月号の『バイブル・イグザミナー』誌に掲載されました。その中でラッセルは『七つの時は西暦1914年に終わるであろう』と述べています。」(p.37)

 彼はこの1914年という年をどのようにして算出したのであろうか。計算の根拠にしたのは、ダニエル4章でネブカデネザルに成就した「七つの時」とルカ21章24節でキリストが預言した「異邦人の時」であった。「七つの時」と「異邦人の時」を結びつけ、それが同じ期間を指していると考えたのが、彼の新しい閃きだったのである。
 そして、ユダ王国が滅び神の民の統治が終わった年を紀元前607年とみなして、「七つの時」を次のように計算した。

   聖書の月と年は、陰暦です。ネブカデネザルの場合、ひとつの「時」は陰暦の一年を表わしました。その一年は三百六十日です。・・・長い期間については、一日は一年を表わすと神は言われました。このことから、三百六十日の陰暦の一年は、「一日を一年として」三百六十年を表わします。(民数14:34、エゼキエル4:6)それで、象徴的なひとつの「時」は三百六十年ということになります。象徴的に言われる七つの「時」は二千五百二十年になります。ネブカデネザルが正気を失っていた「七つの時」すなわち七年は、二千五百二十年の期間を予表しました。聖書の示すところによると、この「七つの時」すねわち二千五百二十年は西暦六0七年の初秋に始まりました。すると、「諸国民の定められた時」は(西暦)一九一四年の初秋に終わります。(「御心が地になるように」p.100,101)

 2520−607=1913になるが、紀元0年はないので1をたす。そうすると1914年がでてくる。

《BC607年?それともBC586年?》

 C・T・ラッセルが異邦人の時の計算に用いた紀元前607年という年代は、一般の歴史年代とは大幅に異なっている。新バビロニア軍によるエルサレム攻略の年は、普通BC607年ではなく、BC586年(あるいは587年)とされており、ラッセルの用いた年代とは約20年のずれがある。
 この食い違いを説明した最新の資料は、1981年に発行された「あなたの王国が来ますように」という本である。その本の最後の「14章の付録」というところで、この問題が扱われている。
 論旨を一言でいえば「私たちは、一般の考古学や歴史学の提唱する年代よりも、聖書預言の方を重視します」ということである。

 新バビロニア年代表によれば、エルサレム滅亡の年は間違いなく紀元前586年になるが、この年代は絶対的なものではない。確かに、この年代を支持する資料には、プトレマイオス王名表、ナボニドスのハラン石柱、VAT4956:楔形文字の粘土板、商業用粘土板などがあるが、しかし、いずれも聖書預言に基づく年代を超えるほどのものではない。
 エレミヤは、エルサレムが荒廃する期間は「70年」であるとはっきり述べている。この70年という期間は文字通りの期間であって、正確な数字と考えることができる。バビロンがペルシャのクロスの手に落ちたのは、紀元前539年、クロスの布告が出てイスラエル人がエルサレムに帰還したのが紀元前537年、そこから70年をさかのぼると紀元前607年になる。(エホバの証人は、BC539年は絶対日付になると教えられている)
 以上がものみの塔協会の主張する論旨であるが、おそらくこの問題はもっと決定的な証拠でも出てこない限りは、断定的なことは言えないのではないかと思う。現時点では、結局のところ、どちらを信用するかという問題になりそうである。「考古学上の明白な証拠を無視するのですか」というのと、「あなたは聖書預言を信じないのですか」というのと、はたしてどちらに説得力があるだろうか。

《ラッセルの解釈に対する批判》

 七つの時と異邦人の時を同一の期間とするラッセルの解釈に対しては、様々な批判がなされてきた。中でも論議の的になったのがダニエル4章の解釈である。
 ダニエルはネブカデネザルが見た「巨大な木の夢」を次のように解説している。

  「さて、王様、それを解釈いたしましょう。これはいと高き神の命令で、わたしの主君、王様に起こることです。あなたは人間の社会から追放されて野の獣と共に住み、牛のように草を食べ、天の露にぬれ、こうして七つの時を過ごすでしょう。そうして、あなたはついに、いと高き神こそが人間の王国を支配し、その御旨のままにそれをだれにでも与えられるのだということを悟るでしょう。その木の切り株と根を残すように命じられているので、天こそまことの支配者であると悟れば、王国はあなたに返されます。王様、どうぞわたしの忠告をお受けになり、罪を悔いて施しを行い、悪を改めて貧しい人に恵みをお与えになってください。そうすれば、引き続き繁栄されるでしょう。」
(ダニエル4:21−24 新共同訳)

 このダニエルの解き明かしを読んでみると明らかなように、「七つの時」とはネブカデネザルが神によって王位を追われる期間、彼が狂人のようになって野をさ迷う期間であることがわかる。それ以外の意味があるとは説明されていない。「異邦人の時」を示唆するようなことはどこにも述べられていないのである。
 また、イエス・キリストが「異邦人の時」について預言したときも、「七つの時」と関連するようなことは、何も語っておられない。ダニエル4章の幻を匂わせるようなことは、一言も話されなかったのである。つまり、「七つの時」と「異邦人の時」の双方を結びつける直接の記述は、聖書のどこにもないということである。したがって、当然のことながら、次のような批判が起きてくる。
 ダニエルもキリストも何も語っていないのに、どうして「七つの時」と「異邦人の時」を結びつけるのか。そのように解釈できる聖書的な根拠はどこにもないではないか。

《ものみの塔協会の反論》

 1914年の教理が極めて重要なせいであろう。ものみの塔協会もこうした批判に対し、それなりの反論を試みてきた。なぜ「異邦人の時」と「七つの時」を同じ期間と考えることができるのか、少々苦しいがその理由として主に次の二点をあげている。

  1. ダニエル書は一貫して神の王国が設立されるとき、すなわち「異邦人の時の終わり」に焦点を当てている。一連の幻はそういう視点から解釈することができる。したがって、ダニエル4章の中に「異邦人の時」に関する直接の言及はないが、「七つの時」も神の王国が設立される時と関係あるものと考えられる。
  2. ダニエル4章17節の後半は「これは、至高者が人間の王国の支配者であり、ご自分の望む者にそれを与え、人のうち最も立場の低い者をさえその上に立てるということを、生ける者が知るためである。」(新世界訳)と、幻の最終的な目的について述べている。ネブカデネザルに対する成就だけでは、この目的を達成するものとはなっていない。したがって、この幻にはネブカデネザル個人に関する以上の、もっと重要な意味があるはずである。

《ダニエル4章の位置付け》

 さて、ものみの塔協会のこの反論はいったいどの程度のものであろうか。はたして、批判に十分答えるほどの正当な根拠となりうるであろうか。どうも詳しく検討してみると、何とも弱い、根拠薄弱、苦しい理屈であると言わざるを得ないようである。
 まず1の点であるが、これはダニエル書を全部読んでみればそれではっきりする。確かにダニエル書が全体として「終わりの日」に焦点を当てているのは事実であるが、しかし、すべての幻や啓示がそうだというわけではない。例えば、5章の「壁に記された奇跡的な文字」などはその一つになる。
 結局、4章の「巨大な木の夢」がどちらになるかは主観の問題といえよう。ただ、ダニエル書の他のところは「終わりの時」に関係があればはっきりそのように書かれているのに、4章には一言も出てこない。何も述べられていないことを論証しようというのは大変難しいことである。その方が不利なのは言うまでもない。
 次に2の点であるが、これもやはり単に視点の問題にすぎない。ネブカデネザルは正気を失い動物のようになってしまったわけだから、そういう意味では「最も立場の低い者」ということができた。神は彼を再び王位に戻し、結果としてネブカデネザルは神を至高者と讃えることになった。当時の世界支配者が神の主権を、その至上権を確かに認めたのである。そうであれば「主権は誰にあるのか、それを疑問の余地なく明らかにするという」この幻の目的は、十分達成されたといえるであろう。
 むしろ、幻の目的の達成という点では、七つの時が終了したとされる1914年の方がはるかに弱い。というのは神の至上権を立証するような出来事は、1914年には何も生じなかったからである。
 結論として言えることは、「異邦人の時」と「七つの時」を結びつける正当な聖書的根拠は何もないということである。そう考えたいのであればそれはそれで自由だという程度にすぎない。
 預言の解釈というのは、現実にその通りのことが起きて初めて正しい解釈といえる。すべての点でそうならなければ、結局その解釈は間違っていたということになる。したがって、ラッセルの解釈が正しかったのか、それとも間違っていたのかその最終的な証明は、本当に1914年に異邦人の時が終了したといえるような出来事が生じたのか、それともそうではなかったのかによって確かめられることになる。

(2) はずれた預言の解釈

 1877年、C・T・ラッセルはN・H・バーバーとの共同出版で「三つの世界およびこの世界の収穫」と題する本を著し、イエス・キリストの目に見えない臨在と三年半の収穫をもって始まる40年の期間は1874年の秋から数えられるという見解を発表した。
 現在と違いこの当時は、1874年からキリストの再臨が始まり、40年の終わりの時を経て1914年にハルマゲドンが起きると考えられていた。異邦人の時が終了する1914年には、戦争が起こり、革命または無政府状態へと事態が進展する。そして油注がれ、聖別されたクリスチャンは天に上げられると期待されていたのである。

《C・T・ラッセルは何を預言していたか》

  1914年についてラッセルは、

  1. 異邦人の時、七つの時が終わり、キリストを王とする神の王国が支配を開始する
  2. 大患難、ハルマゲドンが起きる
  3. 戦争が起こり、革命、無政府状態へと続く
  4. 油注がれ、聖別された人々は天に上げられる

ということを予言していたわけである。
 この音信に引き寄せられ、次第に多くの人々がものみの塔協会に集まってくるようになった。拡大は続き、組織としてはかなりの成功をおさめたと言えるまでになった。「1914年ーハルマゲドン」はものみの塔協会の合言葉のようになったのである。
 しかし、1914年が近づくにつれて、C・T・ラッセルは予言が外れた場合のことを懸念するようになったらしい。徐々にトーンダウンするような発言が多くなった。
 例えば、1912年12/1号のものみの塔誌には次のような記述が載せられている。

  「最後に、わたしたちは、1914年10月とか1915年10月、あるいは他の何らかの日付までではなく、『死に至るまで』捧げた[献身した]ことを記憶しましょう。わたしたちが預言の計算を間違うことをなんらかの理由で主が許されたとしても、時代のしるしからして、その間違いが大きいものであり得ないことを確信できます」

 さらに、1914年1/1号のものみの塔誌では、

  「わたしたちは、に関する事柄を教理的な事柄と同様の絶対的な確実さを付して読まないでしょう。なぜなら、聖書の中で、時は基本的な教理ほど明確に述べられていないからです。わたしたちは今なお見えるところによってではなく信仰によって歩いています。しかし、不忠実また不信仰なのではなく、忠実を保って待っているのです。もし、教会が1914年10月までに栄化されないことが後日はっきりしたなら、わたしたちは、主のご意志がどのようなものであれ、それに満足するように努めるでしょう。」 と語ったと伝えられている。(下線はものみの塔協会)
(「1976エホバの証人の年鑑」p.74より)

 1914年についての予言が当たるかどうか絶対的な確信はなかったということであろう。
 またある時ラッセルは、私は個人として何らかの予言をしたのではない、単に聖書の預言を解釈したにすぎない、それを信じるかどうかは読者の判断に任せる、というような主旨のことまで述べている。極論すると、1914年を信じて騒ぐのはあなたがたの勝手であって私のせいではない、ということになってしまう。
 これを巧妙な事前の責任逃れ、責任転嫁と受け取るか、それとも実に率直で正直な態度であるとみなすかは評価が分かれると思うが、常識的には、期待を抱かせて人々を集めている以上無責任だということになろう。何やらその後のものみの塔協会の対応を予示させるような発言ではある。
 しかし、ラッセルのこうした事前の努力にもかかわらず、1914年が近づくにつれ人々の中には天へ行くという期待が高まっていった。「1976年エホバの証人の年鑑」は当時の状況について次のように記している。

   ある聖書研究者は、1914年に天へ行くという考えを強く持っていました。ドワイト・T・ケンヨン姉妹はこう語っています。   「わたしたちが考えていたのは、戦争が革命へ、また無政府状態へと進展し、当時油そそがれていた、つまり聖別されていた人々はその時に死んで栄化されるだろうということでした。ある晩、わたしはエクレシア(会衆)全体が汽車に乗ってどこかに行く夢を見ました。雷といな光がすると、たちまち仲間の人たちがあたり一面死に始めたのです。わたしは、それがごく当然だと思って死のうとしましたが死ねませんでした。それにはほんとうにあわててしまいました。それから突然わたしは死んで、大きな解放感と満足感を味わいました。この古い世に関する限り、万事がまもなく終わろうとしていること、また、『小さな群れ』の残りの者が栄化されようとしていることを、わたしたちがどれほど確信していたかは、これでおわかり頂けると思います。」   「1914年のサトラガ・スプリングス大会での出来事は、その年に天へ『帰還する』というマクミラン兄弟の考えを特に際立たせました。兄弟は次のように書いています。『わたしは、水曜日(9月30日)に、「万物の終わりが近づきました。冷静にし油断なく見張り、祈りなさい」という題の講演をするように頼まれました。ところで、それは、いわばわたしの得意とするところでした。わたし自身そのこと、つまり教会は10月に「帰還する」ということを心から信じていました。その話の中で、わたしは、『わたしたちはまもなく帰還するのですから、おそらく、これがわたしの最後の講演になるでしょう』というふさわしからぬことを言ってしまいました」(p.72,73)

 人々が1914年にいかに大きな期待を寄せていたかが理解できる。ラッセルは別に予言したわけではないと語ったが、大多数の人はそうは受け取らなかったのである。

《はずれた予言》

 やがて待望の1914年がやって来た。異邦人の時に関するラッセルの予言(本人によれば聖書解釈)はどうなったであろうか。
 おそらく最近エホバの証人になった人は皆、ラッセルの予言は成就したと信じているはずである。ものみの塔協会は、「1914年に気を付けろ!それが町々を行く聖書文書頒布者たちの合言葉であった。この預言は異例の成就をみた。神はラッセル兄弟に異邦人の時が1914年に終わることを四十年以上も前に啓示されたのです」という具合に宣伝しているからである。
 しかし、これは物事のほんの一面にすぎず、真実は大幅に異なっている。確かに第一次世界大戦という大規模な戦争は起きた。そういう意味では、ものみの塔協会の宣伝通り、予言は成就したと言えないこともない。
 だが、ラッセルは第一次世界大戦が起きるという主旨の予言をしていたのではない。彼のメッセージの中心は、あくまでも当時の聖書研究者(エホバの証人はかつてそのように呼ばれていた)たちが期待していたように、ハルマゲドンと昇天からなっていたのである。
 人々が最も期待した事柄は何一つ生じなかった。この世が終わることもなければ、会衆が天に迎えられることもなかった。1916年の暮れにはC・T・ラッセルが死亡し、1918年には第一次世界大戦が終了してしまう。ハルマゲドンが来ないことは決定的になり、失望した人々は組織から離れていった。予言が本等に当たっていたのであればこういうことはないはずで、結局は成就しなかったと受け取られたことを意味している。ラッセルの予言は外れたのである。
 人々の天に上げられるということへの期待は相当根強いものであったらしく、「1976年エホバの証人の年鑑」には1914年から5年経った1919年当時も依然として天への「帰還」が大きな関心事となっていたことが記されている。組織を存続させるためには、ラッセルの預言の解釈をどうしても修正せざるを得なくなった。

《見解の修正》

 C・T・ラッセルのあとを継いで二代目の会長となったJ・F・ラザフォードは、ものみの塔協会史上最大の危機となったこの難題に積極的に取り組んだ。その努力は1922年、シーダーポイントで開かれた二回目の大会で結実する。歴史的な日となった9月8日、金曜日の講演の中で彼は次のように述べている。

  「・・・1914年以来、栄光の王はその力を執って統治しておられます。彼は神殿級の口びるを清め、彼らに音信を携えさせて遣わしておられます。王国の音信の重要性はどれほど強調してもし過ぎではありません。それは音信の中の音信です。また、現代の音信であり、それを宣明するのは主に属する人々の義務です。天の王国は近づいています。王は統治しておられ、サタンの帝国は倒れようとしています。現存する万民は決して死ぬことはありません」(「1976年エホバの証人の年鑑」p.131)

 1914年に異邦人の時は終わり、キリストは王位についた。すでに神の王国は天において支配を開始している、信仰の篤い霊的な目をもつ人々はそれを理解することができるはずだというわけである。
 そして講演は次のように結ばれている。「ADV(advertise,宣伝する)」で知られるラザフォードのこの言葉は、ものみの塔協会が最も好んで引用しているものである。

  「音信を遠く広く述べ伝えなさい。世界は、エホバが神であり、イエス・キリストが王の王、主の主であることを知らねばなりません。今日こそ、あらゆる時代のうちで最も重大な日です。ご覧なさい、王は統治しておられます!あなたがたは王のことを広く伝える代理者です。それゆえに、王とその王国を宣伝し、宣伝し、宣伝しなさい。」(「1976年エホバの証人の年鑑」p.132)

 成就を地上から天に置き換えるというこの解決の仕方は、ものみの塔協会が初めて用いた方法ではない。
 再臨派の代表的な人物として知られるウィリアム・ミラーは、ダニエル8章の研究から預言的な「2300日」が1844年に終了するとの結論に達した。その年にキリストは再臨し、地上を清めると彼は考えたのである。しかし、人々の期待に反しキリストは再臨しなかった。預言は外れたのである。
 これはどのように修正されたであろうか。E・G・ホワイト著「各時代の大闘争 下」(p.137)には次のように記されている。

  「こうして、預言の言葉の光に従った者たちは、キリストは、二千三百日が一八四四年に終了した時に、この地上に来られるのではなくて、再臨に備えて贖いの最後の働きをするために、天の聖所の至聖所に入られたのだということを知った。」

 成就を天にしてしまえばもはや誰も確かめようがなくなる。成員にはなんとなくモヤモヤした気持ちが残ると思うが、やがて時がそれを解決してくれる。期待感を失わせないようにして、エネルギーを別の方向に向けてしまえばそれで何とかおさまる。ものみの塔協会が採用したのはまさにこのパターンであった。
 1914年にハルマゲドンは来なかったが大患難は始まった。そうであればハルマゲドンは間近に迫っているはずである。大いなるヨベルになるであろう1925年は、1914年よりも可能性が高いかもしれない。最終的な終わりは非常に近づいている。しかし、ハルマゲドンが来る前に、全地にキリストの王国の支配を告げ知らせるという神のご意志がまだ残っている。それを果たさないうちはハルマゲドンも来ない。前途にはまだ膨大な業が残っている。
 ラザフォードはそのことを強調して人々の関心とエネルギーを伝道に向けさせた。こうしてエホバの証人を特徴づけるようになった熱心な伝道活動が世界中で展開されるようになったのである。
 その後さらに調整が加えられた。1914年から終わりの日という「一つの時代」が始まり、キリストは目に見えない様でその時からずっと臨在しているが、大患難は1914年に始まったのではない。それは終わりの日の最終部分に生じる出来事である。ハルマゲドンは大患難の頂点をなす。油注がれ、聖別された人々の復活は1918年から始まっている。・・・・etc.
 C・T・ラッセルの預言は外れ、その解釈は間違いであることが明らかになった。では、調整を加えたものみの塔協会の「1914年ーキリスト臨在説」はどうであろうか。

(3) 終わりの時は1914年に始まったか

 イエス・キリストは再臨と終わりの日のしるしについて弟子たちに尋ねられたとき、しるしの一部として異邦人の時に関する次のような預言を語られた。

  「人々は剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる。異邦人の時代が完了するまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされる。」(ルカ21:24 新共同訳)

 終わりの時は本当に1914年に始まったのか、キリストの王国はそのとき確かに支配を開始したのか、この点で一つのカギとなるのは「異邦人の時」の持つ意味である。異邦人の時をどう位置付けるかということが、判断のポイントになる。

《異邦人の時の意味》

 この預言から確実に言えることは「異邦人の時」とは「エルサレムが異教の民に踏み荒らされる、つまり、異教徒に支配される期間だ」ということである。したがって当然のことながら、異邦人の時が終了すればエルサレムは回復されることになる。こうした異邦人の時の意味そのものについてほとんどの聖書注解者の意見は一致している。しかし、エルサレムを文字通りの都市と考えるかそれとも象徴的な意味にとらえるか、エルサレムが踏みにじられ始めた年を何年とするか、異邦人をどう規定するかなどによってその見解は分かれてくる。
 以下に幾つかの代表的な解釈をあげる。

「異邦人のこの世の権力が支配する全期間のこと、エルサレムは紀元前1000年にダビデが統治し始めてから、わずか400年間だけ独立国家の都としてのつとめを果たしたが、BC586のバビロン捕囚以来ほとんどの期間、異邦人の支配下に置かれてきたのである」(「ウェスレアン聖書注解」)

「バビロンから始まる四つの大帝国が、イスラエルに対する異邦人の支配の時代を形成する。その全期間が異邦人の時。キリストの地上への再臨によって異邦人の時が完成する。」(「主要教理」)

「異邦人がエルサレムを占拠している期間」(啓示11:2)

「異邦人が神の王国に入る機会を許される期間」(マルコ13:10,ローマ11:25)(「新聖書注解」)

「ネブカデネザルによるエルサレムの最初の滅亡から千年紀の初めの最後の回復までの期間」(「再臨」ルネ・パーシュ著p.163)

 少々変わっているのは「新聖書注解」の後者の方の説明である。これは「異邦人の時」を霊的な意味に解釈し、「異邦人の時」を異邦人のための期間、異邦人にとっての恵みの期間と考えるということであろう。ただ、実質的には、表現の視点が異なるだけでそれほど変わりはない。
 エルサレムを中東にある実際の都市と考えるにしても、あるいは天のエルサレムや神の支配の象徴と見なすとしても、「異邦人の時」がエルサレムを踏みにじることによって始まり、エルサレムの復興によって終わることに変わりはない。「異邦人の時」を見分ける基本的な特徴はすべての解釈においてまったく同じである。
 文字通りのエルサレムだとすればどうなるであろうか。「異邦人の時」の始まりは、第一次神殿崩壊のBC607年(一般の歴史はBC586年)か、あるいはローマ軍がエルサレムを滅ぼしたAD70年ということになろう。そして終了したのがAD1948年に始まった現代のエルサレム再建以降ということになる。
 ただし、この解釈には一つの問題がある。それは滅ぼされた時のエルサレムは(第一神殿崩壊の時)確かに神の都であったが、律法契約が廃されて神の義認がキリスト教に移ってからは、エルサレムには初めの時と同じような宗教的意義はなくなってしまったという点である。それでも、神は憐れみ深いのでイスラエルは引き続き神の民であると考える人もいるとは思うが、しかし基本的には、イスラエルの首都、現在のエルサレムは大多数のキリスト教徒にとってはもはや神の王国の首府ではない。それに将来、仮にキリストが今のエルサレムに再臨したとしても、はたしてそれだけでユダヤ教国家のイスラエルが簡単にキリスト教に改宗するものであろうか。宗教の本質を考えると現実的には非常に可能性の薄い話に思える。
 こういう観点からすると、エルサレムを文字通りに取るよりも「神の主権の象徴」と考える象徴的な解釈の方が、聖書全体には調和しているのではないかと思える。

《異邦人の時は1914年に終了してはいない》

 さて、問題のものみの塔協会の解釈であるが、第一次大戦後の見解修正以来、ものみの塔協会はエルサレムも異邦人も字義通りではなく、象徴的な意味に理解する立場を取ってきた。「異邦人の時」に関するものみの塔協会の典型的な説明は次のようなものである。

  「二千五百二十年にわたる『七つの時』が終わったので、そのような御国の荒廃とその象徴的な首都の踏みつけも終わりました。どのように?ダビデ王と結ばれた御国契約にしたがい、神の国を再び設立することによります。この世の諸国家が、その神の御国を踏みつけることはもはやできません。」(「御心が地に成るように」p.102)

  「西暦1914年の初秋に異邦諸国民がメシアの王権を踏みにじることが終わり、地上のエルサレムにではなく、今やダビデ王の主であるみ子がエホバ神の右に座している天で、メシアの王国が誕生することを意味していました。」(「とこしえの目的」p.177)

 神の王国、キリストの王国は天の王国なので、キリストが天のエルサレムで王位に就くというのは別におかしなことではない。「異邦人の時」が終了すれば当然メシアの王国は天で誕生するはずである。問題なのは「異邦人の時」を天で終了させて、それで終わりにしてしまったことである。
 そもそも「異邦人の時」とは「地上」を異邦諸国民が自由に支配する期間のことであって、「天」を踏みにじる期間のことではない。地上の人間は天を支配することなどできないわけだから、これは当然のことである。天からすれば、地上における「異邦人の時」を認めるか認めないかということだけであって、文字通りの「異邦人の時」など天にはあり得ない。もし本当に「異邦人の時」が終わったのであれば、「地上」で神の王国の支配が始まるはずである。
 したがって、BC607年に「異邦人の時」が始まったというのはまだよいとしても、1914年に「異邦人の時」が終了したとするのは百パーセント成立しない教義だといえる。1914年には第一次世界大戦以外には何もなかった。異邦人は引き続き自由に地球を支配している。キリストが支配している現実の証拠は世界のどこにもない。
 こういう点を指摘すると、教理にあまり詳しくない人には、キリストの支配を霊的な支配にすり替えてごまかそうとするかもしれない。おそらく、全世界で王国の良いたよりが宣べ伝えられているとか、エホバの証人の数が世界中で増加していることなどを根拠としてあげるに違いない。
 しかし、そうした事柄は異邦人の時終了の根拠にはならない。霊的な支配であれば何も1914年を持ち出す必要はないからである。1914年よりはるか前、すでに西暦一世紀のペンテコステから、キリストの霊的な王国は支配を開始している。世界的な伝道や信者の増加はその時から生じていることである。加えて、伝道や信者数の増加は必ずしもキリストの「政治的な支配」の結果生じる特徴ではない。
 あらゆる意味で、1914年に「異邦人の時」は終了していないと断言できるのである。
 それでは、地上ではまだであっても、天においては「異邦人の時」が終わったというようなことがありうるだろうか。ものみの塔協会がどうこじつけようとも、そういうことは絶対にあり得ない。「異邦人の時」とは、あくまでも地上に関する期間である。天が終了したとみなしたのであれば、地上でキリストが支配を開始するはずである。キリストの支配がまだ地上で始まっていないということは、「異邦人の時」が1914年に終了したとするものみの塔協会の見解が間違っていることの絶対的な証拠にほかならない。
 そういう意味ではC・T・ラッセルの「異邦人の時」に対する考え方は正しかったといえる。もっとも1914年に終了するというのは間違ってはいたが。ラザフォードは1914年を残そうとして、「異邦人の時」の本来の意味を捨ててしまった。「天」はそのための苦肉の策に過ぎない。当時としては、組織存続のため仕方のないことであったとは思うが。
 1914年に「異邦人の時」は終了したーこの解釈の致命的な欠陥は、地上の期間であるべき「異邦人の時」を天に置き換えてしまったことである。

《1914年と終わりの日のしるし》

 おそらく「1914年ーキリスト臨在、終わりの日開始」説の最後の砦は、終わりの日のしるしが1914年以来成就しているという論議であろう。統計の取り方の問題はあるかもしれないが、大旨ものみの塔協会の指摘は間違ってはいない。確かに、世界大戦、疫病、地震、飢饉、天変地異、不法の増大、偽キリストや偽預言者の出現、世界的な伝道などのしるしはこの二十世紀に顕著に現れている。
 しかし、これらのしるしが現れてきているからといって、単純に終わりの日に入ったと結論することはできない。というのは、聖書的にこれらのしるしをどう位置付けるかという問題が残っているからである。ものみの塔協会のように「すでに終わりの日に入ったしるし」と考えるのか、それとも「終わりの日が近づいているしるし」と解釈するのかによって、しるしの意味はかなり異なってくる。
 マタイ24章、マルコ13章、ルカ21章に記されているキリストの預言と調和するのはどちらの方であろうか。全体の主旨を検討してみると明らかなように正しいのは後者の方である。
 キリストは繰り返し、「これらのしるしが現れても終わりはまだである、終わりはすぐには来ない、それはキリストが“すでに到来した”しるしではなく“近づいている”しるしである」と語っている。
 ものみの塔協会のようにしるしを見てすぐに騒ぐのは、キリストの主旨、キリストの警告に反している。落ち着いてキリストの再臨を待つようにと教え諭すのが、あるべき姿であろう。
 それともう一つ、黙示録6章の封印と関連の問題がある。もし、福音書の戦争のしるしが、黙示録6章の第一の封印と対応するものであるならば(その可能性はきわめて高い、ものみの塔協会もそういう見解である)、福音書のしるしは「まだ成就していない」と言えるのである。それらのしるしは、70年や80年のような長い期間ではなく、もっとコンパクトな短い期間の内に、集中的に成就すると考えられるのである。

《1914年と黙示録の封印》

 封印は第七まである。黙示録を読むとわかるように、七番目の封印がラッパにつながり、第七のラッパが七つの鉢を明らかにするという構成になっている。第七の封印には七つのラッパと七つの鉢のすべてが含まれている。この点が一つのポイントになる。
 さて、簡潔にまとめると、ものみの塔協会の封印の解釈は次のようになっている。

 イエス・キリストは1914年に天で王位についた。白馬の騎士に冠が与えられたのはそのことを示している。続いて、この封印の通りのことが生じた。第一次世界大戦、飢饉、スペイン風邪・・・・しるしの成就は現在も続いている。あとは大患難、ハルマゲドンの到来を待つのみである。
 ものみの塔協会は以上のように説明してるわけだが、この解釈には次のような難点がある。

 (2)と(4)については、今までコメントがなされたことはない。ものみの塔協会がまだ説明を試みたことのないポイントである。残りについては公式、非公式を含めると、だいたい次のようになる。

《テロスとシンテレイア》

 教義に詳しいエホバの証人はそれでも、テロスとシンテレイアを持ち出してくるかもしれない。ものみの塔協会は「終わり」を意味するギリシャ語シンテレイアとテロスの違いをあげて、この二つの語の相違を基に、終わりの日が一世代の長さを持つ期間であるとする論議を組んでいる。
 イエス・キリストが終わりの日のしるしについて語った有名な預言は、マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書の中に記されている。その中では確かにこの二つの語が用いられている。
 次にあげる聖句はマタイ24章からの引用である。

(新世界訳)

 3節の「終わり」は「シンテレイア」そのほかの「終わり」は「テロス」になっている。
 これらの語にはどのような相違があるのだろうか。ものみの塔誌1981年12/1号はその23ページで、シンテレイアとテロスについて次のように説明している。

   W・E・バインの『新約聖書用語解説辞典』には、シンテレイアの説明として「この語は終末を示すものではなく、物事が定められた頂点へと向かって行くことを示す」と述べられています。ですから「収穫は事物の体制の終結[シンテレイア]であ(る)」と語られたイエスは、始めと終わりがある一定の活動期間について述べでおられたのです。マタイ13章30節によると、イエスは「収穫の季節」に言及しておられますが、これは明らかに、預言者ダニエルが「終わりの時」と述べた期間、つまりある期間のことを指し示しています。(ダニエル12:4 新)おもしろいことに、ギリシャ語セプトゥアギンタ訳の翻訳者たちはダニエルのこの節を翻訳した際、シンテレイアという言葉を用いました。
  ・・・・テロスという語は、「終末中止、・・・最後の部分終止、特に最終的な事物の終結、宇宙的ドラマの最後の行動という意味における」「終わり」のことです。

 簡単にいえば、これは「シンテレイアは一定の長さの期間を有する終わりを表す。それに対して、テロスの方は最終的な終わり、究極的な終わりを意味している。したがって、最後にテロスを有するシンテレイア、つまり、テロスで終わる一定の長さの終わりの時、終わりの日が存在する」という論議である。
 ものみの塔協会はこのテロスとシンテレイアを用いて、「1914年にシンテレイアという一定の期間を持つ『終わりの日』が始まった。そして、大患難の最終部分、ハルマゲドンでテロスを迎える」と説明しているわけである。
 このシンテレイア、テロス説を補強する根拠としてあげられているのは、マタイ24章3節に出てくる「臨在、パルーシア」と同24章30節の「来る、エルコーメノン」の違いである。
 「臨在」と訳しているギリシャ語パルーシアについては、「神の千年王国は近づいた」の166ページで次のように説明している。

   パルーシアという語は、文字どおりには「そばにいる」という意味を持っています。それはギリシャ語の前置詞パラ(「そば」)とオウシア(「いる」)から来ているからです。リッデルとスコットの「希英辞典」は第二巻1,343ページ、2欄にパルーシアの第一の定義として「臨在」という語を掲げ、第二の定義として到着ということばを挙げ、次いで、「特に王室のもしくは公職にある名士の来訪」という説明をつけ加えています。これと一致して、「新約聖書神学辞典」(ゲルハルト・フリードリッヒ編)はその五巻で、「一般的な意味」として「臨在」という語を挙げています。(859ページ)次いで同辞典は、ヘレニズム時代のギリシャ語の『専門的語法』として、「1 支配者の来訪」という説明を載せています。」

 一方、マタイ24章30節の「来る」については、

  「その時、人の子のしるしが天に現れます。またその時、地のすべての部族は悲嘆のあまり身を打ちたたき、彼らは、人の子が力と大いなる栄光を伴い、天の雲に乗って来るのを見るでしょう」−マタイ24:30。
 これはキリストのパルーシア、つまり目に見えない臨在の始まりについてではなく、「世のはじめから今に至るまで起きたことがなく、いいえ、二度と起きないような大患難」にさいしキリストが「来る」(ギリシャ語、エルコーメノン)ことについて述べているのです。」(ものみの塔 1975 3/15 P.175)

と注解している。
 ものみの塔協会お得意の字義的解釈によると、1914年にキリストが来たのは「パルーシア、臨在」であり、その後大患難のときに裁きのために「来る」は「エルコーメノン」、この二つの「来る」の使い分けは、1914年に「シンテレイア、終わりの日」が始まり、ハルマゲドンで「テロス、終わり」を迎えるという説と見事に符合しているというわけである。
 さらにこの説は、成就するためにはある程度の期間を要する一連の終わりの日のしるしに関する預言によって補強される。確かに、戦争、疫病、飢饉、地震、天変地異、迫害、偽預言者、偽メシアの出現、良いたよりの世界的な伝道などの預言が成就するには、かなりの期間を要するに違いない。
 次のたとえ話も成就するには、それなりの期間がかかる。

  1. 小麦の収穫と雑草のふるい(マタイ13:36−43)
  2. 花婿を待つ十人の処女  (マタイ25:1−12)
  3. タラント        (マタイ25:14−30)
  4. 人々を羊と山羊に分ける (マタイ25:31−46)

 以上のような根拠に基づいたテロス、シンテレイア説から、ものみの塔協会は、1914年に終わりの日が始まったとするのは正しいと主張しているのであるが、はたして本当にそう言えるだろうか。
 たしかに、聖書は「終わり」に関してシンテレイアとテロスという二種類の言葉を使っている。シンテレイアについて、バインの「新約聖書用語解説辞典」には、ものみの塔協会の指摘している通りのことが述べられている。
 しかし、キッテル、バウアーなどの辞典では単に「完成、完了、終末、終結」と記されており、テロスとの間に厳密な違いがあるというようなことは述べられていない。
 パルーシア、エルコーメノンに至っては、意味の使い分けを支持している学者はほとんどいない。単なる同義語と考えるのが普通になっている。事実、ものみの塔協会が1914年のキリストの再臨に適用している(1982年3月1日号P.7,8参照)啓示1章7節の「来る」は、パルーシアでなくエルコーメノンである。
 またパルーシアにしてもエルコーメノンにしても、「来る」という言葉は一瞬の動作だけを表しているわけではない。「来る」には当然、その後その場所に「いる」という」ある程度の期間が言外に含まれている。パルーシアの「来る」にだけ特別長い「期間」という意味があるわけではない。
 字義的な研究にはそれなりの意義があるとは思うが、一つの字義そのものに教義上の決定権を有するほどの比重を置くのは間違いであろう。もしそのようにするなら、どんな珍奇な説でも成立してしまうかもしれない。
 シンテレイアやパルーシアには期間を表す意味もあるので、そのように取ろうとすればそうすることもできないわけではない。しかし、シンテレイアがある期間を表わすとしても、それが1914年から「終わりの日」が始まったということの直接の根拠にはならない。単に一定の期間があるということだけでは、1914年にシンテレイアが始まったという証拠にはならないのである。
 プロテスタント系の聖書学者たちも終わりの時として7年間に及ぶ「患難時代」という期間があることを述べている。シンテレイア、テロスから、「1914年=終わりの日開始」説に至るのは少々短絡的と言わざるを得ない。

(4) 1914年の歴史的位置付け

 キリストが本当に再臨したのであれば、その年は人類史上最も重要な年になる。もし1914年がそうであるとすれば、1914年は歴史上極めて意義のある年になる。しかし、この逆は成立しない。
 キリスト再臨の年か否かを決定するのは、再臨そのものの証拠であって、歴史的な重要性ではない。預言された出来事が生じていないのであれば、歴史的にいくら重要な年であったとしても、それだけではキリスト再臨の証拠にはならないのである。

《1914年は特異な年か》

 ものみの塔協会は極力、1914年をそのように印象付けようとしている。何とかして1914年を他とは異なる「特別な年、特異な年」にしたいわけである。著名な人が1914年を特別視しているような記事は、すべて利用されることになる。例えば、以下のようなものである。

  「一つの時代から別の時代への変わり目となった年があるとすれば、それは1914年であった。それは、安心感のあった古い世界を終わらせ、我々が今日日ごとに抱く不安を特色とする現代の始まりとなった年である。」(ニューヨーク・タイムズ紙、1959年6月28日、ジェームズ・カメロン著「1914」に関する、A.L.ロウスによる書評 「真の平和と安全どのように見いだせるか」P.73より)

  「1914年6月28日にサラエボで起きた銃撃事件は、安全と創造的理性とを備えた世界を打ち砕いた。・・・以来世界は決して元の状態に戻ってはいない。・・・それは転換点であり、魅力と静穏と美しさのあった昨日の世界は消えて、二度と戻ってはこない。」(ランドルフ・チャーチル著「ウインストン・S・チャーチル伝」第2巻の書評。エイジ誌(オーストラリア、メルボルン)、1967年12月9日、23頁 「真の平和と安全どのように見い出せるか」P.73より)

  「一九一四年以前、地上には真の平和と静けさと安全とがあったーそれは恐怖を知らない時代であった。・・・安全と静けさは一九一四年以来、人々の生活から失われた。平和?一九一四年以来、ドイツ国民は真の平和を知らない。このことは人類の多くについても同じである。」(1966年1月20日付け、クリーブランドの「ウエスト・パーカー」紙、1ページに掲載された、元の西ドイツの首相コンラート・アデナウアーの言葉 「とこしえの命に導く真理」p.91,92より)

  「1914年の夏には国々に平和があり、将来も安らかなものに思われた。その時である、突如砲声がとどろき渡り、事態は一変してもはや元に戻らなかった・・・1914年は人間の歴史の上できわめて決定的な年の一つであった。・・・その年は、千年に1度か2度しか訪れないほどの意味深い転換点を迎えたのである。」(歴史雑誌「アメリカン・ヘリテイジ」 「あなたの王国が来ますように」p.120より)

 まだ他にもたくさんあるが、ものみの塔協会はこの種の資料をもとにして、1914年の印象度を高めようと努力している。1914年は一般の歴史家も認める歴史的な転換点の年、他の年とは全く異なる極めて特異な年、だからキリスト臨在にふさわしい年なのだと。

 かりに1914年が最も重要な年であるとしても、それが直接キリスト再臨の証拠になるわけではない。歴史的重要度は預言の成就とは関係ないのであるが、「1914年=キリスト臨在説」に対する成員の確信を強めるのには貢献している。

《1914年だけが特別な年ではない》

 確かに、純粋に歴史的な観点から眺めたとしても、1914年が非常に意義深い重要な年であることは間違いないと思う。しかし、すべての歴史家がこの年だけを特別な年と考えているわけではない。
 次に紹介するのはそうした例の幾つかである。

  「世界史的規模において『現代』の範囲を画定しようとする試みは混乱した状況を呈している。試みに世界史に関する概説書の類を一見しただけでも、或いは20世紀初頭をもって、或いは1917年をもって、或いは1945年をもって現代の開始点とする等々の記述方法をとっている。それらの見解はそれぞれ有力な根拠を持っているが、そのどれも排他的に絶対的規準となりうるものではない。・・・現代の起点を現代世界を構成する諸特質の発生に求めるとしても、現代世界の特質そのものがすでに複雑多様であり、そのどれを重視するかによって現代史の起点もまた異なってくるのである。」(岩波講座「世界歴史 24」p.6)

  「長期的にみた場合の現代世界の歴史的起点がどこにあるのか。それは、十五世紀後半から十六世紀初めのヨーロッパの動きの中に求めるのが適当だと思われる。・・・あの『大航海時代』の開幕期がそれである。」(「世界現代史」柴田三千雄著p.5)

  「第一次世界大戦は、1914年7月28日オーストリアのセルビアに対する宣戦布告に始まり、18年11月11日ドイツの降伏によって終るものであるが、この戦争の背景は1900年ころの〈帝国主義〉開幕の時期から考えるべきであろう。19世紀を終るにあたって、世界の各地域はアフリカや太平洋上の島々にいたるまでおおむね世界強国に占拠され、いわゆる〈世界分割〉は完了していた。強国にとっては、相互に戦って勢力範囲を再分割する道のみが残され、ここに帝国主義の時代が始まり、当然に近代強国相互の間の新しい戦争の時代が予見される。」(平凡社、世界大百科事典17p.316)

戦争が起きるにはそれなりの背景がある。何の原因もなく戦争が生じるということはない。そう見えるとすれば、それは背景を知らないせいであろう。サラエボの一発の銃声が第一次世界大戦に発展するには、それなりに十分な下地があったと考えるべきである。
 人類が初めて地球そのものを滅ぼすだけの武器を獲得した時代はかつてない。そういう意味では、1914年よりも1945年の方がはるかに重要な年である。その年以来、人類は核宇宙時代を迎えることになったからである。しかし、1945年の出来事は1914年に始まった第一次世界大戦に起因していると考えるならば、1914年の方がもっと重要な年ということになろう。
 こういうことをやっていくと、だんだん取り留めがなくなる。歴史は閉じられているのではなく、連続しているからである。1914年の出来事の原因を帝国主義と世界分割に求めるとすれば、今度はそれがいつから始まったのかということになってゆく。そういう意味で言えば1914年よりも、産業革命の開始時期の方が歴史的にはもっと重大だということになるかもしれない。

(5) 一つの世代と1914年

 最近はどうか分からないが、一頃は大いに強調したものである。「キリストは1914年から臨在しているます。終わりの日は1914年から始まったのです。ハルマゲドンは1914年の世代の人々が生きているうちにやって来ます。終わりは近いのです。」一時期は、おおよその終わりの日の長さを指定することも行っていた。

《終わりの日は一世代の長さ》

 この根拠になっているのは次の聖句である。

  「あなた方に真実に言いますが、これらのすべての事が起こるまで、この世代は決して過ぎ去りません」(マタイ24:34 新世界訳)

 この「世代」の部分が「単数形」になっていることに注目すべきである。複数形ではないので、世代は「一つの世代」であることがわかる。したがって、しるしを目撃し始めた世代の人々が生きているうちに大患難は生じる。
 世代の長さの目安を指定するときは、さらに次の聖句を用いた。

  「私たちの齢は七十年、健やかであっても八十年」(詩編90:10)

 一世代の長さは70年〜80年、1914年の出来事を目撃するには少なくとも5歳にはなっていなければならない。そうすると1914年から数えてだいたい65〜75年後にはハルマゲドンが起きることになる。それは1979〜1989年の間と考えられる。
 1975年がはずれたころは、よくこういうことを語っていたものである。だから、やはり終わりは近いのだと。

《世代の意味の変更》

 ところが、1980年が近づいてもハルマゲドンが生じる気配は全くなかった。だんだん時間は残り少なくなっていった。世代の問題を何とかしないと、時間切れになる心配が生じてきたのである。
 その点を扱った最初の記事は、1979年1月1日号のものみの塔誌に登場した。

   そういうわけで、わたしたちの時代の適用を考える場合、論理的にいってその「世代」が第一次世界大戦中に生れた子どもたちにあてはまるとは言えません。それは、イエスの挙げられた複合の“しるし”の成就として生じた戦争や他の出来事を観察できた、キリストの追随者及び他の人々に適用されます。そのような人々の中のある人たちは、現在の邪悪な体制の終わりを含め、キリストの預言された事柄すべてが起こるまでは「決して過ぎ去らない」でしょう。
   イエスはこの「世代」の正確な長さを計算することを追随者に勧めたりされませんでした。(詩90:10)長く見積もって終わりまでにあと何年あるかと数えるのではなく、クリスチャンはイエスの次の警告の言葉を思い起こすべきです。「ずっと見張っていなさい・・・あなたがたの思わぬ時刻に人の子は来るからです」−マタイ24:42−44。(p.32) (下線はものみの塔協会)

 世代の長さの計算をすべきではないとはっきり述べている。かつて伝道で、そう宣べ伝えるよう教えた人はいったい誰だったのかと言いたくなるような記事であるが、それは忘れることにしたのかもしれない。よく言われる“180度の転換”“右へ行ったり左へ行ったり”の一例である。もっともこれは、組織の宣伝ではタッキング(帆を操ってジグザグに風上に向かって進む技術)ということになってはいるのであるが。
 2年後のものみの塔誌、1981年1月15日号ではもう一歩進んで、

   では「これらのすべての事が起こるまで、決して過ぎ去ることのない」、この「世代」とは何ですか。これを30年、40年、70年、あるいは120年など一期間を指すものと解釈しようとしてきた人もいますが、それは期間ではなく、人々、つまりこの罪に定められた世の体制に対する「苦しみの激痛のはじまり」の際に生きてきた人々を指しています。それは1914年以降、第一次世界大戦と関連して生じた大惨事を目撃した人々の世代です。(p.31)

と述べている。
 何と世代の長さを計算しようとしたのは、自分たちではなく“ある人”だということにしてしまった。
 これを光の増し加わった斬新な見解というふうに宣伝すれば、世代の問題はもはや完全に組織の責任ではないということになってしまう。以降、世代の問題で騒ぐ人が出てきたとしても、それは調整できなかった不信仰な人として片付けてしまうことができるのである。
 このように世代の意味合いを変えて、ものみの塔協会は1914年の教理の存続を図って来たわけであるが、それでも十分の時間が残されているというわけではない。徐々に1914年の世代の人々は少なくなってきている。1914年の出来事を知っている人が、ものみの塔協会の中からいなくなる前に、何とかしなければならないことに変わりはない。1914年説に残された時間はしだいに尽きようとしている。
 ただ、世代の意味を操作してごまかす手は一つ残っている。世代を「人々」ではなく、「その時代の特徴」を表す言葉にしてしまえば良いのである。そうしておいて、世代の特徴で長持ちするのを選べば、まだかなりの寿命を伸ばすことはできるかもしれない。あと二、三年もすれば、前述のものみの塔誌を知っている人は稀になるだろうから、この方法は一時的には有効ではないかと思われる。
 しかし、たぶん成員の多くはそれでは心情的に納得できないだろうから、やはり長い期間は無理であろう。せいぜい今世紀末くらいまでであろうか。1914年を捨てるか、それとも根本的に改正するか、いずれにしても、何とかしなければならない時は迫っているといえる。
 すでに統治体にとって、1914年の教理は重荷になって来ているとの指摘があるが、それももっともなことであろう。