5章 聖書の翻訳と教義

教義とは、ある特定の宗派や教団によって真理として公認された教えのことで あり、教理またはドグマともいう。通常のキリスト教(主としてプロテスタン ト諸教会)の場合は原則として、教義を作るときには聖書以外のものは用いな いということになっている。(モルモン経を有するモルモン教会や統一原理を 教える統一教会は例外である。)

約1900年前、「救い主はイエス・キリストです。悔い改めてバプテスマを受け なさい」という非常にシンプルな音信から始まったキリスト教は、その後、 次々と教理を増し加え、今日では膨大な教義体系を有するようになった。その 中には聖書外典やまったく別の経典から作られたものもあるので、そのすべて に聖書的根拠があると唱えられているわけではない。しかし、ほとんどの教義 には、それなりの聖書的な根拠があると主張されている。

聖書的根拠があると主張されている教義を聖書翻訳との関連から分類してみる と、大体次のように大別することができる。

  1. どの翻訳の聖書を使っても論証可能な教理
  2. 特定の聖書でないと証明することの難しい教理

どの聖書を使っても良いということは、言い換えれば、翻訳にそれほど違いが ないということであるが、また好きなように解釈できるということでもある。 したがって、これは純粋に解釈の仕方の問題になる。聖句に対する視点を変え ると、それなりの論理を組むことができるもので、復活、神の王国、三位一 体、終わりの日、キリストの再臨など主要教理と言われるもののほとんどはこ の項目に入る。

例えば、次のような聖句があったとする。

「わたしと父とは一つです」(ヨハネ10:30)

これは、「一つである」というところに注目すると、キリストと父とは一つな のだから三位一体を教える聖句だということになるし、「わたしと父」に注目 すれば、二人しか出てこないのだから二位であって三位ではないという具合に なる。

もう一つ「魂」に関する聖句を。

「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐 れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅 ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイ10:28新改訳)

この聖句からは、まったく相反する二つの異なった結論を導き出すことができ る。「キリストは、人は体を殺しても魂を殺すことはできないと述べている、 ゆえに、人間は人が殺すことのできない魂を持つという意味で、不滅の魂を有 する」というのが一つ。そしてもう一つは、「神は魂も体も共に滅ぼすことが できると言っているのだから、そもそも不滅の魂などというものはありうるは ずがない」である。要するに解釈の視点の問題であるが、その視点は解釈する 本人が正当化したいと考えている教義によって決定されることになる。

さて、次は特定の聖書でないとダメな教理であるが、それはなぜかと言えば、 ある特定の用語がその教義を論証するカギになるからである。もし別の聖書を 使えば、先に教理を設定しなければならなくなる。

「神の名はエホバである」という教えは、エホバを使っている聖書であれば、 「ここにこのように出ています」と簡単にその根拠を示すことができる。しか し、エホバを使わず、すべて「主」や「神」になっていたり、別の呼び方ヤー ウェやヤーヴェを用いていれば、先に神の名はエホバであるという教理を確立 しなければならなくなる。

「キリストは十字架ではなく一本の杭の上で死んだ」とか「聖書に地獄の教え はない」というような教理もこの項目に入る。

以上二つの分類について考えてきたが、これはもちろん、ものみの塔協会以外 の教理にもそのまま当てはまる。ものみの塔協会の教理だけが例外で、絶対的 な聖書的根拠を有するなどということはない。すべての教義は、解釈の視点に 依存しているか、新世界訳に依存しているかのどちらかである。

新世界訳は字義訳なので、ものみの塔協会の教理には、字義訳ならではの教 理、字義訳主義でなければ作れないような教理がある。その背景を検討してみ ると、いかにも字義訳主義らしい教理の作り方が浮かび上がってくる。

以下そうした事例を幾つか取り上げ、最後に聖書翻訳の根底に潜む問題を考慮 したいと思う。新世界訳の場合、教義との関連は字義訳の問題に集約して考え ることができるし、さらに聖書の翻訳と教義の関係は極めて本質的な問題をは らんでいるからである。

(1)エノクとパウロの不思議な関係

創世記5章24節はエノクの最後について次のように記している。

「こうしてエノクは〔まことの〕神と共に歩み続け、その のちいなくなった。神が彼を取られたからである」

ヘブライ人の手紙はこの出来事について、

「信仰によって、エノクは死を見ないように移され、神が 彼を移されたので、彼はどこにも見いだされなくなりました。彼は、移される 前に、神を十分に喜ばせたと証されたのです。」(11:5)

と説明している。

また、コリント人への第二の手紙12章には使徒パウロの特異な体験が記されて いる。

「2 わたしはキリストと結ばれたひとりの人を知っています。その人は十四 年前に−それが体においてであったかどうかわたしは知りません。体を出てで あったかどうかも知りません。神が知っておられます−そのような者として第 三の天に連れ去られました。
4 その人はパラダイスに連れ去られ、人が話すことを許されず、口に出すこ とのできない言葉を聞いたのです」

このエノクとパウロの経験したことについて1987年1月15日号は次のようなコ メントを載せている。

「『信仰によって、エノクは死を見ないように移され( た)』のです。同様に、パウロもクリスチャン会衆の将来の霊的パラダイスの 幻を与えられたためと思われますが、移されました。つまり『パラダイスに連 れ去られ』ました。(コリント第二12:14)そうすると、エホバが敵の手が届 かないようにエノクを死の眠りにつかせたとき、エノクも、来るべき地上のパ ラダイスの幻を見ていたのかもしれません。」(p.12、8節)

パウロはパラダイスを見た。同じように、エノクもパラダイスを見ていたに違 いない。このように述べる根拠はたった一つしかない。「移された、連れ去ら れた」という動詞一語である。エノクは「移された(transferred)」同様に使 徒パウロも「移された(transferred)あるいは、連れ去られた(caught away)」 ので、パウロ同様エノクもパラダイスを見ていたに違いないという論議の組み 立て方である。

70人訳が創世記5:24で用いているギリシャ語動詞はヘブライ11:5に対応してい るが、ギリシャ語本文の方は、コリント第二12:2,4とヘブライ11:5で全く同 じ動詞を使っているわけではない。同意語、同義語が用いられているにすぎな い。

実際のところ日本語で考えてみても、「連れ去られた、移された、運ばれてい った、取り去られた」といったところで、多少のニュアンスの違いこそあれ、 意味はそんなに大きく変わるわけではない。だいたい同じような内容を指して いる。しかし、たとえそうではあっても、「同じような動詞が使われているか ら同じようなことを経験していたに違いない」と考えるかというと、まず普通 はそう単純には考えないと思う。字義訳に対する信仰のようなものがなけれ ば、これは無理な論理であろう。

動詞一語で論理を組み立てる、いかにも字義訳らしい、字義訳主義的だと感じ させられる。ここまでくると、もうほとんど字義病ではないかと思う。

(2)ミカエルは二度立ち上がる

聖書の中で名前の上げられている天使は二人だけである。一人はマリアにイエ スの受胎を告げに来たガブリエル、そしてもう一人は天使長ミカエルである。 このミカエルが誰であるかについては意見が分かれている。

聖書外典のトビト書12章15節には、

「わたしは、主の栄光のみ前にはべり、奉仕する、7人の 天使のひとり、ラファエルです」

と記されている。それで、ミカエルとはこのラファエルやガブリエル同様、神 の前で特別な奉仕をする7天使の一人ではないかというわけである。バビロン 補囚後のユダヤ人が天使論を展開したときにはこのように考えたという。

モルモン教会は、ミカエルとは後代の啓示によって霊界に戻ったアダムである ことが明らかになったと述べているが、ものみの塔協会は、ミカエルとロゴ ス、イエス・キリストは同一人物であると説明している。

神の救いを待ち望む人々にとって、ミカエルは非常に重要な存在である。世界 の裁きとなる大艱難のとき、神の民を救うのはほかならぬミカエルであるとダ ニエル書12章1節は預言しているからである。

「そして、その時に、あなたの民の子らのために立つ大い なる君ミカエルが立ち上がる。そして、国民が生じて以来その時まで臨んだこ とのない苦難の時が必ず臨む。しかしその時、あなたの民、すなわち書に記さ れているものはみな逃れ出る」

読むと明らかなように、ミカエルが立ち上がるのと苦難の時が臨むのは同じ時 になる。苦難の時とはマタイ24章21節の「大艱難」に相当すると考えられてい るので、ミカエルが立ち上がる時は同時に大艱難の時でもある。そこで問題は これが「いつ」になるかということであるが、「御心が地になるように」とい う本はその点について、

「『その時ミカエルが立ち上がります』。この意味は何で すか。ミカエルが天で王になる、という意味です。ダニエル書11章の中では、 『立ち上がる』という言葉は、しばしば力を取り、王として支配し始めること を意味しています。『ペルシャになお三人の王が立ち上がるでしょう…力のあ るひとりの王が立ち上がって支配するでしょう。…しかし彼女の根の芽のひと つは、彼の代わりに立ち上がるでしょう…彼に代わって立ち上がる者は、租税 を取り立てるものを栄光の国につかわすでしょう…彼の代わりに卑しむべき者 が立ち上がるでしょう。彼には国の尊厳が与えられなかった」。(ダニエル 11:2,3,7,20,21また8:22,23ユダヤ人出版教会(ママ)訳)ミカエルは、 北の王の最終的な年月中、つまり『その時に』天で王として支配し始めます。 その時は西暦1914年であると、神は指定しました。」(p.309、310)

と述べている。

ミカエルが立ち上がったのは1914年であると説明しているわけだが、そうする と、大艱難が始まったのも1914年ということになってしまう。現在だとこれは 完全に矛盾することになるが、この「御心」の本が出された当時はまったく問 題がなかった。というのは、この頃は1914年からすでに大艱難は始まっている と考えていたからである。

ところがやがて大艱難に関する教義が変更されることになる。1914年に始まっ たのは一世代の長さを持つ「終わりの日」であって大艱難ではない。大艱難と は終わりの日の最終部分を指す。それは大いなるバビロン(偽りの宗教−もの みの塔協会によれば自分たち以外は皆偽りの宗教)の滅びによって始まり、ハ ルマゲドンの戦いで終わるごく限られた期間の出来事をいう。大艱難が全世界 を襲うのはまだ将来のことである。

このように大艱難に関する教義を変えてしまうと、困った問題が一つ生じてく る。ミカエルはすでに何十年も前に立ち上がったのに、大艱難は一向に始まら ないということである。ミカエルが立ち上がったとされる1914年からもう70年 以上が過ぎ去ってしまった。

この「時」のズレをどうするかという問題に、ものみの塔協会が初めて答えた のは1986年の地域大会であった。北海道で開かれた大会のテープを聞いてみる と、「封印を解かれた神聖な奥義は、平和の確かな希望を与える」というプロ グラムの中で、「ミカエルが立ち上がったのは『1914年』ではありません」と 講演者は確かにはっきり宣言しているようなのだが…

教理が調整されるこうしたプログラムは、必ずものみの塔誌に載せられるのが 慣例になっている。なかなか出てこないな、どうしたんだろうと思っている と、ついに、1987年7月1日号に登場した。遅れたわけが分かった。「御心」の 本と大会の宣言の調整を図っていたのである。

今まで述べてきた見解を変えるのは、やはりまずいと考え直したようである。 7/1号はものみの塔協会の苦労が忍ばれるような記事である。「ミカエルが 立ち上がったのは1914年です」という見解と、「ミカエルが立ち上がったのは 1914年ではありません」という宣言の両方の顔を立てようというのである。

それにしてもこういう調整の仕方は本当にものみの塔協会らしいと思う。調整 したなどとは一言も述べてない。いかにも新しい啓示がありましたとうような スタイルを取っている。しかも多くの人の記憶が薄れてくるような時期にさり げなく変えているのである。

以下は少々長いが7月1日号からの引用である。

…み使いは『立つ』という語を二度用い、「そして、その 時に、あなたの民の子らのために立つ大いなる君ミカエルが立ち上がる」と述 べています。(ダニエル12:1)イエスが「立ち上がる」という言葉にはどのよ うな意味があるのでしょうか。また、イエスがすでに「〔ダニエルの〕民の子 らのために立(って)」いるとすれば、どのようにして「立ち上がる」ことが できるのでしょうか。
…その時は、「定めの時」である1914年に到来しました(ダニエル11:29) イエスはその年に、神の王国の統治する王として即位され、み使いの頭ミカエ ルとして、直ちにサタンを天から投げ落としました。(啓示11:15;12:5-9)そ のようなわけで、イエスは1914年以来、王として『立って』おられます。 …では、すでに『立って』いるイエスがその時に「立ち上がる」とはどのよ うな意味ですか(ダニエル12:1)それは、イエスの支配権が言わば新しい局面 を迎えるということです。その時イエスは、『ダニエルの民』が人間の政府の 手によって絶滅させられないよう、際立った方法で彼らを救うための行動を起 こされます。(エゼキエル38:18,19)ここで言及されている「時」とは、北 の王が神の民の霊的地所を脅かす、北の王と南の王の「終わりの時」のことで しょう。(ダニエル11:40-45)その時まで、イエスの支配権を真剣に受け止め てきたのは地上の忠実な臣民だけです。(詩編2:2、3)しかし、今度は「主イ エスが…表し示される」時となり、すべての人がイエスの王権を認めざるを得 なくなるでしょう。(テサロニケ第二1:7、8)その時には、反対する勢力全体 が滅ぼされ、その後にイエスとその共同支配者による千年統治が続きます。千 年統治の期間中は、王国が人類を治める唯一の政府となります。(p.18、 19)

ダニエル12章1節には「立つ」という語が二回使われているので、ミカエルは 二度立ち上がる。一回目は1914年、二回目は大艱難のとき。しかも、北の王と 南の王の最後の抗争、及び北の王の滅びの時を受けている「その時に」という 言葉は1914年の「立つ」ではなく、大艱難の時の「立つ」にのみかかると考え るわけである。このように教義を組み立てると、今までの矛盾はすべてなくな る。

しかしながら、これもいかにも字義訳新世界訳らしい教義の立て方ではある。

まず問題となるのは、この聖句の二か所で使われている「立つ」という語が、 どうしても両方とも「立つ」でなければならないのかという点である。新世界 訳と同じように訳している聖書もあるが、他の幾つかの翻訳では

「その時、あなたの国の人々を守る大いなる君、ミカエル が立ち上がる」(新改訳)
「そのとき、ミカエルが、立ち上がる。彼は、主の民の子らを守る偉大な君主である」(バルバロ訳)
「At that time Michael, the great prince who protects your people, will arise」(NIV)

となっており「立つ」は一か所、あとは「守る」である。

ここで「立つ」と訳されている原語のヘブライ語「アーマド」には、「立つ」 だけでなく「守る」「奉仕する」「踏み止まって防戦する」などの意味がある ので、どう訳すかは所詮解釈の問題になる。

さらに、「立つ」が二回あったとしても、果たして両方とも「厳密に預言的な 意味を有する」と考えねばならないのかという疑問が生じてくる。

新世界訳が「民の子らのために立つ」と訳しているところは、「民の子らの上 に立つ」と訳すこともできる。そういうふうに解釈すると、ミカエルはみ使い がこの預言をダニエルに伝えたその時点で、すでに「ダニエルの民の上には立 っていた」と考えることができる。つまり、初めの方の「立つ」は預言的な意 味を持っているとはみなさないということである。

また、前置詞は「上に」でも「ために」でもどちらでもよいが、「立つ」の時 制を未来形に限定しなければ、必ずしも1914年までミカエルに待ってもらう必 要もなくなる。「民の上に立つ」を「監督する、治める」…何のために…「民 を守るために」と考えれば、先に引用したような訳になる。

この解釈にはかなりの有力な根拠がある。ダニエルに神の言葉を悟らせるため にやってきた亜麻布を着た人は、彼に次のように語っている。

「しかし、ペルシャの王土の君が二十一日間わたしに逆ら って立ちつづけた。すると、見よ、主だった君のひとりミカエルがわたしを助 けに来た。それでわたしはそこにいて、ペルシャの王たちの傍らにとどまっ た。
しかしわたしは、真実の書の中に書きとめられた事柄をあなたに告げる。これ らの事に関してわたしを強く支えてくれる者は、あなた方の君ミカエルのほか にいない」(ダニエル10:13、21)

このみ使いの説明から、ミカエルはダニエルの民の上に立つ君であり、またイ スラエルの民の救いのためにはすでに立っていたことが分かる。当然のことな がら、立たなければ助けに出て行くことはできないからである。

では、一体いつからミカエルは「立って」いたのであろうか。この預言が語ら れるはるか以前からである。君として、さらに民の救いのためであれば、少な くともモーセの時代にはすでに立っていたことになる。ユダは次のように記し ているからである。

「しかし、み使いの頭ミカエルは、悪魔と意見を異にし、 モーセの体について論じ合った時、彼に対しあえてあしざまな言い方で裁きを もたらそうとはせず、ただ、『エホバがあなたを叱責されるように』と言いま した」(ユダ9)

約束の地を目前にして、モーセがネボ山で死んだときのことである。悪魔と対 峙して神の民のために戦うミカエルの姿が浮かび上がってくる。

したがって、ものみの塔協会の「ミカエルは立って立ち上がる、すなわち、二 度立ち上がる、一回目は1914年、二回目は大艱難」というこの教義は、二ヶ所 の動詞を両方とも「立つ」と訳し、どちらも将来に適用されるという条件付き でなければ成り立たないものである。

(3)バプテスマと公の宣言

エホバの証人の大会で、恒例の行事になっているものに集団バプテスマがあ る。

バプテスマを希望している人はまずステージ中央の最前列に設けられた特別の 席に座り、バプテスマの話に耳を傾ける。話の終り近くになると、講演者は希 望者全員に起立することを促し、次のような二つの質問に大きな声で「ハイ」 と返事することを求める。

  1. あなたは、イエス・キリストの犠牲に基づいて自分の 罪を悔い改め、エホバのご意志を行なうため、エホバに献身しましたか。
  2. あなたは、献身してバプテスマを受けることにより、自分が、神の霊に導 かれている組織と交わるエホバの証人の一人になることを理解していますか。

講演者の求めに応じて、「はい」と答えた人は出席者の拍手や賛美の歌に送ら れ、バプテスマ会場へと向かうことになる。

このような公の宣言を行なうという儀式は一体何を根拠に取り決められたので あろうか。よりどころとされている聖句はローマ人の手紙10章10節であるが、 この教理にも一つの字義にこだわるという字義訳的な考え方が色濃く反映され ている。新世界訳の訳文は次のようになっている。

「人は、義のために心で信仰を働かせ、救いのために口で 公の宣言をするからです。」

キーワードは「公の宣言」という言葉であるが、この語からどのようにバプテ スマの誓いの儀式が出てくるかについて1973年2月15日号は、

人が「口で救いのために公の宣言をする」のはいつでしょ うか。それは、献身した信者が『父と子と聖霊との名によって』バプテスマを 受ける前であり、またそうでなければなりません。(マタイ28:19、20;使徒 16:31-33;17:33;19:1-7)王国行間逐語訳や他の聖書翻訳が示しているよう に、ここで言う公の宣言とは、ある意味での告白です。(改訂標準訳;モファ ット訳;エルサレム;アメリカ標準訳)バイイングトンの翻訳とアメリカ訳は これを「承認」と訳しています。この告白もしくは承認とは、今や献身した信 者としてのわたしたちが、水のバプテスマをつかさどるクリスチャン奉仕者に 対して、またはその前で口頭で行なう事柄なのです。(P.120)

と述べている。

しかし結論から先に言えば、これはあくまでも、ものみの塔協会なりの解釈 であって、聖書そのものから必然的に導き出されてくるという教理ではない。 この儀式の取り決めが聖書的に成り立つためには少なくとも次の二つの仮定が 必要になってくる。

  1. 宣言はバプテスマ前の特別の儀式に特に適用されるものである。
  2. 宣言はバプテスマの司会をする「人」に対してなされるものである。

この仮定は任意でしか成り立たない。というのは、「公の宣言」と訳されて いるギリシャ語「ホモロゲイタイ」には公の宣言の他にも多くの意味があるか らである。

「承諾する」という訳でも良いことは、ものみの塔誌でも述べられている が、さらにこの語には「告白する、約束する、同意する、賛美する」などの意 味があり、「人に対してなされる公の宣言」というのはごく限られた意味にす ぎない。

救いをもたらすのは人間ではなく、神とイエス・キリストである。ローマ人 の手紙はそのことを再三にわたって強調している。したがって、その観点から 宣言の意義を考えると、真に価値があるのは神に対してなされる心の宣言であ って、決して人や組織に対してなされるものではないということになる。儀式 的な宣言より実際の生活を通しての宣言の方がはるかに重要であると言える。

ものみの塔教会が行なっているバプテスマの司会「者」や組織に対してなさ れる宣言に、いったいどのような真の意義があるのか、また神の目から見て本 当にそのような儀式が必要かは大いに疑問である。霊的な意義から言えば全く 不用の取り決めであろう。

(4)統治体(The Governing Body)―聖書的根拠はあるか

統治体とはエホバの証人の最高指導機関の名称である。定員は18名になって いるが、現在は13名で構成されている。全世界のエホバの証人の頂点に立ち、 いわゆる権力のトロイカ、つまり、決定権、人事権、予算権を一手に握ってい るのはこの統治体である。

本来、キリスト教の精神とは相反する言葉を持ち出してきて、その組織にと って根幹となるような教理を組み立てるというのは、なかなか大変なことであ る。そういう教理を維持しようとすれば当然のことながら、かなり無理をしな ければならなくなるし、組織には時と共に歪みが生じてゆく。現在の統治体に かかわる様々な問題は、統治体という教理自体が抱える矛盾の必然的な結果で あろう。

さて、統治体に関してしばしば問題になるのは、まず、ものみの塔教会も認 めているように、聖書の中にこの統治体なる言葉が出てこないということであ る。さらに、統治体という名称がキリスト教にとって果たして適切かどうかと いう点もある。「教えと行動の基準はすべて聖書に基づいて定める」と銘打っ ているものみの塔協会にとって、もし聖書的根拠がないなどということにでも なれば大変な問題であろうと思うが、本人たちがそのように考えることはない だろうからこれは余計なことかもしれない。

以下、この教理がどのように組み立てられているか、また、なぜ統治体の教 理に聖書的な根拠はないといえるかを論じることにする。

ものみの塔協会刊行の聖書には、新世界訳の他に新約の部分だけを逐語訳し た「王国行間逐語訳聖書」というのがある。統治体(The Governing Body)そ のものズバリではないが、統治(govern)という語はその逐語訳の中に出てく る。この「統治」という語から「統治体」という名称が取られている。

17

Πειθεσθε τοισ ηγουμενοισ
(Be you obeying) (to the (ones)) (governing)
υμων και υπεικ ετε, αυτοι
(of you) (and) (be you yielding under) (very (ones))

その語が出てくるヘブライ13章17節を下に引用する。

「あなた方の間で指導の任に当たっている人たちに従い、 また従順でありなさい」
「Be obedient to those who are taking the lead among you and be submissive,」

日本語版で「指導の任に当たっている」英語版で「are taking the lead」 に相当するところが、行間逐語訳では「governing」になっている。聖書に出 てこないという問題は、このように「王国行間逐語訳」に登場させることによ って解決したのである。

ここで用いられているギリシャ語は「ヘゴウメノーン」であるが、その訳語 を「govern」にしたところが味噌である。逐語訳で「govern」を選んだという ことは「ヘゴウメノーン」のより字義に忠実な翻訳が、「統治する」であると 主張していることを意味する。つまり、「統治体」という名称はより聖書本来 の字義にかなった名称だというわけである。

さらに、ものみの塔誌1973年2月15日号P.126,127には、簡単に要約すると、 以下のような点が統治体の教理の根拠としてあげられている。

  1. 初期クリスチャン会衆内には指導の任に当たる、つまり,統治する人々が いた。
  2. 「govern」の語源になったラテン語「グベルナーレ」ギリシャ語「クベル ナオ」には「船の舵を取る、水先案内をする、導く」の意味があるので、 governを用いるのはふさわしい。
  3. 「70人訳」は「操舵、指導」を意味するヘブライ語「タハブラー」を訳す ときにクベルナオを用いている。

要するに、「初期キリスト教には諸会衆を統治する人々がいた、だから、統 治体という名称およびその取り決めは聖書的なものである」というのがこの論 理の骨子である。

本当にこの主張通りかどうか、この論理が正しいかどうかを確かめるには、 次の質問を考慮すればはっきりする。

  1. 初期クリスチャン会衆を統治する人々はいたのか。
  2. 統治体という名称はキリストの精神と調和するか。

この質問の答えのカギとなるのも、やはり「統治」という言葉の意味であ る。「統治」の意味しだいでは「いた、調和する」とも言えるし、あるいは 「いなかった、調和しない」ということにもなる。

まず、日本語の統治を調べてみると、

「スベヲサムルコト」(大言海)
「主権者が国土・人民を支配すること」(学研国語大辞典)

となっている。「統治」という言葉には「水先案内をする、導く」といった意 味はない。

では、英語の「govern」はどうだろうか。

「rule or control with authority, conduct policy and affairs of, be in charge or command of, etc.」
(THE POCKET OXFORD DICTIONARY)

  1. 治める、支配する、統治する
  2. (人、行動を)支配する、左右する
  3. (原則、政策などを)決定する、律する
  4. 政治を行なう、執務を取る
  5. その他

(研究社英和大辞典第五版)

日本語の統治と同じように、英語の「govern」にも「水先案内をする、導 く」という意味はない。「水先案内をする、導く」という意味をもっていたの は、語源の「グベルナーレ」や「クベルナオ」であって、「govern」や「統 治」ではない。

「リデルとスコットの希英辞典」によれば、新世界翻訳委員会が「govern」 と逐語訳したギリシャ語「ヘゲオマイ」は、

    1. to go before, lead the way
    2. to lead an army, and so to command, rule
  1. to suppose, believe, hold

となっており新約ギリシャ語辞典(岩隈直著)によれば

となっている。他の辞書もほとんど同様で、この語を「govern」と訳さねばな らぬ必然性はまったくない。

このギリシャ語の名詞形「ヘグーメノス」には確かに支配者、君主、統治者 の意味もあるが、クリスチャン会衆内の人々を指す場合は、そういう用語は使 わないのが普通である。神の会衆、キリストの会衆なのだから、当然その程度 の謙虚な姿勢は持つべきであろう。逐語訳であればむしろ、「統治」よりも 「導く、案内する」にしなければならないはずである。神の会衆について述べ たヘブライ13章17節で「govern」を選んだのは、ものみの塔協会の好み、完全 に恣意的な判断である。

繰り返すが「govern」はあくまでも「支配する」であって、決して「導く」 ではない。したがって、初期クリスチャン会衆の中に「導く、水先案内をす る」人々はいても、「統治する」人々はいなかったとはっきり断言することが できる。神の会衆を「統治しようとする」のは、神の羊を支配しようとする邪 な企てであり、そうしようとする人は真のキリスト教から背教した人だけであ った。

さらに、この「統治体」という称号は真のキリスト教の精神とも、キリスト の指示とも真っ向から対立するものである。なぜならキリストは次のように述 べているからである。

「8 しかしあなた方は、ラビと呼ばれてはなりません。あなた方の教師はた だ一人であり、あなた方はみな兄弟だからです。
9 また、地上のだれをも父と呼んではなりません。あなた方の父はただ一 人、天におられる方だからです。
10 また、『指導者』と呼ばれてもなりません。あなた方の指導者はキリ スト一人だからです。
(マタイ23:8,9,10)

26 ですが、あなた方はそうであってはなりません。むしろ、あなたがた の間で一番偉い者は若い者のように、長として行動している者は奉仕する者の ようになりなさい。」
(ルカ22:26)

ルカ22章26節の「長」のところがギリシャ語では「ヘグーメノス」になって いるので、この聖句の後半は「あなた方はヘグーメノスの立場にいたとして も、ヘグーメノスのように行動してはならない」と言い換えることができる。 つまり、実際「統治する」ようなポジションにいたとしても、本当に統治する 者になってはならない、統治者の精神を持ちこんではならないとイエスは教え ているのである。「私たちは統治体です」ということが、いかにこのキリスト の精神に反するかは言うまでもないであろう。

さらに、マタイ23章8、9、10節でイエスは、「教師、先生、父、指導者」と いった称号を受けることのないようにと戒めている。ものみの塔協会はこの聖 句を根拠として、「神父、牧師、司教、大管長」といった称号は非聖書的であ ると主張しているのであるが、「統治体、協会の会長、副会長、支部委員、地 域監督」などの称号についてはノーコメントである。クリスチャン会衆内で は、「指導者、リーダー」ですらダメだとイエスは言っているわけだから、 「統治体」などはもっての外ということになるであろう。

では、本人たちには支配する、統治するというような意識はあるのだろう か。もちろん統治体全員がどうかはよく分からないが、どうもこの教理を作っ ている当事者たちにはその自覚がありそうなのである。

ものみの塔誌1973年2月15日号p.127には、次のように記されているからであ る。

「復活したイエス・キリストは地上の霊的なイスラエル人で成るご自身の会衆 の天的統治者です。このかたこそ、ミカ書5章2節から引用された次のことばが あてはまるかたなのです。『そして、ユダの地のベツレヘムよ、あなたは決し て、ユダの統治者たちの間でもっとも取るに足りない〔都市〕ではない。治め る者〔ギリシャ語、ヘゴウメノス〕があなたから出て、わたしの民イスラエル を牧するのである』」。(マタイ、2:6、新)書き記された神のことば、聖書 によれば、イエス・キリストは今日の地上のエホバの証人の世界的な集団を、 聖霊によって、また、「統治する」もしくは『指導の任に当たる』(ギリシャ 語、ヘゴウメノーン)』長老たちで構成されている見える統治体を用いて統治 しておられます。一へブル、13:17、行間逐語訳;クリスチャン・ギリシャ語 聖書新世界訳、1950年版」

「キリストは見える統治体を用いて統治します」と言っても、キリストは目 に見えないのだから見える者が支配することになるのは必然的な結果であろ う。キリストの支配と、「統治体」の支配をすり替えるところに、この教理の 欺き、ごまかしのからくりがある。

こうした統治の実態は最新号のものみの塔誌にもよく反映されている。1987 年8/1号、第一研究記事の出だしには

「エホバの証人は自分たちの指導者として、どんな人間をも受け入れていませ ん。彼らの組織的な機構には、ローマ・カトリック教会の法王、東方正教会の 総主教、キリスト教世界の他の諸教会や分派の指導者に相当する人は存在しま せん。」(p.10)

と記されているが、その後の方ではしっかりと

「…集まり合っていた統治体はその話を聞いてからパウロに明白な指示を与 え、『わたしたちが告げることをしてください』と述べました。統治体は、パ ウロが神殿に行き、…という事実はないことを公に実証するよう命じまし た。」(p.14、15節)

「すべての長老は当然ながら、キリストが霊と、霊によって生み出された統治 体の成員を用いて働かせている、その管理、指導、指図の『右の手』に従うべ きです。」(p.19、14節)

と述べている。

記事の本音が後者の方にあることは言うまでもない。簡単にいえば「余計な ことを言わずに黙って命令を聞け、たとえ分からなくとも統治体の指示に従 え、パウロだって統治体の命令に従ったのだ」ということであろう。

「エホバの証人は自分たちの指導者として、どんな人間をも受け入れていま せん」と書きながら、そのすぐ後で堂々とそれを否定するような文章をさりげ なく書く…自己矛盾を感じないのだろうかと思うが…もっとも「統治体は人間 ではない」か「エホバの証人は統治体が人間であれば絶対に従わない」とすれ ば、この記事には何の問題もないということにはなるが。果たして実際はどう であろうか。

結局この教理は、昔の意味の一つを持ってきて今の意味をカモフラージュす るという、典型的なすりかえ論理によって成り立っている教理である。現在そ ういう意味は全くないにもかかわらず、昔は「導く、案内する」という意味が あったから正しいというのである。それでも実態が宣伝の通りであればまだい いのであるが、実質は「統治体」という名称と見事に一致しているわけだか ら、これは実に悪質な教理である。まさに紛れもなく「統治する、支配する 人々」というのが統治体の真実の姿である以上、二重の欺きと言えよう。

先に上げた「パウロとエノク」「ミカエル」などの教理は意味合いを変えれ ば幾つかの考え方が成り立つと言うものであった。それらの教理は様々な余地 を認めたとしても、それほど大きな弊害があるというわけではない。しかし、 この統治体の教理だけは別である。この教理は「組織支配、組織バアル」の元 凶になっているので、あえて、統治体の正当な聖書的根拠は全くないと断定し ておく。

(5)翻訳と聖書解釈の根本的な問題

《困難な問題》

今まで見てきた事例からも明らかなように、訳語の選択にはある程度幅のあ ることが分かる。好むと好まざるとにかかわらず、訳語が定められているよう な箇所もあるが、訳者の信条によっては好きな訳語を選べるというところもあ る。そういう場合は、まず組織ないしは個人の主張したい教理が先に合って、 それに都合のよい訳語を選んでくるというのが普通のやり方になる。おそらく 「統治体」の教理などは、このスタイルの代表的なものであろうと思う。

また、あるモードで聖書を訳したら、「こういう教理も作れるのではないか と改めて気がついた」というような場合も考えられる。たぶん字義訳モードに よる教理、「ミカエルは二度立ち上がる、パウロとエノク」のようなケースが そうであろう。

これは次のことを意味している。つまり、まったく白紙の状態で、何ら特定 の教義、信条を入れずに聖書を翻訳することは不可能だということである。言 い換えれば、誰もが納得できるような仕方で訳語を統一することは無理だとい うことになる。それは逆に、教義を統一することもまた不可能であるというこ とにつながってゆく。

使徒パウロは、

「体は一つ、霊は一つです。それは、あなた方が自分たちの召されたその一つ の希望のうちに召されたのと同じです。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは 一つです。」(エフェソス4:4:5)

と語り、また、

「あなた方すべての語るところは一致しているべきです。あなた方の間に分裂 があってはなりません。かえって、同じ思い、また同じ考え方でしっかりと結 ばれていなさい。」(コリント第一1:10)

と勧めているが、特定の教団の自己満足を除けば、今のところこれは理想にす ぎない。

現在のキリスト教世界の実状は、一致がいかに困難な課題であるかを物語っ ている。そういう主旨の話し合いが歴史上何度かなされ、現在も試みは続けら れているようであるが、成功した例はほとんど聞いたことがない。おそらく既 存のキリスト教のスタイルやモードのままでは、何度やってみても不可能なこ とではないかと思う。

教義上重要な訳語を統一できない原因としては、様々な理由が考えられる が、根本的な問題としては主に次の三つの点を上げることができる。これは世 界中で様々な委員会訳や個人訳が出版されている本質的な理由にもなる。

  1. 統一的な本文を確定することができない。
  2. 字義を統一することができない。
  3. 聖書解釈の絶対的な基準がない。

2については前の章でも詳しく取り上げたので、ここでは省略することにす る。

<聖書の原文は確立されているか>

世界各国で出版される各種翻訳の原本になっているのはヘブライ語本文やギ リシャ語本文(新世界訳の場合ヘブライ語の方はキッテルの「ビブリア・ヘブ ライカ7版、8版、及び9版に載せられたレニングラード写本B19A」ギリシャ語 の方はウェストコットとホートの本文)であるが、これはまだ全面的に統一さ れるには至ってない。程度の違いこそあれ、実状は聖書の出版状況とたいして 変わらない。

ヨブ記の研究者として知られるロバート・ゴルディスによれば、ヨブ記の本 文はまだ最終的な確定ができないという。70人訳とマソラ本文にはかなりの相 違があるので、ヘブライ語本文には二つの系統があるのではないかと推測され ている。何千というギリシャ語写本も完全に同じものはないといわれるほど、 多くの相違点を抱えている。写本家はしばしば「証拠がなくて当惑するのでは なく、証拠がありすぎて当惑しているのである」と語る。

ものみの塔協会は

「古代の文献で、聖書ほど勤勉に写本され、再写本されてきたものはありま せん。そのように写本は繰り返し行なわれましたが、常に最新の(ママ)注意 が払われました。写字生の誤りはごくわずかで、それもささいなものでした。 ですからそれらの写本を比較することにより、神の霊感のもとに書かれた原文 が確立されました。聖書写本の指導的権威であったフレデリック・ケニヨン卿 は、『聖書は実質的に、書かれた通りにわれわれにまで伝えられたということ を疑う根拠は、いまや取り除かれた』と述べました。今日でも、聖書の全巻ま たはその一部の手書き写本が、1万6000ほど、存在します。その中にはキリス ト前2世紀の写本で今なお残っているものもあります。そればかりではありま せん。聖書は最初ヘブライ語、アラム語、ギリシャ語で書かれましたが、それ らの言語から、世界にあるほとんどすべての言語に正確に翻訳されてきまし た。」(「見よ」p.7、10節)

と述べているが、この引用の仕方、コメントは宣伝一流のやり方であって決し て真実ではない。外ならぬフレデリック・ケニヨン卿自身が「聖書の生い立 ち」という本の結びの中で次のように記しているからである。

「到達したと思われる全般的な結論をいえば、新約の原初の本文を発見しう る王道はない、ということである。70年ほど前、ウェストコットとホートはそ ういう道を発見したように見え、そこで、明らかな写本家の誤りを別にすれ ば、自らの責任においてヴァティカン写本から出発すべきだと思われた。だ が、発見と批評的研究の両過程において、ヴァティカン写本とその一族が、原 初のみなもとから何の汚れもなく伝えられてきた伝統的な流れを示すと信ずる ことは、しだいに困難を増していった。シナイ写本とヴァティカン写本に現れ たあらゆる特徴がよく一致することは、これらが、明確な原則に基づく選別さ れた諸典拠を巧みに編纂した結果であることを、明白に物語っている。それゆ え、校訂の年代とその文体よりみて一応権威は尊重するが、西方・シリア・カ イザリア等に一家族を見出した初代の諸本文には、ウェストコットやホートが 考えた以上の、考慮を払わねばならないであろう。だがそれでもなおアレクサ ンドリア本文が、全体として、聖なる書物の原初の形に最も近いものを示して いる、と信じ得ると思う。とはいって、これには個人的に先入観が大きな役割 を演ずる余地があるから、人によって、さまざまな見解がとられよう。」 (p.159、160)

ウェストコットとホートが拠りどころとしたのは、主としてシナイ写本とヴ ァチカン写本である。このウェストコットとホートの本文を新世界訳は定本に しているわけだが、ブルース・M・メツガーは「新約聖書の本文研究」という 本の中でこの本文について、

「ウェストコットとホートの作品に関するこのかなり長い記述を終るに当た り、学会の意見は彼らの批評版が真に画期的であったことを、ほとんど一致し て認めていることを述べておこう。彼らはその当時に入手できた情報によって 得られる最も古い最も純粋な本文を提供したのであった。その後の写本の発見 は、あるグループの証言について再調整を必要とするに至ったが、しかし彼ら の批評原理と手続きが一般的に妥当することは、今日も、本文批評家に広く認 められている。」(p.154)

と述べて、ウェストコットとホートの業績を高く評価しているものの、次のよ うなコメントを付け加えている。

「ウェストコットとホートの批評ですら主観的である。というのは、まず彼ら は彼らが従うべき方法を選択、決定し、そののち、いわゆる中性型本文は一般 に他の型の本文に優先すべきであると判断しているのである。」(p.155) (中性型本文とはシナイ写本とヴァチカン写本を指す。)

まだ、神が書かせたと言えるほどの決定的な本文はない。聖書の最終的な原 文は確立されておらず、今なおより正確な本文を求めて多くの人々が努力を続 けている。ただ、現存する写本間の違いは主要教理に影響を与えるほどのもの ではなく、重大な意味上の相違をもたらすようなものもほとんどないというこ とは多くの写本かが認めていることである。現在の本文が神の言葉として信頼 に値するかどうかについては、おおむね、肯定的な見解で意見の一致がみられ るようである。

聖書翻訳については、ものみの塔協会自体他の翻訳を不正確であると批判し ているし、加えて2〜4章で例証した通り、いかに聖書翻訳が不正確になり得る かは、何よりも新世界訳そのものが如実に物語っている。

結局どの聖書、どの本文を取ってみても、決定的なものは見当たらないわけ だが、しかし、これは決して消極的に評価すべきことではないと思う。むしろ 現状では歓迎すべきことであろう。様々なスタイルの聖書翻訳が出版されてい るということは、特定の誤りや一方的な見解が押しつけられるのを防ぐ上で大 いに役立っているからである。

<絶対的な基準はあるか>

「多くの翻訳があっても聖書は一つです。神が伝えようとしていることは、 結局は同じことです。」これもよく言われることであるが、それでは本当に、 誰の目から見ても聖書の伝えていることは一つである、神が人類に伝えようと しているメッセージは一つしかないと言いきれるのかといえば、残念ながら現 実はそうではない。数多くの教義とそれを唱導する何百と言う宗派に分裂して いるのが、今日のキリスト教の実状である。

要するに述べていることが一義的でハッキリしていれば、解釈などいらない わけであるが、聖書はそのような形態の本にはなっていない。一見すると、混 沌としているのではないかと思えるくらいの多様性を内包している。聖書が解 釈を待つ本であるとよく言われるのはこうした理由による。これは言いかえれ ば、聖書の解釈に絶対的な基準を設定することが、いかに難しいかと言うこと である。それぞれの宗派が自分たちの教えこそ絶対的な真理であると主張して いるにすぎない。極端な言い方をすれば、解釈しだいで大抵の教理は作れると いうことである。

自分たち以外はみな間違っているので考慮する必要はないという狭量で独善 的な態度を捨てて、現実を直視し事実を事実として受け入れるなら極めて本質 的な問題に行き当たる。つまり、

「聖書解釈の絶対的な基準はない」

という問題である。

この事実を受け入れることは絶対的な真理の否定にもつながるので、「真理 は一つである」と考えている人にとっては深刻な事態を招くことになるかもし れない。しかし、事実は事実、現時点で絶対的な基準系を設定するのは無理で ある。もっとも不可知論者からすれば、何をいまさらということになるかもし れないが。

まだ知識が足りないから、研究が不充分なので、そのような基準系を見出す ことができないのであって、今後さらに聖書の調査と探求が進めば、それも明 らかになるのではないかと考える人もいると思う。しかし、別に可能性を100 パーセント否定するわけではないが、おそらく無理であろう。というのは、こ の問題は単なる知識や理解のレベルではなく、宗教上の真理そのものが持つ性 質に起因しているからである。

物理学や電子工学、医学などの真理は、誰でもその真偽を何度でも実験して 確かめることができる。観測の限界が問題にされるような領域を除けば、普遍 的で客観的な答えを出すことのできるものである。ところが、宗教上の真理は そうではない。道徳や戒律、規則であれば、守ってみて、本当に人を幸福にす るものなのか、人間にとって必要なものなのかどうか、確かめることができな いわけではないが、それでもかなりの個人差がある。根本的な教義になると実 験不可能なものばかりである。

神の名はエホバか、エホバこそ生きて活動する唯一の存在か、それとも三位 一体か、キリストは将来目に見える仕方で再臨するのか、それともすでに1914 年から再臨しているのか、死者は復活するのか、天国や地獄はあるのか、これ らの問いに対する客観的な答えはまだない。絶対的な基準系がない以上、絶対 的な答えは出せないのである。

ただそうは言っても、すべての可能性が否定されてしまったというわけでは ない。たった一つだけ、絶対的な基準系が確立される、あるいは明らかになる 道が残っている。

実はキリスト教の場合、教義上だけならばこの問題についての結論はすでに 出ている。最終的には神自身がその基準になるとされている。つまり神が自分 で答えを出すということである。ものみの塔協会でいえば、それはエホバにな る。

原則的には、本文や翻訳そして聖書解釈の重大な問題が生じたとき、直接神 が答えを出してくれれば論争は生じないということになるのだが、キリスト教 の歴史が示すように、そういうことは起きたことがない。誰もが聞けるような 天からの声はなかったのである。預言の時節ではなかったのか、あるいは自ら の目的と会わなかったのか、残念ながらエホバもキリストも現れてはくれなか った。ただ今までなかったということは、必ずしも、今後も絶対にないという ことを意味しているわけではないので、可能性としては残っていると言える。

<地上における権威の三つの型>

今のところ、神とキリストは単なる教義上の存在にすぎないので、現実には 別のものがそのポジションに就いている。つまり、その組織の中で最終的な権 威、実質的な権威を有する者が、同時に解釈の決定権をも合わせ持っているの である。多くの組織の通常の形態、運営はそうなっている。もちろん、あくま でも名目上は神やキリストにあるということになってはいるが。キリスト教の 多くの宗派、教団を見ていると、誰が解釈の権限を有するかは大体三つのタイ プに分類できるようである。たぶんこれは宗教全般にも当てはまるのではない かと思う。

1.個々の信仰型

絶対的な解釈や狭義はないので、神とキリストを信じていれば細かい教理の レベルは個人の信仰に委ねるという考え方である。これを極限まで押し進める と一人の教会、教会不要論になる。ただ、弱い人はそこまで言われると、かえ って不安になるかもしれないが。

非常にリベラルで自由であり、組織の束縛をほとんど感じさせないくらい居 心地は良いが、インパクトに欠けるきらいがなくもない。組織としての差し迫 った具体的なビジョンがないので信仰のエネルギーはそれほど強くない。「こ れは絶対に真理だ」というものがない以上仕方のないことであろう。確かなも のを得たいという人にとっては、おそらく物足りない感じが残るのではないか と思う。

2.啓示、預言者型

カリスマ的な存在が自らをメシア、預言者と称して最終的な権威となるが、 人物崇拝の問題が生じやすい。

新しい教団が組織される初期においてはほとんどがこの形態を取る。組織と しては非常にエネルギッシュであるが、裏を返せば狂信的になりやすい体質を 持つ。個人の体験が基準とされるので論理的一貫性はあまり期待できない。

3.組織、官僚型

現在のエホバの証人の統治体のように、特定の人物ではなく組織が権威の象 徴となる。こういう機構はどうしても官僚的になりやすい。極端になれば、取 り決め至上主義、パリサイ的体質ができあがる。

ものみの塔協会も、創始者のC・T・ラッセルの時代は個人依存型であった が、組織が拡大するにつれて組織主導型へと移行した。カリスマ的なシンボル を立てている場合はあっても、ほとんどの組織宗教が最後に落ち着くのはこの 型である。

実際のところ、2や3の教団の幹部にとっては神やキリストが現れないとい うことは、非常に都合の良いことではないかと思う。いつまでも現れなけれ ば、いつまでも神とキリストの名を借りて組織支配を続けることができるから である。

1987年8/1号のものみの塔誌(p.20)は、

このように、キリストが「体である会衆の頭」であられることを聖書から読 むとき、わたしたちはキリストが名目だけの頭ではないという確信を抱けます (コロサイ1:18)。わたしたちは自分の経験から、キリストが実在する積極的 な頭であることを理解しています。

と述べてはいるが、今本当にキリストが頭として現れたら一番困るのはむしろ 彼ら自身の方であろう。心から喜んで統治権という特権を手放すとはとても思 えない。

ものみの塔協会に限らず、実質的な意味で地上に絶対的な権威を設定してい る組織(教義上は別)はどうしても無理が来る。本来は、天にいる神とキリス ト以外、真に絶対的な基準になることはできないはずである。それなのに不完 全な人間が絶対権の肩代わりをしようとする、そもそもそれが間違っているの である。

そういう無理をすると、必ず歪みが生じ、論理的な矛盾が露呈してくる。こ れはある特定の宗教組織の欠陥と言うよりは、特定の宗教モードに内在する構 造的な欠陥といえる。ものみの塔協会と似たようなモードを持つ組織は、間違 いなく似たような体質になる。

2や3の宗教モードの弊害を痛切に感じた人々は、どうしても1のモードに ならざるをえないと思う。現在の組織に、そうしたモードの構造的な欠陥を克 服した組織は、残念ながら見当たらないからである。

ただ、キリスト教というのはどうしても世界観がないと成り立ちにくい宗教 である。しかも単なる漠然とした世界観ではなくハッキリしたものがないと、 全体としてのエネルギーはなかなか出てこない。これは1のモードが持つ本質 的な弱点の一つであろう。

一村一品運動式に特定の必要にだけ答え応じるという宗教形態は、キリスト 教には不向きである。明確な世界観が真の動機にならなければ、ほかの手段、 つまり、情報を遮断して洗脳するとか、特権指向をくすぐるとか、別種の欲望 を転化させるなどの方法を取る以外にはなくなる。不節操にも多くの組織はこ ういう方法を取っているが、いずれも真のキリスト教とは正反対の道である。 組織化によるこうした弊害は、基準系をある程度失うことよりもはるかに大き い。しかしながら、それを止めると今度は逆に、慢性的なエネルギー不足に陥 るというジレンマがある。教義上だけでなく本当に実質的な意味を持つ具体的 な世界観、ヴィジョンの確立が望まれるところである。

<正しい解釈は可能か>

地上における絶対的な基準系を否定すると、すぐに生じてくるのは正しい教 理、正しい解釈をどうするかという問題である。結局、決定することはできな いのではないかと考えるのは、聖書の述べることと調和しない。聖書の解釈に 間違った解釈と正しい解釈があること、これはまず絶対に確かなことである。 それは使徒ペテロの次の言葉に示されている。

「しかし、〔彼の手紙〕の中には理解しにくいところもあって、教えを受け ていない不安定な者たちは、聖書の残りの部分についても〔している〕よう に、これを曲解して自らの滅びを招いています。」(ペテロ第二3:16)

使徒パウロが書いた手紙の中の難解な部分を曲解していた、つまり、間違っ た解釈をしていた人々がいたということは、逆に言えば、正しい解釈があった ことを意味している。正しい基準がなければ間違っているとか、反れた、迷い 出た、背教したというような表現は成り立たないからである。誤った解釈をす ると滅びを招くことになると述べられているので、(ゆえにハッキリ解釈しな いほうが安全ではないかというのは少々ひねくれた見方である)クリスチャン にとって、聖書を正しく解釈するということは真剣に受け止めるべき重要な課 題である。

キリストが生きていた間は、弟子たちの中でこのような問題は生じなかっ た。というのは、キリストが「わたしは真理です」と断言して、最終的な権威 となったからである。しかし、キリストの死後そのような絶対的な権威を持つ 者は存在しなくなった。

ではその後は誰が正しい解釈、誤った解釈の判定を下していたのかといえ ば、証拠は使徒たちにそういう権威が与えられたことを示している。加えて当 時は奇跡的な聖霊の証しもあった。ただ使徒たちに与えられた権限が組織上の 絶対権でなかったことは、エルサレム会議で一度決着のついた割礼論争が再燃 し、パウロがそれを正すために苦闘していることなどからも明らかである。使 徒たちは、「統治体」のように組織上の権限に訴えるのではなく、聖霊の証し と聖書的な論理を証拠として提出している。

現代ではもはや1世紀当時のような使徒職はない。誰が是認されているのか を示す奇跡的な聖霊の証しもない。(霊的な仕方での聖霊の証し、ないしは聖 霊による霊的な裁きは今日でもあるが、それを見分けるには信仰の目が必要で ある。この聖霊の証しはあくまでも個別の義認であって、組織体として義認さ れるという意味ではない。それゆえ組織を判別すると言う点では、決定的な基 準とはならない。)

キリスト教の宗派数もそれこそ一人では調べきれないくらいに増えてしまっ た。正しい教理、正しい解釈を見出すのはなかなか大変な状況である。「求め よ、されば与えられん」と述べられているので、神とキリストが実在するので あれば決して不可能ではないだろうが、ただし、今の宗教モードのままでやっ たのでは、遅かれ早かれ不可知論に陥ってしまうと思う。もっとも途中で変質 してしまえば話は別であるが。

この面では論理もそれほど当てになるわけではない。絶対的な論理というも のはないので、論理だけで正しい解釈を規定することは無理だからである。正 しい解釈を見出すためには、総合的な真理の新しいモードが必要ではないかと 思う。

<真理のモード>

真理のモードとは−この答えは1900年以上も昔にすでにキリストによって出 されている。そういう意味では別にことさら新しいというわけではないが、よ り具体的なレベルにおいては、新しいものではないかと思う。

名もないサマリア人の女に語ったキリストの言葉は、非常に簡単なものであ った。

「真の崇拝者が霊と真理を持って父を崇拝する時が来ようとしています。そ れは今なのです。 実際、父は、ご自分をそのように崇拝する者たちを求めておられるのです。 神は霊であられるので、〔神〕を崇拝する者も霊と真理をもって崇拝しなけ ればなりません。」 (ヨハネ4:23、24)

必要な点として上げられているのは、「霊(聖霊及び精神)」と「真理」だ けである。律法時代と比べると、実に簡潔なスタイルである。

真のキリスト教の基本的なモードとしてはこの原則だけでもう十分であろう と思う。組織が妙に出しゃばって、余計なものをゴチャゴチャと入れるから複 雑になったり、変なものが紛れ込んだりするのであって、何といっても、 「Simple is the best」である。この「霊と真理」による崇拝のモードをもう 少し具体的に記述すると、以下のようになる。

1.天の権威、聖霊の判断を最優先させる

神とキリストの権威が単なる概念上の、あるいは便宜上のものであってはな らない。特定の人間や組織が主人になることが決してないように、明確に神と キリストの領域を設定する必要がある。

少し違う意見を言えば、すぐに背教だ、異端だと騒ぐような組織は論外であ る。まず、天の判断、聖霊の判断を見るだけのゆとりが必要であろう。

2.健全な動機

能力や業績、組織の取り決めと健全な動機を比較して、どちらを高く評価す るかということが、最大のポイントになる。「神は心を見る方である」(サム エル第一16:7)と述べられているし、「心の純粋な人は神を見る」(マタイ 5:8)とイエスは教えたので、どちらが重要かは言うまでもない。

「取り決めではどうなっていますか、誰がそういう指示を出しましたか、あ なたは割り当てられたことをすればそれで良いのです。」こういうたぐいの言 葉が頻繁に発せられるような組織は、もう終っていると考えて良い。

拡大が至上命令のようになった組織も動機の点では、すでに腐敗している。 そうなると、いわゆる健全な動機−神の栄光を求め、隣人愛に基づき−も単に 人を集めるための手段、宣伝文句に過ぎなくなってしまう。

3.偽善の排除

宗教指導者の偽善はキリストが最も厳しく糾弾したことの一つである。この レベルの偽善になると完全に意識的なもので、それゆえ、彼らは巧みなスマイ ルや誉めことばで偽善を覆い隠そうとするのである。この種の能力にたけた 人々が、幹部になっていくような組織は最悪である。

偽善的な指導者を持つ組織は、さらに構造的な偽善をも抱えることになる。 やれもしない、できもしない、ありもしないことを宣伝するので、組織全体の 構造が偽善的になってしまうということである。

まず宣伝の良すぎる組織は避けた方がよい。ほとんどがまゆつばものであ る。

4.解放的な教義体系

消費者の利益確保を目的とした法律に独占禁止法というのがあるが、教義の 世界にもこれは必要ではないかと思う。

神との関係で言えば、ある個人の信仰に関して最終的な責任と権利を有する のはその人自身である。サマリア人の女に偉大な真理を明らかにしたイエスの ように、教義はすべての人に開放するべきであろう。

一部の人が教義を独占するのは、組織支配には便利かもしれないが、成員一 人一人の真の成長には役立たないし、また本当の益にもならない。それに、自 分たちの教義に確信があるのであれば、すべての人に発言する機会を与えて も、少しも困らないはずである。

最初は何でも聞いてくださいというのであるが、そのうちだんだん本音が現 れてくる。教え手の自尊心をくすぐる程度の質問ではだめで、ズバリ矛盾をつ いてみれば一番はっきりする。真理のモードを持っていない組織は、それは信 仰の問題ですと言って逃げるか、あの人はふさわしくないとか危険だからとい って退けるかのいずれかになる。

教義に関してはものみの塔協会の場合、初代会長C・T・ラッセルの遺言に基 づいた取り決めが設けられている。その点について、1987年3月1日号のものみ の塔誌は次のように述べている。

「その遺書には次のように記されています。 『シオンのものみの塔』の編集上の全責任は5人の兄弟から成る委員会の手 にゆだねるように命じる。それらの兄弟たちには、真理に対して最新の(マ マ)注意と忠実さを保つよう強く勧めたい。『シオンのものみの塔』誌上に掲 載される記事は、すべからく5人の委員のうち少なくとも3人の無条件の賛同 を得ているべきである。さらに、どんな記事であろうとも、3人の賛同を得た ものが委員会の一人あるいは二人の成員の見解に反することが知られている、 もしくはそう思われる場合、そのような記事は、思考と祈りと討議のため発表 まで3ヶ月保留するよう強く勧める。それは、この雑誌の編集作業において、 可能な限り信仰の一致と平和の絆を保てるようにするためである。」(p.14)

こうして作られた教義は、統治体の権威、ものみの塔協会の権威のもとに、 神の教えとして信者に押し付けられることになる。密室で教義が作られ、あと の人は守るだけというのでは、きわめて排他的かつ閉鎖的な教義体系ができあ がるのも不思議ではない。

5.あらゆる真理を受け入れる

独自の教典や啓示しか受け入れないとか、聖書だけあれば良いというような モードは失格である。また、現実を直視しないモードも不適格である。もっと 積極的にあらゆる分野の真理を取り入れる必要がある。独善的な真理や自己満 足の真理であってはならない。

神が備えて下さったのは、決して聖書だけではない。ほかならぬ聖書そのも のが詩編19:1、2節で次のように述べている。

「天は神の栄光を告げ知らせ、
大空はみ手の業を語り告げている。
日は日に継いで言語をほとばしらせ、
夜は夜に継いで知識を表し示す」

天地自然の創造者が神である以上、自然界の真理と聖書の真理は調和するはず である。どちらか一方だけに偏るのはいずれも真の理解から遠ざかる。

中世と近代の歴史から学んだように、もし科学が聖書の真理と調和しないの であれば、それは聖書の解釈が間違っている、という判断で十分であろう。ジ ョルダーノ・ブルーノの火刑やばかげたガリレイ裁判の過ちをいまさら繰り返 す必要はない。

いずれにしても、自説を証明することにのみやっきになるような組織はダメ であって、真理の多元的な構造、階層構造を総合的に理解しようとするモード が必要であろう。

残念なことではあるが、私たちは今まで上げたモードにかなうような組織を 見出すことはできなかった。もし誰か知っている人がいたら、是非教えてほし い。

少なくとも現時点では、キリスト教の中に総合的な真理を有する組織はない と判断せざるを得ない。「神に是認された唯一の組織だけが聖書の正しい解釈 を行うことができる」というものみの塔流の考え方は、完全に否定されたと言 える。

それでは、このモードでやってみれば、絶対的な基準系が確立されるのかと 言えば、実験したわけではないからまだはっきりしたことは言えないが、たぶ んすべての面でそうなることはまずないだろう。というのは、真理そのものの 構造がそのようになっていると考えられるからである。ただ、ある真理が成り 立つ限界や、適応できる領域はより明確になってくるものと思う。

原則的には真理のモードに従っている方が重要であると言える。そうであれ ば、「神が絶対的な基準が必要だと考えればそうなるし、要らないと思えばそ うならない。無理に設定して人に迷惑をかける必要は少しもない。絶対的な基 準というのは神の領域なのだから、神に任せておけばよい」と判断することが できるからである。

<神の名はエホバでよいか>

教義が定まらないと訳語を決定することが難しいものに、十字架、杭、地獄 の問題などがあったが、その中でも代表的なものは神の名をどうするかという 問題である。神に名前があることは確かなのだが、発音がはっきり分からない ので、神や主と置き換えたり、エホバ、ヤハウェ、ヤーヴェと読んだりしてい る。

しかし、この問題に関しては、早い機会に答えを出す見通しがある。すべて の状況が整ってきているからである。

現在世界的な規模を有するキリスト教の組織で、エホバを崇拝していると唱 えているのはものみの塔協会以外にない。ところが今回、広島会衆で生じた事 件で明らかになったように、統治体とものみの塔協会は神の律法を退け、かつ 無視しながら、偽善的にも「組織に従え」と完全に開き直っている。

したがって、エホバが本当に生ける神であり、天地の主権者であれば、もの みの塔協会に次の聖句が成就するはずである。

「〔今〕は、裁きが神の家から始まる定めの時だからです。さて、それがまず 私たちから始まるのであれば、神の良いたよりに従順でない人たちの終りはど うなるのでしょうか」(Iペテロ4:17)

「自分の肉のためにまいているものは自分の肉から腐敗を刈り取り、霊のた めにまいているものは霊から永遠の命を刈り取ることになるからです」(ガラ テヤ6:8)

エホバが神性を表明し、ものみの塔協会を裁くのであれば、神の名はエホバで 良いということになる。しかし統治体とものみの塔協会の組織支配をいつまで も野放しにしておくなら、その偽善をどうすることもできないのであれば、間 違いなくエホバとは「ものみの塔協会の作り出した神」ということになる。キ リスト教世界の多くの宗教家が批判してきたことは正しかったということにな ろう。

果たして神の名はエホバで良いのか、これは、ものみの塔協会がどうなるか で決着がつく。エホバが基準系の最終権威となるかそれともならないのか、こ の結論は近いうちに出るであろう。