ものみの塔協会の特異な感覚では、字義訳も読みやすく感じるようである。「霊感」の本は「新世界訳」を次のように宣伝している。
「『新世界訳』を読む人はその言葉使いによって霊的に覚せいさせられ、霊感を受けた元の聖書の力強い表現にすぐなじんで読むことができるようになります。あいまいの表現を理解しようとして何度も節を読み返す必要はもはやありません。(「霊感」P.330)
本当にこの通りであれば読者にとっては理想的な聖書ということになるだろうが、しかし、実際はまさに宣伝とは正反対である。ごく普通の感覚で新世界訳を読めば、これは誰でもすぐに分かることであると思う。全編に渡って不自然な表現に満ちており、その冗長の長さは類例のないものとなっている。どうやら「新世界訳翻訳委員会」のメンバーも内心では多少の懸念を持っていたようで、「参照資料付き聖書」の序文に次のように記している。
「聖句の意訳のための言い換えはなされていません。むしろ、今日の表現法が許すかぎり、また字義通りの訳出によるぎこちなさによって考えが覆われてしまわない範囲で、できるだけ字義通りの訳出を行うよう努力が払われています」
やはり彼らにも、ぎこちなく感じられるところはあったということであろう。読みやすいというのは組織の宣伝であって、字義訳とは本来読みにくいものであるという自覚は持っていたようである。たぶん新世界訳翻訳委員会も読みやすくしようと大いに努力したのかもしれないが、それにしてはあまりにも不自然な表現が多すぎる。今の新世界訳をぎこちないと考えなかったことは、たいへん残念なことであるが、もしかしたら普通の人とは感覚の次元が違うのかもしれない。
ただ日本語になっていると思うか思わないか、不自然な表現かそうでないかは、各人の感覚のよって判断はかなり異なってくる。不自然な表現も裏を返せばユニークで斬新な表現ということになるかもしれない。その差はほんの紙一重であろう。所詮は感性の問題であると思うので、私たちも自分たちの基準の方が絶対に正しいというつもりはない。以下はあくまで普通の感性ではこうなるだろうというわたしたちの判断である。それでは、新世界訳の不自然な表現のほんの一部を紹介することにしたいと思う。
預言者エレミヤは神の裁きによって崩壊したエルサレムを眺め悲嘆に暮れていた。嘆き悲しむエレミヤの目は、噴水が流れ出る彫刻のようになってしまったようである。
「わたしの民の娘の崩壊ゆえに、わたしの目からは水の流れが下って行く」
「With stream of water my eye keeps running down on account of the breakdown of the daughter of my people」
確かにヘブライ語「マイ」は「water」という意味なので、字義訳すると新世界訳のような文章になる。「私の目からは水の流れが下って行く」・・・白髪三千丈式の誇張表現と言えなくもないが、やはり日本人にとっては馴染みにくい表現であろう。現代訳、新改定では、「私の目からは涙が川のように流れ」となっている。やはりこの方が自然である。
「わたしの目は注ぎ出されて、とどまるところがない」
「My very eye has been poured forth and will not keep still」
「My eyes will flow unceasiningly, without relief」(NIV)
「注ぎ出される」と訳されているヘブライ語「ナガル」の字義は確かに「注ぎ出す」であるが、「旧約聖書神学用語辞典(ハリス、アーチャー、ウォルトケ)」によると「嘆いたり、悲しんだりしている様子を表すのにも使用される」と説明されている。それで、そういう意味を取って、「とめどなく涙が流れる」(現代訳、NIV)のように訳すこともできるが、これも結局は、「目」「注ぎ出す」という字義をそのまま訳出するか、それとも「目から涙があふれるように流れ出す」というふうに意味を取って訳すかの問題であろう。それぞれの言語には特有の慣用表現がある。例えば「I'm all ears(耳を澄まして聞いている)」は、字義通りに訳せば「私はすべての耳である」ということになるが、普通はそうは訳さない。「目を注ぎ出す」をどのレベルで考えるかということであろう。
ナホム2章にはアッシリア帝国の首都ニネベの滅びとイスラエルの復興が預言されている。「誇りを集める」とはその中に出てくる一節であるが、一読しただけでは何を言わんとしているのかよく分からない。
「エホバは必ず、イスラエルの誇りのように、ヤコブの誇りを集めるのである。奪い去る者たちが彼らから奪い去ったからである。そして、彼らの岩枝を損なった」
「For Jehovah will certainly gather the pride of Jacob, like the pride of Israel, because those emptying out have emptide them out ; and the shoots of them they have ruined」
埃を集めることはできても、「誇り」を集めることはできない。強いて解釈すれば「誇りを取り戻す、プライドを回復する」ということになるかもしれないが、文脈にはあまり合わない。「pride 」には「(集団、社会、階層における)最良、最上のもの、精華」という意味もあるので、「イスラエルの精鋭を集める」の意の解釈できないこともない。しかしここは誇りだけではなく、動詞「gather」の方にも問題があろう。新世界訳が「gather」と訳している原文のヘブライ語「シャヴ(シュヴの変化形)」は「restore, renew,元へ戻す、回復させる」という意味の動詞である。したがって全体としては、口語訳の次のような訳が妥当であろうと思われる。
「主はヤコブの栄えを回復して、イスラエルの栄えのようにされる。かすめる者が彼らをかすめ、そのぶどうづるをそこなったからである」
「restore」が用いられていれば、日本語のような珍役は生じなかったであろうが、英語版がなぜ「gather」を選んだのか、機会があれば是非聞いてみたい。
アダムとエバが住んだパラダイス、エデンは美しく肥沃な地であり、そこから四つの川が流れ出ていた。新世界訳によるとその川は四つの頭になったという。
「さて、川がエデンから発していて園を潤し、そこから分れ出て、いわば四つの頭となった」
「Now there was a river issuing out of E'den to water the garden, and from there it began to parted and it became, as it were, four heads」
普通「川が頭になる」といえば、まず擬人表現以外には考えられない。しかしここは事実をそのまま記述しているところであって、擬人表現を用いるような箇所ではない。新世界訳は「頭」と訳すことによっていったい何を伝えようとしたのだろうか。意味としてはエデンの地が四つの川の水源になっていたということなので、新改訳のように「四つの源となっていた」と訳すのが妥当であろう。英語の「head」には「頭」以外にも、「源、水源」という意味があるので、英語版は問題がないのかもしれないが、「head」ではなく、「headstream,beginnings ofstreams」を用いていたなら、このような場違いな訳は防ぐことができたはずである。
これはソロモンの知恵や繁栄に驚嘆したシェバ女王の言葉である。あまりの素晴らしさに気が動転してしまったのであろうか、「?」と思うようなことを口走っている。
「あなたは知恵と繁栄の点で、私のお聴きした、聞かされたことをしのいでおられます」
「お聴きした、聞かされたこと」・・・?誰でも一度は読み返すに違いない。日本語の訳の不自然さもさることながら、ここは英語版にも問題がありそうだ。幾つかの訳を並べてみよう。
新世界訳の他は、report, fame(報告、名声、評判)を使っている。元のヘブライ語「シェムア」、ギリシャ語「アコエ」にはhearing, news, report, rumor,messageという意味がある。したがってここは「あなたの知恵や繁栄は、私が聞いていたことをはるかにしのぐものです」ぐらいになるだろうか。新世界訳は正確な表現と自負しているのかもしれないが、「お聴きした、聞かされたこと」というのは、日本人には何とも奇異に感じられる表現である。こういう珍訳の原因は関係代名詞を直訳したことにあるが、次に関係副詞を訳してしまった例を紹介しよう。
息子アブロサムの反逆に遇い、逃走するダビデが自分に従ってきたギト人イッタイの安否を気遣って、戻るように勧めている場面である。
「あなたは昨日来たばかりで、今日わたしはどこか行こうとしているところへ行くところなのに、あなたを行かせて我々と共にさまよわせるというのか。戻って行きあなたの兄弟たちを共に連れて戻りなさい」
「Yesterday was when you came and today shall I make you wander with us , to go when I am going wherever I am going ? Go back and take your brothers back with you 」
突然の反逆に驚き、惑ったダビデ王は、思わず舌がもつれてしまったのであろうか。「to go when I am going wherever I am going ?」を上記のように訳したのであるが、中学生でもこういう訳文は作らないと思う。新改訳の「私はこれから、あてどもなく旅を続けるのだから」や、口語訳の、「わたしは自分の行くところを知らずに行くのに」ぐらいが自然な表現であろう。
預言者イザヤは堕落したイスラエルに愚行を止めるように勧め、それに応じる人々には神からのいやしが与えられるということを次のように描写している。
「あなたは必ず、よく潤っている園のようになり、その水が うそをつくことのない水の源のように[なる]」
「you must become like a wellwatered garden, and like the source of water, the waters of which do not lie 」
ウソをつかない水の源とはどういうことであろうか?「正直な水」といってもよく分からない。おそらく「そこへ行けば必ず水を飲むことができる、期待を裏切られることがない」ということであろうが、それにしても難解な表現である。ヘブライ語の「カーザブ」には、「be found a liar 」「be in vain 」「fail」などの意味があり、「うそをつく」にしなければならない必要性はない。ゆえにこの場合は、「水のかれない源のようになる」(新改訳)「水の絶えない泉のようになる」(口語訳)
と訳した方が分かりやすい。
これは背信したイスラエルに対する神の裁きの宣告であり、神を捨て、強国エジプトに助けを求めたイスラエルについての預言である。
「ノフとタフバネスの子らもあなたの頭の頂きを食らいつづけた」
「Even the sons of Noph and Tah'pan・es themselves kept feeling on you at the crown of the head 」
エジプトの都市、ノフとタフパネスの住民が人食いだというわけではないだろうが、これでは意味不明。「食らいつづけた」と訳されているヘブライ語「ラア」は、基本的には「(羊、山羊を)飼う、牧する、(牛、羊などが)草をはむ」という意味を持っており、ゲセニウスはエレミヤ2:16のラアを「devour むさぼり食う」と訳している。ものみの塔協会は、当時の状況を「エジプト」に援助を仰ぐことはユダの王族、支配者たちに高い代価を求めることであったろう。」と説明している。それで以上の点から「crown 」を「王座、王位」、「head 」を「指導者、支配者」と考えれば「王座を食い物にする」といった訳も可能と思われる。それにしても「頭の頂きを食らい続ける」とは何とも珍妙な表現である。幾つかの英訳や日本語は「頭を剃る」とか「頭を打ち砕く」というふうに訳している。
婉曲表現を字義訳すると滑稽な訳語ができあがる。
「またあなたは、肉の大きなあなたの隣人、エジプトの子らと売春を行ない、あなたの売春をあふれさせてわたしを怒らせた」]
「And you went prostituting yourself to the sons of Egypt, your neighbors great of flesh, and you continued making your prostitution abound in order to offend me 」
この聖句は、堕落したイスラエルがエジプトと文字通り、あるいは宗教的な意味で売春をして神を怒らせたことを説明しているところであるが、「肉の大きな隣人」とはどういうことであろうか。日本語のままで考えるなら「肉の大きな隣人」とは「太った人」ということになり、イスラエルは肥えた人を淫行の対象にしていた、またはそのころのエジプト人は皆太っていたという意味になってしまう。「肉」に当たる英語の「flesh」ヘブライ語の「バシャル」は、これ以外にも「身体、肉欲」という訳語があるので、「肉」にこだわる必要はない。また「F・ブラウンによる旧約聖書のヘブライ・英語辞典」によると、「バシャル」は性交の婉曲表現としても用いられたようである。このような点から考えると、「肉の大きな人」は二つの見方ができる。
「良いからだをした(繁栄をあらわす)」(新改訳)
「肉欲的な隣り人」(口語訳)
参照資料付き聖書の説明を見ると、新世界訳は後者の解釈をとっているようだが、「greatflesh −肉の大きな人」では正確な意味を伝えることはできない。婉曲表現でもかまわず字義訳するのは、読者にとって非常に迷惑なことである。
初めて婚約者イサクに会ったリベカは当時の習慣にしたがって布で身を覆った。さてその布は何だったのだろう。
「そして僕にこう言った。『野を歩いてわたしたちを迎えに来るあの方はどなたですか』。すると僕は言った、『あの方がわたしの主人です』。それで彼女は頭きんを取って身を覆った」
「Then she said to the servant:“Who is that man there walking in the field to meet us?” and the servant said:“It is my master.” And she proceeded to take a headcloth and to cover herself」
「headcloth」は、ターバンなどのような頭巾を表わし、頭を覆うぐらいの分量しかない。日本では頭巾といえば、やはり頭や顔を覆うくらいのものを指し、体を包むほどのものを頭巾とは言わない。元のヘブライ語「ツァイーフ」は、「ベール、ショール、長くゆったりした外衣」などを指している。バイイングトンは「muffler」、NIV、七十人訳、アメリカ標準訳、欽定役は「vail」を使っている。「続目で見る聖書の世界」p.75 には、当時の服装について記されているが、その中に次のような一文がある。「婦人特有の衣料には薄い白布の被衣があり、愛人に紹介されるとき(創24:65)、身分を 隠すとき(創38:14、19)に用いた」したがって、ベールくらいが適当と思われるが、新世界訳がなぜ「headcloth」にしたのかはよくわからない。
落胆しているエレミヤに対し、神が、「もっと厳しい状況に直面したら、どう対処するのか」と諌めているところである。
「あなたは平和の地で自信があるのか。では、ヨルダン沿いの誇り高い[やぶ]の中ではどうするのか」
「And in the land of peace are you confident? So how will you act among the proud [thickets] along the Jordan 」
「平和の地で自信があるのか」というのもよく分からないが、「誇り高いやぶ」となると、完全にお手上げである。高慢なやぶがエレミヤにつらくあたるというのだろうか・・・。「誇り高いやぶ(the proud 「thikets」)」と訳されているヘブライ語は「ガオン」である。「ガオン」には、「pride 誇り高い、高慢な」という意味もあるが、ゲセニウスやF・ブラウンのヘブライ・英語辞典、旧約聖書神学用語辞典(ハリス)によると、「雄大な、見事な、荘厳な」などという意味もあることが指摘されている。三者ともエレミヤ12:5のガオンの意味として後者の方を取っており、ヨルダンの密林を表わすものと解説している。やぶの形容詞としてのproudの訳を辞典で探すのは少し手間がかかる。ウェブスターの第3版3(C)(2)「of a plant,Brit:LUXURIANT(植物などが)繁茂した、うっそうと茂った」ぐらいまで探さないとぴったりする表現がない。「新世界訳英語版」の委員会は「proud」をそういう意味で使ったのかもしれないが、普通「proud」ときたら「誇り高い」となるはず。原文忠実な日本語訳は確信をもって「誇り高いやぶ」と訳したのであろう。なんとも罪作りな英文である。ちなみに幾つかの英訳を比較してみると、
となっており、日本語訳は新改訳、現代訳、口語訳、リビングバイブルが、「ヨルダンの密林」、バルバロ訳は「ヨルダンの森」と訳している。「やぶ」を擬人化する必要はまったくないところである。
字義はしばしば矛盾した表現を生み出す。ダビデは息子アブロサムの陰謀にあい、やむを得ず逃げることになった。家に残された10人のそばめは哀れにもアブロサムに辱められてしまったのである。やがてダビデは戦いに勝って戻って来たのであるが・・・
「彼女たちは生きた[夫]のいるやもめの状態で、自分たちの死ぬ日まで、しっかりと閉じ込められていた」
「they continued shut up closely until the day of their dying, in a windowhood with a living[husband]」
普通、夫が生きている場合「やもめ」とは言わない。「やもめ」とは、「夫と死に別れた婦人、未亡人」のことなので字義通り考えると?となる。これは、アブロサムが戦いに破れて死んでしまったため、彼に辱められた10人のそばめをダビデは「やもめ」のように扱ったことを示している聖句である。彼女たちにとってダビデは「生きた夫」であるので、「生きた夫のいるやもめの状態」という訳も理解できないことはないが、それにしても矛盾した表現である。ここは、「未亡人同然の生活」(現代訳)の方が適切であろう。
人々は金や銀を求めて地底深く潜っていく。宝を得るためにはあらゆる困難をものともせず一生懸命に働く。そのようにして多くの金銀、宝石は掘り出されてきた。しかし、貴金属よりはるかに価値のある真の知恵はいったいどこに見い出すことができるのであろうか。はたして人はそれを探り出すことができるだろうか。金や銀などの目に見える宝とは異なり、真の知恵は人知によっては探り出すことのできないものである。神だけがその本当のありかを知っている。こうしたことを詩内に表現した箇所の一部が、次の一節である。
「人は[人々が]外国人としてとどまっている所から遠く離れて立て杭を掘り下げた。足から遠く忘れられた所で。死すべき人間のある者たちは、ぶら下がり、ぶらぶらしていた」
「He has sunk a shaft far from where[people] reside as aliens,Places forgotten far from the foot; Some of mortal men have swung down, they have dangled」
何とも理解し難い訳である。前半の方は、金、銀を求める人々が人里離れた所で穴を掘っている様子であることは分かるが、後半は思わず吹き出してしまいそうな訳になっている。これでは処刑される人かあるいは死のうとしている人がどこかに引っ掛かって、ブラブラしているような印象を与えてしまう。一つ一つ考えて見よう。「足から遠く忘れられた所」というのは、人があまり行かない所のことであろう。ヘブライ語の言い回しらしい。「死すべき人間」というのは3章でも紹介した、新世界訳ご自慢のエノシュである。ここも「死すべき」を付ける必要はないところである。「ぶらさがり、ぶらぶらしていた」とは、「dangle」を直訳したものであろう。「dangle」にあたるヘブライ語の「ダウ」には、この他にも「hang, pendulous; 吊す、下がる、垂れ下がっている」などの意味があるので、ここは人や物が吊り下がっている様子を表わしていると考えた方がよい。ゲセニウスなどのヘブライ語辞典はこの聖句について、「ロープで体を縛った炭坑労働者が穴を昇り降りするときに、揺られる状態」と述べている。上記の訳のように笑いがこみ上げられてくるようなものではなく、もっと危険な状況を表わしていたのである。それにしても、意味を考えず一字一句の字義訳を並べただけの訳はまさしく宙ぶらりんである。こういう具合に、文を読んでみてもそれがどういう状況なのか、何を言わんとしているのかよく分からないという場合、たいていは単なる翻訳の技術よりも訳者の頭の質の方に問題があるようだ。別宮貞徳氏は「誤訳迷訳欠陥翻訳」の中でそのような訳文を「ハクチ的文章」と述べ、次のように述べている。
「もちろん、文章がハクチ的だといっても、訳者がハクチというわけではありません。およそ翻訳には相当な頭が必要で、訳者はどなたもそれだけの頭を持っていらっしゃるはずです。しかし、その頭がこちこちに硬直していることが、往々にしてある。・・・・そして、頭が硬直していると、ばかばかしいまちがいをやたらしでかすのも、当然かもしれません。」(P.139,140)
ハクチ的文章に当たるような箇所は他にもまだまだあるので、他の聖書と比較しながらその幾つかを紹介しよう。
「心配のない者は、考えにおいて、消滅に対して侮べつを抱く」
「In thought,the carefree one has contempt for exetinction itself 」
「安らかだと思っているものは衰えている者をさげすみ、足のよろめく者をおしたおす」(新改訳)
「それらはわたしの食物の中の変質のようだ」「They are like disease in my food 」
「それは私には腐った食物のようだ」(新改訳)
「それはわたしのきらう食物のようだ」(口語訳)
「そして、離れ落ちてゆく者たちはほふりの業に深く下り、わたしは彼らすべてに対して訓戒であった」
「And in slaughter work those falling away have gone deep down,and I was an exhortain to all of them」
「曲がった者たちは、人々を死へ導いた。わたしは彼らをことごとく懲らしめる」(現代訳)
「曲がった者たちは落とし穴を深くした。わたしは彼らをことごとく懲らしめる」(新改訳)
すべてまったく意味不明なものばかりである。
エルサレムはおびただしい違反ゆえに、神の裁きによってついに崩壊した。次の聖句はそのことに対する深い悲しみを表明したものである。
「[神]はわたしの違反に対して油断なく気を配られた。そのみ手の中でそれらは互いに絡み合う。それらはわたしの首に上った。わたしの力はつまずいた」
「He has kept himself alert against my transgressions, in his hand they intertwine one another, they have come up upon my neck. My power has stumbled 」
全体的に変な文章であるが、「力がつまずく」という表現は特に奇妙な感じを与える。「つまずく」とは、「歩くとき、足が物にあたってよろける、途中で障害にあって失敗する」という意味なので、そのまま続けると「力がよろける、力が失敗する」というふうになる。これはどう考えても妙である。「stumble」には、「つまずく、失策する、口ごもる、出くわす」ぐらいの意味しかないので、英語版に忠実であろうとすれば、「つまずく」以外に訳しようがない。「力がつまずく」とは、一体どういう意味であろうか。ここで用いられているヘブライ語「カーシャル」には「stumble」の他に、「fail 衰える、弱る」の意味もあるので、NIVでは「sap 弱る」、七十人訳では「fail」にしている。他の日本語訳は、「力をくじき」(新改訳、現代訳)、「力を衰えさせられた」(口語訳)となっている。ここは単に「力がなくなった」ということを示しているにすぎないので、新世界訳が、なぜわざわざ「stumble」を用いるのかよく分からない。これでは人々に聖書の真意を伝えるどころか、混乱を生じさせるだけであろう。
エホバは堕落したエルサレムとユダ王国をついに見捨てられ、バビロンに引き渡された。しかしその70年後、彼らに哀れみを示し、エルサレムに戻すことを約束したのである。この聖句は、それまで彼らを捕らえていた諸国民に対する憤りを表明したものである。
「安楽にしている諸国民に対しては大いなる憤りをもって憤っている。わたしは少しだけ憤ったのだが、彼らは災いを助けたからである」
「With great indignation I am feeling indignant against the nations that are at ease;because I, for my part,felt indignant to only a little extent, but they,for their part,helped toward calamity 」
「憤りをもって憤っている」というのも妙だが、「災いを助けた」というのはもっと奇妙である。もし諸国の民が「災いを助けた」のであれば、神の糾弾を手伝ったということになるので、神が諸国の人々に憤る必要はなくなる。しかしそれだと前の部分と矛盾してしまう。それとも、これは神の皮肉だろうか?この聖句は、「神が下した災いに加えてイスラエルを必要以上に苦しめた。またはそれ以上にむごいことを行なった」ということを示しているので、「助ける」は適切ではない。「help」は「助ける」だけでなく、「助長する」という意味もあるので、ここは「災いを増し加えた」(現代訳)、意訳ではあるが、「ほしいままに悪事を行なった」(新改訳)の方が文脈に合う。
エゼキエルは幻を見た。その中で彼はみ使いによって神殿の食堂に連れて来られたのだが、どこに何があったのかよく分からなくなったようである。
「1そして、やがて彼は北に向いている道から、外の中庭へわたしを連れて出た。次いで彼は、隔てられた場所の前、北の方の建物の前にある食堂[群]に連れて来た。2長さ百キュビトの前に北の入り口があり、幅は五十キュビトであった」
「Before the length of a hundred cubits there was the north entrance, and the width was fifty cubits 」
1節では、「北方の建物の前にある食堂[群]に連れて来られた」ことが記されているのだが、上記の訳では何の百キュビト前か、何の幅が五十キュビトなのかよく分からない。幅、五十キュビトの入り口が建物の百キュビト前にあるか、あるいは食堂と建物の間の距離が百キュビトだったと考えられないことはないが、きわめてあいまいな文章である。文脈をみても意味はさっぱりわからない。NIVの訳と比べてみると、
「The building whose door faced north was a hundred cubits long and fifty cubits wide」
「北向きにドアのある建物は高さ百キュビト、幅五十キュビトであった」
となっている。実に分かりやすい。ここで問題になるのは、新世界訳で用いている「before 〜の前に」とNIVの「faced 〜に面した」である。ヘブライ語の前置詞「エルーペネ」には多くの用い方があるが、ゲセニウスによると、前置詞「ペネ」は「エル」を伴うと「toward 〜に向かって、〜に面して」の意味を持つようになると述べられている。したがって、ここは「百キュビトの前」ではなく、「その長さは百キュビト、その端に北の入り口があり幅は五十キュビトであった」(新改訳)と訳す方がよい。
次の聖句は、背教したエルサレムに臨む荒廃を預言したものである。
「そして、雄の子羊は自分の牧場にいるかのように実際に草を食い、肥え太った動物の荒廃した場所を外人居留者が食べるであろう」
「And the male lambs will actually graze as in their pasture; and the desolate places of well-fed animals residents will eat 」
ここは英語を直訳すると、確かに「場所を食べる」ことになってしまうのだが、「場所を食べる」とは・・・まったく意味不明。「肥え太った動物の荒廃した場所」というのもどういう場所なのかよく分からない。これもやはり意味不明。預言の内容自体は、やがてエルサレムには人が住まなくなり、羊が草をはんだリ、外国人の羊飼いが訪れるくらいさびれた所になるだろうというものである。かつては外人居留者などとても近寄れなかった富んだ人々の牧草地(肥えた羊や山羊が草を食んでいた)に、彼らも自由に出入りできるようになるということである。せめて「野獣は廃虚の中で食を得る」(現代訳)「肥えた獣は廃虚にとどまって食をとる」(新改定訳)「肥えた家畜および小やぎは荒れ跡の中で食を得る」(口語訳)くらいの訳にはすべきであろう。こういう表現をそのまま載せるという、この文章感覚には正直いって素直に驚くしかない。参考までに次のような意見を紹介しておこう。
「ところで、最初にオンチとブンチとの関連なんてヘンなことを申し ましたが、ブンチっていうのは文章オンチ。方向感覚がにぶい人のこ とを方向オンチと言いますね。それと同じ伝で、文章オンチ、略してブンチ。つまり文章感覚のにぶい人のことです。文章を書くのは音楽の演奏に似ている。そして、オンチは音楽づくりに手を出すな、と同じ言い方をすると、ブンチは文章づくりに手をだすな、ということになりますか」(誤訳迷訳欠陥翻訳 P.133 別宮負徳 著)
次の預言は背信したイスラエルに対する裁きの宣告である。
「[神]も賢い方であり、災いとなるものをもたらされる。[神]はご自分の言葉を呼び戻されなかった。[神]は悪を行なう者たちの家に敵して、有害なことを習わしにする者たちの援助に適して必ず立ち上がられる」
「And he is also wise and will bring in what is calatious, and he has not called back his own words; and he will certainly rise up against the assistance of those practicing what is hurtful」
「言葉を呼び戻す」とは物理的には成り立たない表現である。残るは比喩的な表現ということになるが、ここはそういう箇所ではない。つまり、「言葉を呼び戻す」という表現ではおかしいのである。辞書によると、「call back」には、(1)呼び戻す(2)〈発言・告訴などを〉取り消す、撤回する(3)回収するの意味がある。文脈や意味を考えれば、「み言葉を取り消さない」(新改訳)、「その言葉を取り消すことなく」(口語訳)とするはずである。どうやら、「call back」の最初に上げられている意味にしか目が行かず、(2)(3)は目に入らなかったらしい。
不自然な表現は全編に満ちているので、上げて行けば切りがないが、以下その中でも代表的なものをまとめて紹介することにしよう。
「わたしは必ず、わたしの民イスラエルのために一つの場所を定め、彼らを植えるであろう」
「I shall certainly appoint a place for my people Israel and plant them, and they will indeed reside where they are, 」
イスラエルを定住させるという意味である。
「耳を植える方は、聞くことができないだろうか」
「The One planting the ear, can he not hear?」
「目や耳をお造りになった方が、どうして見たり、聞いたりできないだろうか」(現代訳)ということである。
「神からの恐怖がわたしに向かって整列する」
「The terrors from God range themselves up against me」
ヨブは神からの恐怖を戦闘隊形を組んだ軍隊に例えたようである。
「わたしは必ずその敵の地で彼らの心の中におじ気を入れる」
「I shall certainly bring timidity into their hearts in the lands of their enemies」
彼らをおじけさせる、弱めるという意味。
「2ああ、わたしの悩みがことごとく量られ、同時にわたしに逆境を人々がはかりにかけたなら!3今やそれは海の砂よりも重たいからである。だから、わたしの言葉は乱暴な話しだったのだ」
「3For now it is heavier even than the sands of the seas. That is why my own words have been wild talk」
「3It would surely outweigh the sand of the seas no wonder my words have been impetuous」(NIV)
ヨブの言葉の乱暴な話というのは、どうやら「わたしの言葉が軽率であったのだ」(口語訳)ということらしい。
「そして彼はその者たちに打ちかかり、股の上に脚を積み重ねて大々的な殺りくを行なった」
「And he went smiting them,piling legs upon thighs with a great slaugter」
下線の部分は、「大々的な殺りくを行なった」ということを表わす慣用表現である。
「肥え太ってくると、エルシュン(イスラエルの詩的な呼び名)はけり足を挙げた」
「When Jesh' u run began to grow fat, then he kicked」
国力が豊かになり、高慢になったイスラエルが神に背を向けるようになったことを詩的に表現しているのだが・・・「けり足」とは・・・・。「エルシュンは肥え太り、後ろ足で蹴り上げた」(バルバロ訳)ぐらいが適当であろう。
「王は裁きの座につき、自分の目ですべての悪を散らしている」
「The king is sitting upon the throne of judgment, scattering all badness with his own eyes」
バルバロ訳では、「裁判の席に座する王は、すべての悪を一目で見分ける」となっており、「賢い王は裁判の時、善と悪を一目で見分ける」という説明がなされている。
新世界訳の冗長さは実に見事なものである。おそらくこの冗長さを廃するだけで、少なくとも100ページは短くなるのではないかと思われる。本来ヘブライ語は接続詞が多く用いられる言語である。それを可能な限り訳してゆくと、膨大な接続詞の量になってしまう。新世界訳では例えば、創世記は「and」のオンパレードになっている。英語の感覚はよくわからないが、日本語では「and」をことごとく訳してしまうと、どうにも煩わしくてしょうがない文章ができあがる。さらに、新世界訳は接続詞の他にも、まわりくどい表現、慣用表現などをそっくりそのまま訳しているだけでなく、[・・・]を用いて言葉を挿入するなど、冗長さに輪をかけるようなことをしている。こういう冗長さの要素をことごとく取り除いたとすれば、短縮できるページ数は百をはるかに超えるものになるだろう。以下にその事例を上げていくが、最初に紹介するエズラ記ではおびただしい代名詞をことごとく訳出しており、その数の多さに、文章の流れはもとより、読む意欲も途中で消え去っていくほどの悪文になっている。別宮氏は「誤訳迷訳欠陥翻訳」の中で
「代名詞の数で翻訳のじょうずへたがわかる―っていうのは僕の持論だけど、わずか十九行の中に、彼女、あなた、わたくしが二十二個はいっていた。これはちょっとした記録だろうな」(P.98)
と述べているが、どうやら新世界訳はそれを凌ぐ新記録を達成しそうである。
ここには「わたし」「わたくしたち」がなんと27回も出てくる。たった4節の中に27回である。時間のある人は数えてみて欲しい。
「5.そして、夕方の穀物の捧げ物[の時]に、わたしは引き裂かれた衣とそでなしの上着をまとったまま、屈辱から立ち上がり、それから両ひざでひざまずき、わたしの神エホバにたなごころを伸べた。6.次いでわたしは言った、「私の神よ、私は実際恥ずかしくて、私の神よ、あなたに向かって顔を上げることにもまごついております。私たちのとがは、私たちの頭の上に増し加わり、私たちの罪科は増大して天にまで達したからです。7.私たちの祖父の時代から今日に至るまで、 私たちは大いなる罪科の中にありました。私たちのとがのために、私たちは、すなわち私たち自身や、私たちの王たち、祭司たちは各地の王たちの手に渡され、剣にかけられ、補囚の身とされ、強奪に遭い、顔に恥をかかされて、今日ある通りです。8.ところが今、しばらくの間、私たちの神エホバからの恵みが臨みましたが、これは逃れる者たちを私たちのために残し、その聖なる場所に私たちに賭けくぎを与えてくださることによるのです。それは、私たちの神よ、私たちの目を明るくし、奴隷状態の私たちをしばらく生き返らせてくださるためでした。9.私たちは僕だからです。けれども、この奴隷状態にありながら、私たちの神は私たちを捨ててはおかれず、かえってペルシャに王たちの前で愛ある親切を施してくださいますが、これは私たちを生き返らせて、私たちの神の家を立てさせ、その荒れ果てた所を元通りにさせ、ユダとエルサレムで石の城壁を私たちに与えさせて下さるためです」
「それは、わたしがあなた方を追い散らし、あなた方が、あなた方もあなた方に預言している預言者たちもが、必ず滅びうせるためなのである。」
その他の冗長な表現
「また、これは地に群がる群がる生き物のうち・・」
「地の上を動くあらゆる動く生き物」「あらゆる肉なるあらゆる生き物」
「・・・大いなるしっとをもってしっとする」
「・・・油をもって油注がれた者」
新世界訳は字義役によって辞書にはない様々な語を作り出している。以下にその一部を上げよう。
「また、その頭が上の正面のところではげてくるなら、それは額はげである」(レビ13:14)
単なるはげのこと、てっぺんがはげていれば「てっぺんはげ」とでもいうのだろうか。
「ヨナタンとその武具持ちが彼らを討ち倒したその最初の殺りく[で殺したの]は、一エーカーの畑のすき道のおよそ半分以内のところで、およそ二十人であった」( I サムエル14:14)
畑を耕して作った畆のことである。
「しかしヨアブは彼に言った、『あなたはこの日の知らせの人ではない』」( II サムエル18:20)
メッセンジャー、使者、伝令のことである。
「エホバよ、怒りのうちに立ち上がってください。わたしに敵意を示す者たちの憤怒の激発に対して身を起こしてください」(詩編7:6)
激しい怒りのことである。
「見よ!わたしたちはそれをエフラタで開き、森林の野にそれを見いだした」(詩編132:6)
これは森のことである。
「あなたはこれをいなごのように飛びはねさせることができるか。その鼻あらしの威厳は怖ろしい」(ヨブ39:20)
馬の鼻息のことである。
「そのとき、せん越の水がわたしたちの魂を越えて行ったことだろう」(詩編124:5)
イスラエルに敵対する者たちを表わしている。溢れる水、逆巻く水のほうが日本語らしい。これらの言葉が日本語として辞書に載るには、ものみの塔協会の時代にでもならなければまず無理であろう。
以上、字義訳聖書「新世界訳」ならではの珍表現、不自然さ、意味不明な文章を紹介してきたが、これらはほんの一部にすぎない。日本語になっていない表現がそれこそ全編に満ちているため、読者にとって非常に理解し難い聖書になっている。外山滋比古著、「日本の文章」の中に、聖書が近代散文に与えた影響について述べるくだりがある。英語散文の範とされる「天路歴程」を書いたジョン・バニアンを紹介し、正規の教育を受けなかったバニアンが聖書を繰り返し、繰り返し読むことによって文章能力を身に着けたことを記している。その聖書とは「欽定英訳聖書」のことであり、近代英語散文の基本とみなされていると述べ、次のように結んでいる。
「バニアンのように徹底して聖書の影響を受けた例はさすがにすくないが、ほとんどすべての近代散文に大なり小なり聖書の影が認められる。聖書は信仰の大黒柱であるにとどまらず、文章の指針でもあった。」(P.216、217)
昨今洋の東西を問わず、国語の乱れが憂慮すべき問題として取り上げられることが多くなってきている。日本では欧米ほど一般に聖書が普及しているというわけではないが、聖書にもそれなりの役割を期待してもよいのではないかと思う。人類に啓発を与えるために記された聖書であれば、国語教育に貢献するのも一つの使命であろう。少なくとも決して逆の貢献だけではすべきでない。宗教改革者ルターが新、旧約聖書ドイツ語訳を通じて作り出した標準的ドイツ語は、近代ドイツ語への道を開いたとされる。翻訳に際して、ルターは分かりやすい聖書を作るため大衆の中に入って、彼らが日常使う言葉を徹底的に調べたと伝えられている。残念なことに新世界訳翻訳委員会には、このルターのような基本姿勢はなかったようである。日本語としてどれが適切な表現であり、読者にとって意味が分かりやすいのはどういう表現か、もう少し検討してほしかったと思う。聖書とはそもそも、神が人類にご自分の意志や目的を伝えるために作られた本である。基本的には聖書は理解しやすいものでなければならない。確かにそのすべてが易しく、分かりやすいように書かれているわけではない。日常の言語では表現できないような深淵な真理もあれば、非常に深い意味が込められているところもある。しかしそうした難しさとは、複雑でわけの分からないような表現や漠然とした用語を使うことによる難しさとは、まったく異質なはずである。また聖書には当時の人々が通常使っていた言葉やシンプルで平易な表現が多く用いられている。神も基本的には、人々が理解しやすい、分かりやすい聖書を望んでいるということであろう。したがって、聖書のもつ使命から言っても訳者はもっと次の点に考慮を払うべきである。
「まず、翻訳は日本語で訳してほしい。・・・原文忠実ということをよく言う。でたらめな訳がいいわけがない。原著の言わんとしているところをなるべく正確に伝えるのは訳者の務めである。いわゆる誤訳は極力避けなければならない。ただ、誤訳を恐れるあまり、原文忠実で、わけのわからない訳文になっても平気だというのでは読者は迷惑する。原文忠実がしばしば欠陥日本語の言い訳になっている。原文忠実か、日本語らしい文章か、という二者択一をせまられたら、訳者はためらうことなく、日本語をとってもらいたい。ところが、いまの翻訳者の多くが語学の教師である。教師は日本語がなっていないと言われてもまったく痛痒を感じないが、誤訳がひどい、語学力が怪しいといわれるのは職業的にも影響が小さくない」(「日本の文章」P.202外山滋比古著)
日本語でなければ何も伝えることができないわけだから、これは当然のことである。いかに神の言葉とはいえ、意味が通じなければ霊的に築き上げるものとはならない。本来の使命を達成するためにも、訳者はもっと分かりやすい日本語にすることを心がけてほしいと思う。