3章 訳語の統一による混乱・矛盾

新世界訳聖書の一つの大きな特徴は、ヘブライ語やギリシャ語のある特定の言葉に対して同一の訳語が当てられているということである。こうした翻訳の統一性について「霊感」の本327頁7節は次のように述べている。

「新世界訳」はその翻訳に一貫性を保つようあらゆる努力を払っています。ヘブライ語やギリシャ語の特定の言葉に対して同一の訳語が当てられ、その訳語は慣用または文脈の許す限り、十分理解できる範囲内で統一的に用いられています。例えば「ネフェシュ」というヘブライ語の言葉がありますが、これは一貫して「魂」と訳されています。「プシュケー」というギリシャ語の言葉も、その出てくるすべての箇所で「魂」と訳されています。

このように訳語を統一することには、一体どんな利点があるのだろうか。幾つかの点が考えられるが、まず聖句の相互参照に役立つ、索引を使って聖句を捜すときに便利であるといったことが言えると思う。これは1章では字義訳が選ばれた理由の一つとして上げておいた。

その他には、似たような概念ではあっても厳密な意味分けを必要とする場合などがあると思う。そういうとき訳語の統一は確かに威力を発揮することになる。「霊感」の本にはそのことを示す次のような経験が載せられている。

「新世界訳」の一貫性は、野外で行われた聖書の専門的な討論で幾度も勝利を収めるものとなってきました。ある時、ニューヨークの自由思想家たちの一教会が、そのグループに二人の講演者を派遣して聖書について話してもらいたいと、ものみの塔教会に要請し、その要望が受け入れられました。それらの学者たちは、“ファルスムインユーノーファルスムイントートー”つまり一つの点で偽りと証明された議論は全体が偽りであるというラテン語の格言を信じていました。その討論の際、ある人が聖書の信頼性に関してエホバの証人に挑戦しました。彼は創世記1章3節を聴衆のために読むよう求めたので、「新世界訳」からその節が読まれました。「それから神は言われた、『光が生じるように』。すると光があるようになった」。次に、彼は自信満々の態度で創世記1章14節を読むよう求めたので、その句も「新世界訳」から読まれました。「次いで神は言われた、『天の大空に光体が生じて・・・』」。すると彼は言いました。「待ちたまえ。君は何を読んでいるのかね。わたしの聖書は、神が第一日に光を造り、第四日にも光を造ったと述べているのだが、これは矛盾している」。当人はヘブライ語を知っていると言ってはいましたが、3節で「光」と訳されているヘブライ語は「オール」であるのに対し、14節の言葉はそれとは違って、「光体」という意味の「メオーロート」であることが指摘されなければなりませんでした。この学者は敗北して腰を下ろしました。「新世界訳」が忠実に一貫性を保っていることがこの問題で勝利を得、聖書が信頼できる有益なものであることを擁護するものとなりました。(P. 327,328)

この経験はかなり宣伝の色彩が濃いようにも思えるが、訳語を統一することには確かにこのような利点もあるに違いない。新世界訳翻訳委員会が字義訳のメリットを十分考慮し、それなりの根拠を持って翻訳の一貫性を決定したことは、間違いのないことであろうと思う。

しかし、見逃してならないのは言葉と文化の関係である。文化が異なれば物理的には同じような内容を指す言葉であっても、その語の持つイメージは異なってくる。つまり、象徴的な意味合いの格差は激しくなるのである。「greenhorn」は「青二才」「bule film」は「ピンク映画」である。また、日本語の「犬」には動物としての犬の他に、「まわしもの、スパイ、権力の手先」の意味があり、さらには「犬死に」や「犬侍」などの用法もあるが、英語にはそのような用法はない。逆に「bitch」(雌犬)で「淫婦」を表すような言い方は日本語にはない。

この文化の違いによる語の意味の格差は、名詞だけでなく動詞にもまったく同じように当てはまる。例えば、日本語の「打つ」には字義的な意味の「たたく」の他にも様々な慣用表現、「相槌を打つ」「注射を打つ」「庭に水を打つ」「電報を打つ」「芝居を打つ」「心を打つ」「句読点を打つ」などがある。しかし英語の「hit」にはそうした意味はないので、他の動詞「agree」「inject」「sprinkle」「telegraph」「play」「impress」「punctuate」で表現することになる。逆に「hit」の持つ「頼む、当たる、出くわす、ぴったりする、(魚が)餌に食い付く」といったような意味は日本語の「打つ」にはない。このような例は上げてゆけば切りがないと思う。

さらに、同じ表現であっても場面や状況によって意味が異なってくるという問題がある。外人が戸惑う例としてよく上げられるのは、「いいです」という言い方である。どういう場合が「イエス」で、どういう場合が「ノー」か日本人なら何の造作もなく識別できることが、外人にとって非常に難しいというのはやはり文化の違いによる。伝道している宣教者が「いいです」と断られたのに、家の人が奥の方に引っ込んでも玄関でずーっと待っていたというのは有名な話である。

このように二、三の事例を考えてみただけでも、言葉と文化とは決して切り離すことのできないものであるということがよく分かる。すべての言葉はその民族の歴史や文化を引きずってきており、文化を抜きにした言葉というものはありえない。まさに言葉とは、同時に文化そのものであるともいえる。現在、コンピューターによる機械的な翻訳はごく限られた領域でしか使えないと言われている。それはコンピューターに文化を教えることがいかに困難なことかを物語るものである。コンピューターにとって自然原語を理解することが極めて難しいというのは、言葉の意味が逐語的な対応関係よりも文化的な背景で決定されることの方がはるかに多いということの強力な証拠でもある。翻訳が単なる字義的な言葉の移植ではなく、文化の移植といわれるのはそうした理由による。ものみの塔協会は、

「また、翻訳の忠実さは、それが字義訳であるという点にも明示されます。それには、英語とヘブライ語およびギリシャ語本文との間にほとんど逐語的とも言うべき対応関係がなければなりません」(「霊感」P.325)

と述べているが、それは所詮文化の相違や背景を無視しない限り土台無理な話しである。「慣用または文脈の許す限り、十分理解できる範囲内で」という条件を付けてはいるが、あえて平衡を欠くほどに訳語を統一しようとするとどうなるかは、次に見るとおりである。

(1)5種類の「人」

5つのヘブライ語「アダム」「エノシュ」「イーシュ」「ギベル」「ザカル」はいずれも「人」と訳されている言葉であるが、新世界訳はこれらの語を申し分けている。ものみの塔誌1982年6月15日号は、その点について次のように述べている。

「新世界訳独自の特色として推奨できる別の点は、普通は「人」と無差別に訳出されている五つのヘブライ語の言葉を申し分けている点です。これらの言葉の意味には相違があり、ヘブライ語聖書の筆者たちはその相違を認めていました。ですから、新世界訳は、元の意味と調和させて、アダムという語を「地の人」と訳出し、地の創造物として言及しています。エノシュという語は「死すべき人間」と訳されています。これは人間の取るに足りない、弱い状態を強調しています。ギベルという語は「強健な人」と訳されています。このヘブライ語は力のある人を意味しているからです。イーシュという語は単に「男」と訳されています。これはイッシャーつまり女と区別するものであり、単に人を意味しています。また、新世界訳はザカルという語を「男性」と訳しています。この語は普通、性関係との兼ね合いで用いられるからです」(P.27)

整理すると

「アダム」・・・「地の人」
「エノシュ」・・・「死すべき人間」
「ギベル」・・・「強健な人」
「イーシュ」・・・「男」
「ザカル」・・・「男性」

となる。

もちろん新世界訳も同じヘブライ語が用いられているすべての箇所で、一貫してこのように訳しているわけではないから、意味上の問題が生じる聖句の数はそんなに多くはない。それでも不自然な印象を与える聖句となると、かなりの数に上る。以下、その中で特にアダム、エノシュ、ギベルの三つについて取りあげることにする。

「アダム」― Earthling man

最初の人アダムは地の塵から造られたので、確かに「地の人」という表現は彼にピッタリする訳語である。また「地の人」には「地から取られた、地に住む」といったイメージがあるので、創造物としての人間を表すにも適した表現である。

しかし、アダムというヘブライ語のすべてをどうしても「地の人」と訳さなければならない必然性はない。多くの辞書は、アダムの語源について確かなことはいえないと述べている。特別に、何か「地の人」に込められた意味合いを出したいときに用いる程度でよいのではないかと思う。

例えば、次のような場合である。

「そしてアッシリア人は、人間[のもの]ではない剣によって必ず倒れる。地の人[のもの]ではない剣が彼をむさぼり食うであろう」(イザヤ31:8)

アッシリア人は「人間ではなく神によって裁かれる、地上の人間ではなく天が滅ぼすのである」という意味を強調したいときは、天に対して地なのでこのイザヤ書31章8節のように「地の人」という表現には十分な効果がある。

しかし、次のような場合はかえって逆効果であろう。

「そして、地の人は身をかがめ、人は低くなります。あなたが彼らを赦すことはありえません」(イザヤ2:9)

「地の人」と「人」を彼らにしているので、「地の人」と「人」は異なるのかという疑問を生じさせる。

「そしてエラムは、乗用馬[の引く]地の人の戦車の中で矢筒を取った。キルも盾の覆いを外した」(イザヤ22:6)

わざわざ「地の人の戦車」とすると、戦車の中には他の人のものではない戦車もあるのかとの印象を与えてしまう。もちろん、天の戦車のような象徴的な意味ではなく。 批判的な目で見ればまだいろいろとあるのかも知れないが、無理して考えなければ、アダムにはそれほど大きな問題はない。せいぜいニュアンス程度のことである。むしろ、問題なのはアダムよりもエノシュの方である。

「エノシュ」― Mortal man

ものみの塔誌はエノシュという語が「人間の取るに足りない、弱い状態を強調している」と説明しているが、この語の語源も、やはりよく分からない、はっきりとは断定できないというのが実状のようである。旧約聖書神学用語辞典(ハリス、アーチャー、ウォルトケによる)はエノシュについて次のように述べている。

「エノシュの語源は、はっきりとは分からない。もし、'anash:病んでいる、病気である'から派生したのであれば、基本的には人の弱さや死を避けることのできない運命などが強調されることになる。幾つかの聖句では、人間の取るに足りない低い状態を表わす言葉としてこの語を用いている。(詩編8:4,ヨブ7:17)あるいはこの語は他の語根('ns)から出ているかもしれない。ただし、ヘブライ語の文献にはなく、アラビア語やウガリト語の文献にその使用例が見られる程度である。アラビア語では友好的、社交的であること、そしてウガリト語では同様の概念の親しみやすさを表している。もしエノシュがこの語根から出ているのであれば、エノシュが強調しているのは社会性を持つものとしての人間である。」

このように「エノシュ」にも意味上の幅があるので、全部のエノシュを完全に「死すべき人間」で統一しきれるわけではない。だから、あるところは「死すべき人間」とは訳せないところもある。

最初に、新世界訳がエノシュを「死すべき人間」とは訳さなかったところを紹介しよう。

「わたしが夜の幻の中でずっと見ていると、見よ、天の雲と共に人の子のような者が来るのであった。その者は日を経た方に近づき、彼らはこれをその方のすぐ前に連れて来た。」(ダニエル書7:13)

この聖句はメシアに関する非常に重要な予言の中の一節である。「人の子」はイエス・キリストを、「日を経た方」はエホバをそれぞれ指している。この預言はキリストがエホバの王座の前に連れてこられ、神の王国の王として即位する時の天の光景を描写したものである。ものみの塔協会は第一次世界大戦の始まった1914年に、この預言が天で成就したと説明している。

エノシュが用いられているのは「人の子」の人に相当する部分である。新世界訳の誇る字義訳の方針で全部訳せば、単に「人の子」ではなく「死すべき人の子」と訳さねばならないことになる。しかし、さすがに字義訳新世界訳もイエス・キリストを「死すべき人の子」とはできなかったようである。

もう一つだけこの例として、列王第二2章16節を上げることにする。

「次いで彼らはこう言った。『お願いです、この僕どもと共に五十人の者、勇敢な者たちがおります。どうか、彼らを行かせ、あなたのご主人を捜させてください。エホバの霊が彼を引き上げて、ある山の上か、ある谷に彼を投げたのかもしれません』。ところが彼は言った、『あなた方は彼らを遣わしてはなりません』。」

エリヤが風に運ばれてどこかへ連れ去られてしまったので、同僚の預言者たちがエリシャに主人のエリヤを捜しに行くことを提案しているところである。これは預言の職務が、エリヤからエリシャに引き継がれる際に生じた出来事の一つである。

この聖句の中でエノシュが使われているのは、「五十人の者」の「者」のところであるが、エノシュに死すべき人間を入れて訳すと、「五十人の死すべき人間、勇敢な者たち」という珍妙な翻訳になってしまう。ここはさすがに新世界訳翻訳委員会もすぐに気が付いたものと思われる。

次に「死すべき人間」を入れて訳しているところで、変な意味になる聖句を二つ上げる。

「そうではなく、それはわたしと並ぶ者であった死すべき人間、わたしの親密な者、わたしの知己であったあなただったのだ。」(詩編55:13)

この詩編は、ダビデが息子アブロサムの反逆に遭う、エルサレムから追われてしまった時のことを歌ったものとされている。わたし、つまり、ダビデを裏切り敵になってしまったのは、わたしと並ぶ者、同僚、親友であったとダビデは述べているのである。裏切ったその親友とはアヒトフェルであると考えられているが、彼がいかに重要な人物であったかは次の記述に良く示されている。

「そのころ、アヒトフェルが進言した助言は、人が[まことの]神の言葉を伺うときのようであった。すべてアヒトフェルの助言は、ダビデにとってもアブサロムにとってもそのようであった。」(サムエル第二16:23)

この聖句からよく分かるように、ダビデはアヒトフェルが裏切る前は彼を神のように信頼していたのである。したがって、裏切った後であれば「死すべき人間」というのもうなずけるが、裏切る前に「死すべき人間」というのは変である。というのは、口語としての「べき」は「当然だという話し手の意志や意見、当人に負わされている義務」を表すからである。

詩編55:13を読めばすぐ分かるように、ここはかつての関係について述べているところである。神のように信頼されていたアヒトフェルが「死んで当然の人間であったとか、死ぬことが定められていた人間であった」というのは絶対におかしい。

次の表現は意味不明である。

「わたしが−わたしがあなた方を慰めている者なのである。死んでゆく死すべき人間を恐れ、ただの青草のようにされる人間の子を[恐れる]とは、あなたはだれなのか」(イザヤ51:12)

聖句全体では、「わたし、エホバがあなた方イスラエルの民を慰めている者なのに、どうしてやがては死んで行く草のような人間を恐れ、神に信頼を置こうとしないのか」という意味であろう。イスラエルの民は神よりも周囲の強国、エジプトやアッシリア、バビロンなどにより頼み、しばしばエホバに叱責されている。

ここで問題となるのは「死んで行く死すべき人間」という表現であるが、「死んで行く人間」か「死すべき人間」であれば意味ははっきりしている。しかし、「死んで行く死すべき人間」では、言わんとしていることは分からないわけではないが・・・「やがて死んで行く死んで当然の人間」(そういう人を恐れる必要がないのはあたりまえのことである)「死につつある死に値する人間」(もっと恐れる必要がない)・・・やはりどう考えてみても、なぜ「死んで行く死すべき人間」にしなければならないかはよく分からない。イスラエルの民の不信仰を、とりわけ強調したいというのであれば意味は通るかもしれないが、ここは一般的な形の方がより文意に合うと思う。

このように「べき」を使って「当然である、定めである」というニュアンスを含めると、不自然な印象を与える聖句はかなりの数にあがる。おそらく、意味合いまでおかしくなってしまうような聖句も、捜せばまだまだあると思われる。

「ギベル」― Able−bodied man

「ガーバル」(力強い、強力である)「ゲブーラー」(力)「ゲビーラー」(貴婦人、女王)、これらはみなギベルの同族語である。

先に引用した「旧約聖書神学用語辞典」によれば、「ギベル」は通常、より一般的な用語、アダムやイーシュ、エノシュとは異なり、権力や体力などが最も意気盛んな状態にある男性、あるいはそういうレベルにいる男性を指しており、「力量があり有能な人」を表すと説明されている。そういう意味では、新世界訳の訳語、「able-bodied man」「強健な人」というのは、ギベルの字義を十分反映したものといえる。

ただし、ここでも問題になるのは、あらゆる場合に「力のある人」という字義で統一して訳してよいのかどうかという点である。このギベルはアダムやエノシュと比較すると、特殊な意味合いが強いとはいえ、間違いなくその字義しかないのかというとどうもそうではないようである。

新世界訳委員会もやはり絶対的であるとは考えなかったようで、すべてのギベルを強健な人と訳してはいない。問題となる聖句の数はそれほど多くはないが、しかしそれでも、状況はアダム、エノシュの場合と似通っている。

以下にそうした例を二つ上げることにする。

最初は詩編88編4,5節。

「4 わたしは穴に下る者たちの中に数えられました。わたしは力のない強健な者のようになり、5 埋葬所に横たわる打ち殺された者のように、死者の中に放たれました。」

この詩編はコラの子たちが自らの置かれていた絶望的な状態について歌ったものであるが、その中の一節に「力のない強健な者」という表現が出てくる。英語版も

「I have become like an able-bodied man without strength」

となっているので、確かにそのまま訳せば「力のない強健な者」になる。

「力のない」も「強健な」も共に「者」にかかっているので、素直に考えると「力のない強健な人」とは「力のない、力強い人」ということになり、それは一体どんな人なのだろうかということになってしまう。

意味としては、有能で力強かった人が絶望的な状態ゆえに、力がなくなってしまったということなので、「力のない人のようになった」とか「力が尽きてしまった」といった表現の方が正しい。

次はエレミヤ記22章30節。

「エホバはこのように言われた。『この人を子のない者、一生成功することのない強健な者として書き記せ。成功を収め、ダビデの王座に座して、これ以上ユダで支配する者は、彼の子孫からは一人もでないからである。』」

「This is what Jehovah has said,‘Write down this man as chidless, as an able-bodied man who will not have any successin his days; for from his offspring not a single one will have any success, sitting upon the throne of David and ruling anymore in Judah’」

「必ずしも速い者が競争に勝つのではなく、また力の強い者が戦いで勝利を収めるのでもない。予見しえないことは全ての人に臨む」と伝道の書9章11節は述べているので、強健な人が人生で失敗しても別に不思議ではないが、一生成功しないのに「強健な人」というと、やはり変な感じがする。強健な人であれば、一度くらいは成功してもよさそうなものある。

エホバがこのように宣告しているのは、ユダの王エホヤキンについてである。彼はまもなくネブカデネザルに捕らえられ、バビロンに連れて行かれることになるが、この時は王位についている強健な人なので一生というのはどうしてもおかしい。

五種類の人を訳し分ける一試みとしては決して悪いことではないと思う。むしろ、より正確な意味に近づこうという努力としては、積極的に評価できることかも知れない。ただ、あくまでも語根の意味を含めるか含めないかは、全体との関係で、文脈や言わんとしている主旨との関係で決定すべきであろう。字義が優先され、ある特定の字義が意味上の支配者になるようなことがあってはならない。

かなりの意訳で正確さではあまり信頼を置くことができないとは言われているが、世界最初の聖書翻訳である「ギリシャ語70人訳」は、新世界訳のようなレベルでの「人」の申し分けは行っていないということを付け加えておく。

(2)「玄関」― Porch <<列王第一7:6〜8>>

ここには様々な玄関が登場する。少し長いが全文を引用することにする。

「6 また、“柱の玄関”を彼は造った。その長さは五十キュビト、幅は三十キュビト。その前にはひさしがあった。7 彼が裁きを行うことにしていた“王座の玄関”については、彼は裁きの玄関を造った。人々はそれを床から垂木に至るまで杉材で覆った。8 彼が住むことになっていた、ほかの中庭のその家には“玄関”に属する家から離れていた。それは造りの点でこれと同様であった。また、ソロモンが自分のめとったファラオの娘のために建てた、この“玄関”のような家があった」

さて、言うまでもなく「玄関」とは「建物の正面にある入り口」のことである。それで、上の聖句に出てくる玄関をそういうふうに考えてみると、次のようになる。

1.柱の玄関

このようにいうと「柱だけでできている玄関」という感じになってしまうが、はたしてそのような玄関があったのだろうかという疑問がわく。

2.柱の玄関の前の柱のある玄関

これはもう意味不明である。まさか二間続きの玄関ということではないであろうし、仮に続いているとしても普通は一つの玄関と言う。

3.王座の玄関あるいは裁きの玄関

ソロモンの王座は玄関にあったのだろうか、また、ソロモンは玄関に出てきて裁きを行ったのだろうかという疑問が生じる。

4.ソロモンの住む玄関に属する家

こうはまず言わないのではなかろうか。普通は、家が玄関に属するというのではなく、玄関が「家」に属しているという。それともソロモンの住んでいたのは「途方もなく大きな玄関に付随していた小さな家」・・・ちょっと考えられないことである。

5.ファラオの娘のための玄関のような家

予算の都合で玄関のような家しかできなかった、それでファラオの娘は仕方なく玄関のような家に住むことを余儀なくされた・・・・栄華を極めたソロモンのことだから、こういうことはありえない。また、ソロモンの不興を被って、玄関のような家に入れられていたというわけでもない。

ここはソロモンの建てた壮大な建築物について述べているところである。宮殿、広間、玄関と訳し分けると別に問題はないが、新世界訳のように訳語をすべて「玄関」に統一してしまうと不思議な建て物が出現するという結果になってしまう。

原文のヘブライ語本文を見るとこの“玄関”に当たるところがすべて「ウーラーム」、またはその変化形になっている。新世界訳委員会は英文にする際、それをことごとく「Porch」と訳した。そのため英文に忠実な日本語版も広間や入り口をすべて“玄関”にしたようである。

ここで用いられている「ウーラーム」は「Porch」以外にも「hall, palace, portico :前廊、柱で支えられた屋根付きの玄関」などの意味がある。この6〜8節の中で“玄関”と訳せるところは日本の文化から言えば、一つしかないだろう。

参考に口語訳の訳文を上げておく。

「6 また柱の広間を造った。長さ五十キュビト、幅三十キュビトであった。柱の前に一つの広間がありその玄関に柱とひさしがあった。7 またソロモンはむずから審判をするために玉座の広間、すなわち審判の広間を造った。床からたるきまで香柏をもっておおった。8 ソロモンが住んだ宮殿はその広間のうしろの他の庭にあって、その造作は同じであった。ソロモンはまた彼がめとったパロの娘のために家を建てたが、この広間と同じであった」

(3)「気遣い」― Concern

広辞苑には、「気遣い」とは「あれこれと心を使うこと、心づかい、気がかり、心配」とあるが、今は主に他の人のために心を配るときに用いるのが普通であろう。「心配だ」というとき「気遣いだ」とは言わないし、「気がかりです」というのも「気遣いです」とは言わない。 こういう「心配り、心づかい」という意味で「気遣い」の統一を見てみると、特にヨブ記に互いに矛盾する箇所や妙な表現が多いのに気付く。次に上げたのはそうした聖句の中の代表的なものである。

「わたしの寝床はわたしを慰め、わたしの床はわたしの気遣いを支えるのを助けてくれる」
「My divan will comfort me, My bed will help carry my concern」(ヨブ7:13)

「わたしの魂は自分の命に対して確かに嫌悪を感ずる。わたしは自分についての気遣いを漏らそう。わたしは自分の魂の苦しみのうちにあって語ろう!」
「My soul certainly feels a loathing toward my life. I will give vent to my concern about myself. I will speak in the bitterness of my soul !」(ヨブ10:1)

「ところが、あなたは、神の前に恐れを無力にさせ、神の前に気遣いを抱くのを少なくする」
「However, you yourself make fear [before God] to have no force ,and you diminish the having of any concernbefore God 」(ヨブ15:4)

「今日もまた、わたしの気遣いの様子は反逆であり、わたしのこの手は嘆きのゆえに重い」
「Even today my state of concern is rebelliousness; My own hand is heavy on account of my sighing 」(ヨブ23:2)

まず、7章13節の「わたしの気遣いを支える」という訳文であるが、分かりにくいのは「わたしの気遣い」という表現である。これだと自分を気遣っている(心配している)のか、それとも誰かを気遣っている(心遣い)のかよく分からない。加えて、「支える」の主語はわたし、つまり、ヨブなので、文意はヨブが自分で自分の気遣いを支えているということになる。何とも妙な文章である。ヨブの状況を考えると、ここはロバート・ゴルディスによる私訳のように「嘆き」か「苦悩」を用いる方がよい。

「わたしの臥所(ふしど)がわたしを慰め、わたしの寝床がわたしの嘆きの重さを共にしてくれる」

ヨブ15章4節テマン人エリパズがヨブを非難しているところである。このエリパズという人は、ヨブを慰めにやって来た三人の偽善者のうちの一人であった。

15章4節を読むと明かなように(ただし、神の前に恐れを無力にさせるというのは何のことかよく分からないが)、エリパズの「気遣いを抱くことを少なくする」という言葉は、ヨブに対する非難であることが分かる。このことからすれば、当然のことながらヨブは「神のことをあまり気遣ってはいなかった」ということになる。

ところが、10章1節の「わたしは自分についての気遣いを漏らそう」(続く2節で『わたしは神に申し上げることにする』と述べているので、この気遣いは神に向けられたものであることがわかる)、23章2節の「今日もまた、わたしの気遣いの様子は反逆であり」から分かるように、ヨブは自分から進んで気遣いを漏らしており、しかもそれは毎日のことであったと考えられる。一方で「少なくする」と非難し、他方で「毎日のように多い」という。これは明らかな矛盾である。

付け加えると、このときヨブは公正な裁きを求めてうめいており、自分の忠誠を証明することに心を砕いていた。そうした状態が、いわゆる「気遣う」素振りでやって来た三人の友には、神に対する反逆に見えたということであって、別にヨブが気遣っていたわけではない。極度の苦悩を気遣いなどとされたら、それこそヨブの苦悩が深まることになろう。

10章1節は、ちょっと代名詞がくどいとは思うが、新世界訳とは対照的なゴルディスの私訳を上げておく。

「わたしはわたしの生命がいやでたまらない。
わたしはわたしの不満の手綱を手放そう。
わたしはわがたましいの苦痛のままに語ろう」 「君は敬虔の念をそこない
神との交わりを減らしている」(ヨブ15:4)

「わが嘆きが今になお反抗的であるにもせよ、
わが上に置かれた神の手はわが呻きより重い」(ヨブ23:2)

(4)「水の深み」―

ここで用いられているへブライ語は「テホーム」である。テホ−ムには「大海、深海、深淵、混沌、計り知れないもの、大量の水」などの意味があるとされているが、新世界訳はそのほとんどを「水の深みと訳している。最初に出てくるのは創世記1章2節である。

「さて、地は形がなく、荒漠としていて、闇が水の深みの表にあった。そして、神の活動する力が水の表を行きめぐっていた」
「Now the earth proved to be formless and waste and there was darkness upon the surface of [the] watery deep ; and God's active force was moving to and fro over the surface of the waters」

ここの訳でまず問題となるのは「荒漠」という言葉である。このとき創造の第一日はまだ始まっていない。陸地はなく、地球全体は水に覆われたままであった。ところが、「荒漠」という表現を用いると、まだ造られていない陸地が、すでに存在しているかのような印象を与えてしまう。「荒漠」とは砂漠や荒野のように「荒れ果てた土地がどこまでも続いている様子」をさし、荒漠とした大地、原野などのように用いる。海に使う場合は比喩的な用法である。「地には形がなく、荒漠としていて」と述べられているので、新世界訳は間違いなく「海」ではなく「地」に用いている。地球全体はまだ水で覆われたままなのに、「荒漠とした地」はいったいどこにあったのだろうか。まさか海の底というわけではないと思うが。次に「水の深み」であるが、おかしいのは「水の深みの表」という表現である。ふつうに順序よく考えれば、「水の深みの表」とは「水の深み、つまり淵、深淵」そして、「その表、すなわちその表面」ということになる。そうすると、地球全体が深みに覆われていたのか、それとも所々が深み(通常の湖や川、沼はそうである)であったのか、また、闇は地球全体を覆っていたのに(光あれは第一日である)深みの上だけ特別、濃い闇に覆われていたのかといった疑問などが生じてくる。ここのテホームが何をさしているかはまったく問題がない。上の水と下の水に分けられる前に地球全体を覆っていた多量の水を表している。ただ、問題は「深み」や「淵(口語訳)」と意味を限定してしまうか、それとも概念を広げて「洪大な水」や「大いなる水(新改訳)」とするかということであろう。

次は創世記7章11節である。

「ノアの生涯の六百年目、第二の月、その月の十七日、その日に広大な水の深みのすべての泉が破られ、天の水門が開かれた」(創世記7:11)
「In the six hundredth year of Noah's life, in the second month, on the seventeenth day of the month, on this day all the springs of the vast waterydeep were broken open and the floodgate of the heavens were opened」

有名なノアの大洪水の始まりであるが、ここで問題とまるのは「広大な水の深みの泉」と「天の水門」をどう考えるかということである。天の水門はもちろん天にあるに決まっているので問題はないが、「深み」の方は、地上にあると考えるかによって解釈が分かれる。この点について新改訳聖書の脚注は次のように述べている。

「一章の『大空の下にある水と、大空の上にある水』を意識した表現。未曾有の大洪水は豪雨だけによらず、地下からの噴出や溢水、水脈や海底隆起のような、異常な現象を伴ったものであろう。ペルシャ湾岸地方は、地質年代上比較的新しい時代に大規模に浸水している。その原因は、海底の突然の隆起であった。これが海底火山の巨大な爆発であれば、豪雨をもたらし得るであろう」

またバルバロ訳聖書では次のように注解している。

「大洪水が地をおおうここの記述は、当時の宇宙論に従っている。当時の考え方によると、大地は大柱の上におかれ、下には深淵がある(創世49:25、詩編24(23):2、75(74):4、格言8:29、ヨブ37:18)地下のその深淵の水は、川などによって上に出てくる(格言8:24、28)ここでは川があふれたことなる。そのうえ「天の屋根」の水門が開いて、上にあった水も流れ出てきた。「ヤビスト」の伝えでは、むしろ、「大雨が降った」ことだけが原因で、洪水になったという」

これらの脚注の説明からも分かるように、訳語を選ぶカギとなるのは「大洪水の水がどこから来た」と考えるかである。天と地の両方からとすると、ここのテホームは「下の水」をさすことになるので、「淵」「深淵」「深み」などの訳語でよいことになる。しかし、天蓋上に地球を覆っていた水が雨となって降り注ぎ、大洪水が起きたと考えるのであれば、「深み」ではふさわしくない。ものみの塔協会は「上の水」説なので、「深み」ではおかしいはずである。新世界訳にはもう一つ意味不明の部分がある。「深みのすべての泉」という表現がそれであるが、いったいどういうことであろうか。いくら深い泉でも泉は泉というので、「深みの泉」だと淵の底からたくさんの泉が沸き出しているくらいにしか考えようがない。それに泉は水の噴き出し口があるので泉というわけだから、その泉が破られるというのも妙な表現である。「spring」には、「水源、源、源泉」の意味もあるので、「源」と考えると「泉」よりはましになるが、それでもやはり、ものみの塔協会が説明している大洪水の記述にはあわない。創造の二日目で分けられた「上の水」を大洪水の原因と考える以上は「水の深み」ではどうしても駄目であろう。

その他の分かりにくい水の深み


<ヨブ38:30>「水も石によるかのように身を隠しており、水の深みの表は堅くしまる」
「The very waters keep themselves hidden as by stone, And the surface of the watery deep makes itselfes compact」

「水の深みの表は堅くしまる」・・・表面張力のことであろうか。そういうふうにも受け取れるが、この前の節で「霜」や「氷」について述べているので、ここはやはり次のように考えるのが妥当であろう。

「いつ水が石のように凝結し、深淵の面が凍ってしまうのか!」 (ロバート・ゴルディス私訳)

「あなたはそれを知っているのか」とエホバはヨブに尋ねているのである。ただ、この聖句は「水の深み」もさることながら、その前の方、「水も石によるかのように身を隠す」がもっと分かりにくい。水が石の中に隠れるとは普通は言わないので、これは実に不自然な印象を与える。しかし、表面に張った氷を石に例え、その中に水が隠れていると考えれば、ユニークな擬人表現になるのかもしれないが。この他にも「水の深み」にはまだ幾つかあるが、この辺でやめることにする。

(5)「魂」― Soul

基本的には対応関係にある語でも、文化が異なるのでカバーする意味の領域がかなり食い違うときは、一語でその語を表そうとすると聖書解釈のレベルで複雑な解説を必要とすることになる。「魂」という語はそのような例の代表的なものである。日本語の「魂」には

  1. 人間の胎内に宿り、精神の働きをつかさどると考えられるもの (類語には霊魂がある)
  2. [物事をしようとする]気力・精神。(類語には精魂がある)
  3. [職業・身分などを表わす語について]そのものに特有の精神の構え方。気構え。

のような意味しかないが、ヘブライ語「ネフェシュ」は (1)生命、(2)魂、(3)思い、精神、(4)意志、(5)人、(6)動物、 (7)魚、(8)その人自身、(9)息、(10)欲望、(11)食欲、貪欲、など、日本語の魂とは比較にならないほど、たくさんの意味を持っている。「魂」で「ネフェシュ」のすべてをカバーするのはとうてい無理である。ものみの塔協会の場合は「不滅の魂」の教えを否定しているので、魂で表せる意味野はもっと狭くなる。「魂」に関してふつう一般とは異なる教義を持ちながら、なおかつ、「魂」という語を使って一般の人々に読んでもらう聖書を出版するとすれば、次のような問題が生じてくる。

  1. 聖書を読むだけで正確な意味をつかむことはできず、理解しようとすれ ば、まずものみの塔協会の教理を学ばねばならなくなる。
  2. 日本語の「魂」の用法と異なる箇所は解説を必要とする。たとえば次の ような具合である。
    「すると人は生きた魂となった」(創世記2:7)医者となった人は医者であると同じように、創造された人間は魂であったのです。それで人間の魂とは人間そのもののことであり・・・・。「あなたの魂は肉を食べることを渇望するのであるが」(申命記12:20)魂を、物質的な食物を求める者として扱っています。「私の魂は悲嘆のあまり眠れませんでした」(詩編119:28)「魂」という言葉は、魂としての人自身をさす場合があります。それで「私自身」という言い方がありますがそれと同じ意味で、「私の魂」ということもできるのです。「それから、彼は三度、その子供の上に身を伸ばして、エホバに呼びかけてこう言った、『わたしの神エホバよ、どうか、この子供の魂をこの子の内に帰らせてください』。ついにエホバはエリヤの声を聞き入れられたので、その子供の魂はその子の内に帰り、その子は生き返った。」(列王第一17:21、22)魂という言葉はまた、生きた魂つまり生きた人間として人が持つ命を表すこともあります。たとえばわたしたちは、生きた人間であるという意味で、だれそれは生きていると言います。あるいはこの場合、人間としての命があるという意味で、彼は命を持っているということもできます。預言者エリヤが死んだ少年に奇跡を行ったとき、少年の魂(魂としての少年の命)は少年に戻り、「彼は生き返り」ました。少年は再び生きた魂となりました。(「とこしえの命に導く真理」P.35、37より)
  3. 以下のような妙な翻訳が生み出される原因になる。

    「彼らは・・・しかも魂[の願望]の強い犬であり、満足することを知ってはいない」(イザヤ56:10、11)
    魂の願望の強い犬とは、貪欲な犬のことである。

    「まだ望みのあるうちにあなたの子を打ち懲らせ。これを死に渡すことにあなたの魂の願望をもたげてはならない」(箴言23:2)
    食欲が強く自制するのが難しければということである。

    「目で見ることは魂の歩き回ることに勝る」(伝道6:9)
    この意味は難解で解釈も分かれているが、おそらく欲望の意であると考えられる。つまり、「目で見ているもの」(自分の手にできるもの)の方が「欲望がさ迷い歩く対象」(手に入らないもの)よりも勝っているということであろう。

訳語を統一すると、同一のヘブライ語やギリシャ語の使われているところが分かって便利であると考えるか、それとも、混乱や矛盾を生み出す原因となると判断するかは意見の分かれるところであると思うが、今まで論じてきたような問題が生じてくるのは間違いがない。おそらく、アダムの話していた言語、神が最初に人類に与えた言語がヘブライ語であったとか、イエスの話していた言葉がアラム語やギリシャ語であったというような、ヘブライ語、ギリシャ語に対する信仰めいたものが背後にあるのかもしれないが、あらゆる意味で完全無欠な言語というものはない。文化が異なれば意味領域にそれなりの限界が生じてくるのは、見てきたとおりである。ヘブライ語、ギリシャ語も決して例外ではない。