約二年間に及ぶ今回の事件を通し、統治体とものみの塔協会に関して明らかになった点を要約すると、だいたい次のようになる。
「言うことと行うことに違いはない」。キリスト教世界を偽善者の大集団と非難してきたものみの塔協会にとって、これは最大のセールスポイントであった。その点について「二十世紀におけるエホバの証人」は、<手本によって述べ伝える>の見出しのなかで次のように述べている。
「言うことと行うことが違うのは偽善であって、宗教上の偽善は多くの人を聖書から引き離してきました。聖書が誤っているわけではありません。………それでエホバの証人は、自分が他の人々に勧めるクリスチャン的な生き方の手本となることによっても『良いたより』を人々に伝えようとしています」(p.21)
また、「目ざめよ」はエホバの証人に対する外部の評価として、カトリックの刊行物「モンド・エッレ」から次の一文を引用している。
「自らの宣べ伝える信仰を実践する点での第一人者はエホバの証人である」('87 3/22号p.6)
この評価は誠実に努力しているエホバの証人にはその通りであっても、統治体やものみの塔協会の幹部には全く当てはまらないようである。本を執筆して教えている本人が一番駄目だというのは、宗教上はよくあることで少しも珍しいことではないが。
ものみの塔協会の現執行部はことごとくその公約を破った。偽善の決定的な証拠はこの事件そのものである。もし組織の中に偽善的な体質がなければ、このような事件は起こらなかったからである。この点についてはもう十分であると思うが、二つの例を付け加えることにする。
(I). 加藤さんは、「裁きの根拠を知らせてほしい」と支部に申し入れていたが、それに対して日本支部は小熊兄弟を通し、「知る権利がない」と回答して来た。このクリスチャンらしからぬ回答に唖然とした加藤さんは、11月1日付けで支部に質問状を送った。すると次のような返答が送られてきた。
ペンシルバニア州の ものみの塔 聖書冊子協会
1985年11月4日
北海道札幌郡XXXXXXX 加藤政治様 前略あなたは最近、当協会の奉仕者本間年雄氏にご質問の手紙をお送りになられたようです。わたしたちは以前にもあなたから同様の手紙をいただいておりましたので、ここに当協会の見解をお知らせすることにいたします。
ものみの塔聖書冊子協会の職員もまたクリスチャン会衆内にあって聖職者の立場で働いている長老たちも自分たちの職務を果たす上で、聖書に定められている神の律法および法律が定めた種々の要求につき従うことを堅く決意しております。ご存知のように聖職者に対する刑法上の一つの規定は、刑法第二編第13章第134条にある秘密漏洩罪に関するものです。その一部をここに引用いたします。「宗教…ノ職ニ在ル者又ハ此等ノ職ニ在リシ者故ナク其業務上取扱ヒタルコトニ付キ知得タル人ノ秘密ヲ漏洩シタルトキ亦同シ」
したがって、長老の職にある者(たち)がクリスチャン会衆内での特定の業務を取り扱った結果、当人から知らされた情報のみならず、推理や調査などによって知り得た秘密の事実をまだ知らない人に告知することは、漏洩罪に相当するものです。この理由によりあなたがお尋ねになっている件に関しては、当協会のみならずクリスチャン会衆内に聖職者の立場で仕えるいかなる長老もあなたの求めに応じて情報を提供することができないことをここにお知らせいたします。どうぞご了承ください。
この回答の中で注目すべきなのは、長老たちを「聖職者」と述べている点である。エホバの証人なら誰でも知っていることであるが、「聖職者」とは偽りの宗教の帝国、大いなるバビロン(ものみの塔協会は自分たち以外の宗教組織をすべて大いなるバビロンと呼んでいる)の僧職者の代名詞として使われている言葉である。「聖職者」「僧職者」クラスは大患難のとき、真っ先に滅びるとものみの塔協会は教えている。
それなのに自らを「聖職者」と述べるとは!まさか自分たちの教えを忘れたわけではあるまいに。
(II). 「愛はクリスチャン会衆を見分ける鍵です。この組織は愛に満ちています。皆さんも来て、是非それを確かめてください」と、ものみの塔誌は事ある毎に宣伝している。しかし藤原兄弟は1985年7月11日、公の集会で次のように述べてしまった。
「では、その支部組織を通して私はあの突然、びっくりするほど突然任命されたのですけれども、ここに来なければならぬ羽目になったのは…別に皆さんを非難するという目的で来たわけではないので、どうぞビクビクなさらないで下さい」
藤原兄弟もつい普段思っていることが出てしまったのであろうが、この発言について、加藤さんは次のような感想を支部と本部に送った。
「同労者である講演者と会衆の間で、監督者が『ビクビク』するという恐怖心を抱かせる現実。これはエホバの権威、それとも人間の権威そのどちらですか。少なくともエホバの証人の中で人間が人間を恐れるというのは不自然なことでしょう。クリスチャン同志の交わりの中で不用意に発せられた言葉ではあっても、無神経に平然とこのようなことが講演者の口から飛び出すというのは、おおよそ理解しがたいことです。」
あらゆる面でそうだというわけではないが、全体的に組織の原理は愛の原理ではなく従順を要求する「統制の原理」である。上に行けば行くほど、この傾向は強くなる。これが決して日本だけの問題でない事は、震え上がった本部のフルヤ兄弟のことを考えれば一目瞭然であろう。
1986年12月、ものみの塔協会の副会長、ロイド・バリー兄弟は日本を訪問して講演を行なった。その時の様子をテープで聞いた金沢兄弟は、今回の事件の本質的な原因が組織崇拝、組織バアルにあるのではないかと考えるに至った。そして約一年後、次のような手紙を本部に送った。
1986年11月15日
親愛なる本部の兄弟たちこの手紙によって私はまず、今回の事件を通して表面化した崇拝の問題とそれを育んできた背後にある状況についてお知らせしたいと考えています。そして本部の皆さんが神の組織、真理の組織として、そうした問題にどのように対応なさるかを是非ともお聞きしたいと思っています。
イエス・キリストが教えられた通り真の崇拝は霊と真理にしたがって行なわれます。もし表面上真理に従っているとしても陰で行なうことが全く異なっていたり、さらに、語ることと行なうことが違うのであれば、それはもはや真の崇拝と呼ぶことはできないでしょう。崇拝の形をエホバ対バアルと考えるなら、古代イスラエルのように何らかの形のバアル崇拝が入り込んでいるということになります。私たちの事件の最後に行き当たったものは、実にこうした崇拝の本質に関わる問題であり、それは監督たちの示した次のような反応によく表れています。
彼らは「エホバと聖書には従います」というので「それではエホバにふさわしく事を正しましょう。真の崇拝者であると主張しているのだから真理、真実に従って物事を扱いましょう。やましいことがなければ光を当てることをためらったり、拒んだりする必要はないでしょう」と申し出ると最後に返ってくるのは「組織の指示です。たとえ真実がどうあろうと私たちは組織に従います。」という返事であった。その後はどう働きかけてもただひたすらだんまりである。これは期間をおいて何度か繰り返されたことでもあります。
このように口ではエホバと聖書の権威を認めると言いながら、実際そのようにはせず、願い求めても応じないということであればヨハネ4:23、24からして、これはもはや真の崇拝を後ろに退け、そのidentityを失ったとみなすより他にありません。そして、組織の名においてそういうことを行なっているのですから、真の崇拝の中に入り込んできたBaalの名は「組織」であるということになります。
こうして「組織Baal」の実在が露呈されたわけですが、彼らの言うこの「組織」という言葉がいったい何を指すのかは非常に分かりにくい問題です。組織の定義は「同一の取り決めに従う知的集団」であるとされています。これからすると、取り決めか、知的集団と言うことになりますが、監督たちの反応はこのいずれでもないことを示しています。取り決めだとすると少なくとも「ものみの塔誌」や「王国宣教学校の教科書」の指示には従うはずですが、私たちがその箇所を指摘しても彼らはそうしようとはしませんでした。では知的集団として目に見える人間…これはその徴候すらありません。どうもこの「組織」という語が指すものは建物、人、取り決め、スタンプなどの組織の諸要素のいずれでも、またその集合体でもないようです。私は監督たちが「組織、組織」と語る場面を何度も見てきましたが、まず、その意味の意味あるいはその実態が意識されていることはほとんどなかったといってよいと思います。もちろんごく一部の例外はありますが…
こうしたことからすると、この「組織」なる言葉は明確に意味が規定され、その実態が識別されたものというよりは、むしろ、漠然とした概念化された性質のものということになります。おそらく、それはaion, mode, system, administration,などのレベルに相当する「組織」というConceptではなかろうかと思います。それで一応このBaalはConcept Baalと呼ぶことにしておきます。
さてConceptは通常、意味野(Meaning Field)を形成し、中心をなす核とその周辺領域からできています。監督たちがしばしば口にする「それは協会の指示です。協会からの連絡によれば…、協会の考えでは…」などという表現から判断すると、意味野の核はものみの塔協会であり、その周辺領域にはものみの塔協会との接触のすべてが含まれると考えることができます。従って法的にはこの「組織」という名のConcept Baalは、ものみの塔協会に象徴され、そしてものみの塔協会に集約されてゆくことになるといえるでしょう。
ところが、先に述べた通りこの意味野はその核も周辺領域も、バアルのイメージではあってもバアルそのものとしては意識されておらず、実際バアルになっているわけでもありません。とすれば、本当に崇拝されているもの、実際のバアルは別のところに、すなわちConcept Baalの背後に隠れているということになります。この背後に隠れているものこそバアルの実体でありConcept Baalを操り、巧みにバアル崇拝を行なわせる正体であるといえるでしょう。
このConcept Baalの正体を考えると、まず思い出されるのは、リチャード・名幸(ナコウ)兄弟が秋田県能代会衆を1977年に訪問した時兄弟たちの前で語った次のような言葉です。
「イヌは餌で訓練するのが一番です。そうすると進歩するでしょう。同じように兄弟たちも特権で訓練するのが最善の方法です。だから兄弟たちも特権を目指しなさい。」彼はハワイ出身の宣教者で長く巡回、地域監督として奉仕していました。キリストがこのような仕方で弟子たちを励ます姿はちょっと想像しにくく思いますが、この意識でゆくと、兄弟たちはイヌ、特権はエサ、そして組織はそのエサを与える主人ということになり、組織の犬になればなるほど特権への道は近いということになるでしょうか。もちろんこれは冗談としてではなく公的な場で、しかも真剣に語られた言葉です。
兄弟たちがいかに特権を望んでいるかはなんともあさましいほどで、この組織に入ってすぐに目撃した例を一つ記します。1973年の大阪国際大会でのこと、京都の旅館に帰って風呂に入っているとき、すぐ隣で「あいつは出世せん。あんなやり方では無理だ」と大きな声で話している人を見かけました。出世するのしないのと話しているのでこれはエホバの証人ではないだろうと思いましたが、次の日大会会場で会ってビックリしました。その人はある自発奉仕部門で働いている補佐の兄弟の一人でした。
こうしてエホバの証人の中にも特権コースという出世の道があることを知るようになったわけですが、長老に任命されてからはさらに特権をめぐる醜い競争を目にする機会が多くなりました。もちろんそうではない監督たちもたくさんいるとは思いますが、大会のプログラム欲しさに無理しても開拓奉仕をしようとする長老は少なくありません。このような特権に対する典型的な姿を浮き彫りにしたのが、今回の事件で監督たちの示した態度でしょう。彼らが最後に気にしていたのはエホバの栄光でも会衆の益でもなく、自分の特権だったのですから。特権を失うことをいかに恐れたかは尋常ではなかったのです。また日本支部がこの事件に関与したほとんどの監督たちの特権を増し加えたことも、支部の考え方をよく表していると思います。
これらのことがいったい何を意味するのか、答えは明らかではないでしょうか。Concept Baalの正体は特権欲以外には考えられません。事実、「特権、特権」という人は必ず「組織、組織」という人でもあります。心の宝なる特権を与えてくれるのは「組織」ですし、特権を奪う恐ろしいものもまた「組織」なわけですから。したがって特権欲という自己顕示欲、特権を失うことへの恐れ、これらがConcept Baalの根またトゲであると言えるでしょう。この強大な力の前には、真理も真実も誠意も実にもろいものです。「あなたの組織に対する忠誠が試されます」と言われれば、ただただ恐れ震えるのです。何のことはない自分の命令に従えと言うんでしょうけれども、「組織」という言葉を持ち出されると、もう手も足も出ません。Concept Baalの威力のすごさです。これは実に強力です。人々を支配する恐ろしい力を持っています。最初は良いもの健全なものも、たちまち変質、変容させられてしまいます。さすがは空中の権威の支配者であるとつくづく感心させられます。組織が巨大になればなるほど一個人には見えなくなるという面もありますし…
しかしConcept Baalの恐ろしさはその力だけではありません。その性質、特徴にも非常に恐ろしい面があります。
一つの点はConceptと実体が心の階層の中で別々に住んでいるということです。Conceptの方は心の表層に置かれています。しかもそのConceptは、ほとんど無条件で受け入れられているものです。エホバの組織は組織のエホバです。エホバに仕えることは組織に仕えること、エホバの組織はただ一つそれ以外は皆サタンの組織、組織を悪く言うものは誰でもサタンの手先ということになります。それゆえ嘘、偽り、偽証を犯しても、それは組織のための神権的戦術、霊的殺人を犯しても組織のガンの手術になってしまいます。一方、実体の方は心の階層の最も下の方にしかも一番奥深いところに潜んでいます。心の中に広大なネットワークを作っていることは本人もほとんど意識しません。都合が悪くなるとこの実体のバアルは意識とのFeed Backをswitch offにし心の奥深くに隠れ、Conceptを砦として立てこもってしまいます。
そういうわけでBaal崇拝をしていても本人は常にエホバを崇拝していると考えることになります。だからこそ真理、真実を退けても、あの藤原兄弟のように、「心からのエホバの証人でいましょう」ということに何のためらいも感ぜず、偽善的であるとも思わないのでしょう。もっとも中にはかなり良心的に苦しんでいる人もいたようですが。嘆願の手紙を迫害と言う、笹山兄弟のような人もいましたので。私たちからすればずいぶん身勝手なことだと思いますが。それでも組織恐ろしさに何もできません。会うことも話すことも。「エホバより、いったい何を恐れるんですか。組織の神はエホバでしょう」と詰め寄れば、最後には調整者の織田兄弟が去年の12月の地帯訪問の時祈りの中で称えた「母なる組織」に、司会者の兄弟が声を高めて強調した「忠誠を保つべき組織」の中に逃げ込んでしまいます。その砦から出てきた監督は今まで一人もいません。
このようにConcept Baalには心の階層構造を最も効果的に用いるという恐るべき性質がありますが、さらに警戒を要するのは一定の期間が過ぎ、あるレベルに達するとConcept自体が一人歩きを始めてしまうという点です。ある大脳生理学者はこうした現象を「言語系の暴走」と呼び、次のように指摘しています。「これは画一化された一元的環境、組織体の中で生じやすい現象であり、条件反射的になっている言語系とエングラム(engram)の蓄積によって発生の条件が形成されてゆく。この現象を起こすには、まず動物系の欲求を押さえると同時に、それを正当に満たすことのできるConceptを設定する。続いてそのConceptを神聖で冒すべからざるものにし、条件反射のレベルまで高める。そうすると、やがて言語系の暴走が始まる。」
暴走が始まるとはもはや、その言語系Conceptを利用していた者にとっても制御不能になってゆきます。
今の組織の実情を見ていると、Concept Baalが暴走を開始するための下地は十分整いつつあるように思います。もしかしたら、もうすでに一部では始まっているのかもしれません。そうではないとしても、少なくともそれを育む背景は十分にあります。以下にその幾つかの状況を記します。
以前はそうでもなかったように思うのですが、最近会衆を訪問した巡回監督のほとんどはまずもてなしに、そして成績と数字に強い関心を持っていました。立場上仕方がないのでしょうけれども、巡回区の平均と会衆の平均を比較し、平均が下がっている分野を重点的に励ますことになります。かくして巡回監督は全国平均と、長老たちは巡回区の平均と比較し、数字の上下にひたすら一喜一憂することになります。「兄弟たちも嫌でしょうが、僕らも上から同じようにやられるんです」と正直に述べたある巡回監督は、四年後に降ろされていました。またもてなせば霊性の良い会衆、もてなさなければ(気に入る程度に)霊性の悪い不健全な会衆とみなされるのは、ごく普通のことです。今回の事件に加わった巡回監督は誉め言葉を要求し、あからさまにもてなしを求めました。彼は右ならえのタイプですから例外ということではないでしょう。本人も「どこでもやっていることですよ」と述べていましたので、これは全体的な傾向であろうと思います。
ある時協会から特開者宛にきた手紙に「協会は今の手当てで十分にやってゆけると思っています」と記されていました。この時、日本の特開者の手当ては政府が生活保護を受けている者に支給している金額の約半分でした。ですから手当てだけでまともに暮らしてゆくことはとうてい無理な話で、実際は親、親族、会衆の世話かやっかいになっています。それらはみなエホバの世話ということになってはいますが。だから親は心配します。若いうちは良くても年をとったらどうするのかと。「心配して反対すればサタンの手先にされ、困ったときには親にされる」という嘆きも出てくることになるわけです。親には反対され、会衆の世話もなく、巡回監督にはいじめられるという開拓者はそれこそ大変です。奇跡的な生活を続け、やがて健康をこわし、さらに「組織は冷たい、エホバは何もしてくれなかった」と言って霊性までこわしてしまうか、ひたすら配布に励み、区域の人々がどう思おうとかまわず頑張るかのどちらかになってしまいます。時には不名誉な失踪事件も起きるわけです。
日本は国民の九割以上が中流意識を持っているというほど物質的には豊かになってきていますので、卑しくなるなという方が無理であって、裏の世界ではさもしい光景が繰り広げられるのもやむを得ないかもしれません。こういうことは表向きは絶対に言いません。すべては裏の本音の世界で語られることになります。従って真実を知らない監督たちも増えてゆきます。本当のことを知らせても喜びませんし、また何もあえて夢をこわす必要もないわけですから。時には、「組織に対する反抗と思われるでしょう。背教とみなされたら大変だから止めなさい」という親切な助言を受けたり、「誰があなたにそうするよう指示しましたか」という円熟した答えにあって終わりになるということもあります。
こうした背後の状況とそこに出没する実体Baalの本音の世界を見ると、これは間違いなく特権欲の世界でもあるという感を強くします。特権に通じる数字論理、もてなし、感謝、励ましという接待論理がそれを支え、育んでいます。「組織」という名のConcept Baalはそこから力を得、同時にそうした状況を強化してゆき、すべてはエホバの業、エホバの祝福であると思い込ませてしまいます。何とも巧妙なからくりです。そして内部が醜くなればなるほど“あの白き壁”“象牙の塔”のごとく、べテルを豪華に飾り立て、誉め言葉、賛辞で組織を飾ることになるでしょう。また「救い」「滅び」という呪文で人々を脅してゆくことにもなります。
このような組織はいったい誰にとって好ましく麗しいのでしょうか。言うまでもなく、それはノーメンクラツーラのごとく特権の恩恵に浴すバアル崇拝者にとってです。彼らにとっては、それこそパラダイスでしょう。しかし真の崇拝者から見ると、それはまるで悪臭を放っているかのようなものです。すでに、ものみの塔誌、目ざめよ誌の組織礼賛の記事とは裏腹に「聖書は良い、真理は素晴らしい、しかし組織は嫌だ」という人は決して少なくないのです。
私はバアル崇拝がエホバの民の中に確かに存在すること、そのバアルの名と実体、育んでいる状況について述べてきました。それで、結論としてお尋ねしたいことは「ものみの塔協会は、このバアル崇拝をいったいどうするつもりか」ということです。
エホバがバアル崇拝をいみ嫌われることは言うまでもありません。それゆえバアル崇拝にどう対応するかによってものみの塔協会の実体も明らかになるものと思います。
Concept Baalは麻薬のようなものですから一掃することは大変なことでしょう。名称を変えたり、取り決めを調整したりする程度では決して消えることはないでしょう。バアル崇拝を根絶するには多大の犠牲が求められるものと思います。(I Pet. 4:17; Isa. 30:25)しかし、それでも、どんな犠牲を払っても真理の組織としてのidentityを天と地の前で示して下さるでしょうか。ものみの塔協会こそイザヤ32:15〜18を成就させる組織であることを切に期待しています。
また宮坂兄弟は組織バアルの具体的な事例を上げて本部に送った。
1986年11月21日
親愛なる兄弟たち
私は、ものみの塔協会の組織の中でバアル崇拝が行われていることを明らかにすると共に、そのことに関する本部の皆さんの見解を問う手紙を書いています。
〔1〕 ものみの塔協会内で確かにバアル崇拝が行われている証拠 エホバの組織内におけるバアル崇拝の傾向は、今回の事件を扱った監督たちの態度に非常によく現れていました。それを証拠として提出したいと思います。(イ) 事件発生に関係した笹山兄弟の態度
事件の発端となる、広島会衆に関する報告を送った笹山兄弟はエホバの証人として、かつ、監督として長い経験をもつ兄弟です。また職業上、法律上の手続きや手順についても熟知しておられると思います。
正常な監督であれば、また法律事件に詳しければなおさら事実確認のない報告を送ることが、いかに愚かでふさわしくないことか理解しているはずです。一般の社会で、もしそのようなことを行なえば社会的信用を失う結果になるのは自明のことです。まして、エホバの証人であれば、偽り、偽証には細心の注意を払うはずですから、そのような報告を故意に送ることなど考えられません。ところが笹山兄弟は、事実確認がなされていないことを認めながらそのような報告を送りました。その後、何の調査、確認もしようとはしませんでした。さらにその点を指摘されても、平然と構えている兄弟の態度を私たちは不信(ママ)に思ったものです。
後日、明らかになったことですが、笹山兄弟は、事件発生前から日本支部の兄弟と個人的に電話で密接な連絡を取り合っていたようです。そして、事件に関する指示は、笹山兄弟を通して地域監督や巡回監督に伝えられたようです。笹山兄弟が、事実確認のない報告を送り、またその点を指摘されながらも平然としていられたのはこの背後関係によるものとしか考えられません。
このことからすれば、笹山兄弟は、神の前で真理によって得られる良心の平安より組織との関係で得られるものに平安を見いだしていた事になります。それはつまり、エホバより、組織を重視していたことにならないでしょうか。さらに、エホバより、組織を崇拝している証拠にはなりませんか。
(ロ) 地域監督の藤原兄弟は巡回訪問の際、金沢兄弟と話し合い、同兄弟が勤勉に聖書研究をし、また、よく理解していることを認められました。そして、広島会衆の兄弟たちの動機が悪くないことも認めて下さいました。にもかかわらず、藤原兄弟は柳村兄弟にこう語りました。「知識ではないんですよね。組織を知らないからこういうことになったんですよ。金沢兄弟も柳村兄弟も組織を一から勉強し直すんですね」
エホバの民にとって、霊と真理による崇拝より、組織についての知識の方が大切なのでしょうか。いわゆる組織についてよく理解しているという藤原兄弟が残り、霊と真理による崇拝を促進しようと努力している人々が排斥される。これが実態です。
(ハ) 今回の事件を扱った上訴委員会は、私たちを審理委員会に一度招集したのみで、本人に対する調査は何も行なわずに排斥の通知をしました。その後、彼らは「これは支部の決定です」という言葉を繰り返すのみです。その言葉を裏付けることとして、上訴委員会の中には排斥の理由さえ正確には知らない兄弟たちもいました。上訴委員会はいつから支部の決定を通知する委員会になったのですか。(「奉仕の務め」p.145〜148)
「奉仕の務め」とは異なる行為を支部組織の名のもとに平然と行なえるということは、何を物語っているのでしょうか。まさに組織を神としていると言えませんか。
以上のような事実を冷静に考慮すれば、ものみの塔協会内において組織がかなり強力な影響を行使していることが理解できると思います。
〔2〕さて兄弟たち、ものみの塔誌の幾つかの記事が、この組織バアル的考えを助長していることにお気付きでしょうか。次の二つの記事を検討して下さい。
(イ) 日本語'79,6/1号第一研究記事「エホバの勝利の組織に対する信仰」の中に次のような一文があります。
「彼(イエス)は神権組織における揺るがない献身ゆえに西暦33年の過ぎ越しの日に殉教の死を遂げるに至りました」(p.14.8節)
イエスが神権組織に献身していたなどという聖書的根拠がどこにあるのでしょうか。
例えば、'82,2/15号第一研究記事「献身-誰に?なぜ?」という記事には「イスラエル人は神と双務契約を結んだがゆえに、神に献身した民であり、生来のイスラエル人として誕生したイエスは生まれながらにエホバに献身した人間でした」という主旨の記事が載せられています。この二つの記事は矛盾するのではないでしょうか。献身の対象としてエホバ以外の何かが存在するのでしょうか。もちろん、偶像崇拝者たちは、物質や富や名誉、欲望に献身しているかもしれません。しかし、エホバの民が、ましてイエスがエホバ以外の者に献身するなどという表現は人々を混乱に陥れるものです。このような不適切な表現が、神の民に組織バアル的な考えを助長しないと断言できるでしょうか。
(ロ)86,1/15号第二研究記事
「再び力を得て、疲れはてることがない」という記事のP.18,14節に引用された経験は次のとおりです。
「組織に堅く従いなさいと強く申し上げたいと思います。十分理解できないことや、受け入れ難いことがあったとしても、しばらくすれば解決されるという信頼を抱くことです。」
この兄弟が言いたいこと、また記事を取り上げた目的はわかります。しかし、このような表現をすれば、どんな誤解が生じるでしょうか。このような表現を用いれば、常に組織の言うことに従順に従い、疑問や疑念、また理解できない点でも、とにかく指示に従っていればよいということになりませんか。このような考えは、常に組織が正しいという確信に基づいていると思います。しかし、組織が真理からそれたり、支部レベルで背教が生じないと断言できるでしょうか。そのような場合でも組織に従っていればよいのでしょうか。地上の被造物で不謬なものは何もありません。すべてが誤ちを犯し誤導する危険を持っています。そのような組織に盲目的に従うことを勧めるような書き方は神の民の信仰に重大な欠点を作ることになりませんか。そして必要以上に組織に信頼を抱かせる結果、組織バアルに力を貸すことにならないでしょうか。
私は今回の事件を通して、今の神の民が特に、監督たちが霊と真理による崇拝をわきに押しやり、組織優先的考え、言い換えれば組織バアル崇拝に捕らわれていることを痛感しました。それで少しでも早くこのような事態が解決され、エホバに真の栄光が帰されることを願っています。もし、本部の兄弟が真理に従って行動するのを拒めば、日本支部と同様バアル崇拝者であることが明らかになります。それで、どうか本部の兄弟の見解を教えて下さい。手紙でも結構ですし、実際の行為でも結構です。兄弟たちが霊と真理による崇拝の模範を示して下さることを心からお待ちしています。
聖書の中で「バアル」は次の8つのものに関して用いられている。
#「洞察」におけるバアルの定義
古代イスラエルの後期において、バアルは主にエホバと対抗した偽りの神々を表すようになったが、基本的には所有者を意味している。
古代カナーンにおいて、多産、豊穣の神として多くの崇拝者を集めたバアル、ひたすら拡大と増加をめざして暴走する組織、ものみの塔協会にとって現代のバアルは組織そのものである。そして組織の成員にとっては「特権」が多産と豊穣の象徴になっている。 このバアル崇拝を止めることは非常に難しいであろう。現在のものみの塔協会の体質では、組織バアルを捨てることは組織の崩壊につながるからである。
こうしたバアル化現象はものみの塔協会に限らず、すべての宗教に付きまとう本質的な問題であろう。おそらく概念と実質的意味との関係を限りなくあいまいにした階層構造を作り上げ、それを巧みに利用して人を操るという点では、宗教以外の組織にも共通する一側面ではないかと思われる。
ファシズムとは絶対主義的、独裁主義的な政治形態を指す言葉である。ファシズム体制下では、治安維持の名目の下に、言論、集会、結社権などが規制され、思想、信条の自由が奪われてゆく。
ものみの塔協会の場合は自らを神権組織と称しているので、その体制は神権ファシズムと呼ぶことができる。ファシズムの特徴はものみの塔協会にもすべて当てはまる。 例えば、組織が取り決めた以外の集会を開くことは禁止されている。有志が集まって個人的な勉強会を開いたり、子供たちのための集会を取り決めたりすると、さっそく会報(王国宣教)にふさわしくない行為として載せられる。英語版の書籍(ものみの塔協会発行)を翻訳して役立てようとすると、組織に先走る僭越な行為として禁止されるといった具合である。 また、出版権は「忠実で思慮深い奴隷級」の代表者である統治体の独占下に置かれており、彼らの持つそうした権威を侵すことは背教行為とされる。
現在のこうしたファシズム的な体制の中で最も顕著なものは、情報統制である。以前からものみの塔協会は真理擁護、成員を保護するという名目で情報の統制を計ってきたが、私たちの事件後この傾向は一層強まり、ものみの塔誌上にそうした記事の載ることが多くなった。
以下にその例を幾つか上げることにする。
「パウロはクリスチャンの好奇心に付け込んで信仰を覆そうとするものに気をつけるよう警告しました。『テモテよ、あなたに託されているものを守り、聖なる事柄を汚す無駄話や、誤って『知識』ととなえられているものによる反対論から離れなさい。ある人たちは、そうした知識を見せびらかそうとしたために信仰からそれて行きました。』‐テモテ第一6:20、21
…好奇心から世の哲学を調べてみようという気になるなら、それも害を招きかねません。…人間の哲学は神の言葉を無視していますから、哲学が及ぼす危険を決して過小評価してはなりません。…しかし、奔放で病的な好奇心を持つなら、いつのまにか空論や人間の学説の泥沼に引き込まれてしまう恐れがあります。」(1987年2月1日号p.28、29)
このようにもっともらしいことを言っているが、本音はものみの塔協会が出版している以外の本を読んでもらっては困るということである。組織の代表者たちは、そのことをしばしば次のように言い表わす。
「兄弟はずいぶん余裕があるんですねぇ」
「奉仕の準備にはどのくらい時間を取っておられますか」
「もう聖書全巻をお読みになりましたか」
「他の本を読んで霊性が下がるようなことはないですか」
「読書が好きなんですねぇ」
といった具合である。
組織の理想としては他からの情報をいっさい取り入れて欲しくはないということであろう。 さらに最近号のものみの塔誌を見ると、ファシズム化の傾向が一層強化されていることが分かる。ついに、臆面もなく「組織の言うことには黙って従え」というような主旨のことまで述べるようになった。
「疑い(英文ではunquestioning)を抱かず、神への従順を示すのも、信仰の重要な一画です。」(87年1月15日号、p.13)
「高い塔の上の部署に就き、前屈みの姿勢を取りながら、昼間は地平線のあたりをじっと眺め、夜は目を凝らして闇を見据える、常に警戒を怠らない見張りの者の姿を思いに描いてください。それが、イザヤ21章8節で用いられている「物見の塔」に相当するヘブライ語(ミツベ)にこめられている主要な考えなのです。見張りの者はしっかり目覚めているので、正常な人ならこの者が報告を声高く告げることに疑いを差しはさまないでしょう。…「ものみの塔」と「目ざめよ」の両誌に掲載されるすべての記事、それにさし絵などのアートワークを含むすべてのページは、印刷に先立ち、選ばれた統治体の成員による綿密な検査を受けます。加えて、「ものみの塔」誌の記事の執筆を助けている人々はクリスチャンの長老であり、その割り当ての重大性を認識しています。(歴代第二19:7と比較してください。)それらの長老たちは多大の時間を費やし、書き記される事柄が真理であり、聖書に忠実に従っているかどうかを確認するため聖書や他の参考資料を徹底的に調べます。…ですから、「ものみの塔」と「目ざめよ」の両誌は信頼して読むことができます。」(下線は広島会衆)(1987年3月1日号、p.12、15)
神の声は常に統治体を通して響くことになっているのだから、神への従順は統治体への従順になる。統治体に代表される「思慮深い奴隷」級の権威を絶対的なものとし、組織にとって都合の悪い情報は一切遮断して、一般の信者たちに組織は高いレベルの情報を与えていると思い込ませる。これらの記事の意味することは、結局のところ、「奴隷」級の提供する以外の情報を取り入れてはならないということである。
「統治体」が、このようにものみの塔協会内で絶対的な権力を振るうことができるのは、徐々に変更された「背教」の定義によってである。
1981年に出された「王国宣教学校」の教科書166ページには、次のように述べられている。
「エホバの真の崇拝(霊と真理による)や、エホバがその献身した民の間にお立てになった秩序に逆らって取られる行動」
秩序の本来の意味から言えば、エホバが立てた秩序とは、神の定めた原則、取り決め、規範などを指す。しかしこれだと、地上の組織が神の定めた「秩序」と一致している場合には問題ないが、組織が神の取り決めに違反している場合には従わなくても良いということになり、ものみの塔協会にとっては非常に都合の悪い教義になる。またどこから突かれても大丈夫だという確信がなければ、この定義ではやがて不十分になる。
そこで数年のうちに、徐々に変更を加え、この「秩序」の適用を狭めて、ついに85年には、それが組織、すなわちものみの塔協会に当てはまるということにしてしまった。ものみの塔誌1986年4月1日号(p.31)には、背教に関する何とも歯切れの悪い記事が載せられているが、結局言いたいことは次のことである。
「神、キリスト、聖書を信じていたとしても、「今日、地上には『イエスの地上の関心事すべてを託されて』いる『忠実で思慮深い奴隷』がおり、その奴隷級はエホバの証人の統治体と結び付いているという信条を受け入れないなら、反キリストであり、背教者とみなされる」
つまり、統治体に逆らうのは神への反逆、ものみの塔協会の代表者に従わない者はみな背教者とみなすということである。
こうなると、自分たちに不都合なことを言う分子はすべて背教者として片付けることができ、しかも背教者との交渉を禁じるという名目で、一切の情報が伝わらないようにすることもできるのである。
1986年3月15日号ものみの塔誌は、背教者からの文書に関する措置について次のように述べている。
しかし、この問題に関しては、なすべきことをエホバがそのみ言葉の中で告げておられるということを忘れないようにしましょう。エホバは背教者について何と言っておられますか。「その人たちを避けなさい」(ローマ16:17、18)、彼らとの『交友を止めなさい』(コリント第一5:11)、「〔彼らを〕決して家に迎え入れてもなりませんし、〔彼らに〕あいさつの言葉をかけてもなりません」(ヨハネ第二9、10)と言っておられます。これらの言葉は強い調子で語られた明確な指示です。好奇心をそそられ、背教者として知られる人の文書を読むことは、真の崇拝のその敵をまさしく家の中に招じ入れ、共に座ってその背教者の考えを語らせるのと同じことではないでしょうか。(p.12)
エホバの指示という大義名分を掲げ、背教者との交渉を一切禁止している。本当の背教者に対するものであればこういう指示もそれなりに意義があるとは思うが、恐ろしいのは情報統制の名目に使われることである。成員は幹部の都合のいいように操られることになる。 今回の事件では、内部との交渉を一切断つことにより、真実が伝わらないようにしている。背教者として片付けてしまえばまさに「死人に口なし」である。話し合いのための面会申し込み、集会、大会への出席など、その一切が拒否され、普通の背教者に対する扱いよりもさらに厳しい指令が出されている。そのすべては特例という口実によって行なわれたのであるが、真実を語る背教者というのはものみの塔協会も困るのであろう。
一度特例を施行してしまえば、後はもう簡単である。自分たちの取り決め違反はすべて特例で片付ければよいのである。今後、組織の都合によって大いに特例が増えてゆくことであろう。
こうして明らかになったのは「統治体」の独裁支配であり、ものみの塔協会による神権ファシズムの体質であった。憂慮すべきはこれがますます強化されようとしていることである。
1986年7月21日、新世界訳聖書日本語版の翻訳上の問題点に関する質問を支部と本部に送った。回答がなかったので同年11月6日、創世記の翻訳について分析した手紙をさらに本部へ送った。その時、問題として上げたのは次の点である。
上記の点について具体的な事例を上げ、改訳の必要性を伝えたが何の回答もなかった。新世界訳の諸問題については、「欠陥翻訳-新世界訳」(広島会衆発行)の中で詳しく論じてある。
この事件が始まったころ、教義に関する疑問は誰も持っていなかった。悪いのはものみの塔協会の体質であって教義ではない、教えは正しいのだから、やがてものみの塔協会はエホバによって正されるはずであると考えていたからである。ところが去年の秋ごろから、次第に教義もおかしいのではないかと思うようになった。
特に転機となったのは、ものみの塔協会に対する糾弾を開始してからである。これほど偽善的で腐敗している組織に、果たして真理が啓示されるということがあるのだろうか、偽善はエホバの神性やキリストの精神と真っ向から対立するものではないか。教義だけは何も問題がないということがありうるだろうか、これはちょっと考えにくいことであった。教義も大いに検討してみる必要がありそうだと強く感じるようになった。
イエス・キリストは神がどんな人々に真理を啓示するかについて、次のように述べている。
「天地の主なる父よ、わたしはあなたを公に賛美します。あなたはこれらのことを賢くて知能のたけた者たちから隠し、それをみどりごたちに啓示されたからです」(マタイ11:25)
偽善者に真理が啓示される…天地がひっくり返らない限り、そういうことは絶対にあり得ない。だとするとものみの塔協会の教義もどこか間違っているはずである。この推測は外れてはいなかった。やがてものみの塔協会のモードから出るにしたがって、教義上の欠陥が徐々に見えるようになった。
おそらく組織が偽善的な体質になってから作られた教理や明らかにされた預言は、もう一度徹底的に調べて見る必要があるだろう。
現在はっきり間違っているといえる教理の主な項目を上げると次のようになる。
問題点はこれだけではない。日常生活における様々な禁止事項にも問題のある教理は多々ある。こうした教義上の諸問題については現在広島会衆で検討中である。
今後この事件が進展してゆけば、さらに多くのことが明らかになるであろう。