広島会衆の巡回訪問は7月9日〜14日の予定であった。巡回訪問とは、巡回監督が各会衆を週ごとに訪問する取り決めである。通常20ほどの会衆が一つの巡回区を構成し、さらに幾つかの巡回区が集まって地域区を構成している。広島会衆が所属する巡回区の監督は瀬野兄弟であり、地域監督は藤原兄弟であった。
各会衆の抱える重大な問題は、ほとんどがこの巡回訪問で扱われることになっている。もし支部が巡回訪問中に審理委員会を開く予定であれば、瀬野兄弟が一人で来ることはない。審理委員会は一人では開けないので、必ず藤原兄弟も派遣されるはずであった。
予想した通り、巡回訪問の前日になって藤原兄弟が共に訪問するとの連絡が入った。しかし訪問の目的や性質については何の説明もなかった。兄弟たちは先に木曜日の集会で、
「私たちは日本支部の下にいるので巡回訪問は受け入れるが、不真実に基づいて進められている特別委員会の業は受け入れられない」という方針を打ち出していた。(これは組織の権威と神の権威を相対的に考えた上での発言であった)
それで彼らが単に巡回訪問で来るのか、それとも特別委員として来るのか、あるいはその両方で来るのかによって対応を決めようと考えていた。
午後一時頃、瀬野兄弟と藤原兄弟が到着した。二人を出迎えた兄弟たちは訪問の目的、および統治体の裁定を携えているかどうかを尋ねた。しかし裁定はなく、彼ら自身も訪問の目的はよく分からないとのことであった。
「支部に電話で聞いてみてはどうでしょうか」
と藤原兄弟。
「誰に聞いたらいいんですか」
「藤本兄弟か阿部兄弟が担当だと思いますが」
「そうですか。では、ちょっと相談してみます」
「じゃあ僕たちは待ってます」
そう言って藤原兄弟は瀬野兄弟と共に車に戻った。
そこで支部に電話を入れてみた。
「こちらは北海道の広島会衆ですが」
「少々お待ちください」
電話はすぐに兄弟に変わった。声から判断すると阿部兄弟らしかった。
「何でしょうか」
「今、突然藤原兄弟が見えられましたが、いったい何の目的でおいでになられたんでしょうか」
「地域監督として、援助と調査のためです」
「それだけでしょうか」
「どういう意味ですか」
「お尋ねしている通りですが」
やや間をおいていかにも不機嫌そうな調子で再び
「どういう意味ですか」
「お聞きしている通りです」
しばらく沈黙…。そして遂に
「援助と調査だけです」
「そうですか。分かりました」
援助と調査だけであれば拒む理由はない。支部がどこまでその約束を守るか定かではないが、「Yes means Yes の精神(“はい”という言葉は、はいを、“いいえ”は、いいえを意味するようにしなさい-マタイ5:37)」でゆくことに決めていたので、その通り受け入れることにした。
この後、瀬野兄弟と宮坂兄弟は会衆の記録調べを行ない、藤原、金沢、柳村兄弟の三人は今回の事件について話し合った。主な話題は藤原兄弟が送った中間報告についてであった。
「出席を拒否するなどと私たちは一言も言わなかったですけどねぇ」
「でも私は笹山兄弟からそのように聞いたものですから」
「…この手紙には私たちがその場を引き揚げたと書かれていますが、『これで終わりにしましょう』と言って集まりを閉じたのは兄弟自身じゃありませんか」
「私はそのように思ったものですから」
「しかし、『残れない人は手を上げてください』と兄弟が尋ねられたとき、柳村兄弟は手を上げなかったはずですが」
「そうですか、兄弟」と柳村兄弟に聞く。
「そうです」
「それなら『僕は残れます』とはっきり言ってくれれば良かったでしょう」柳村兄弟、逆に怒られる。
「それから宮坂兄弟は、二人の姉妹たちを告発したいなどと笹山兄弟に連絡したことはありませんけどね」
「僕は笹山兄弟からそのように聞いたものですから」
「そうですか、それでは笹山兄弟に確かめてみるしかありませんね」
すべてがこの調子であった。地域監督の立場にある者が、単に思った、感じた、聞いたのレベルで報告を送っていたのである。
藤原兄弟は先に帰り、瀬野兄弟が一人残った。そこで笹山兄弟が協会に送った報告について尋ねてみた。
「笹山兄弟に聞いたら、あの報告は兄弟の承認で協会へ送ったということでしたが、どうして事実を調べないでああいう報告を送ったんでしょうか」
「えっ、あ…笹山兄弟はそのように言ってましたか。確か…あれは笹山兄弟が送ったと思うんですが」
「そうですか。笹山兄弟は『調べてもらってもいい。僕は一人で送ったのではない。巡回監督の承認で送ったんです』とはっきり言ってましたけどね」
「う〜ん、そうだったかも知れませんが…いや、やはり、あれは、笹山兄弟が送ったはずです。あとで兄弟に確認してみましょう」
協会の手紙には“笹山兄弟から”とある以上、あの最初の報告の責任者は笹山兄弟に決っている。瀬野兄弟が名前を利用されたにすぎないことは明らかであろう。
その日の夜、「愛はクリスチャン会衆を見分ける」という題の話が、藤原兄弟によってなされた。その話の主要な点は、二人の姉妹たちの問題は愛で覆うべきものであるということであった。
この日、金沢、藤原、瀬野兄弟の三人により、4時間余りに及ぶ集まりが設けられた。金沢兄弟と藤原兄弟が主に話し合い、瀬野兄弟はその内容をメモしていた。二人の姉妹たちの行状、預言の理解、本部への手紙などについて話し合われた。今回の事件に関する最大のポイントは次の点であった。
「ものみの塔の義の基準といっても、別に特別なことではなく、最近号でも強調されているように心からのエホバの証人でいようということです。利己的な、やましい動機からではなく、純粋な心でエホバに仕えようということですが」
「あ〜、そういう意味だったんですか。私は何か独自の義の規準を唱えているのかと思っていましたが、良く分かりました。しかしですね兄弟、それを日本で徹底したら、どんな弊害が出てくると思いますか。立ち行ける長老がいったい何人いるでしょうか。今、それを行うのは協会の方針ではありません」
「では、ものみの塔誌で勧められていることを、どのように理解したら良いのでしょうか」
「それはできる人はやれば良いということです。個人的にやる分には何も問題ありません」
「会衆でやろうとすれば…?」
「それは協会の方針に反することになります」
「と、いうことは…?」
「そうです。背教になりうるということです」
「それは、間違いなく、協会の考えですか」
「その通りです」
これは驚くべき発言であった。ものみの塔誌で公言していることをできるだけ皆で行なおうとすることが、背教になるというのである。
本来、ものみの塔誌の教えを広め、その理解を助け、可能な限りそれを行なうよう励ますのがものみの塔協会の代表者の務めのはずである。しかも、藤原兄弟は地域監督であり、1984年の暮に開かれた監督たちを訓練する王国宣教学校の教訓者でもあった。その時、ものみの塔誌の精神をできるだけ会衆に反映させるように、という指示を協会は出していたのである。さらに数ヶ月前に開かれた巡回大会で、監督たちを集め、ものみの塔誌の難しいところも可能な限り集会で扱うように、と教えたのは他ならぬ藤原兄弟自身であった。
これは支部の裁定に違いないと金沢兄弟は考えた。そこで藤原兄弟に次のように頼んだ。
「広島会衆は会衆全体でものみの塔誌の義を行なうべきであると考えていますので、集会でも扱っていただけますか」
「いいですよ。そうしましょう」
かくして支部の裁定は、ものみの塔協会の正式な裁定として公布されることになった。話し合いは友好的な雰囲気のうちに終了し、藤原兄弟も、「それでは審理委員会は必要ないでしょう。長老の削除の推薦もいらないと思います。少々調整するだけで良いでしょう」と語るまでになった。「では、支部によろしくお伝え下さい」と述べて、金沢兄弟は彼らと別れた。
ところが夜の集会に現れた藤原兄弟は、まるで別人のようになっていた。表情は硬く、取り付く島もないという風であった。いったい何があったのだろうか。彼は支部に電話してみると話していたので、恐らくその話し合いの結果であろう。
その集会での藤原兄弟の話の主題は、「神権的(神の権威を最優先する考え方)な取り決めに精通して従順に従う」であった。約束した通り、その話の中で協会の正式な裁定が伝えられた。
救いはバプテスマで達成されるので、ものみの塔誌に述べられているそれ以上の義は個人的に行なうべきものであり、会衆全体で行なってはならないという主旨の話がなされた。また、兄弟たちは神権的手順に違反することにより(本部と支部に連名で手紙を出したことを指す)「罪に罪を重ねた」と述べて、審理委員会を開く方針を明確に打ち出した。
同日、午前10時から広島会衆の姉妹たちとの会合が開かれた。監督たちに事情を知ってもらいたいとの申し出に、藤原兄弟が快く応じて開かれたものである。ところが、この度も見事にその約束は破られた。
柳村姉妹が集まりの始まるのを待っていると、瀬野兄弟から会衆の名簿をコピーするように頼まれた。名簿を手にした瀬野兄弟は、出席した姉妹たち全員の名前をチェックした。
藤原兄弟が、「今日は皆さんのお話をお聞きします。どうぞ何でも言ってください」と切り出して、集まりが始まった。姉妹たちが発言すると、瀬野兄弟は名前を確認し、その内容をメモしていた。
何人かの姉妹たちは、その時の印象について次のように語っている。
「話し合うとか、聞いてくれるとかというのではなく裁きの根拠を探しているようだった。私たちが何を語っても、それはすべて会衆にとって不利になるよう曲げて受け取られてしまった。」
その夜、長老と奉仕の僕の集まりが開かれた。「火曜日の出迎えの態度がふさわしくない、もてなしの精神に欠ける」ということが主な理由として上げられ、全員がその立場から下ろされることになった。
その後、長老団の集まりになると、藤原兄弟はいかにも苦々しげに、
「兄弟、今日の姉妹たちとの集まりはひどかったですね」
と話し出した。
「僕は、ああいう姉妹たちを見たのは初めてですよ。あれはひどいですね。あの姉妹たちは!」
「何かしたんでしょうか」
「あれなら、兄弟がいなくても十分背教しうる姉妹たちですよ。あの姉妹たちならやりかねませんね」
「そうですか。それで一体そういう心配があるのはどの姉妹たちでしょうか」
「まず小河姉妹ですね。それに三浦姉妹、この姉妹は特にひどかったですよ。あと加藤姉妹や多田姉妹もそうでしょう。あの姉妹たちなら兄弟がいなくても背教しかねないと思いますよ」(藤原兄弟はかなりプライドを傷つけられたようであったが、小河姉妹は、二人の姉妹が何を訴えたのか、支部はどうして二人を信頼できる姉妹だとみなしているのか、と尋ねたに過ぎない)
「それじゃ私の方から何か話してみましょうか」
「いいえ、もう要らないでしょう。その必要はないと思います」
長老団の集まりはこれで終わり、背教で処分すると言う支部の方針がはっきりした。しかも、その中には姉妹たちも含まれている。そうでなければ、姉妹たちを説得するよう努力するはずであるが、その必要はないという。心配している様子もまったくない。おそらく支部としては、この際、反組織的な悪影響を根こそぎにしてしまいたいということであったのだろう。
排斥になりそうなメンバーをざっと数えてみると、少なくとも15人位いそうであった。一人一人バラバラになってしまえば潰れてしまうのは目に見えている。やはり会衆を組織する以外にない。とはいえ、結論が出る前に表立って動くわけにはゆかない。そうすればそれを背教の根拠にされてしまうであろう。いったいどうすれば良いのか、非常に難しいところであった。
この時、判断の基準としたのは、使徒5:38,39のガマリエルの言葉であった。今回の事件が人間的な意志から出たものであれば、成功することはない。しかし神が何らかの目的をもって物事を押し進めているとすれば、それは必ず成し遂げられるはずである。それを試してはっきりさせるには、どうしたら良いだろうか。考えたすえ、会衆を組織するための動きは一切起こさず、巡回訪問が終わるまでは監督たちの好きなようにしてもらおうということにした。もしそれで会衆が組織されるならば、それこそ神の建てた会衆とみなすことができる。そのようにしてエホバのご意志を確かめようと考えたのである。
ただ、もし会衆が設立されたとしても、組織から離れたままで長い間やって行くのは無理だろうと判断したので、何とか短期間で終わらせたいと思い、統治体に緊急の援助を求める手紙を出すことにした。
特別委員会から聴問会への呼出し状が届く。
札幌市西区XXXXXXX
松浦○気付
北海道広島会衆特別委員
1985年7月13日
北海道広島会衆
宮坂政志兄弟
親愛なる兄弟
北海道広島会衆特別委員はものみの塔聖書冊子協会から任命された審理委員として、下記の通りあなたとの会合を持ち、聴問を行ないたいと考えています。ご都合をつけて出席してくださるようお招きいたします。
上記のことをお知らせし、エホバの導きをお祈りします。
またこの日ある姉妹に、「兄弟たちはもう駄目なので離れるように」との電話があったという。審理委員会が開かれる前にすでに兄弟たちの処分は確定していたらしい。
この日の集会には藤原、瀬野兄弟のほかに、近隣の会衆から松浦、桑原、出口、小熊の各兄弟たちが出席した。集会は物々しい雰囲気のうちに始まり、終始、陰うつで重苦しい空気が会場内に漂っていた。兄弟たちは意気消沈してまるで死んだようになっており、会衆のほとんどの人は集会の間中、ずっとうつむいたままであった。しかしそれとは対照的に、藤原兄弟は意気揚々としているように見受けられた。多分、もうこれで片付いたと確信したのであろう。集会が終わると悠々と引き上げていった。
この日、羊ヶ丘会衆の王国会館で審理委員会が開かれることになっていた。審理委員からの手紙によれば、罪状は「会衆内に分裂を引き起こしたこと」となっており、根拠として上げられているのは、7月4日の集会での金沢兄弟の発言であった。
しかし兄弟たちは、会衆を分裂させることを目的として行なったわけではなく、聖書預言の義に従っただけである。聖書預言の義とは次のような考え方である。
聖書は神が裁きを行なわれる際、救いのために求める特定の義の規準について示している。それは常に預言の形で伝えられるので、聖書預言の義と呼ぶことができる。この預言の義とは、ある特定の時期に特に必要とされる規準であり、通常の義に優先するものとなる。
例えば、ソドムとゴモラの滅びの時、救いに必要な特別の義の規準は「町を出なさい。後ろを振り返ってはならない」というものであった。またノアの洪水の時には「箱舟の中に入るように」という指示が出された。この預言(規準)によって人々は試され、振るわれてゆき、その結果、命に至る者とそうでない者とに分けられたのである。
広島会衆の兄弟たちは、イザヤ60:22の「強大な国民」(数においてだけでなく、質においても)が今の時期における預言の義であると考え、その方針に沿ったものみの塔誌の義の規準に従うことこそ、神のご意志に従うことであると判断した。ゆえに、二人の姉妹の扱いにおいても、問題の発言についても、決して神から離れようと考えた結果ではなく、神に従おうとした結果であった。したがって、審理委員会でいかに偽りの証拠に基づいて審理を行なおうとも、事の真実を知っている天の法廷の前では無罪であると確信していた。しかし次の聖句が気にかかった。
「…何でもあなたが地上で縛るものは天において縛られたものであり、何でもあなたが地上で解くものは天において解かれたものです」(マタイ16:19)
この聖句は、地上で権威を与えられている者の決定は、天でも有効であるというふうに適用されている。通常であれば、自称、神の権威を与えられているものみの塔協会の決定は、天の法廷の決定であると考える。そこで、ものみの塔協会の権威と、預言の義の権威とどちらが上かを試すために、言い換えれば、現代の預言の義は何かを確かめるために、金沢兄弟は次のような但し書きを送った。
1985年7月14日
特別委員
親愛なる兄弟たち
私には分裂を引き起こす意志も背教者になろうとする気持ちも全くありません。エホバ神が最も良く知って下さっていると思います。今週の木曜日可能な限りお話し致しましたが理解していただくことができなかったようで本当に残念です。(藤原、瀬野兄弟が聞いて下さいました)
王国の言葉は人々を分ける力があります。聖書預言の義もシュローダー兄弟のお話のようにロトの家族を分けてしまいました。そのことを分裂行為と考えるなら仕方のないことです。
山へ登る時のように地点、観点が変化すれば物事はまったく異なって見えます。それを一致させる価値基準が受け入れられなければ私には、もはやどうしようもありません。
祈りのうちに努力してみましたが弁明しようという気力、体力がわいてきませんので、兄弟たちにすべての裁定を委ねたいと思います。どうぞみ旨のままに物事を決定なされて下さい。
ただもう少し時間を下されば皆さんの聴問に応じることのできる状態になるかも知れませんが、7月14日の状況ではとても無理と感じています。
それで私のいない状況で7月14日に審理がなされ、決定が下されても私には何の異議もありません。
すべて皆さんにお任せしたいと思います。もし決定がなされたらお知らせいただければうれしく思います。
新秩序への命の道を私にも残して下されば幸いです。
もし、日本支部あるいは審理委員の中に聖書預言の義が理解できる監督がいれば、審理を強行し強引に排斥にすることはなかったと思うのだが、どうやら心から理解しようという監督は一人もいなかったようである。
この但し書きには時間を稼ぎたいという意味もあった。統治体が動いてくれれば全員が排斥にならずに済むのではないかという期待があったからである。またぎりぎりまで譲歩してみれば、支部に少しでも憐れみがあるのか、それともどうしても追放したいのかが明らかになるだろうということもあった。
審理委員会に出ることは初めから論外であった。