弟子たちに再臨と終わりの日のしるしについて尋ねられたとき、イエス・キリストは数多くのしるしについて語られたが、そのなかの一つに「忠実で思慮深い奴隷」(新世界訳)「忠実で賢い僕」(新共同訳)に関する記述がある。
主イエスは再び戻られるとき、ご自分の家を管理するよう「思慮深い奴隷」を任命することになっている。この任命の時は、神の家の者たちにとっては清算の時ともなる。
次に引用するのはマタイの聖句であるが、この部分に相当するルカの福音書の平行記述(12:42〜48)では、「奴隷」が「家令」(新共同訳では「管理人」)、「召使い」が「従者団」(新共同訳では「召使い」)になっている。
- 45 主人が、時に応じてその召使いたちに食物を与えさせるため、彼らの上に任命した忠実で思慮深い奴隷はいったいだれでしょうか。
- 46 主人が到着して、そうしているところを見るならば、その奴隷は幸いです。
- 47 あなた方に真実に言いますが、[主人]は彼を任命して自分のすべての持ち物をつかさどらせるでしょう。
- 48 しかし、もしそのよこしまな奴隷が、心の中で、「わたしの主人は遅れている」と言い、
- 49 仲間の奴隷たちをたたき始め、のんだくれたちと共に食べたり飲んだりするようなことがあるならば、
- 50 その奴隷の主人は、彼の予期していない日、彼の知らない時刻に来て、
- 51 最も厳しく彼を罰し、その受け分を偽善者たちと共にならせるでしょう。そこで[彼は]泣き悲しんだり歯ぎしりしたりするのです。 (マタイ24:45〜51 新世界訳)
ここで銘記しておかなければならないのは、この奴隷(家令)はキリストによって任命されるという点である。自分で勝手に「わたしがその者です」などと宣言するのは実に僭越なことである。そういうふうに言いたがる人はだいたい偽物と考えてよい。キリストによって本当に任命されたのであれば、人間の信任状はいらないからである。
教理への直接の影響はないが、48節の「そのよこしまな奴隷」という新世界訳の翻訳は少々変である。46節の良い奴隷に「その奴隷」という表現を使っているので、よこしまな奴隷にも「その」をつけると、両者がオーバーラップしてしまうからである。
次のような訳であればまったく問題はない。
「ところが、それが悪いしもべで、『主人はまだまだ帰るまい。』と心の中で思い、」 (マタイ24:48 新改訳)
この「忠実で思慮深い奴隷」に関する教理は、クリスチャンにとって非常に重要な教理であると同時に、しばしば厄介な問題を引き起こしてきた教理でもある。
悪いしもべのような指導者層の人、中でもトップクラスの人々は、この教理を信徒の支配に利用してきたからである。新たなキリスト教の運動を起こした人々の間では、いろいろと物議をかもしてきたという歴史的な背景もある。
この教理が大いに問題となるのは、任命された良い僕にキリストが「全財産を委ねる」と述べているからである。
すべての財産を委ねられる賢い僕と悪い僕を見分け損なうと、一般信徒にとっては大変なことになる。悪い僕は偽善者と同じ運命をたどると、宣告されているからである。そういう人について行きたいと思う人は誰もいないだろう。
トップにとって、この教理の利用価値は極めて高い。私がその忠実な家令です、私たちにキリストは全財産を預けましたと主張して、成員にそのように教え込んでしまえば、その人あるいはその組織体は独裁権を有することができるからである。幹部はこのことをよく知っている。だからこそ「忠実な家令は誰か」という問題は即、権力闘争と結びついているのである。
ものみの塔協会ではC・T・ラッセルの死亡後、その後継者を巡る紛争が生じたとき、「忠実で思慮深い奴隷はいったい誰か」という論争が起きている。後継者を巡る争いは同時に家令はだれかという争いでもあったのである。
C・T・ラッセル本人は、誰が忠実で思慮深い奴隷かという問題について、どのように考えていたのであろうか。組織の宣伝では次のようになっている。
「忠実で思慮深い奴隷」もしくは「忠実(まめやか)にして慧(さと)き僕(しもべ)」(文語)がだれかを見分けることは、その頃きわめて重要な事がらでした。それよりずっと以前の1881年にC・T・ラッセルは次のように書きました。「キリストの体の各成員は、信仰の家の者に時に応じて食物を与えるという祝福されたわざに、直接また間接に携わっている、とわたしたちは信じます。『主人が時に及びて食物を与えさする為に、家の者のうえに立てたる忠実(まめやか)にして慧(さと)き僕は誰』でしょうか。それは、献身の誓いを忠実に遂行している献身したしもべたちの『小さな群れ』、すなわちキリストの体ではありませんか。また、大ぜいの仲間の信者である家の者に、時に応じて食物を与えている、個人的また集合的な体全体ではないでしょうか」。
ですから、霊的な食物を分け与えるために神が用いておられた「奴隷」はひとつの級であることが理解されました。しかし、時がたつにつれて、多くの人々は、C・T・ラッセル自身が「忠実にして慧き僕」であると考えるようになりました。そのために、ある人は被造物崇拝のわなに陥りました。そうした人々は、神がご自分の民に啓示するのをよしとされるすべての真理はラッセル兄弟を通して示されたのであり、それ以上のことは何ももたらされ得ないと感じました。アンソニー・ポッゲンジーは、「そのため、ラッセルの業績に固執することを選んだ人々が大いにふるい分けられました」と書いています。ラッセル自身が「忠実にして慧き僕」であるというその誤った考えは1927年2月に一掃されました。 (「1976年エホバの証人の年鑑」p.88−89)
ラッセル自身は自分を「忠実な奴隷」だとは主張していない。彼はそうは言わなかったのであるが、「ある人々」がラッセルを「忠実で思慮深い奴隷」にして、人物崇拝のワナに陥ったのである。問題なのは騒いだ人の方であって、組織に責任があるわけではない。すでにラッセルの時代から「忠実な奴隷」は一つのクラス、小さな群れであるというような見解が出されていたのだから、これがものみの塔協会の説明である。
こういう記述だけを読んでいると、組織には少しも問題がなかったかのような印象を受けてしまうが、どうやら真相はかなり異なっていたらしい。
R・V・フランズ兄弟によると、「終了した秘義」と題する本は、C・T・ラッセルが「忠実な奴隷」であることを強調していたとのことである。さらに、1922年3月1日号(p.132、英文)のものみの塔誌も同様の考えを支持し、真理はラッセルを通して啓示されたこと、エゼキエル9章に記されている書記官はラッセルに他ならないことを力説していたそうである。
おそらくこれはどちらも本当のことであろう。ものみの塔協会の必然性を際立たせるには、C・T・ラッセルが忠実で思慮深い奴隷であった方が都合がよい。すべての人は「主の僕であるラッセル」の管理を受けなければならない、そうしなければキリストの是認を得ることはできません、ということになるからである。ただ、ラッセル自身としては、自らそのことを強調するのは憚られたのかもしれない。しかし、暗黙のうちに組織内にはそのことを承認するような雰囲気があったのであろう。ラッセル自身も積極的にはそれを否定しようとしなかったようである。そうでなければ、彼を「忠実な僕」とするような出版物が出ることもないだろうし、ラッセルの遺言、遺訓なるものが今日でも権威を持つことなどなかったはずだからである。
小さな群れ全体が「忠実な僕」というのは、カトリックの教階制度を背教のしるしと攻撃しているものみの塔協会にとっては、組織に役立つ宣伝の一つであったと思われる。しかし、これはこれで、内部で一つの困った問題を生じさせることになる。すべての人が管理できる、誰でも管理者になれるということになれば、ものみの塔協会の権威が宙に浮いてしまいかねないからである。加えて、自分こそ「その奴隷」になるべきだと考える人は、組織内の支配権を得ようとして権力争いを引き起こすことになる。事実、ラッセルの死後、ものみの塔協会内では激烈な後継者争いが起きている。
組織としてはどちらの事態も困るであろうから、両方の見解の間でポリシーが揺れ動くことになるのであろう。内部向けにラッセルの後継者であることを強調しなければならないときは、「ラッセルが忠実な家令」ということになる。逆に、ものみの塔協会は単にラッセルという人間の組織にすぎないのではないかと非難されると、「いや、そんなことはありません。組織は神のものです。ラッセルは小さな群れという忠実な奴隷の中の一人にすぎません。いかに彼が神に重く用いられたからといって、組織は彼のものではありません」ということになるのであろう。
現在のエホバの証人に「忠実で思慮深い奴隷は誰ですか」という質問をすれば、ほとんど反射的に「それは「14万4千人の残りの者です」という答えが返ってくるはずである。おそらくは、残りの者すら省いて単に14万4千人と答える人の方が多いかもしれない。ただ、正確には「残りの者」をつける必要がある。「忠実で思慮深い奴隷」の任命はキリストの再臨のしるしだからである。
直接の問いに答えることはできても、どうして忠実な奴隷は14万4千人といえるのか、聖書からその点をどのように論証するのかということになると、エホバの証人もはなはだ怪しくなってしまう。というのはこの教理も、明白な聖書的論証に立脚しているというよりは、どちらかといえば「統治体」の教理同様、組織の権威で成り立っているようなものだからである。
エホバの証人の基本的なテキストとなっている「あなたは地上の楽園で永遠に生きられます」をみると、その点がはっきりする。
イエスは、ご自身が王国の権を執って臨在される時のことを告げるにあたって、次のように言われました。「主人が、時に応じてその召使いたちに食物を与えさせるため・・・・自分のすべての持ち物をつかさどらせるでしょう」。(マタイ24:45−47)キリストは、1914年に王国の権を執って戻られた時に、「忠実で思慮深い奴隷」級が霊的な「食物」すなわち情報を与えているのをご覧になったでしょうか。ご自分の14万4000人の「兄弟たち」の中の、地上に残っている者たちで成るそのような「奴隷」を、キリストは確かに見いだされました。(啓示12:10;14:1,3)そして1914年以後、幾百万もの人々が彼らの供給する「食物」を受け入れ、彼らと共に真の宗教を実践するようになりました。神の僕たちのこの組織はエホバの証人と呼ばれています。(p.193,194)
読んでみると明らかなように理由は全く説明されていない。ただ、忠実で思慮深い奴隷は14万4千人の残りの兄弟たちであると述べられているにすぎない。あげられている聖句は根拠としてではなく、単にそういう言葉が出てくるという程度のものにすぎない。なぜマタイの「忠実で思慮深い奴隷」と啓示の「14万4千人」が結びつくのかという説明は全くなされていない。
新しいエホバの証人がよく知らないのももっともで、最近の出版物には論議と言えるほどのものはほとんど見当たらない。この問題を扱った資料を見い出すにはかなり前にさかのぼらねばならない。
簡潔にまとめられているものとしては「聖書理解の助け」がある。この本の562ページには基本的な考え方が比較的わかりやすく説明されている。もっと詳細に論じたものは「神の千年王国は近づいた」である。その本の339から366ページには、マタイ24章45〜51節の解説が載せられている。
そうした資料から、ものみの塔協会の論旨を簡単にまとめてみると以下のようになる。
・この奴隷は一個人ではなく集団、クラスと考えるべきである
「主人が到着してそうしているところを見るならば」とイエスは述べているので、最初の奴隷の任命は一世紀になされたことがわかる。最終的な任命は再臨のときなので、そうするとこの奴隷は十九世紀以上に渡って存在したことになる。一個人ではそういうことは不可能なので、「奴隷級」と考えるべきである。単数で集団を表す例にはイザヤ43:10などがある。
・神の奴隷、神の家の者となったのはクリスチャンであり、彼らは最終的に真のイスラエル、霊的イスラエルを構成する。
ローマ人のへの手紙は生来のイスラエル人に当てて書かれたものではなく、信仰の人すべてを対象としたものである。その中でパウロはクリスチャンを内面のユダヤ人(2:28,29)、真のイスラエル(9:6〜8)と呼んでいる。
・真のイスラエルの数は啓示7章と14章によれば14万4千人になる。したがって「家の者、召使い」ならびに「忠実で思慮深い奴隷」は14万4千人、キリスト再臨後で言えば、14万4千人の残りの者ということになる。
クリスチャンは全員「神の家の者」であると同時に「神の奴隷」である。預けられた主の財産が2タラントであろうと5タラントであろうと、忠実で思慮深くなければならないのはすべてのクリスチャンである。管理者として忠実で聡くない者は神の家から退けられることになる。つまり、そういう人々は完成された神の会衆のメンバーには含まれない。したがって、真の教会、忠実な家令の数は14万4千人になるという説明である。
あらかじめ正当化したい考えがあり、それを何とか論証しようと聖書を探し回って教理を作ると、どうしても無理が生じてくる。時間の経過とともに矛盾が明らかになってくるし、現実とも合わなくなってくる。質問や批判を抑えようとすれば、やがては強権発動をしなければならなくなる。現在ものみの塔協会が陥っている事態の背景には、こうした教義作りの在り方が本質的な問題として横たわっている。
普通、虚心な聖書研究からは、そういう矛盾に満ちた教理は生まれてこない。仮になんらかの矛盾点が指摘されたにしても、改めるのにそれほど困難を感じることはないからである。ところが、ものみの塔協会のように組織の「ポリシー(政策)」で教義を決定するとなると、そうはいかなくなる。組織の権威や面子が関わってくるので、簡単に認めることができなくなるからである。この忠実な家令=14万4千人説もそういう教理の典型的な一つであろう。
最近学んだ人の中には、本当にものみの塔協会はそういうことを教えているのだろうか、と疑問に感じる人もいると思うので、最初にその証拠をあげておく。この点に関する最新の記事は、1982年1月1日号のものみの塔誌に載せられたものである。
その第一研究記事(p.21,9節)は
「したがって、神の霊的な子らである14万4千人は『従者団』を構成し、主人である主イエス・キリストは、その上にたとえ話の『家令』を任命されます。」
と述べ、従者団=14万4千人であるとはっきり断言している。
さらに、同記事の22ページ11節には
「『家令』は、霊的イスラエルの『小さな群れ』を、『主人』であるイエス・キリストの、献身しバプテスマを受けた弟子全体を表しています。」
と記されている。
「小さな群れ」とは天に行く14万4千人のことなので、「家令」も14万4千人ということになる。すなわち「家令」=「従者団」=「14万4千人」である。
この論議で真っ先に問題となるのは「家の者(従者団)とその家の者を管理するよう任命された者(家令)が同じなのか」という点であろう。普通の感覚で考えれば誰でもおかしいと思う。会社で言えば、平社員と社長が同一人物だというのと同じことだからである。通常こういうことが成り立つのは、社員一名の会社しかあり得ない。ところが、神の家には少なくとも14万4千人もいるわけだから、忠実な家令=従者団=14万4千人というのは、どう考えても不自然だといわざるをえない。
この点の説明にはものみの塔協会もかなり苦労しているようで、最近十年間の出版物の中にはこの問題を扱ったものは見当たらない。一番新しい資料で1975年4月15日号のものみの塔誌になる。
その号の238ページには、農場の例えが用いられており、次のように説明されている。
なかには、「『召使いたち』で成る『奴隷』が、どうしてそれら『召使いたち』を養えるのだろうか。それでは『奴隷』が自らを養っていることになりはしないか」と尋ねる人がいるかもしれません。この点は農場に引っ越す家族の例えで説明できるでしょう。そのような家族がまず第一に必要とするものの一つは食物の備えです。父親が食物を全部備えて、家族の他の成員に食べさせるのでしょうか。そうではありません。家族の成員は各自異なった務めを果たします。ある者は耕作に従事し、他の者は井戸を掘る仕事をします。種まきをする者もいれば、家畜の世話や乳しぼりの仕事をする者もいます。もちろん、ある特別の仕事は皆で手伝うことでしょう。収穫にはおそらく全員が携わるでしょう。それから女の人たちは、将来の食糧としてカン詰めを作る作業をするでしょう。また、家族のために食べ物を料理して食卓に供します。さて、一人の力ではそれほど十分の備えをすることはできないでしょう。しかし、一家全員の努力ですべての人が十分に養われるのです。「忠実で思慮深い奴隷」と全く同様、彼らは家族という一集団を成していますが、個人個人は、その家の「召使いたち」として食物を生産したり、それを供したりする働き人なのです。使徒パウロもコリント第一12章12節から27節で同様の例えとして、人体とその肢体の例えを述べています。
これはかなり苦しい論議である。確かに「食物を供給する、養う」という点だけに限って言えば一応の説明にはなっているが、厳密にはとうてい成立しえないものである。
再び、会社の例えで考えてみる。社長、専務、部長といった管理職も平社員もその会社の人間であることには変わりがない。また、それぞれの業務内容が異なっても、全員その会社の仕事に携わっているのも確かである。しかし、同じ組織に属し、共通の業務に従事しているからといって、平社員と管理職が「同一人物である」ということにはならない。
この点は組織の構成単位が農場や家になっても全く同様である。確かに、全員が農場ないしは家の成員ではある。しかし、全員が同時に管理職につくことはあり得ない。成員のすべてが何らかの形で仕事のある部分を管理しているといえないこともないが、それでもやはり全員が成員の上に任命される「管理者」になるわけではない。
このように考えてみると、この農場の例えの記事はいかにもお粗末なものであることが明らかになる。最も重要なポイントである「管理権」の問題を無視しているからである。
コリント第一11章3節には、「ここであなたがたに知っておいてほしいのは、すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神であるということです。」(新共同訳)と記されている。この原則は「かしらの権」として知られており、エホバの証人の中ではかなり厳しく守られているものの一つである。
エホバの証人の社会では女性が神の家の管理職に就くということは絶対にない。もっとも、兄弟が一人もいない会衆や群れの場合は例外であるが、それでも正式な役職への任命ではない。
それはこのコリントの聖句にある「かしらの権」の原則によるものである。普通一般の組織同様、エホバの証人の組織も実質的にはピラミッド型になっている。主な役職には奉仕の僕、長老(監督)、巡回監督、地域監督、支部委員、統治体といったものがあるが、姉妹たちはこのいずれの立場にも就くことができない。
忠実で思慮深い奴隷級の中には女性も含まれるであろうか。もちろんである。14万4千人の中にはイエスの母のマリヤやその他大勢の女性が入っていると信じられている。そうすると困った問題が一つ起きてくる。かしらの権の問題である。
神の家の者に対するかしらの権ー管理権はかしらの権の代表的なものであるーは姉妹たちにはない。しかし、忠実で思慮深い奴隷、家令は管理職を委ねられる者たちである。そして、ものみの塔協会は忠実で思慮深い奴隷、家令には姉妹たちも含まれると説明している。この矛盾はいったいどうするのであろうか。
14万4千というのは中途半端な数字ではない。この数は完成されたものであり、同時に閉じられたものである。もちろん宗教的な意味においてであるが。ものみの塔協会の主張するように文字通りの数と仮定すれば、なおのことそういえる。
また、14万4千人全員がそろうにはかなりの期間がかかる。ものみの塔の教えではその期間は19世紀以上になる。最終的に完成するのはキリスト再臨後である。
忠実で思慮深い奴隷=14万4千人説は、こうした点と現実とのギャップをうまく説明することができない。
神の家に招かれた人は膨大な数に上る。何といっても19世紀以上の間である。その数は14万4千人をはるかに越えている。仮に最終的な数は14万4千人としても、ではその他大勢の人はいったいどういうことになるのであろうか。出たり入ったりして一時的にしか神の家の中にいなかった者もいるだろうが、選ばれるか選ばれないかは別にして最後まで神の家の中にいた者も大勢いるのである。
忠実で思慮深い奴隷=14万4千人説が最終的な段階、完成された時期だけを対象としているのであれば、忠実で思慮深い奴隷=14万4千人でも良いかもしれないが、しかし、ものみの塔協会の解説ではこの例え話は1世紀から20世紀まで及ぶことになっている。そうなると、神の家の者=14万4千人というのは、キリスト教の歴史的な事実に合わなくなってしまう。
さらに、小麦と毒麦のたとえ話に明示されているように、小麦(良い僕)と毒麦(悪い僕)はキリストが再臨されるまでは分離されないということも指摘されよう。それまでの長い間、小麦と毒麦は共に成長することになる。つまり、圧倒的に長い間神の家は混在状態に置かれるということである。神の家の者=14万4千人ではこの間の状況とも合わないのである。
忠実で思慮深い奴隷級に関するものみの塔協会の教理には、管理権の矛盾の他にこのような時間的な矛盾も含まれている。
最後にこの教理が間違いであることを証明する決定的な事実をあげておく。それは「忠実で思慮深い奴隷の代表であるとされる統治体が偽善的な組織であることが、天の法廷の前で立証された」ということである。偽証を犯し、天の法廷の権威を軽んじる忠実で思慮深い奴隷など、絶対に存在し得ない。