この統治体の教理は、エホバの証人もあまりよく理解していない教理の一つである。長老たちでさえその聖書的根拠をきちんと論証できる人はそれほど多くはない。一世紀にエルサレムで開かれた会議は統治体の集まりであった、だから統治体は聖書的な取り決めであるくらいに思っている人がほとんどであろう。あとは組織に対する信用で成り立っているようなものである。
こうした質問に満足に答えることのできるエホバの証人は少ないであろう。あなたの答えの根拠は?と問われれば、・・・おそらく、ほとんどの人は返答に窮するであろうと思う。
参考にものみの塔協会の模範解答をあげておく。
「最初はものみの塔協会しかなかったのではありませんか。どうしてキリストが統治体を任命したなどと言えるんですか。統治体が作られたのはN・H・ノアのときからではないんですか。統治体というのは協会の会長、副会長などの幹部の仮の姿でしょう。そうでなければ、どうしてものみの塔協会がすべての実権を握っているんですか。」というような質問はしない方が親切かもしれない。
この教義の問題点を把握するのはそれほど難しいことではない。冷静な目と心で聖書を見ればおのずとはっきりする。つきつめれば、ものみの塔協会が統治体の根拠として上げているものは、わずか二つしかないからである。中にはいろいろと複雑な論議をしたり、細かい資料を載せている記事もあるが、それらすべては論拠の貧弱さをカバーするためのカモフラージュにすぎないものばかりである。
要点は次の二つに絞られる。
「すべての教えは聖書から」ということを宣伝しているものみの塔協会にとっては、まず字義そのものの根拠が求められることになる。しかし都合の悪いことに、「統治体」という語は聖書には出てこない。この困難な問題を苦心して扱ったのが1973年2月15日号の「読者からの質問」であった。
英語のGovern(統治)の語源はラテン語グベルナーレ、ギリシャ語キュベルナオであり、これらの語には「舟のかじを取る、水先案内をする」といった意味がある。初期クリスチャン会衆にそのような人々がいたのは間違いのないことだから、「統治体」という名称はふさわしいものであるというのがこの記事の主張である。
多くの福音派の教会と同様ものみの塔協会も初期キリスト教は清く正しく純粋であった、後代になるにしたがってキリスト教は背教し、堕落していったという見解を取っている。組織体として見た場合、はたして初めこそ理想的であったのかそれとも幼く未完成で不完全であったのかは、見解の分かれるところであろうが、ものみの塔協会は原始キリスト教に近づけば近づくほど望ましいという立場を取っている。「統治体」という取り決めはより使徒的な在り方にかなうものであるとするのが、ものみの塔協会の主張である。
この点について「わたしたちの奉仕の務めを果たすための組織」という本は、次のように述べている。
「さらに多くの会衆が形成されるにつれ、エルサレム会衆にいた使徒や年長者たちは、拡大した、一世紀の国際的な会衆に対して主要な監督たちとして奉仕するようになりました。エルサレム会衆でのその立場にあって、それらの人々は、クリスチャン会衆全体のための統治体として奉仕したのです。」(p.24〜25)
さらに「永遠に生きる」(p.195,13節)には
「今日における目に見える、神の組織も神権的な導きと指示を受けます。ニューヨークのブルックリンにあるエホバの証人の本部には、世界の各地から来た年長のクリスチャン男子から成る統治体があって、神の民の世界的活動に対する必要な監督を行っています。」
と記されている。
統治体という名称は使われていないが、12使徒やエルサレム会衆の長老たちは一世紀の全世界的なクリスチャン会衆の「統治体」として働いていた、現代では神慮によってニューヨークのブルックリンにその機構が設けられたというわけである。
統治体の聖書的根拠は全くない。一つとして存在していない。これは完全に否定されるべき教理である。
この論議のからくりについては「欠陥翻訳ー新世界訳」の中で詳しく論じたので詳細は省くが、問題なのはその時代錯誤的な手法である。Governの現代の意味は「水先案内」などではなく「支配」である。単に導くのと支配には大きな相違がある。それなのに「支配」を「導く」に置き替えて、本来の意味をごまかしてしまっている。
ここで用いられているテクニックは「意味のすり替え」という詭弁の手法の一つである。字義的な根拠としてあげられているヘブライ語ギリシャ語ラテン語は、どれも直接の根拠にはなっていない。現在はもはやそういう意味がなくなっているにもかかわらず、英語のGovern(統治)の語源の一つの意味(水先案内をする)を持ってきて、現代の意味(支配する)に置き換えているのである。これは、ものみの塔協会の権威を無条件に受け入れた人以外には通用しない論法である。
おそらく心の中では、彼らは導くよりも支配したいのであろう。だからこそ「統治体」という名称を選んだものと考えられる。ただ、統治体を支配機関として打ち出すには都合が悪いだろうし、非クリスチャン的だという意識も働いているだろうから、昔の意味を持ってきて取り繕う以外に方法がなかったのであろう。「私たちはエホバの証人を導くだけです」と、真実、心からそう思っているのであれば、「統治体」という名称を採用することなど有りえないわけで、もっと「導く人々」にふさわしい名称が選ばれたはずである。ところがそうではなく、ものみの塔協会の幹部は「統治体」という名称を好んで選んだ。そこに彼らの本心が現れているとしか考えようがない。
統治体はその名のとおり「支配機関」そのものであって、キリストの精神に違反した非聖書的な取り決めである。神の家の中で支配者になろうとするのはサタンの業にほかならない。
統治体を現代の意味通り支配機関として考えるならば、無条件に原始キリスト教に統治体なる取り決めはなかったといえる。クリスチャンにとって唯一の指導者はイエス・キリストに他ならないわけだから、指導者よりも上位に位置する支配者など受け入れられるはずがなかったからである。キリストを超えてクリスチャンを支配しようと企てる者は、すべて背教者、サタンの使徒であった。
では一歩譲って、統治体を「指導機関」と仮定してみたらどうなるであろうか。確かに使徒たちが指導の任を果たしたのは事実である。様々な問題を決定したり、長老や監督を任命したり、特別の任務である人を派遣したのも事実である。しかし、それでもエホバの証人の統治体に相当するような組織体は、やはり存在しなかったと断言することができる。一世紀当時の組織のシステムは、その形態や在り方が統治体とは全く異なっていたからである。
なぜ、そのように断定できるのかといえば、理由は以下に見る通りである。
統治体の決定、統治体の任命、統治体の派遣といった記述は聖書中に一か所もない。
たとえ名称が異なったにしても、もし「統治体」に相当するような組織体が構成されていたのであれば、一つの組織体として意思表明をしている箇所が少しはあってもいいはずである。ところが、聖書中にはそのような記述は一か所もないのである。
使徒パウロの手紙全体を調査しても、彼が何か地上の一つの組織体の一員、ないしはその代表として指示しているようなところは全くない。手紙の形式はすべてパウロ、テモテ、シルワノといった個人名ないしは連名で発送されている。パウロはキリストに遣わされた使徒として行動している。どこにも組織の署名や肩書きなど見当たらないのである。これはパウロの手紙だけでなく、ヨハネやペテロの手紙等についても言えることである。
コリント会衆で大きな分裂騒動があったが、「統治体」はどこにも登場していない。もし統一的な組織体が形成されていたのであれば、このような重要な問題で何もしないというようなことは有り得ないはずである。
その時の状況について使徒パウロは、コリント第一1章11,12節に次のように記している。
11 私の兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。
12 あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。
(新共同訳)
コリントの人々にあてたパウロの書簡は、単なる私的な性質の手紙ではなく、分裂その他の様々な問題を扱った公的な性質のものであった。そうであればなおのこと、もし本当に、ものみの塔協会の主張するように「統治体」なるものがあって全世界のクリスチャンを指導していたのであれば、誰か一人くらいは「わたしは統治体に従います。皆さん、統治体の指示を仰ぎましょう」といってもよさそうなものである。しかし、パウロの記述から明らかなように、そのような発言をした人は一人もいなかったのである。
ものみの塔協会は、パウロとケファ(ペテロ)があげられているではないかと反論するかもしれないが(ものみの塔協会はパウロとペテロが「統治体」の一員であったと教えている。もっともパウロについては統治体の成員と断定すると困った問題が生じるので幾分揺れているようではあるが)、それは少しも「統治体」存在の証拠にはならない。なぜなら、彼らは「統治体」のような組織の代表者としてではなく、パウロ、ペテロという個人として登場しているからである。
また、この問題に対するパウロの指示も統治体の存在を否定するものである。彼は「統治体の指導に従うように」などとは一言も述べていない。そうではなくて、すべてのクリスチャンはイエス・キリストに固く付き従うべきであると、勧めているのである。
エルサレムで指導的な立場にいたのは、ヤコブ、ペテロ、ヨハネであって「統治体」という組織体ではなかった。彼らは全世界のクリスチャンに対する統一的な指導権を有していたのではない。パウロは彼らとは異なった路線を歩んでいたと考えられる。
この点は次の聖句に明確に示されている。
「また、彼らはわたしに与えられた恵みを認め、ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、わたしとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました。それで、わたしたちは異邦人へ、彼らは割礼を受けた人々のところに行くことになったのです。」(ガラテヤ2:9 新共同訳)
「世界大百科事典ーキリスト教会の発展史」平凡社(p.56)は
「彼らは初め必ずしもユダヤ教に反対せず、むしろその戒めと道徳的規範とに従ったが、イエスの信仰を中心として共同生活を行い、一致して義と愛とを実践し、互いに助けささえて独自の団体をなした。これが原始教会(初代教会ということもある)と呼ばれる集団で、イェルサレムから始まりしだいに広まり、独立した教会をなしたものもあったが、ことにシリアの首都アンティオキアではユダヤ人以外のいわゆる異邦人をも交えた団体が形作られ、ここにユダヤ的律法に制約されない、すなわち純粋に信仰のみによって結ばれた新しい教会形態が始まった。」(下線は発行者)
と記しているが、これが普通の考え方であろう。つまり、ある程度互いに独自の路線で歩んでいたので一致の確認が必要になった、神がそれぞれに恵みを示してくださっていたので互いにそれを確認しあったのだと。
さらに「原始キリスト教」(マルセル・シモン著 p43,44−45,103)には次のように記されている。
「彼らは共同体的生活を送っていたらしい。使徒行伝に描かれている(二・四四、四五)集産主義体制と理解されるものは、おそらく拡大した教会というよりは、むしろこの小集団のことであろう。このガリラヤ人の小集団に、イエスによってエルサレムで加えられた弟子たちを足したにしても、最初の集団としては一二○人という数字が(使徒行伝一・十五)真実らしさの限界であろう。この集団の指導層には使徒団が、とくにパウロが「柱」と呼んだ(ガラテア書二・九)ペテロ、ヨハネ、それに主の兄弟のヤコブ、この三人から成る三頭政治が目立っていた。使徒行伝もこの三人には、とりわけ重要な位置を与えている。
・・・・十二弟子は何よりもまず、エルサレムの教会、およびはやくからパレスチナに設立されたその枝教会の、霊的な指導者であって、はじめは定住していた(ガラテア書一・二二、使徒行伝九・三一)。彼らの権威、また彼らを通しての母教会の権威は、改宗したユダヤ人のみならず、後にパウロ書簡が証しているように、異邦のキリスト教徒にまで及んだのであった。十二弟子と教団とのスポークスマン格は、ある時はペテロ、ある時はヤコブであった。ヨハネはこのふたりのどちらにも従属した位置にあったようである。使徒行伝は十二弟子とならんで、長老の名を挙げている(十四・四以下)。権限の配分が両者の間にどうおこなわれたか、正確には分かっていない。少なくとも長老が十二弟子の下にあったことはあきらかである。おそらく長老の権威は厳密に局部的なものであり、管理職的なものであっただろう。
・・・・エルサレム教会は、使徒の段階でも、王朝の段階でも、堅固な構造を保っていた。ヘレニストの伝道に続く、ペテロ、ヨハネのユダヤ、サマリヤ地方巡回視察(使徒行伝八・九)、ペテロのアンテオケその他の地への伝道旅行、パウロが伝道していく先々で組織的に整然となされたユダヤ教化の反宣伝等々は、はじめ異邦人伝道にかなり消極的でありながら、形成期のキリスト教界全体を自分の権威下に置いて、思うままに形づくろうとするエルサレム教会の意志を、はっきり示したものであった。
それにくらべてパウロ教団の組織は、はるかにゆるやかなものであったようである。十二弟子は霊的な職分のうち、枢要なものは自分たちの手に集中させていたらしいのに対し、パウロ教団では、専門的に分化させていったことがわかる。」
エルサレムの代表者たちとパウロが協約を結ぶには、それなりの背景があったと考えるのが自然である。
エルサレムはエホバの証人の統治体が置かれているニューヨーク、ブルックリンに相当するような場所ではなかった。使徒たちは一か所に常駐しているのではなく、多くの場合分散していた。彼らはブルックリンの「統治体」とは異なり、常時連絡を取り合いながら組織運営を行っていたのではない。
使徒行伝に彼はあまり登場しない。神殿での奇跡(使3)、サマリヤびとへの聖霊降臨(8:14〜25)の時登場するが、いずれもペテロのわき役としてである。・・・伝承によると、後年のヨハネの舞台はエペソである。・・・・AD60〜65年パウロ、テモテ、テトスが死に、AD70年にエルサレムが陥落して、キリスト教の中心は小アジヤに移った。異端との激しい戦いが生じたのも小アジヤであった。このような事情がヨハネをエペソに行かせたのであろう。やがてそこでヨハネによる福音書および書簡が書かれた。エウセビオスによれば、彼はドミティアヌス帝即位15年にパトモス島に流され、ネルヴァ帝の治世の初めに釈放されてエペソに帰った。その間に黙示録を書いたとも言われている。彼はAD100年ごろ死んだと思われる。イレナエウスによると、ヨハネはトラヤヌス帝の治世までエペソに住んでいたと言われる。(「いのちのことば社 聖書辞典」p.730)
ペンテコステの聖霊降臨に続く大説教(使徒2:14〜36)に始まって、原始教会の活動の中心がエルサレムからアンテオケに移るまで、ヤコブ、ヨハネと共に、教会指導者として最も重要な役割を果たした。・・・・・エルサレム会議ののち、彼の名は使徒行伝の歴史から消え、無割礼の者への使徒パウロ(ガラ2:7)が大きく登場する。割礼ある者への使徒ペテロ(2:7,8)の書簡によって知られる足跡は、アンテオケ(2:11)、おそらくコリント(Tコリ1:12)、またバビロン(Tぺテ5:13)と、わずかに知りうるだけである。彼の死については、主イエスの預言(ヨハ21:19)以外に、聖書にしるされていない。(「いのちのことば社 聖書辞典」p.600)
推測の域を出ないが、ペテロが会議に参加した背後にも、アンテオケ側の働きかけがあったのかもしれない。というのは、アグリッパ一世の時の事件以来、彼はもはやエルサレムに常駐してはいなかったと思われるからである。使徒行伝十二・一七は、彼はこの事件をきっかけに「他の場所へ出て行った」と伝える。エルサレム会議の席上では、ペテロにユダヤ人伝道が委託されていることが周知の前提とされている。(ガラテア2:7,8 参照)会議の後も彼はエルサレムにとどまっておらず、間もなくアンテオケ教会を訪れている(ガラテア2:11、その他、Tコリント9:5を参照)。これらの点を総合するならば、彼が会議の時にエルサレムにいたのは、むしろ例外的であったという感じがする。彼はエルサレム教会関係の有力者の中ではアンテオケで進行しているような事態に最も理解のあるはずの人物ということで、アンテオケ側の慫慂(しょうよう)でこのとき会議のために特別に上京したのではなかろうか。(「使徒パウロ」佐竹 明著 p.128−129)
彼はエルサレム教会が組織された最初から、その教会の最も重要な地位、おそらく牧師であったろう(使徒12:17,15:13,21:18, ガラ1:19, 2:9,12)。彼のことを、4世紀の教父エウセビオスは、「義人ヤコブ」と呼んでいる(教会史2:23)。このヤコブについては、使21:18以降には何も述べられていない。おそらく殉教の死を遂げたのであろう(古代史、教会史) (「いのちのことば社 聖書辞典」p.693)
AD70年のエルサレム滅亡後、「統治体」にあたるような組織体が編成されたというような記録は全くない。 その後の歴史が示しているようにエルサレムは次第に重要性を失ってゆく。聖地としての価値は別であるが、組織上は帝国の首都である関係もあってローマが徐々に台頭してくる。それでもすぐにローマがキリスト教の統一的な中心地になったわけではない。アンテオケ、エペソ、アレクサンドリアなどが一大中心地として栄えていた時代があったことは、よく知られている事実である。
ものみの塔協会が「統治体」の聖書的根拠としてあげる最大のものは、使徒15章に記されているエルサレム会議である。ほとんどこれ以外にはないといってもよい。割礼の是非をめぐる論争によって開かれたこの会議が、ものみの塔協会によれば「統治体」の会議であったということになっている。
はたして本当にそうであろうか。ものみの塔協会のように、統治体は存在したと決めてかかって論議を組めば、確かにそのようになるかもしれないが、しかし、この会議については全く逆の見方も成り立つのである。つまり、「統治体」に相当するような組織などなかった、だからこそ開かれた会議である、統治体があったならあのような会議は開かれなかったはずであると。
ガラテアへの書簡やその他のパウロの手紙と使徒行伝を突き合わせて考えてみると、証拠は圧倒的に「統治体などなかった」という結論に有利である。
この会議については、次のように考えるのが自然であろう。
「まず、会議が開かれるに至った動機であるが、直接のきっかけとなったのは、エルサレムの教会と何らかの形で関係のある人々が、パウロたちの活動しているアンテオケ教会に来て、異邦人でキリスト教信仰に入る者に割礼(六四頁を参照)を施すことを要求したため、混乱が生じたという事情であった。この人たちは、キリスト教はユダヤ教の枠内にあるとの理解に立っていたことになるが、これはその当時にあっては特に異とすべき考え方ではなかった。
しかし、アンテオケ教会ーその指導者たちはやはりユダヤ人であったがーの見解は、これとは異なる。それは、異邦人は異邦人であるままキリスト教信仰に入ることができるとし、またそれに従って実際に事を運んできていた。・・・アンテオケ教会、とくにその指導者たちにとっては、ユダヤ主義者たちの言いなりになることは、先に述べたような彼らの信仰理解、またそれに基づく今までの実績から考えて、もちろん論外であった。しかし他方、このユダヤ主義者たちの影響を自分たち自身で排除することも、彼らにはできなかったようである。アンテオケ教会は、それとは別の道を選んでいる。すなわち、教会はその最高指導者であるバルナバとパウロとをエルサレムに派遣し、ユダヤ主義者たちが自分たちの背後にあるとしているエルサレム教会の指導者たちに会って、自分たちの福音理解と宣教活動の実際とを伝え、彼らの理解を求めさせたのであった。」(「使徒パウローエルサレム会議」佐竹 明著p.122,123)
この本の指摘道り、エルサレムとアンテオケは互いに、ある程度異なった路線、独自の路線を歩んでいたと考えられるのである。
エルサレム教会では、割礼を始めとするモーセの律法を守ることが普通に行われていた。しかし、アンテオケ教会ではそうではなかった。多くの異邦人が割礼やモーセの律法には関係なく、クリスチャン会衆に受け入れられていたのである。
言うまでもなく、この相違は割礼の論争が起きてから生じたものではない。相違があったからこそ論争が生じたのである。エルサレム会議に集まった人々は、今後そういう状況が出てきたらどうしようかという視点で、論議をを交わしているのではない。また、アンテオケに行って割礼が必要だと唱えた人々は、偽兄弟とか背教者と呼ばれたわけではなかった。
そうであれば、この会議は「統治体」存在の証拠ではなく、逆に「統治体」などはなかったという強力な証拠になる。というのは、もしエルサレムを中心とする組織上の絶対権を持つ「統治体」が存在していたのであれば、そもそもこういう論争など生じなかったはずだからである。エルサレムからの指示に異議、異論を唱える者はすべて、ものみの塔協会で行われているように、背教者として処分されていたであろうし、統治体間で見解の統一がなされていなかったということも有り得ないからである。
最後に、次の点を付け加えることができるであろう。ブルックリンの統治体の会議ならば、誰がどういう発言をしたのかどういう経緯で物事が決まったのか、末端のエホバの証人には知る由もないということである。自分たちの生活そのもの、時には命に関わるようなことが、実質的にはほとんどものみの塔協会の幹部によって、形式的には統治体の投票で決められているなどとは、エホバの証人は全く知らないのである。
しかし、すべてではないにしても、エルサレム会議の場合は、論議の様子やどのようにして決着したかが報告されている。この違いの意味するところは決して小さくはない。
この「三人の君主」という見出しは、かつて統治体の成員であり、現ものみの塔協会の会長、F・W・フランズの甥にあたるR・V・フランズ兄弟の著書「良心の危機」の3章「統治体」の中に出てくるものである。
彼はクリスチャンとしての良心の危機を迎え、主イエスに対する信仰から統治体を去ったそうである。私たち同様、彼もすべてのエホバの証人との接触を禁止されている。もちろん、この本はエホバの証人の中では禁書になっている。
R・V・フランズ兄弟によると、三代目の会長、N・H・ノアが統治体なる取り決めを発表するまでは、統治体というものは存在しなかったという。
ラッセルの時代は、彼が組織内のすべての権限を握っていた。1923年3月1日号のものみの塔誌(英文p.68〜71)には、「ラッセルの教えや方法に対する従順は、主のご意志に対する従順と同じである」とする「忠節の試練」と題する記事が掲載されたとのことである。加えて、同記事は、C・T・ラッセルを主イエスの財産の「支配者」と述べていたそうである。
この点を証しする日本語の出版物としては、「1976年の年鑑」(p.113)をあげることができる。そこには、A・H・マクミランの語った次のようなことばが記されている。
「『つまり、ラッセル兄弟は支配的な投票権を持っていて、いろいろな役員を任命しました。・・・』」
二代目の会長に就任したラザフォードは、ラッセルと同様の権力を掌握しようとして、敵対する者をすべて組織から追い出そうとした。そのために、彼は外部の弁護士と協議することまで行ったそうである。企ては成功し彼は組織の実権を握る。
ラッセル、ラザフォード、宣伝では主の羊を管理するためイエス・キリストに任命された統治体の成員、しかし、実質は支配権を行使する「君主」だったというわけである。
N・H・ノアは統治体を作ったのであるが、組織の体質はラッセル、ラザフォードの時代と少しも変わらなかったという。統治体で討議する議題とその結論は、会長であるノアが副会長のF・W・フランズと協議してすでに決定済みであったという。つまり、統治体は単に追認討議をしていたにすぎないというわけである。
N・H・ノアは巧妙に統治体というクッションを設定したわけであるが、しかし、組織上の実権のすべてはN・H・ノアがしっかり握っており、実態はそれまでと少しも変わらなかったのである。統治体の成員というのは表看板にすぎない。実質は、彼もまた協会の会長として支配権をふるう「君主」だったのである。
ものみの塔協会には「統治体」などは存在しなかった。「三人の君主」がいたにすぎない。なぜなら、一人の統治体というのはありえないからだと、R・V・フランズ兄弟は記している。