北海道・広島会衆事件簿



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前書き

平凡社の大百科事典には、エホバの証人について述べている次のような一文がある。

「死んでも忠実を守った<証言の長>イエスのように、信者は神の証人として絶対に嘘を言わず...」

一般にエホバの証人は狂信的で閉鎖的な宗教団体として紹介されることが多いが、正直で嘘をつかないという点だけは認められてきた。

その評価を裏切らないよう大勢のエホバの証人は正直に行動し、クリスチャンとして正しい生き方を実践するよう努めている。しかし組織を指導し、監督する立場にいる幹部クラスの中には、嘘をつくことなど何とも思わない偽善的な人々がおり、組織全体の体質に大きな影響を与えている。このような実態は今回私たちが遭遇した事件によって、初めて明らかになった。

上部の腐敗のひどさは予想をはるかに越えており、偽善と組織崇拝というものみの塔協会の体質の劣悪さには私たちもショックを受けた。

当初、私たちは統治体(エホバの証人の最高指導機関)が真実を知れば、腐敗した体質を改善してくれるものと期待していた。それくらいの自浄作用はものみの塔協会にも残っているだろうと考えていた。しかし、予想はすべて外れ、期待はことごとく裏切られた。彼らは真理を愛する者ではなく、むしろ逆に、真実に敵対するものであった。

ものみの塔協会の頑なさは、ステファノに糾弾された一世紀の宗教指導者の態度に匹敵するものである。キリストを殺害した彼らに向かってステファノはこう述べた。

「かたくなで、心と耳に割礼のない人たち、あなた方はいつも聖霊に抵抗しています」(使徒7:51)

もはや、ものみの塔協会には真実を聞くことのできる心も耳もない。その首は鋼鉄、心は石のようであった。

今後の動きを見なければ最終的な判断は下せないが、今までの反応を見ると、少なくとも現時点では、偽善的な体質を改め、組織支配を止める気は、彼らにはまったくないようである。このまま進んでゆけば、やがてキリストが偽善者に対して述べた次の言葉が、ものみの塔協会にも成就することになるだろう。

「彼らは盲目の案内人なのです。それで、盲人が盲人を案内するなら、二人とも穴に落ち込むのです。(マタイ15:14)

偽善的な体質が合っているという人は今のままで良いかもしれないが、多くのエホバの証人はそうではないはずである。真実を知り、偽善か真理か、真の崇拝か組織崇拝か自らの信仰で選ぶ権利がある。

現在、ものみの塔協会はひたすら真実を覆い隠そうと努めている。おそらく今後は、ますます内部統制を強めてゆくものと予想される。エホバの証人に真実を伝えるのは非常に難しくなると思うが、この本がその点で少しでも役立てばと願っている。

さらに私たちは、本書の発行が「天の法廷に対する広島会衆の提訴である」と考えている。

ものみの塔協会は自らをエホバの証人と称しながら、偽善と組織崇拝を行って神の名を汚し続けている。成員に非常に重いくびきを課し、エホバの神性に敵対し続けている。もし神がこのような状況を許し、今後も放置しておくなら、その存在と神性が問われることになろう。

果たして本当に神はエホバなのか。エホバは天と地の主権者で、決して侮られるような方ではないということを立証するのか。

それとも、単に名目上の存在にすぎず、何ら実質のない神なのか。エホバとは統治体、ものみの塔協会の言いなりにしかならないような神なのか。

私たちはこの事件簿を天の法廷に対する提訴として発行することにより、これらの点を確かめたいと思っている。

※ できればものみの塔協会や事件の当事者たちの反論や異議を載せたいと思い、その旨を伝えてみたが、ものみの塔協会からは何の連絡もなかった。また、小熊○○氏は、藤原、瀬野、笹山氏等の当事者を代表してこの原稿の受け取りを拒否した。

1章 広島会衆の歩み

ものみの塔協会は地域ごとの信者の集まりを会衆と呼んでいる。現在、全世界には約52,000の会衆があり、活発な伝道活動を行っている。日本では1800以上の会衆に、約26万人ほどの人々が集っていると報告されている。

広島会衆は、1978年9月、札幌・豊平会衆から分会し、伝道者15名から成る会衆として発足した。金沢兄弟、姉妹は広島会衆設立のため、秋田県能代会衆からものみの塔協会の任命でやって来た。

その当時の広島会衆の状況は決して良いものではなかった。伝道は比較的熱心であったが、内部の霊的状態(精神状態)は荒廃していた。表では時々取り繕った笑顔、裏では不平、不満、陰口、悪口、噂話などが横行していたのである。

成員の霊性のひどさを物語る典型的な例を一つ上げよう。あるとき三人の姉妹たちの間で中傷の問題が生じた。当事者同士の話し合いでは解決できず、問題は会衆へ持ち込まれた。そこで話し合いの場が設けられたが、その集まりの中で二人の姉妹が立ちあがり、あわや掴みあいのケンカになりかねないという一幕があった。「仮にもエホバの前です。場所をわきまえなさい」という金沢兄弟の一言で、ひとまずその場は収まったのであるが。

こうした実態に驚いた金沢兄弟が他会衆の兄弟にそのことを話したところ、それくらいまだいい方だとか、札幌のほとんどの会衆がそんなもんだよと慰められ、唖然としたという。金沢兄弟が広島に来る前にいた地方では、いくらひどくともそのようなことはなかったので、常識が違うと感じたそうである。

会衆で生じる人間関係のトラブルを聞くたびに、金沢兄弟は何とかしなければと考えるようになった。やがて時期を見定めてから、集会で「今後このような陰口、悪口、噂話などを放置するようなことは絶対にしない。それでもなお、陰でそういうことを続ける人がいれば、断固として扱う」という方針を発表した。そして、陰口や悪口を言い合うことがクリスチャンとしていかにふさわしくないかを強調し続けた。

それでもすぐにはよくならなかったが、強い決意を持って臨んだ結果、かなりの成果を得ることができた。会衆の霊性は大いに改善され、人数も徐々に増えていった。

広島会衆が取ったこの方針は、ものみの塔協会の教えに基づいたものである。同協会は、人類社会の中に見られる腐敗した邪悪な精神を世の霊と呼び、それを避けるようにと指導している。

「平和と安全」の本の中には次のように述べられている。

「世の霊を表わし、人生に対して世と同じ見方を持つなら、わたしたちは神の友ではなく世の友であることになります。世の霊は「肉の業」、すなわち「淫行、汚れ、みだらな行い、偶像礼拝、心霊術の行ない、敵意、闘争、ねたみ、激発的な怒り、口論、分裂、分派、そねみ、酔酒、浮かれ騒ぎ、およびこれに類する事柄」を生み出します。聖書は、『そのような事柄を習わしにするものが神の王国を受け継ぐことはない』とはっきり述べています」(p.25)

敵意、闘争心、そねみなどの世の霊は、「王国を受け継ぐことができない」とみなされるほど重大な罪とみなされている。そのため指導の任にあたる監督(長老)には、会衆からその種の悪い精神を締め出し、成員を保護すると言う責務が課されているのである。

ところが札幌に限らずほとんどの会衆で、この種の問題は野放しになっている。ものみの塔協会はひたすら成員を増やすことに熱心で、内部の霊的状態にはそれほど関心はない。それでは指導者層は実態を知らないのかというと、決してそのようなことはない。本当は幹部クラスの監督たちが一番よく知っているのである。だからこそ取り組もうとしないのかも知れないが。

いずれにしても、ものみの塔協会は裏の真実の姿を知っているにもかかわらず、外部には霊的パラダイスは成就していると宣伝しているのである。組織の偽善的な一面はこの部分にもよく現われている。

さて、こうしたことがあってから4年後の1984年3月、支部委員パーシィ・イズラブ兄弟が北海道を訪問した。各国の支部には通常4〜7名からなる支部委員会があり、その国のすべての会衆を監督している。支部委員はときどき各地を訪問して兄弟たちと会合を持ち、必要な組織からの指示を伝える。その時は長老や開拓者の資格が取り上げられ、本当に資格に適うよう調整することが必要であるという点が強調された。

開拓者について、「私たちの奉仕の務めを果たすための組織」の本114頁には次のように述べられている。

「正規開拓者としての任命を受けるために、あなたは現在、一年に1,000時間という野外奉仕の目標を達成できる立場にいなければなりません。これは要求です。…あなたは自分が割り当てられる会衆といつでも密接な協力を保って働かなければなりません。……しっかりした道徳的生活を送り、模範的な伝道者であることを示していなければなりません」

エホバの証人の社会では奉仕者の立場として、伝道者、正規開拓者、特別開拓者、宣教者があり、開拓者以上は長老や監督と同じように一つのステータスシンボルになっている。「開拓者に非ずば人に非ず」という風潮があるくらい、開拓奉仕を促す有形無形の圧力は強い。しかしこれは逆に言えば、資格のない人が大勢開拓者になっているということでもある。組織も建前とは異なって、実際は資格云々よりも開拓者の数が多ければよいという考え方をしている。各会衆には開拓者の数を競争するような傾向があり、組織もそれを歓迎している節がある。

しかし取り決めでは一応、「会衆と密接な協力を保って働くこと、道徳的な生活を送り、模範的な伝道者であること」という資格を満たしていなければならないことになっている。イズラブ兄弟の訪問では特にその面が指摘され、開拓者としてふさわしい行状を保つよう調整することが強調されたので、この訪問のすぐ後、広島会衆では開拓者との集まりを開いた。

「本当の意味で開拓者としての資格を満たすようにという指示が組織から出されていますので、その点で各々調整を計って下さい。広島会衆としては当分の間それを見守ることにします。」

ほとんどの開拓者はそれに同意し、調整するよう努力したが、その中で問題となったのがA姉妹であった。彼女は感情の起伏が激しく、良いときと悪いときが極端であった。競争心や嫉妬心、独占欲が強く人間関係のトラブルが多いタイプであった。そのため会衆と協力して働くことが難しかったのである。

A姉妹は何度も「改善します」と約束したが、実際にそれを果たすことはなかった。そのうち1984年の9月頃になると、金沢兄弟に、「笹山兄弟のところに行くけどいいの。兄弟、本当にそうしてもいいの」と言い出すようになった。あとから分かったことであるが、支部に送った訴えの資料はこの時期から準備されていたものであった。

A姉妹の状態は一向に良くならず、ついに会衆は彼女の開拓者の資格を問題にしなければならなくなった。いろいろと紆余曲折はあったが、最終的には本人の同意を得ていったん開拓者を降りてもらうことになった。

ちょうどそのころA姉妹の件と並行して、中高生の伝道者たちの問題が持ち上がった。伝道や集会に出てはいても、心は異性、芸能人、スポーツ選手のことに奪われているという状況が明らかになったのである。中には、机の上には芸能雑誌とカセットテープ、教科書や聖書は引き出しの中という伝道者もいた。さらにデートをしているという報告が相次ぎ、会衆としてはそれらの問題を放置しておくわけにはゆかなくなった。親が子供たちの実情をよく知らないということも大きな問題であった。

ものみの塔協会は、デートは単なる娯楽や楽しみのためのものではなく、結婚生活に伴う責任を果たすことのできる人々が、結婚を前提に行うものであると教えている。会衆はそうした指針に従って若い人々を援助しようと考えた。ほとんどの子供たちはその援助を受け入れて調整したが、K姉妹の娘さんだけがそれを受け入れず、行状を改めようとはしなかった。

やがて1985年の春ぐらいになると、外部の人々から非難の声が上がるようになった。聖書を他の人に教えていながら、学校で番長グループと呼ばれるような生徒たちと付き合っているとか、近所でも不良の溜り場と見なされているような所へ出入りしている、というたぐいのものであった。いかに子供とはいえ、伝道者として神の名を担っている以上、ふさわしくない行状が報告されればそのままにして置くことはできない。また親であるK姉妹の開拓者の資格にも関わることなので、実態を調査することになった。(もっとも後で、「調べること自体、本人を傷つけるので調査したのは良くなかった」と述べた監督もいて唖然とさせられたが…)

そこでK姉妹親子を援助するための集まりを開いた。始めは二人とも報告された事実を否定していたが、最後に悪い交わりをしているということを認め、集まった全員の前で改善することを約束した。しかしこの約束は一週間後にあっさり覆されてしまった。

この一連の問題でK姉妹は開拓者の資格を失うことになった。

この時期、ものみの塔協会はイザヤ60章22節、「小さな者が千となり、小なる者が強大な国民となる」という聖句を用い、霊的に成長するようにと強調していた。その成長を遂げるために「心」の教育に重点が置かれ、ものみの塔誌にはその点に関する記事が多く載せられるようになった。

例えば1985年7月1日号の「平和を求める人々は本当に必要です」という記事には次のように述べられている。

「神の霊によって私たちの心の中に平和がはぐくまれない限り、私たちの生活に永続する真の平和はあり得ません。…平和を奪うことを習慣にしている人を駆り立てている悪意のある精神は、利己的な欲望から出ています。…会衆の調和を乱す者たちは、利己的な欲望が『自分自身の中で闘う』のを許しているので、平和を求める者になろうとしません。そして、闘争心が体内に宿るのを許します。…したがって神の平和をはねつける人は、実際には神と闘っています」(p.12、14、15)

事件の始まる直前、広島会衆は「強大な国民」を目指して、会衆の中から世の霊、悪霊的な精神を締め出し、もっと産出的な業に取り組もうとしていた。ほとんどの成員はこの方針に協力し、会衆の拡大と発展のために努力しようとしていたが、こうした流れにどうしても調和できなかったのがA、K両姉妹であった。

二人は自分たちの要求を通そうとして、羊ヶ丘会衆の笹山兄弟のところへ駆け込んだ。やがて、彼らに日本支部、本部、統治体が加わり、大きな事件に発展して行く。しかし、組織の体質などの本質的な要因を別にすると、今回の大事件も直接のきっかけは、実につまらないところにあったのである。

2章 事件の始まり

(1) 支部からの速達

1985年6月15日土曜日夕刻、事件の始まりを告げる日本支部からの速達が届いた。送られてきたのは次のような手紙であった。


ペンシルバニア州の
ものみの塔
聖書冊子協会

SC:SD1985年6月14日

北海道広島会衆

金沢司兄弟

親愛なる兄弟

協会はただ今、札幌市羊ヶ丘会衆の長老笹山○○兄弟から一通の手紙を受け取りました。それによりますと、同兄弟は最近、出張講演で広島会衆と交わった際、会衆内の雰囲気がかなり緊張したものであることに気付き、同時に会衆内で悪霊の影響もしくは働きについてしばしば取りざたされているため、会衆の今後につき大いに心配している旨を知らせてくださいました。わたしたちはこれらの情報に基づき、広島会衆に何らかの問題が生じているとは断定できませんが、経験ある長老たちの援助が必要ではないかと判断いたしました。

それで、巡回監督である藤原○○兄弟、瀬野○○兄弟、及び笹山○○兄弟の三人の兄弟たちに広島会衆の援助を依頼することにいたしました。どうぞ、連絡をお受けになる時、会衆の実情を正直に知らせ、もし問題が実際に存在するとすれば、神のみ言葉の教えによって問題の解決を図っていただきたいと思います。そして、藤原兄弟からの連絡を待ち、求められた場合には他の関係者もこの集まりに出席できるよう連絡していただきたいと思います。上記の通りお知らせし、エホバの御祝福をお祈りいたします。

あなたの兄弟

Watch Tower B&T Society
OF PENNSYLVANIA

この手紙の写し:第79巡回区藤原○○兄弟


実はこのとき笹山兄弟が支部に送ったのは単なる報告だけではなかった。彼は広島会衆に対するA、K二人の姉妹の訴えを同時に送っている。すでに半年以上も前から、姉妹たちと共にその準備を始めていたらしい。それが支部の内々の指示によるものであったかどうかは分からない。ただ会衆を心配するという主旨の報告よりは、その訴えが主なものであったのは確かなことである。

この手紙は、文面を読む限りでは何ら問題がないように見える。組織が一つの会衆を心配しているという主旨のごく当然の内容なのだが、問題はその背後に隠されているものである。会衆内に緊張した雰囲気が見られるとか悪霊の影響云々というあいまいなことが理由として上げられ、そのため援助が必要だと述べているが、それは単なる表向きの理由にすぎず、実は秘められた目的があったのである。この手紙は事実上、処分のための第一ステップの始まりであった。

加えて文面には少なくとも3つの偽りがあった。

兄弟たちは手紙が届く数日前から、日本支部が何らかの行動を起こすのではないかと考え始めていた。そういうことを示す徴候が幾つかあったからである。しかし、支部の動きは兄弟たちの予想よりはるかに早かった。笹山兄弟が報告を送ったと考えられる日から速達が届くまで、わずか5日しかなかったのである。まるで報告を待っていたかのような素早さであった。

(2)会衆の対応

この当時、広島会衆の状況は報告された内容とはかなり異なっていた。兄弟たちは会衆の平和と一致のために努力しており、多くの成員もその方針を喜んでいた。会衆は活発な状態にあり、王国会館の建設にむけ、法人登録の準備、土地の買い付け、建設の具体案の検討などを進めていたのである。

しかし、このような会衆の進展に強い不満を持っていたのがA姉妹であった。姉妹は非協力的な態度を取りつづけ、ついに羊ヶ丘会衆の集会に出席するようになった。それは支部から速達が届く4日前6月11日のことである。

このような場合、組織の取り決めでは会衆の主宰監督に連絡が来ることになっている。そして両方の会衆の監督たちが協力し合って問題を解決するようにと指示されている。ところがそうした取り決めに反して、羊ヶ丘会衆からは何の連絡もなかった。そこで不審に思った兄弟たちは笹山兄弟に事情を尋ねることにした。兄弟の説明は次のようなものであった。

この説明だけでは、広島会衆に連絡してこなかった理由がよく分からなかったので6月13日、再び笹山兄弟に電話を入れた。その結果、さらに次のことが分かった。

6月14日、一人の研究生から、「A姉妹が広島会衆を支部に訴えると吹聴している」との報告が入った。笹山兄弟の不可解な言動ともつじつまがあうので、この点を直接、尋ねてみることにした。

「兄弟、実はA姉妹が広島会衆を訴えると話しているんですけど、何か聞いていませんか」
「えーー」(とまどった様子)
「そのことについて何かご存知なんですか」
「…広島会衆を訴えるとかどうかということではなく、私は広島会衆を心配しているんです」
「どんなことですか」
「会衆の中で悪霊の話が頻繁になされるとか、また長老のところに悪霊が出るというのは異常なことなんです」
「先回もお話ししたように心配するようなことはありませんけどね。兄弟はA姉妹からの情報だけで判断しているんじゃないですか。もし訴えを取り上げるとしたら会衆の実情を調べてみたほうがいいと思いますよ」
「…………」

どうやらすでに支部に訴えを送ってしまったらしい。

笹山兄弟は法的なことには人一倍詳しく、何事にも慎重な人である。普通であれば、彼が何の確認もせずに報告を送るなどということは考えられないことである。おそらく今回はその必要がなかったのであろう。なぜだろうか。支部の承認があったからに違いない。日本支部が笹山兄弟の背後にいることは、もはや確実と思われた。

それで兄弟たちは、支部からの手紙を読み終わった瞬間、「これは背教で片付ける気であろう」と直感したのである。事はすべて内密に進められており、真の動機や目的は隠されている。表面上、援助という名目を掲げ光の天使を装ってはいるが、本心は闇の中である。宗教の歴史からいって権威者がこういうスタイルを採用するときは、背教、異端で処分すると相場が決まっている。キリスト教世界で何度も繰り返されてきたパターンである。

支部には任命、監理、決定などの権限が与えられているので、その気になれば背教の基準も独自に決めることができる。なにしろ、検察官と裁判官が一緒になっているようなものだから、どんな判決でも通ることになる。判決内容は内密事項になっているので、組織内の成員を欺くのは簡単である。どう見ても広島会衆に勝ち目はなかった。

「何とかするには、まず支部を越える問題にしないとどうしようもない。そして、それを統治体に持ち込むことができれば、あるいは可能性もあるかもしれない」と兄弟たちは考えた。

このように判断する下地となったのは、5月19日、日本を訪れた統治体の成員A・D・シュローダー兄弟の講演であった。その時彼は、イザヤ32:1を引用し、「王イエスは義を引き上げるためにその支配を進めておられる。それゆえ監督たちは公正に特別の注意を払うべきである」と述べた。その聖句にはこう記されている。

「見よ、ひとりの王が義のために治める。君たちは、まさに公正のために支配する」

そうであるとすれば、公正に特別の注意を払わない監督たちは君としての資格がないということになる。また義を引き上げるための主要な器は「ものみの塔」誌なので、その義の規準に反対することは王イエスと戦うことを意味する。そこで協議を重ねた結果、兄弟たちは真実と公正、それにものみの塔誌に載せられている義の規準を根本方針にしようと決定した。

統治体ならば神の義に従って問題を扱ってくれるであろうと兄弟たちは期待したのである。

そのためまず日本支部の出方を見ることにして、次の三通の手紙を連続して支部に送った。真実と公正を擁護する気があるかどうかを確かめようと思ったのである。支部の体質からして、藤原兄弟の連絡を待たずに直接手紙を出せば反抗とみなすであろうことが予想された。しかし、あえて兄弟たちは支部に手紙を出すことにした。


1985年6月15日広島会衆

親愛なる兄弟たちへ

大きな問題が発生している中、兄弟たちに心配して頂けるのは嬉しく思います。

6月14日付の手紙を受け取りましたが、正直に申しまして意外な気持ちと驚きを持って文面を読みました。

確かに広島会衆で何らかの問題がなかったわけではありません。兄弟たちもお気付きと思いますが、会衆では二人の姉妹に関して開拓奉仕を離れるという件を扱いました。二人の姉妹は共に自分から資格がないと思うと言い、離れることに自ら同意しました。しかし、心の中では、本当に同意はしていないと判断しています。それで何度か援助も試みましたが、最終的に、「正規開拓奉仕中止に関する通知」を行ったのは、それなりの理由があります。それは会衆内のかなりの人々に明らかになり、動揺を引き起こした問題です。(必要であればいつでも情報をお知らせできます)付け加えれば、その問題を理由に削除の推薦を考慮しなかったのは開拓者の資格を向上させるという最近の協会の提案に基づき、本当に資格を得られるように助けるという事柄を基本に考えてきたからです。

これ以外には私には特別思いあたるふしがありませんので兄弟たちと話し合ってみました。

その結果、以下の結論に達しましたのでお知らせしたいと思います。兄弟たちのよい判断とエホバの指導を心からお願いします。

クリスチャン愛と共に

会衆内で悪霊の影響もしくは働きについて、しばしば取りざたされているとの事ですが、実在する霊者という意味であれば、そういう事実はほとんどありません。研究生や何人かの援助している姉妹たちの間ではそういう話がなされているとは思います。しかし、1985年1月1日号のものみの塔31頁にあるような意味ではしばしば会衆で話題にしてきました。したがって笹山兄弟に意味が正確に伝わっていないのではないかと思います。

新奉仕年度を迎え、増加の実をエホバに豊かに祝福していただけるよう、兄弟たちはものみの塔誌の次のような記事の精神に従うべく努力してまいりました。

この一連の流れに従って会衆の聖化に努めてきた結果、兄弟たちは今までになく良く一致しており、喜びを感じています。また、王国会館も土地が見つかり購入できる段階になりました。エホバにふさわしい、最も良い建物を建てるよう努力しているところです。又、開拓奉仕を励ます集まりを開いた時、非常に良い反応があり、4〜5名の人が来奉仕年度から開拓奉仕を始める計画でいます。

以上のようなわけで、広島会衆の兄弟たちは手紙に指摘されている問題は広島会衆には存在しないと判断しています。

連名


1985年6月17日

親愛なる兄弟たち

神の王国と義を第一にするよういつも励ましてくださり感謝しています。笹山兄弟を通して何らかの報告が協会に送られるのではないかということは広島会衆でも考慮していましたので、そのこと自体は別に驚きではありませんでしたが、内容は実に不思議なものでした。その理由についてはすでに一部述べさせていただきましたが、もう少し兄弟たちに知っていただきたいことがあります。

A姉妹について

つい最近開拓奉仕を離れた姉妹です。今回の問題の発端はA姉妹の援助している研究生(現在はT姉妹)から明らかになった事に起因します。幾人かの姉妹たちから、最近Tさんの表情が暗くて元気がない、何か問題があるのではないか、との知らせを受け、書籍研究の司会者に扱うよう指示しました。その結果A姉妹は秋の巡回大会の実演に登場した消極姉妹(陰口、悪口を言って他の人の信仰を破壊しようとする人)と同類の事柄を行なっていることが明らかになりました。私たちもそのような傾向には以前から気付いており、姉妹とは何度か話し合っていました。その時は、特に開拓者として会衆に協力し、新しい人々を援助してゆくことを私たちに約束し、努力すると言っていましたので今度こそは心から改善するよう頑張ってくれるのではないかと期待していただけに、非常に残念なことでした。

その他の幾つかの事情があり、5月に姉妹と開拓者の資格について話し合いましたが、もう少し機会を与えたいと思い、6月まで待つことにしました。しかし、ほとんど改善は見られず、本人も同意しましたので協会に通知を送りました。ところがすぐに会衆内の何人かの人々に、自分は開拓者を降ろされたと言い張り、批判的な行動を開始しました。ついには姉妹の交わっている書籍研究の集会がかき乱されるに至りました。それで私たちは会衆の動揺を防ぎ、清さを守るために、態度を改めて集会に来るよう指示しました。それに対し、A姉妹は笹山兄弟のいる羊ヶ丘会衆と交わるようになりました。A姉妹が何をどのように兄弟に話したか私たちには詳しいことは分かりませんが、今回の報告のゆく直接のきっかけになっているものと思われます。

K姉妹について

K姉妹の高校3年生の伝道者の子供と同じ学校に通っている研究生、及び会衆に交わっている研究生の子供より、エホバの証人で不良グループと付き合っている人がいるとの声が上がり、尋ねた結果、それはK姉妹の子供であることが分かりました。そこでK姉妹に問い合わせましたが、子供はそのようなことはないと言っている、との報告でした。それでさらに何人かの人々に聞いたところ、最初に上がった声の通りであることが判明しました。(必要であればその証拠をお知らせできます。)K姉妹は、悪い交わりに関する認識が大きくズレていましたのでその点を教えながら援助しました。私たちの観察ではエホバとの関係だけでなく、純粋に道徳的にみても大いに問題となる交わりだったと判断しています。その後、K姉妹も娘さんも共に、悪い交わりであるとは考えていないと述べています。K姉妹の子供はA姉妹と一緒に羊ヶ丘会衆に交わり始め、姉妹も何度か出席しているようです。この件については、笹山兄弟と初めから連絡を取り合っていたと聞いています。

6月2日、笹山兄弟は「家族間のまた、神との意志の疎通」の題で講演して下さいましたが、実際的でとても励まされるお話でした。会衆の成員たちも兄弟の話にとても感謝していました。私たちは全体的にみて築き上げる平和的な集会だったと考えています。もっとも神の義の戦いによる緊張感ならば大いにあったと思いますが、不和や争いによる緊張感ならまったく存在しなかったと思います。笹山兄弟があの集会を手紙の文面のように見ていたとはまったく信じ難いことです。私たちには笹山兄弟の極めて主観的観察であるとしか考えようがありません。さらに付け加えると、協会からの手紙をいただく前に笹山兄弟と連絡を取り、二人の姉妹たちとも話し合った結果次のように判断しています。

K姉妹は、娘さんのことしか笹山兄弟とは話していない、と述べていますので情報は主にA姉妹から得たようです。私たちには何の問い合わせもなく、事実かどうかの確認もありませんでした。笹山兄弟自身も一方の側からの情報しか得ていないと述べています。A姉妹は突然泣いたり、笑ったり、怒ったりなど情緒が不安定な姉妹です。

このような形で協会に報告するということはあまりにも片手落ちではないでしょうか。とは言っても、何も私たちは自分たちの扱いが間違っていなかったとか、援助は必要ではないということを言おうとしているのではありません。必ずしも必要でないことのために、忙しい兄弟たちの時間と労力を奪うのは心苦しく思うからです。

私たちは、二人の姉妹とも笹山兄弟の援助を得て、広島会衆と協力し立ち直るよう援助して下さるものと信頼して見ておりました。しかし、笹山兄弟がこのように扱われたのには驚きを禁じ得ません。現段階でも適切に扱えばすぐに処理できる問題だと思います。そのように聖書的に統治体の精神にのっとり、速やかに扱われないとすれば、率直に言って広島会衆の増加の大きな妨げであると感じています。

以上、兄弟たちにお知らせし、エホバの指導と祝福を心からお祈りします。

クリスチャン愛と共に


1985年6月18日

親愛なる兄弟たち

近づく大会の準備に忙しい中、ご心配をかけ大変申し訳なく思います。兄弟たちのお気遣いには心から感謝しています。私たちは、今回の件は、長老団同士が協力して事に当たればそれで済む問題と考えていました。今でも、できればそうしたいと思っています。笹山兄弟のおっしゃる援助とはどうもそういう意味合いではないように受け取れますが、援助をしてくださるというのであれば喜んで受け入れたいと思います。ただ、できましたら、私たちの願いも一つ聞いていただけないでしょうか。そうして下されば本当に幸いです。その願いと言うのは指定されました援助の三人の兄弟たちを可能であれば全員、それが無理でしたら少なくとも瀬野兄弟と笹山兄弟のお二人は他の方々に変えていただきたいということです。

以下は簡単ですが、お願いの理由です。

笹山兄弟

笹山姉妹はA姉妹の研究司会者です。

この件については、尋ねようと思えば、あるいは問い合わせようと考えれば幾らでもできたと思いますが、協会から手紙を受け取る以前に正式な連絡は一度もありませんでした。笹山兄弟は広島会衆の扱い方で疑問に思う旨を話して下さり、私たちも理解していただきたく連絡をとりました。兄弟は、「分かった」と述べて下さいましたが、何の調整もなされませんでした。また今回の連絡の中で、もちろん謙遜か冗談でおっしゃったのだと思いますが、「私は反抗的な霊とは理解できない」と述べておられます。私たちが最も苦しみ苦慮したものの一つはA姉妹の反抗的な精神です。

瀬野兄弟

瀬野兄弟は「広島会衆はもてなしの精神が不足している」と毎回のように強調して下さいました。いくらか改善されているとは述べて下さいましたが、先回も不満足だったようです。研究生を加えた食事の交わりで、もてなしに対する不満を口にされ、あわててしまった、と或る姉妹が述べておりました。また宿舎を提供した兄弟は、少しもてなそうと努めたところ、奉仕の僕よりずっとましだ、と言われ驚いたと語っていました。兄弟は集会が終了したら、会衆の成員が列を作ってお礼に来ることを求められ、広島以外の他の会衆ではほとんど行っていると話されました。確かにもてなしの精神は大いに必要であり貴重なものだと私たちも思いますが、このようになりますと一体誰の栄光を求めているのだろうか、集会や奉仕は、まず誰を賛美するためのものだろうかと考えざるを得ません。さらに、今春の大会の自発奉仕で、広島会衆は大会前日、会場の清掃を行いました。ステージを掃除していたとき、瀬野兄弟がニコニコしながら近づいてきました。ところが、全員広島会衆の兄弟姉妹であることが分かると顔をそむけて別の方へ行ってしまいました。瀬野兄弟に確認したわけではありませんが、兄弟姉妹たちは、「広島会衆に瀬野兄弟が個人的な反感を抱いているのではないかと感じた」と述べています。

藤原兄弟

K姉妹によると、K姉妹は藤原兄弟か姉妹の(はっきり分かりませんが)研究生だったことがあるとのことです。

笹山兄弟から6月17日午前10時に羊ヶ丘の王国会館に来るようにとの連絡を受け取りましたが、協会の判断を仰ぎたく、待っていただく事にしました。この連絡から判断しますと、集まりは単に援助のためのものではなく聴問の性質を帯びたもののように受け取れます。加えて笹山兄弟からは、並々ならぬ霊を感じて仕方がありません。広島会衆を心配しているだけとはとても思えない雰囲気が伝わってきます。一連の流れを見てみると、背後に何か不穏なものがあるように考えられるのは、私たちの思い過ごしでしょうか。そう思いますのも、私たちには立場も権威も何もなく無力に等しいからです。

兄弟たちに是非とも知っていただきたいのは、私たちは心からものみの塔誌を通して示されるエホバの預言の戦いを押し進めてきたらこのような進展になってしまい、まだ現実とは思えないくらい驚いているというのが私たちの偽らぬ率直な気持ちです。それで、もし、今回の集まりが審理を含んでいるのであれば、王の支配71年目の引き上げられた義の規準で扱われるよう、私たちは切に、心から希望します。協会に多大のご迷惑をおかけするかもしれませんが、私たちの願いを聞いていただければ幸いです。

エホバ神の過分の親切を心からお祈りします。

クリスチャン愛と共に
北海道広島会衆

3章 事件の背景

(1) 事件のきっかけ

姉妹たちが長老に関する訴えを直接支部に送った場合、通常であれば、その手紙は巡回監督に送り返され、巡回監督がその問題を扱うことになっている。(巡回監督とは約20位の会衆を監督している兄弟のことである)

しかし今回の場合は、初めから都市の監督と巡回監督が承認して直接支部に訴えを送っている。こういうことは、支部の指示がなければあり得ないことなので、最初から支部が事件に介入していたと考えられる。つまり事件を起こす、より大きな動機は日本支部の方にあったと判断せざるをえないのである。

いったい何故このような事件を起こしたのか、なぜ一つの会衆を犠牲にするようなことまでしなければならなかったのか、いろいろな理由が考えられるが、正確なところは私たちにもまだよく分からない。できれば詳しい事情は支部に聞いてみたい。

1985年8月初旬、東京世田谷会衆の長谷川兄弟から加藤姉妹宅へ電話があった。それによると金沢兄弟は、3年程前から目をつけられており、内々に調査が進められていたということであった。3年前というと、金沢兄弟には次のこと位しか思い当たることがないらしい。

1982年3月、金沢兄弟は神奈川県海老名市にある日本支部を見学した。ものみの塔協会は法人団体として独自の印刷施設を持っており、事務棟、工場、そこで働く人々のための宿舎を総称してべテルと呼んでいる。その時友人の大越兄弟の世話で、べテルの昼食会に招待された。大食堂で偶然となりに腰掛けたのは織田S兄弟であった。

「兄弟はどちらの方からおいでになりましたか」
「北海道の広島からです」
「北海道の出身ですか」
「いいえ任命で広島に行きました」
「ああそうですか。じゃ特開か何かで」
「ええ、その時はそうでしたが今は降りてます。ところで兄弟はべテルでどんな奉仕をされているんですか。あっ、そういえば、聞いたらよくなかったんでしたか」
「いやーかまわないですよ。翻訳の仕事をしています」
「それはお忙しいでしょう。早く新しい聖書が出るといいですね。大変じゃないですか。用語が変わったところもありますし」
「例えばどんなところですか」
「たしか…コリント第一9章27節の“打ちたたく”が“pummel”になってましたね」
「詳しく調べているんですね。もとはどんな語でしたか」
「えーと何でしたでしょうか」
「ビート(beat)ですか」
「いや確か、単なるbeatではなかったと思いますが」(browbeatがすぐ出てこなかった)

ここで大越兄弟がしきりに目で合図を送ってきた。

「まずい、まずい」

彼の目はそう語っている。そこで話題を変えた。

「そういえば、どうやって日本語にするんだろうと思うような表現がたくさんありますものね」
「どういうところ、そう思いますか」
「やはりヨブ記ですね。あそこは本当に大変だと思いますよ。日本語訳が出るのが楽しみですね」

この後、会話は途切れた。食事が終わって皆が席を立っても、織田兄弟は座ったまま押し黙ってじっと前を見つめ、何事か考え込んでいる様子であった。

大越兄弟は部屋に戻るとすかさず言った。

「あれはまずいよ」(これくらいのことで何故「まずい」のか、おそらく外部の人には分からないであろう)
「どうして」
「彼を知らないの?べテル一の切れ者と言われているんだよ」
「誰なの」
「織田兄弟(日本支部の代表者)の弟さんだよ」
「そうか…」

大越兄弟によれば、織田S兄弟に睨まれるとべテルにいるのは難しくなるとのことであった。

(2) 問題の手紙

長谷川兄弟の電話からもう一つ分かったことは、金沢兄弟が統治体に出した手紙が事件の原因になっているらしいということであった。これを裏付けるような幾つかの発言がある。

1985年7月11日の木曜日、藤原兄弟は金沢兄弟と話し合った際、本部からの返事を見て、「これですか。これが問題だったんですね」と語ったという。

さらに1987年3月赤平会衆の監督、石黒兄弟は押切姉妹への電話で次のように述べた。「金沢兄弟が本部に手紙を書いたのは非常に悪いことである」。

しかし、表向きはそうではない。組織の取り決めでは本部に手紙を書いても良いということになっている。たとえば、1980年の開拓奉仕学校で巡回監督の葛西兄弟は、「本部に手紙を書いて質問することもできますよ」と述べ、返事をもらった人の経験まで紹介している。

金沢兄弟はそれに励まされ1982年12月、預言と教義に関する七つの質問を統治体宛に送った。

<その中の一つ>

「ダニエル12:1の“その時”には、どのような意味があるのでしょうか」

ダニエル12:1は、次のように述べている。

「その時に、あなたの民の子らのために大いなる君ミカエルが立ち上がる。そして、国民が生じて以来その時まで起きたことのない苦難のときが必ず臨む。」

このすぐ前のダニエル11:40〜44には、北の王と南の王の最後の抗争が預言されている。ものみの塔協会はミカエルが立ち上がった年を1914年とし、北の王と南の王との最後の抗争は今後も続くと説明している。しかし“その時”という言葉が前の説を受けているとすれば、これは時間的に矛盾することになる。なぜなら、ミカエルの立ち上がる時は北の王の滅びる時であり、それは同時に大患難をも意味しているからである。だが1914年には大患難も北の王の滅亡も生じなかった。この時のズレをどのように説明するのか、知りたいと思ったのである。

この時の統治体からの返事について金沢兄弟は、

「上記のダニエル書に関しては、納得のゆく説明は得られなかったが、一見矛盾していると思えることの多くは観点や地点を変えることによって説明可能になることが示唆されており、聖書理解の視野を広げる点では大いに役立った」と述べている。

ところで、最近号の1987年7月1日号には、ダニエル書に関する最新の注解が掲載された。それによるとダニエル12章1節には「立つ」という語が2回用いられているので、イエスは1914年に立ち、さらに将来の大患難の時に立つ、という具合に説明されている。この記事が金沢兄弟の手紙を念頭に置いているかどうかは定かではないが…。

事件と関わりがあると思われるので付け加えると、金沢兄弟が統治体からの返事を日本支部経由で受け取った時、封筒がすでに開けられており、その表には赤エンピツでチェックした跡が付いていたということであった。

それから間もなく、彼は日本支部に質問を送った。それはものみの塔協会発行の「あなたは地上の楽園で永遠に生きられます」という本の2つの点に関するものであった。

(1)p.138、16章12節には次のように述べられている。

「しかし、サタンはいつ天から追い出され、『短い時』のあいだ、地上に苦難をもたらすのでしょうか。神の王国はいつ支配を始めるのでしょうか。聖書はこれに答えを与えているでしょうか。わたしたちは聖書が答えを与えてくれると期待できるはずです。…」(下線はものみの塔協会)

p.138を見ると「神の政府が支配を始める時」という副見出しがあり、そこを読んでいくと神の支配は西暦1914年に始まったと記されている。12節の並行記述からすると、神の王国が1914年に始まったのであれば、サタンの天からの放逐も1914年に始まったことになる。そのように理解してもよいのでしょうか、というのが第一の質問であった。

(2) p.148、18章1節には次のように記されている。

「イエス・キリストが、サタンとその使いたちを天から追い出して王国支配を開始された時、それはサタンとその邪悪な体制の終りが近づいたことを意味しました。(啓示12:7‐12)」

ものみの塔協会は、イエス・キリストの王国支配とサタンが天から追い出された時間的関係を次のように説明している。イエス・キリストは1914年10月頃に天で王国支配を開始した。その最初の仕事として天の大掃除を行い、数ヶ月から遅くても1918年までには、サタンを天から追放した。この説明は、啓示12: 5‐12節の記述とも一致している。ところがp.148、1節の記述では、まずサタンが天から追い出され、その後イエスが王国支配を開始したことになってしまう。この通り受け取ってよいのだろうか、というのが2番目の質問であった。

支部からの返答はまったく期待はずれのものだった。


ペンシルバニア州の
ものみの塔
聖書冊子協会

SE:SJ1983年2月12日

北海道広島会衆

金沢司兄弟

親愛なる兄弟

あなたから、「永遠に生きる」の本の解説に関するご質問の手紙をいただきました。それによりますと、138ページ、12節にある、サタンが天から追い出された時と神の王国がその支配を開始した時期を同じ時期と取ることができるかどうかについて尋ねておられます。この章は、厳密に何年何月何日頃といった時間的な要素に注目する代わりに、むしろ神の王国の支配の開始とそれが天および地にどのような影響をもたらしたかについて、啓示の預言を解説したものでした。従って、12節で「サタンはいつ天から追い出され、短い時の間地上に苦難をもたらすのでしょうか。神の王国はいつ支配を始めるのでしょうか。聖書はこれに答えを与えているでしょうか」と質問が提起され、141ページの上段に説明されていますように、「神の天の政府の王として、キリストは西暦1914年支配を開始」したことが答えとして述べられています。従って、148ページの第1節に述べられている「イエス・キリストがサタンとその使いたちを天から追い出して王国支配を開始された時」という記述も、時間的な要素に注目したのではなく、啓示12章に記されている一連の出来事について言及したものと理解することができるでしょう。なお、啓示12章の13節および17節についての説明は、「秘儀」の本の21章の中で詳しく論じられていますので、是非お調べ下さい。なお、天の王国の成員となる第一の復活を経験する人々の時期については、その聖書的な根拠が「ものみの塔」誌1979年10月1日号の第3研究の中で解説されております。これらも共にお調べいただきたいと思います。上記の通りお答えし、エホバのご祝福をお祈りいたします。

あなたの兄弟

Watch Tower B&T Society
OF PENNSYLVANIA


この解答によれば「永遠に生きる」の本の解説は「時間的要素に注目したのではない」となっている。しかし、その本の16章12節には、「サタンはいつ天から追い出され…神の王国はいつ支配を始めるのでしょうか…」とあり「いつ」の下にアンダーラインが引かれている。

このアンダーラインは明らかに時間的要素に注目させたものである。そうでなければ引く必要がない。しかもそのあとには1914年の意味と、その重要性が強調されている。この章の主題とその流れからして、12節のこの質問の答えを1914年と考えるのはごく自然なことである。それを「時間的要素に注目したのではない」とは、答えにも何もなっていない。全くの詭弁であった。

さて本部から返事をもらって半年位たったころ、金沢兄弟はある友人から次のように言われた。

「べテルじゃ評判悪いよ。もうブラックリストにのってるんだよ。少し気をつけたら」。

さらに巡回監督をしている友人からは次のような忠告を受けた。

「支部は頭越しにやられることを一番嫌う。本部へ手紙を書くのは危ない。やめた方がいいよ。巡回監督はかなりの権限を持っているし、会衆の記録には残らない書類もある。良くないことを報告されたら、まずもう特権はこないよ」

そう言われてみると、金沢兄弟もこういう秘密の手紙にはずいぶん嫌な思いをさせられたことがあった。ある時、支部から「緊急に移動するように」という通知を受け取り、非常に驚いた。半月ほど前の巡回監督との話し合いで、健康上の理由や会衆の状況から移動する必要はないということになっていたからである。

それでまず巡回監督に直接尋ねてみたところ、「協会には早急に移動させたい事情ができたのではないかと思います。兄弟の状況や希望は良く分かりましたので、協会にそのように伝えてあげましょう」という返事であった。そこで金沢兄弟も自分の事情を伝える手紙を支部に出すことにした。

それに対する返事で事の成り行きがすべて判明した。協会の手紙には、「巡回監督は熱心に移動を勧め、緊急にそうする必要があることを知らせてきています」と記されていた。つまりその巡回監督は金沢兄弟に話した事とはまったく異なる報告を支部に送っていたのである。

普段日本支部はこのような秘密の手紙のやり取りをしているので、「手紙」に対しては異常なほど神経質になるのかも知れない。

こうした様々なものみの塔協会の問題点に気付きながらも、当時金沢兄弟は組織から出ることはまったく考えていなかった。「いつか時期が来ればものみの塔協会の体質も改善されるだろう、エホバが何とかするまでとりあえずおとなしくしていよう、じっとしていたほうが良い」と思っていたからである。

しかしその後、どうしても統治体に尋ねてみたいことがあり、1985年2月、金沢兄弟は2回目の手紙を本部に送った。今までのように日本支部経由で返事が送られてくれば、ますます睨まれることになるので、返事は求めないことにした。ものみの塔誌上で答えてくれれば最善だと考えたのである。

ところが3月下旬、予想に反して本部は返事を送ってきた。組織の取り決め通り日本支部経由で。おそらく支部が動き出す直接のきっかけとなったのは、この返事ではないかと思われる。


WATCHTOWER
BIBLE AND TRACT SOCIETY OF NEW YORK,INC CABLE WATCHTOWER

WRITING DEPARTMENT
25 COLUMBIA HEIGHTS, BROOKLYN, NEW YORK 11201 U.S.A. Phone (XXX)-XXX-XXXX

EF:ESA March 21, 1985

Mr. Tsukasa Kanazawa XXXXXXXXXXX, Hiroshima Town, Sapporo-Gun Hokkaido, Japan

Dear Brother Kanazawa:

Thank you for your kind letter of February 9, 1985. We were pleased to learn that our letter to you about two years ago was of much assistance to you in resolving the questions that had come up in your mind and heart.

As you indicate in your letter, there is a need for all of Jehovah's people to grow spiritually and to continually grow in their relationship with our heavenly Father, Jehovah. Of course, as we do, we want to continually let our love for Jehovah cause us to share extensively in preaching the "good news" and in aiding sheeplike ones to learn the way that leads to life. We rejoice with you in seeing the fine progress and increases that are being experienced in Japan, as well as in all parts of the world at this time. Jehovah is certainly blessing his people as they go forward with the work which he has for us to do.

May Jehovah continue to bless you and your dear wife as you serve him faithfully and continue to walk with his people on the roadway that leads to life in his new system of things.

Your brothers in Jehovah's service

Watchtower B&T Society
OF NEW YORK, INC.


(事件簿原典にはこの手紙の和訳は含まれておりませんが、参考までに簡単に訳します。)


ニューヨークものみの塔聖書冊子協会

1985年3月21日

金沢司様

親愛なる金沢兄弟

1985年2月9日のご親切なお手紙をありがとうございました。約2年前の私どもの手紙が、兄弟の心に浮かんだ問題の解決に大きな助けになったとのこと、喜んでおります。

兄弟のお手紙にもありますように、すべてのエホバの民は霊的に成長し、我らの天の父であるエホバとの関係において成長しつづける必要があります。もちろん、この際、私たちのエホバへの愛ゆえに、私たちがこれからもますます「良いたより」の伝道と、羊のような人々が人生を導く道を学ぶのを援助することに熱心に努めるようでありたいと思います。私たちは、現在世界中のいたるところで経験されているのと同様に日本でも経験されているすばらしい進歩と増加を見て兄弟と共に喜びます。エホバは、確かに、ご自分の民が私たちにゆだねられた働きにおいて前進するのを祝福しておられます。

エホバが、兄弟と、兄弟の奥様が、忠実にエホバに仕え、エホバの新しい体制での命に導く道をエホバの民と共に歩むことを、これからも祝福してくださいますように。

エホバの奉仕におけるあなたの兄弟

ニューヨークの
ものみの塔聖書冊子協会

4章 事件の進展

(1) 三人の援助者との会合

支部から速達が届いて二日後の6月17日、笹山兄弟から水曜日に援助のための集まりを開きたいとの連絡があった。金沢兄弟は、会合が日中のため仕事の調整などの問題があり、即答できない旨を伝えた。

すると翌日、笹山兄弟は豊平会衆の監督、桑原兄弟を伴い、集会にやって来た。笹山兄弟は兄弟たち一人一人に手紙を渡したが、目は血走り、手はかすかに震えていた。小さな子供たちでさえその異常さに気付くほどであった。


1985年6月17日
札幌市豊平区XXXXXXXXX
王国会館気付
藤原○○

親愛なる兄弟たち
(金沢司兄弟、柳村勝実兄弟、宮坂政志兄弟、押切博兄弟、飛田栄二兄弟、八幡幸司兄弟)

6月19日午前10時札幌市豊平区XXXXXXXX王国会館で会衆の事情をおききしたいと思いますので出席下さるようお知らせします。

なお仕事の都合などで上記の時間に集まることができないときは、1〜2時間おくれても出席下さるようおすすめします。また、どうしても出席できないときは笹山○○兄弟(XXX-XXXX)にその旨お知らせ下さい。

忠誠を保つ人々の上にエホバ神の
導きがありますように。


なぜわざわざ手紙を持ってきたのであろうか。本当に援助であれば手紙で呼び出す必要はない。普通、手紙で呼び出しの証明を作るというのは、審理委員会を開くときに行う方法である。審理委員会(聴問会)とは、組織の成員が重大な罪を犯していることが確証された場合、複数の審理委員によって開かれる集まりのことである。援助以上の目的がなければ呼び出しの証明を作る必要はないので、日本支部が審理委員会の開催を目指している可能性は非常に高かった。

集会が始まってからの二人の行動も、それを匂わせるものであった。その日の講演者は金沢兄弟であったが、彼らは講演の筋書きを持ちこみ、二人で頭を突き合わせて講演をチェックしていた。いったい何を調べていたのであろうか。おそらく筋書き通り話しているかどうか調査していたと思われる。もしそうだとすると、背教の証拠を探していたことになる。

こうした徴候をみて、兄弟たちは集まりの意味を限定しようと考えた。聖書的には審理も排斥も援助になり得る。それで、援助がそのような広義の意味なのか、それとも普通でいう単なる援助なのかを確かめるため、集会後、藤原兄弟に電話を入れた。彼が電話で語ったことを要約すると、次のようになる。

審理委員会のための聴問ではないという確約を得たので、兄弟たちは羊ヶ丘会衆の王国会館に出かけた。しかし、戸を開けて中に入った瞬間、「これはおかしい、怪しい」と感じたという。兄弟たちが見たのは、すでに朝から三人で綿密に打ち合わせをしていたらしい光景であった。

テーブルのセッティングも妙であった。「どうもおかしい、これは聴問のスタイルではないか」と思いながら兄弟たちは着席した。話し合いが進むにつれ、その印象は益々強いものになっていった。実際、集まりは危惧していた通り、援助などとは程遠い取調べのためのものであった。もっとも、藤原兄弟の意識では、それでも援助しようと努めていたらしいのではあるが…

集まりの終わりの方で、金沢兄弟は笹山兄弟に尋ねた。

「どうして兄弟は何も確かめず、事実の確認もしないで報告を送ったのでしょうか。真実と異なることを公にすれば中傷になりませんか」
「あの集会に行った時そのように思ったものですから」

そのように思った…ではそのように思っただけで報告を送ったんですね、と金沢兄弟が言おうとすると、すかさず藤原兄弟が助け舟を出した。

「組織の取り決めではそうすることもあるんですよ。兄弟たちは知らないかもしれませんが、笹山兄弟は兄弟たちのことを心配したんです」

地域監督がかばうのであれば、もはや何を聞いても無駄である。

集まりの最後のハプニング。帰り際、玄関で援助者の代表者藤原兄弟、金沢兄弟に凄んで曰く、

「兄弟、これで終わりだと思わないでくださいよ」

思ったほどの成果が得られなかったせいであろう。

集まりが終わって広島に帰ってきてから。

「ちょっと見たか。あの瀬野兄弟の持ってた手紙、机の下から見えてたの」
「そうそう、『ここは扱わなくていいんですか』と聞いて『それは後で』と藤原兄弟に叱られて、小さくなっていたとこでしょ」
「睨まれてたもんねー」
「あの手紙、長くなかったか。我々に来たのよりは、なんかもう二段ぐらいあったような気がしたけど…」
「ウーン、そうだねえ。間違いないと思うよ」
「そうすると支部のあの写しというのは嘘っぱちだね。彼らの手紙には何か付け加えて書いたんだ」
「おそらくそうだよ。何を書いたかはよく分からないけれども、多分…筋書きのようなものじゃないかなあ」

後で分かったことによると、その一部には兄弟たちの長老・奉仕の僕の資格の削除を検討するようにという指示が含まれていたとのことであった。

会衆には、長老(監督)の他に、長老たちを助けて会衆の様々な業務を果たす奉仕の僕が任命されている。ものみの塔協会は、長老の資格について次のように述べている。

「クリスチャンの監督となるための聖書の規準は明らかに高度なものです。それらの人々には、エホバの崇拝において率先し、クリスチャンの行状において手本となる、という重い責任があるからです。…使徒パウロは、監督に対する聖書の基本的な要求を、テモテにあてた最初の手紙と、テトスにあてた手紙の中に記しました。テモテ第一3章1節から7節で、彼はこう書きました。『監督の職をとらえようと努めている人がいるなら、その人はりっぱな仕事を望んでいるのです。したがって、監督は、とがめられるところのない人で、一人の妻の夫であり、習慣に節度を守り、健全な思いを持ち、秩序正しく、人をよくもてなし、教える資格があり、酔って騒いだり人を殴ったりせず、道理をわきまえ、争いを好まず、金を愛する人でなく、自分の家の者をりっぱに治め、まじめさを尽くして子供を従わせている人であるべきです。また、新しく転向した人であってはなりません。…さらに、その人は外部の人々からもりっぱな証言を得ているべきです』」

一会衆の監督よりも地域監督や巡回監督にはより高い規準が求められている。彼らはこの面で模範的であることを期待されている。

(2) 会合の後

6月21日(金)

6月20日付の援助者からの手紙が届く。


1985年6月20日
札幌市豊平区XXXXXXX
王国会館気付
藤原○○、瀬野○○、笹山○○

親愛なる金沢司兄弟

いつも広島会衆が真の平和のうちに発展するよう努力なさっていることを知りうれしく思います。私たちもエホバの民がだれ一人離れおちることなく命の道を歩み続けるよう、ともに働きたいと願っています。

6月19日の話し合いを通じて共通の理解を深めたことを喜んでおりますが、なお二三の点について個人的におききしたいことがありました。この日は世俗の仕事などを調整されておいでになりましたので、十分の時間がなかったことはよく理解できます。それで、6月23日午後8時、札幌市豊平区XXXXXX札幌羊ヶ丘会衆の王国会館で集まりを持ちたいと思いますので出席なさるようお知らせします。

以上お知らせし、忠節なエホバの民すべての上に豊かな導きと平安がありますように。

みなさんの兄弟


それに対し、「集まりの目的、内容、性質を明らかにしていただければ出席します」との返書を送る。


1985年6月21日

親愛なる、藤原、瀬野、笹山兄弟

広島会衆の平和を心配してくださる兄弟たちのお気遣いには心より感謝しています。私たちも任命された牧者の一人として、またそれに協力する者として真の羊であれば誰一人離れ落ちてしまわないように強く願っています。ただ1984年10月15日号p.21、11節にあるように天軍が真のクリスチャンの交わりにふさわしくないと判断した人々はまったく別ですが。

6月19日の話し合いを通じて共通の理解を深めていただけたようで私たちも嬉しく思っています。あえて付け加えるなら今回の問題の真因はA、K両姉妹の不平、不満の精神にあり、兄弟たちとの個人的問題は関与していないと会衆は感じており、まさに1985年7月15日号p.22の記事で扱われているとおりです。できればこのような共通の理解も得ていただきたいと願っています。そうすればすぐにも問題は解決するものと思います。

さて、心にあることを正直に語るように藤原兄弟は励まして下さいましたので私たちの6月19日の集まりから感じた気持ちを率直に述べさせていただきたく思います。

このようなわけで、私たちはさらに兄弟たちと話し合わなければならない必然的、建設的理由を見出すことに困難を覚えています。広島会衆の平和と発展を心より願っていただけるのならそっとしておいて下さるのが一番と感じています。

6月23日の集まりの明確かつ具体的事項と目的を知らせていただければ、その後でまたご返事を差し上げたいと思います。しかし、どうしても集まりを強行されるようでしたら、私たちは重ねて協会に嘆願書を提出したいと思います。


同時に日本支部に事件の真相を知らせてほしいと言う次のような嘆願の手紙を送った。


1985年6月21日

親愛なる兄弟たち

日本でもついに10万人を越える伝道者が野外で働くようになったことを知り喜んでいます。増し加わる新しい人々を世話するため私たちも日本支部と協力して強大な国民を目指して成長してゆきたいと考えています。

6月15日に手紙を受け取って以来、様々なことがありましたが、私たちにはどうしても理解できない点が幾つか残っていますので是非とも教えていただきたく手紙を書くことに致しました。

私たちとしては事の全体が分からなければ、エホバに対する忠節な道とは何かをはっきりと見定めることができません。というのも問題となっている二人の姉妹の清めを進めてきた結果、会衆は今までになく一致し、喜びと平和の霊で満ちています。これは何よりもエホバ神の祝福であると感じています。このことは火曜日に突然、笹山、桑原両兄弟が見えられましたが、集会後に認めて下さいました。今後、どのように対応すべきかよく知ることができるように私たちの願いを聞いていただければ幸いです。より豊かな真理の光に照らされて、エホバの義がなおいっそう進むことをお祈り致します。

クリスチャン愛と共に
北海道広島会衆


この手紙に対する返事はなかった。

(3)支部からの二通目の手紙

6月22日、支部から二通目の手紙が届いた。三人の援護者の変更を願い出たことに対する返事であった。


ペンシルバニア州の
ものみの塔
聖書冊子協会

SC:SD1985年6月21日

北海道広島会衆

金沢司兄弟

親愛なる兄弟

あなたと数名の兄弟の署名の付された6月18日付のお手紙をいただきました。それによりますと、あなたと奉仕の僕を含む幾人かの兄弟たちは、協会が援助を依頼した瀬野兄弟と笹山兄弟をできればはずしてほしいと述べておられます。協会はこれまで、あなが代表するグループから三通の手紙をいただきましたが、その手紙の内容は決して健全な霊を反映するものとは思われません。

どうぞ、協会があなたあてに送った6月14日付の手紙をもう一度ご覧ください。笹山兄弟は広島会衆と直接交わる機会を持ち、ご自身で観察した事柄と信頼できる他の情報に基づき、あえて協会に知らせた方が良いのではないかと判断なさいました。通常は、こうした問題を会衆を訪問する巡回監督が扱いますが、必要に応じて円熟し経験を積んだ長老たちに協会が直接援助を依頼することがあります。上記の手紙の中で「わたしたちはこれらの情報に基づき、広島会衆に何らかの問題が生じているとは断定できませんが、経験ある長老たちの援助が必要ではないかと判断」したと記されている通りです。これらの兄弟たちは、審理委員のように行動することではなく、会衆の実情を公平に知った上で援助すべきことがあれば、そうするようにと指示されているだけです。

クリスチャンとして、豊かな経験を持つこれらの兄弟たちの援助を忌避する理由がどこにあるのでしょうか。あなたと幾人かの兄弟たちは、瀬野兄弟に関し色々な苦情を述べておられますが、なぜもっと早く当人と直接話し合うことをしなかったのでしょうか。あなたと兄弟たちのグループが巡回監督に対し、こうした見方をいだいているとすれば、7月上旬に予定されている巡回訪問から一体どのような益が得られるというのでしょうか。以上のような理由に基づき、協会は広島会衆を援助する目的で指名した三人の兄弟たちを変更することはいたしません。

これらの兄弟たちが会衆の実情を知り、もし何も問題が見当たらないのであればそれを共に喜ぶことができるのではないでしょうか。一方、もし不都合な状況が見いだされるのであれば、これら兄弟たちを通して与えられる聖書に基づく健全な見方は、みなさんが今後の忠節な歩みを全うしてゆく上で必要な調整を施してくれるものとなるでしょう。どうぞ、指名された三人の兄弟たちに惜しみない協力を示し、自分たちの義を立証することにではなく、エホバが所有しわたしたちに託しておられる神の会衆が健全な状態を保ってゆくことができるよう考え続けていただきたいと思います。上記の通りお願いし、エホバの御祝福をお祈りいたします。

皆さんの兄弟

Watch Tower B&T Society
OF PENNSYLVANIA

追伸:この手紙を署名した他の5人の兄弟たちと一緒にお読みになってください。


手紙を読み始めてすぐ、宮坂兄弟が突然大きな声で言った。

「これはやっぱりタヌキだわ」
「どうして」
「三行目のところ。ここ読んでみてよ。“あなが代表するグループ”となってて“た”が抜けてるだろう」
「ほんとだ。なんと…」
「とうとう自分の方から正体を現わしたんだ」

“た”抜きは別として、注目すべきは、“あなが代表するグループ”という表現であった。これはすでに兄弟たちを背教者とみなしている証拠と考えられた。そうでなければ“グループ”扱いになることはあり得ず、“あなたの会衆”となるはずである。この時点では、少なくとも兄弟たちは単なる“グループ”ではなく“会衆”の成員であった。手紙も“グループ”から出したのではなく、“会衆”から出したものである。図らずも支部の本心が出てしまったということであろう。

この手紙によって、兄弟たちはもはや何を嘆願しても無駄であると感じた。出した手紙の主旨や意図はまるで通じていない。支部が明確にすべき組織上の問題も単なる個人的な問題にされている。もっとも分かっていて、あえてそうしているという可能性の方が高かったのではあるが。

この返事で報告、嘆願の段階は終了した。

(4)統治体への道

6月22日、土曜日、藤原兄弟から電話があった。彼らは今回の問題を長老と開拓者の個人的なトラブルとして処理したかったようである。しかも悪霊に取り付かれ、背教した長老と組織に従おうとする姉妹たちという図式で。その証拠を集めるべく、内々で広島会衆に対する調査を行っていたがうまくゆかず、手詰まりの状態に陥っていたらしい。彼は巡回訪問のとき、「どこから手を付けたらよいか分からなかった」と当時の状況について語っている。直接電話をしてきたのは、そういう事情によるものと思われる。

藤原兄弟は、いかにも面白くなさそうな調子でこう切り出した。

「兄弟、天軍というのはおかしいじゃありませんか」
「え〜っ、どうしてですか。ものみの塔誌にそう書かれていますでしょう。それにみ使いたちの軍勢は天軍と言いませんか」
「それは、そうですが…。じゃあ兄弟たちは、あの姉妹たちが天軍によって会衆から出されたというんですか」
「別にそうだと主張しているわけではありませんが、私たちはただそういう姿勢でやってきたということです。ものみの塔誌の教えや精神に従って扱って、その結果出て行くことになったなら天軍がそう判断したということになりませんか」

<ものみの塔誌には次のように記されていた。>
「み使いたちは、だれがエホバの真の僕で、だれが偽りの僕かを識別できます。み使いたちは、ひどい不正を働く者たちが暴露されて真のクリスチャンの交わりから退けられる結果になるような状況を生じさせることが十分にできます」(1984年10月15日p.22)

「それは、そうですが…。しかし兄弟たちはもう少し愛を示すべきだったんじゃないですか。もっと誉めて励ますべきでしょう」
「そういう段階はもう終わっていると思いますが。あの姉妹たちの問題は一年や二年の問題ではありません。それに、愛を示すといっても、何でも許容していいというわけではないでしょう」
「それは、そうですが…。僕はこういうふうに言われたのは初めてですね。恣意的とはどういうことですか。兄弟たちの言い分はずいぶん聞いてあげたじゃありませんか」
「そうでしょうか。私たちはただ質問に答えただけですが」
「そうすると、兄弟たちはもう集まりには来ないということですか」
「いえ、そういうことではありません。手紙にも書きましたが、集まりの目的をはっきりしていただければ出席したいと思っています。しかし『愛』一つとってみても、意味を定義しないと話が食い違うばかりでしょう。それを一つ一つ行なっていくとなると膨大な時間がかかりますが、果たしてそこまでする必要性があるかどうか…」

彼はしきりに、「本当はやりたくない。大会の準備で忙しいので手を引きたい。協会の指示なので仕方がない」ということを強調した。また終わりの方で、「僕は今、協会に送る中間報告を書いているところですが、まだ半分しかできていないんです。残りの半分をどうしようかと考えているところですが…」と述べて、兄弟たちの態度次第では内容が変わり得ることをほのめかした。

その後少したってから、宮坂兄弟がK姉妹の偽証に関する審理について電話をしたところ、「私も地域監督ですけどねえ…。兄弟もそんな連絡なんかしていると逆に審理委員会にかけられますよ」と言われた。藤原兄弟にとって、上記の電話での話し合いはよほど不快なものであったらしい。

この藤原兄弟と金沢兄弟の話し合いで鮮明になったのは、ものみの塔誌に対する認識の相違、及び用語に関する理解の食い違いであった。典型的な例の一つは「愛」という言葉である。

広辞苑によれば、愛とは「慈しみあう心、思いやり、大切にすること」…等であり、また別の定義によれば、「誰か(何か)に対して暖かい感情をもつこと」となっている。ギリシャ語には愛を表わすアガペー(神の愛、原則に基づく愛)、フィリア(友愛)、ストルゲ(情愛)、エロス(性愛)という四つの言葉がある。アガペーは「神の定めた原則に従って誰かに暖かい感情を持ち、それを示すこと」であり、他の人の最善の益を考えるという点で最高の愛の形態とされている。

それで一口に「愛」といっても、どの愛を指すかによって意味は異なってくる。「愛」を単に、「誉めて励ます」ことに限定すれば、兄弟たちは問題の姉妹たちに対して愛を示さなかったといえるかもしれない。しかし、愛を「アガペー愛」と規定すれば、聖書の原則から外れる者を、教え、戒め、矯正しようとすることは愛の行為になり、会衆は二人に愛を示そうとしたことになる。

さて、藤原兄弟から電話があった二日後の6月24日の夜、笹山兄弟との話し合いが行われた。真実を知りたいという兄弟たちの希望に応じて開かれたものである。彼はどうも集まりには来たくなかったらしいが、後で聞いたところによると、藤原兄弟に促されてしぶしぶ出かけて来たとのことであった。一時間位すると、そそくさと帰ってしまった。

短い話し合いではあったが、この集まりの最大の意義は、問題の本質について得られた合意である。

兄弟たちは、最初から一貫して、二人の姉妹の問題はものみの塔誌の最新の義の規準に従って扱おうと努めた結果であると主張してきた。しかし笹山兄弟によれば、それは協会の方針に反するという。ものみの塔誌の最新の規準に従おうとすることが協会の方針に反するとは、どうしても信じ難いことであったので

「それでは協会に確かめてみる以外にはありませんね。返事をもらえるかどうかは分かりませんが、協会に尋ねてみたいと思います」

と金沢兄弟は申し出た。

「じゃあ、そうしてみてください」

笹山兄弟もそれを承諾した。

「あとはその裁定が出てからにしましょう」

ということで集まりは終わった。

この会合によって、『問題の本質がものみの塔誌の義の規準をどう捕らえるべきかということにある』との合意が得られたことは大きな進展であった。これを受けて、兄弟たちは統治体にものみの塔誌に関する裁定を問う下記のような手紙を送った。日本支部がものみの塔誌とは異なる方針を出してきていると判断する以上、支部に尋ねてみたところでまったく無意味なことだからである。


1985年6月25日

親愛なる統治体の兄弟たち

時宜にかなったすばらしい霊的食物を供給して下さることに心から感謝します。

…藤原、瀬野、笹山兄弟たちと話し合った結果、問題のポイントになっているのは二人の姉妹の扱い方であることがわかりました。兄弟たちは私たちの扱い方が義に先走りすぎ、愛と哀れみに欠けていると考えているようです。私たちはエホバに対する非難をすすぐこと、会衆の清さを守ることの優先順位に関する考え方が十分通じないと感じました。

結局のところ義の規準の捕らえ方、つまり言い換えれば今、どのレベルの義の規準で物事を行うべきかということが問題の根本であるという結論に共に到達しました。私たちの理解でいえば、ものみの塔誌は時宜にかなった食物なのだから、「はい、は、はい」でその通り受け取り、全力で行おうとするのがエホバのご意志だと思います。可能な限りそうしようとしたことが三人の兄弟及び日本支部の兄弟たちからの手紙(私たちは受け取っておりませんが)によれば協会の方針と異なっているとのことです。私たちのものみの塔誌の理解が間違っているということも十分あり得ますので、是非、兄弟たちにその判断と指示をお願いしたいと思います。



<その他、笹山兄弟との会合から分かったこと>

(5)支部からの第三通目の手紙

6月30日、支部から三通目の手紙が届いた。日本支部から来た公的な手紙としてはこれが最後のものとなった。

これは藤原兄弟の中間報告を受けて送られてきたものである。巡回訪問の木曜日の集会で自ら「真実の一かけらぐらいはあったでしょう。3ページも書いたのですから」と語った問題の報告書である。何を3ページも書いたのかは分からないが、協会の手紙に述べられている範囲では、やはり真実は一かけらもない。

この時期、兄弟たちは「あらかじめ仕組まれた筋書きに従って物事が進められているに違いない、彼らも真実を曲げているという意識はあるのではないか」と考えていた。

しかし後の進展からすると、どうもそうではないらしい。藤原兄弟にはそういう自覚がなかったようである。


ペンシルバニア州の
ものみの塔
聖書冊子協会

SC:SD1985年6月28日

北海道広島会衆

金沢司兄弟
柳村勝実兄弟
宮坂政志兄弟
押切博兄弟
飛田栄二兄弟
八幡幸司兄弟

親愛なる兄弟たち

協会はただ今、北海道広島会衆を援助すべく協会が調査を依頼した藤原兄弟から、中間報告書をいただきました。それによりますと、皆さんは6月19日に予定された会合にいったんは出席を拒否したものの、藤原兄弟たちの説得により、午前中の集まりに出席してくださったようです。しかしながら、午後に入ってから個人的に情報を求めようとしたこれら三人の兄弟たちに対し、皆さんは時間がないという理由でその場を引き揚げ、その後はどなたも出席を要請された会合においでにならなかったとのことです。しかも、皆さんは協会の代表者であるこれら三人の兄弟たちに対し、きわめて不敬な態度をお取りになったようです。わたしたちはこのような報告をいただいたことを本当に残念に思います。皆さんがお取りになったこのような態度ゆえに、協会はあらためて特別委員を任命し、広島会衆の実情を調査するよう取り決めることにいたしました。ただし、笹山兄弟は特別委員の一人に入っておりませんので、このことを念のためにお伝えしておきます。また、宮坂兄弟は笹山兄弟に電話をかけ、二人の姉妹たちと笹山兄弟をそれぞれ審理事件として告発したいとの連絡をしたようですが、もしそうであるとすれば、これら特別委員は審理事件として問題を取り扱うようになるかもしれません。それで、特別委員からの連絡を待ち、予定される会合に出席し必要と思われる証言とご自身の弁明を行っていただきたいと思います。わたしたちは皆さんが宇宙の最高主権者であられるエホバ神とクリスチャン会衆の頭であられるイエス・キリストの前に清い良心をいだいて服してゆかれるよう心から希望しております。上記の通りお知らせし、問題解決の上にエホバ神の豊かな祝福をお祈りいたします。

皆さんの兄弟
Watch Tower B&T Society
OF PENNSYLVANIA

この手紙の写し:特別委員

支部の手紙によると、広島会衆の兄弟たちの罪は『不敬罪』ということらしい。『不敬罪』とは、1947年改正以前の刑法で、「天皇および皇族、もしくは神宮、皇陵に対して不敬行為を成すことによって成立する罪」と説明されている。これに相当するような罪がキリスト教にもあるのだろうか。聖書には次のように記されている。

「このようなわけであなた方にいいますが、あらゆる種類の罪や冒とくは許されます。しかし、霊に対する冒とくは許されません。たとえば人の子に逆らう言葉を語っても、その者は許されるでしょう。しかし、聖霊に言い逆らう者は誰であっても許されないのです。この事物の体制においても、また来たるべき体制においてもです」(マタイ12:31,32)

キリストに対する不敬でも許されるのに、ものみの塔協会は許さないという。自分たちを聖霊と同列に考えているのであろうか。すでに過去の法律となった不敬罪がものみの塔協会で有効であったとはまったく知らなかった。

たいして意識もせずに偽りを語り、それを指摘されると「不敬だ」という。これはいったい何を示唆しているのであろうか。恐らく、彼らの報告は簡単に受け入れられ、その真実性が問題にされるということもほとんどないのであろう。もしそうでないとすれば、もっと真実に注意を払うはずである。

巡回訪問のとき、「それでは私たちはどうしたらよかったのでしょうか」と藤原兄弟に尋ねてみた。すると「何も言わずに、黙って、指示された通りにしていればよかったんです」ということであった。これはつまり、組織にとっては真理か真実かなどということより、従うか従わないか、従順か不従順かの方がはるかに重要な問題であるということを意味している。いやしくも協会の代表者たちに疑問を差しはさみ、真実に従って扱って欲しいと要求するなどとは、彼らの目には「きわめて不敬な態度」に映るのであろう。

何ともこの主観の世界というか、感覚のズレは本人にその自覚が無くなると恐ろしいものである。支部の感覚では不敬な態度を取ると「特別委員会」が任命されることになってしまう。しかも「審理事件として扱うことを検討している」と語るだけで、逆に審理にかけられるかもしれないという。このような何ら聖書的根拠のないことを平気でやろうというのは、普段いかにムチャクチャなことを組織の権威で押しとおしているかを物語っている。今まではそれでも何ともなかったのであろう。

この手紙でいよいよ審理は確実なものになった。文面には「審理事件として扱うようになるかもしれません」とあるが、「かもしれない」というのは表向きのことであって、実際は、間違いなく行うということである。監督たちにやらせていることはまさに審理の準備にほかならないわけであるから、疑問の余地はない。

この頃、会衆内には動揺が広がっていた。それに大いに貢献したのは、監督たちが会衆の成員にかけてきた電話やその調査の仕方であった。巡回訪問を翌週に控え、「いったい兄弟たちはどうなるのだろうか」という不安が強まっていた。それで会衆に状況を知らせ、個人の信仰で自らの進む道を選んでもらうため、集会で特別のプログラムを組むことにした。

支部が組織の権威できているので、兄弟たちは、聖書、真理、真実の権威、神の権威を前面に押し出すことにした。そうすれば、組織の権威で押し切ろうとする組織主義は、神と真理を敵に回すことになる。その図式を明確にした上で、会衆にも支部にも好きな方を選んでもらおうということに決めた。

7月4日木曜日の集会で金沢兄弟は事件のあらましを会衆の成員に説明した。

彼は話の終わりの方で、「いかに日本支部といえども人間なら恐れる必要はない」と語った。私たちが本当に恐れるべきなのは真実をご存知のエホバ神であり、組織の権威をかさに着た人間ではない、ということを強調したのである。支部はこの発言を問題にし、「告発する」とまで憤ったが、彼は別に支部を挑発するために語ったわけではない。それに、身に覚えがなければ怒る必要もまたないわけである。使徒5:38,39に基づき、エホバの証人として神の道を取るか、それとも権威主義という人間的な道を取るかということを象徴的に述べたにすぎない。

「この企て、また業が人間から出たものであれば、それは覆されるからです。しかし、それが神からのものであるとしたら、あなたがたは彼らを覆すことはできません。さもないと、実際には神に対して戦うものとなってしまうかもしれません」 (使徒5:38,39)

それゆえ同時に、「これは義の戦いである」とも強調した。支部にやましい動機がなければ話の主旨を取り違えるはずはないと判断したのである。

この話はテープに取られ、監督たちのもとへと送られた。藤原兄弟はこのテープの入手について、「エホバのお導きだと思いました」と巡回訪問の際に語っている。しかし金沢兄弟はプログラム前から、自分の話が録音されるであろうことを予想していた。K姉妹と親しくしていたT姉妹がテープレコーダーを持ってきていたからである。集会後、隣に座っていた姉妹に尋ねるとやはり録音していたとのことであった。

だが、兄弟たちはそれをとどめようとは思わなかった。闇の業であれば、それは完成させてしまうのがエホバの方法だからである。

5章 巡回訪問

(1) 巡回訪問に先立って

広島会衆の巡回訪問は7月9日〜14日の予定であった。巡回訪問とは、巡回監督が各会衆を週ごとに訪問する取り決めである。通常20ほどの会衆が一つの巡回区を構成し、さらに幾つかの巡回区が集まって地域区を構成している。広島会衆が所属する巡回区の監督は瀬野兄弟であり、地域監督は藤原兄弟であった。

各会衆の抱える重大な問題は、ほとんどがこの巡回訪問で扱われることになっている。もし支部が巡回訪問中に審理委員会を開く予定であれば、瀬野兄弟が一人で来ることはない。審理委員会は一人では開けないので、必ず藤原兄弟も派遣されるはずであった。

予想した通り、巡回訪問の前日になって藤原兄弟が共に訪問するとの連絡が入った。しかし訪問の目的や性質については何の説明もなかった。兄弟たちは先に木曜日の集会で、

「私たちは日本支部の下にいるので巡回訪問は受け入れるが、不真実に基づいて進められている特別委員会の業は受け入れられない」という方針を打ち出していた。(これは組織の権威と神の権威を相対的に考えた上での発言であった)

それで彼らが単に巡回訪問で来るのか、それとも特別委員として来るのか、あるいはその両方で来るのかによって対応を決めようと考えていた。

(2) 7月9日火曜日

午後一時頃、瀬野兄弟と藤原兄弟が到着した。二人を出迎えた兄弟たちは訪問の目的、および統治体の裁定を携えているかどうかを尋ねた。しかし裁定はなく、彼ら自身も訪問の目的はよく分からないとのことであった。

「支部に電話で聞いてみてはどうでしょうか」

と藤原兄弟。

「誰に聞いたらいいんですか」
「藤本兄弟か阿部兄弟が担当だと思いますが」
「そうですか。では、ちょっと相談してみます」
「じゃあ僕たちは待ってます」

そう言って藤原兄弟は瀬野兄弟と共に車に戻った。

そこで支部に電話を入れてみた。

「こちらは北海道の広島会衆ですが」
「少々お待ちください」

電話はすぐに兄弟に変わった。声から判断すると阿部兄弟らしかった。

「何でしょうか」
「今、突然藤原兄弟が見えられましたが、いったい何の目的でおいでになられたんでしょうか」
「地域監督として、援助と調査のためです」
「それだけでしょうか」
「どういう意味ですか」
「お尋ねしている通りですが」

やや間をおいていかにも不機嫌そうな調子で再び

「どういう意味ですか」
「お聞きしている通りです」

しばらく沈黙…。そして遂に

「援助と調査だけです」
「そうですか。分かりました」

援助と調査だけであれば拒む理由はない。支部がどこまでその約束を守るか定かではないが、「Yes means Yes の精神(“はい”という言葉は、はいを、“いいえ”は、いいえを意味するようにしなさい-マタイ5:37)」でゆくことに決めていたので、その通り受け入れることにした。

この後、瀬野兄弟と宮坂兄弟は会衆の記録調べを行ない、藤原、金沢、柳村兄弟の三人は今回の事件について話し合った。主な話題は藤原兄弟が送った中間報告についてであった。

「出席を拒否するなどと私たちは一言も言わなかったですけどねぇ」
「でも私は笹山兄弟からそのように聞いたものですから」
「…この手紙には私たちがその場を引き揚げたと書かれていますが、『これで終わりにしましょう』と言って集まりを閉じたのは兄弟自身じゃありませんか」
「私はそのように思ったものですから」
「しかし、『残れない人は手を上げてください』と兄弟が尋ねられたとき、柳村兄弟は手を上げなかったはずですが」
「そうですか、兄弟」と柳村兄弟に聞く。
「そうです」
「それなら『僕は残れます』とはっきり言ってくれれば良かったでしょう」柳村兄弟、逆に怒られる。
「それから宮坂兄弟は、二人の姉妹たちを告発したいなどと笹山兄弟に連絡したことはありませんけどね」
「僕は笹山兄弟からそのように聞いたものですから」
「そうですか、それでは笹山兄弟に確かめてみるしかありませんね」

すべてがこの調子であった。地域監督の立場にある者が、単に思った、感じた、聞いたのレベルで報告を送っていたのである。

藤原兄弟は先に帰り、瀬野兄弟が一人残った。そこで笹山兄弟が協会に送った報告について尋ねてみた。

「笹山兄弟に聞いたら、あの報告は兄弟の承認で協会へ送ったということでしたが、どうして事実を調べないでああいう報告を送ったんでしょうか」
「えっ、あ…笹山兄弟はそのように言ってましたか。確か…あれは笹山兄弟が送ったと思うんですが」
「そうですか。笹山兄弟は『調べてもらってもいい。僕は一人で送ったのではない。巡回監督の承認で送ったんです』とはっきり言ってましたけどね」
「う〜ん、そうだったかも知れませんが…いや、やはり、あれは、笹山兄弟が送ったはずです。あとで兄弟に確認してみましょう」

協会の手紙には“笹山兄弟から”とある以上、あの最初の報告の責任者は笹山兄弟に決っている。瀬野兄弟が名前を利用されたにすぎないことは明らかであろう。

その日の夜、「愛はクリスチャン会衆を見分ける」という題の話が、藤原兄弟によってなされた。その話の主要な点は、二人の姉妹たちの問題は愛で覆うべきものであるということであった。

(3) 7月11日木曜日

この日、金沢、藤原、瀬野兄弟の三人により、4時間余りに及ぶ集まりが設けられた。金沢兄弟と藤原兄弟が主に話し合い、瀬野兄弟はその内容をメモしていた。二人の姉妹たちの行状、預言の理解、本部への手紙などについて話し合われた。今回の事件に関する最大のポイントは次の点であった。

「ものみの塔の義の基準といっても、別に特別なことではなく、最近号でも強調されているように心からのエホバの証人でいようということです。利己的な、やましい動機からではなく、純粋な心でエホバに仕えようということですが」
「あ〜、そういう意味だったんですか。私は何か独自の義の規準を唱えているのかと思っていましたが、良く分かりました。しかしですね兄弟、それを日本で徹底したら、どんな弊害が出てくると思いますか。立ち行ける長老がいったい何人いるでしょうか。今、それを行うのは協会の方針ではありません」
「では、ものみの塔誌で勧められていることを、どのように理解したら良いのでしょうか」
「それはできる人はやれば良いということです。個人的にやる分には何も問題ありません」
「会衆でやろうとすれば…?」
「それは協会の方針に反することになります」
「と、いうことは…?」
「そうです。背教になりうるということです」
「それは、間違いなく、協会の考えですか」
「その通りです」

これは驚くべき発言であった。ものみの塔誌で公言していることをできるだけ皆で行なおうとすることが、背教になるというのである。

本来、ものみの塔誌の教えを広め、その理解を助け、可能な限りそれを行なうよう励ますのがものみの塔協会の代表者の務めのはずである。しかも、藤原兄弟は地域監督であり、1984年の暮に開かれた監督たちを訓練する王国宣教学校の教訓者でもあった。その時、ものみの塔誌の精神をできるだけ会衆に反映させるように、という指示を協会は出していたのである。さらに数ヶ月前に開かれた巡回大会で、監督たちを集め、ものみの塔誌の難しいところも可能な限り集会で扱うように、と教えたのは他ならぬ藤原兄弟自身であった。

これは支部の裁定に違いないと金沢兄弟は考えた。そこで藤原兄弟に次のように頼んだ。

「広島会衆は会衆全体でものみの塔誌の義を行なうべきであると考えていますので、集会でも扱っていただけますか」
「いいですよ。そうしましょう」

かくして支部の裁定は、ものみの塔協会の正式な裁定として公布されることになった。話し合いは友好的な雰囲気のうちに終了し、藤原兄弟も、「それでは審理委員会は必要ないでしょう。長老の削除の推薦もいらないと思います。少々調整するだけで良いでしょう」と語るまでになった。「では、支部によろしくお伝え下さい」と述べて、金沢兄弟は彼らと別れた。

ところが夜の集会に現れた藤原兄弟は、まるで別人のようになっていた。表情は硬く、取り付く島もないという風であった。いったい何があったのだろうか。彼は支部に電話してみると話していたので、恐らくその話し合いの結果であろう。

その集会での藤原兄弟の話の主題は、「神権的(神の権威を最優先する考え方)な取り決めに精通して従順に従う」であった。約束した通り、その話の中で協会の正式な裁定が伝えられた。

救いはバプテスマで達成されるので、ものみの塔誌に述べられているそれ以上の義は個人的に行なうべきものであり、会衆全体で行なってはならないという主旨の話がなされた。また、兄弟たちは神権的手順に違反することにより(本部と支部に連名で手紙を出したことを指す)「罪に罪を重ねた」と述べて、審理委員会を開く方針を明確に打ち出した。

(4) 7月12日金曜日

同日、午前10時から広島会衆の姉妹たちとの会合が開かれた。監督たちに事情を知ってもらいたいとの申し出に、藤原兄弟が快く応じて開かれたものである。ところが、この度も見事にその約束は破られた。

柳村姉妹が集まりの始まるのを待っていると、瀬野兄弟から会衆の名簿をコピーするように頼まれた。名簿を手にした瀬野兄弟は、出席した姉妹たち全員の名前をチェックした。

藤原兄弟が、「今日は皆さんのお話をお聞きします。どうぞ何でも言ってください」と切り出して、集まりが始まった。姉妹たちが発言すると、瀬野兄弟は名前を確認し、その内容をメモしていた。

何人かの姉妹たちは、その時の印象について次のように語っている。

「話し合うとか、聞いてくれるとかというのではなく裁きの根拠を探しているようだった。私たちが何を語っても、それはすべて会衆にとって不利になるよう曲げて受け取られてしまった。」

その夜、長老と奉仕の僕の集まりが開かれた。「火曜日の出迎えの態度がふさわしくない、もてなしの精神に欠ける」ということが主な理由として上げられ、全員がその立場から下ろされることになった。

その後、長老団の集まりになると、藤原兄弟はいかにも苦々しげに、

「兄弟、今日の姉妹たちとの集まりはひどかったですね」

と話し出した。

「僕は、ああいう姉妹たちを見たのは初めてですよ。あれはひどいですね。あの姉妹たちは!」
「何かしたんでしょうか」
「あれなら、兄弟がいなくても十分背教しうる姉妹たちですよ。あの姉妹たちならやりかねませんね」
「そうですか。それで一体そういう心配があるのはどの姉妹たちでしょうか」
「まず小河姉妹ですね。それに三浦姉妹、この姉妹は特にひどかったですよ。あと加藤姉妹や多田姉妹もそうでしょう。あの姉妹たちなら兄弟がいなくても背教しかねないと思いますよ」(藤原兄弟はかなりプライドを傷つけられたようであったが、小河姉妹は、二人の姉妹が何を訴えたのか、支部はどうして二人を信頼できる姉妹だとみなしているのか、と尋ねたに過ぎない)
「それじゃ私の方から何か話してみましょうか」
「いいえ、もう要らないでしょう。その必要はないと思います」

長老団の集まりはこれで終わり、背教で処分すると言う支部の方針がはっきりした。しかも、その中には姉妹たちも含まれている。そうでなければ、姉妹たちを説得するよう努力するはずであるが、その必要はないという。心配している様子もまったくない。おそらく支部としては、この際、反組織的な悪影響を根こそぎにしてしまいたいということであったのだろう。

排斥になりそうなメンバーをざっと数えてみると、少なくとも15人位いそうであった。一人一人バラバラになってしまえば潰れてしまうのは目に見えている。やはり会衆を組織する以外にない。とはいえ、結論が出る前に表立って動くわけにはゆかない。そうすればそれを背教の根拠にされてしまうであろう。いったいどうすれば良いのか、非常に難しいところであった。

この時、判断の基準としたのは、使徒5:38,39のガマリエルの言葉であった。今回の事件が人間的な意志から出たものであれば、成功することはない。しかし神が何らかの目的をもって物事を押し進めているとすれば、それは必ず成し遂げられるはずである。それを試してはっきりさせるには、どうしたら良いだろうか。考えたすえ、会衆を組織するための動きは一切起こさず、巡回訪問が終わるまでは監督たちの好きなようにしてもらおうということにした。もしそれで会衆が組織されるならば、それこそ神の建てた会衆とみなすことができる。そのようにしてエホバのご意志を確かめようと考えたのである。

ただ、もし会衆が設立されたとしても、組織から離れたままで長い間やって行くのは無理だろうと判断したので、何とか短期間で終わらせたいと思い、統治体に緊急の援助を求める手紙を出すことにした。

(5) 7月13日土曜日

特別委員会から聴問会への呼出し状が届く。


札幌市西区XXXXXXX
松浦○気付
北海道広島会衆特別委員

1985年7月13日

北海道広島会衆

宮坂政志兄弟
親愛なる兄弟

北海道広島会衆特別委員はものみの塔聖書冊子協会から任命された審理委員として、下記の通りあなたとの会合を持ち、聴問を行ないたいと考えています。ご都合をつけて出席してくださるようお招きいたします。

上記のことをお知らせし、エホバの導きをお祈りします。

あなたの兄弟

北海道広島会衆特別委員
藤原○○
桑原○
瀬野○○
松浦○


またこの日ある姉妹に、「兄弟たちはもう駄目なので離れるように」との電話があったという。審理委員会が開かれる前にすでに兄弟たちの処分は確定していたらしい。

(6) 7月14日 日曜日

この日の集会には藤原、瀬野兄弟のほかに、近隣の会衆から松浦、桑原、出口、小熊の各兄弟たちが出席した。集会は物々しい雰囲気のうちに始まり、終始、陰うつで重苦しい空気が会場内に漂っていた。兄弟たちは意気消沈してまるで死んだようになっており、会衆のほとんどの人は集会の間中、ずっとうつむいたままであった。しかしそれとは対照的に、藤原兄弟は意気揚々としているように見受けられた。多分、もうこれで片付いたと確信したのであろう。集会が終わると悠々と引き上げていった。

この日、羊ヶ丘会衆の王国会館で審理委員会が開かれることになっていた。審理委員からの手紙によれば、罪状は「会衆内に分裂を引き起こしたこと」となっており、根拠として上げられているのは、7月4日の集会での金沢兄弟の発言であった。

しかし兄弟たちは、会衆を分裂させることを目的として行なったわけではなく、聖書預言の義に従っただけである。聖書預言の義とは次のような考え方である。

聖書は神が裁きを行なわれる際、救いのために求める特定の義の規準について示している。それは常に預言の形で伝えられるので、聖書預言の義と呼ぶことができる。この預言の義とは、ある特定の時期に特に必要とされる規準であり、通常の義に優先するものとなる。

例えば、ソドムとゴモラの滅びの時、救いに必要な特別の義の規準は「町を出なさい。後ろを振り返ってはならない」というものであった。またノアの洪水の時には「箱舟の中に入るように」という指示が出された。この預言(規準)によって人々は試され、振るわれてゆき、その結果、命に至る者とそうでない者とに分けられたのである。

広島会衆の兄弟たちは、イザヤ60:22の「強大な国民」(数においてだけでなく、質においても)が今の時期における預言の義であると考え、その方針に沿ったものみの塔誌の義の規準に従うことこそ、神のご意志に従うことであると判断した。ゆえに、二人の姉妹の扱いにおいても、問題の発言についても、決して神から離れようと考えた結果ではなく、神に従おうとした結果であった。したがって、審理委員会でいかに偽りの証拠に基づいて審理を行なおうとも、事の真実を知っている天の法廷の前では無罪であると確信していた。しかし次の聖句が気にかかった。

「…何でもあなたが地上で縛るものは天において縛られたものであり、何でもあなたが地上で解くものは天において解かれたものです」(マタイ16:19)

この聖句は、地上で権威を与えられている者の決定は、天でも有効であるというふうに適用されている。通常であれば、自称、神の権威を与えられているものみの塔協会の決定は、天の法廷の決定であると考える。そこで、ものみの塔協会の権威と、預言の義の権威とどちらが上かを試すために、言い換えれば、現代の預言の義は何かを確かめるために、金沢兄弟は次のような但し書きを送った。


1985年7月14日

特別委員

親愛なる兄弟たち

私には分裂を引き起こす意志も背教者になろうとする気持ちも全くありません。エホバ神が最も良く知って下さっていると思います。今週の木曜日可能な限りお話し致しましたが理解していただくことができなかったようで本当に残念です。(藤原、瀬野兄弟が聞いて下さいました)

王国の言葉は人々を分ける力があります。聖書預言の義もシュローダー兄弟のお話のようにロトの家族を分けてしまいました。そのことを分裂行為と考えるなら仕方のないことです。

山へ登る時のように地点、観点が変化すれば物事はまったく異なって見えます。それを一致させる価値基準が受け入れられなければ私には、もはやどうしようもありません。

祈りのうちに努力してみましたが弁明しようという気力、体力がわいてきませんので、兄弟たちにすべての裁定を委ねたいと思います。どうぞみ旨のままに物事を決定なされて下さい。

ただもう少し時間を下されば皆さんの聴問に応じることのできる状態になるかも知れませんが、7月14日の状況ではとても無理と感じています。

それで私のいない状況で7月14日に審理がなされ、決定が下されても私には何の異議もありません。

すべて皆さんにお任せしたいと思います。もし決定がなされたらお知らせいただければうれしく思います。

新秩序への命の道を私にも残して下されば幸いです。

祈りとともにあなたの兄弟

北海道広島会衆金沢司


もし、日本支部あるいは審理委員の中に聖書預言の義が理解できる監督がいれば、審理を強行し強引に排斥にすることはなかったと思うのだが、どうやら心から理解しようという監督は一人もいなかったようである。

この但し書きには時間を稼ぎたいという意味もあった。統治体が動いてくれれば全員が排斥にならずに済むのではないかという期待があったからである。またぎりぎりまで譲歩してみれば、支部に少しでも憐れみがあるのか、それともどうしても追放したいのかが明らかになるだろうということもあった。

審理委員会に出ることは初めから論外であった。

6章 審理委員会

(1) 欠席審理での排斥

審理委員会とは裁判と同じようなものであって、単なる話し合いの場ではない。後に「どうして審理委員会に出て話し合わなかったのですか」というわけの分からないことを述べた長老たちもいたが、審理委員会の何たるかが認識できていれば、そういう台詞は出てこない。

王国宣教学校の教科書(監督養成書)を見れば分かることであるが、審理委員会を開くのは罪を確定した上でのことである。従って、審理委員会に呼ばれるということは、すでに罪人に定められたことを意味する。罪を犯したのか、それともそうではないのかを話し合うのは審理委員会以前の問題である。

兄弟たちには審理委員会に行くべき罪の自覚はなかった。ものみの塔誌の精神を可能な限り会衆に徹底させようとすることが背教になるなどということは、エホバの証人としての信仰と良心からしてとうてい受け入れることはできなかった。審理委員会に呼ばれるべきなのは、むしろ偽りを弄し偽証を行なっている彼らの方ではないか。本当の背教者は日本支部の方であると考えていたのである。

しかもあの監督たちでは。審理委員会の実質的な代表者が不真実な報告を送ることを何とも思わない藤原兄弟なのである。公正な審理を期待できる可能性はまったくなかった。仮に監督たちが奇跡的に真実を擁護したとしてもどうしようもない。末端でどう言おうと決定するのは支部である。支部が片付ける気である以上は何をしようと無駄なことである。つまり、どう考えてみても、出席するという線は出てこなかった。

この時、兄弟たちが唯一期待をよせていたのは、統治体の勧告であった。もっともこれは統治体の善意を信じた上での話ではあったが。(この時はまだ統治体そのものが問題なのだということはまったく分からなかった。それを理解したのはかなり後になってからである。)郵送に必要な日数を考えると、勧告が出るまでには最低一週間から十日位かかるものと思われた。そのため兄弟たちは何とか時間的余裕を作ろうと考え、審理委員会の延期を願い出た。しかし、これはあっさり断られてしまった。

王国宣教学校の教科書、p.69、161には、「もし再三、聴問を行なっても当人が来ないなら」「当人が再三に渡って姿を現さない場合」と記されている。ゆえに、この組織の指示に忠実に従うのであれば、一度の欠席で排斥になることはあり得ない。何度かは呼んで様子を見るはずである。ところが、支部は神の義と公正だけではなく、組織の取り決めをも無視したのである。兄弟たちは一回の欠席審理で排斥されてしまった。何故か理由は分からないが、支部は非常に急いでいた。少なくとも、2、3回は呼んでもらえるものと思っていたのであるが…

(2) 二分された会衆

7月15日月曜日の朝、金沢兄弟に瀬野兄弟から電話で排斥の通知があった。

「兄弟が望んでいた排斥になりました。一応上訴することもできますが、そうしますか」
「もちろん上訴します」と答えると、
「えーっ。上訴するんですか…」一瞬、絶句した。 「じゃあ、なるべく早く上訴文を出してください」

組織を出るものと決めてかかっていたらしい。

同日、瀬野兄弟は会衆の成員に電話をかけ、「別の集会に出席すれば排斥になり、二度と組織に戻ることはできない」と告げた。それによって、別の集会が開かれることを知るようになった人は多かった。

電話での反応があまり思わしくないと感じたのであろうか。翌日、A、K姉妹の二人は会衆の姉妹たちや研究生の家を訪問し、謝罪して廻った。恐らく別の集会に行く人を一人でも減らそうと考えたのであろう。結果からすると、これは逆の効果をもたらしたようである。

16日の夜、集会が開かれた。出席したのは約60名であった。広島会衆は真っ二つに分かれてしまったのである。兄弟たちは誰一人誘わなかったのに、なぜ多くの人が「組織を出たら滅びる」という監督たちの脅しを振り切り、自ら排斥される道を選んだのであろうか。

以下はその理由について尋ねたものである。

彼らは皆、自らの信仰によってこの道を選んだのである。

(3) 上訴委員会

7月17日(水)下記の上訴文を提出する。


1985年7月17日

特別委員会の兄弟たち

7月15日に特別委員会の背の兄弟を通し排斥決定の電話連絡を受け取りましたが、私は下記の理由に基づきこの件を上訴したいと思います。

  1. 藤原兄弟はものみの塔協会を通し光を増しゆく聖書預言の義に関する裁定について私達に知らせて下さり、会衆で何度か話して下さいました。ところが統治体の裁定であるとは一度も述べられませんでした。この問題の根本となっているのは、まさに、その裁定なのですから、統治体の兄弟たちに確認して最初からやり直すのが道理にかなっており、急いで判断を下すのは性急だと言えるのではないでしょうか。(「奉仕の務め」p.28、1節 使徒15:1,2)

  2. 今回の扱い方を見ていますと、聖書預言の義について心から理解している人々でなければ、この問題を十分に扱うことはできないと感じました。したがってこの件を審理する兄弟たちは、その義について心から理解できる方々で構成されるべきではないでしょうか。(詩篇19:7〜11)

  3. この度の決定はきわめて一方的、かつ不当なものであり、はなはだしく公正を欠いています。(申命記1:16、Iテモテ5:21、イザヤ32:1,2)

こうした点から、悔い改めの有無というよりは審理の根拠そのもの、および審理自体が聖書的に無効であることをお伝えします。それゆえ上訴委員は統治体の裁定を受けてから、それを心から理解できる兄弟たちで構成していただきたく思います。(箴言16:21)

もし上記の点が受け入れられない場合は、いかなる取り決めも決定も天の最高法廷の前では無効であることを宣言したいと思います。(アモス5:20〜24、6:8)

以上お知らせし、兄弟たちの憐れみに富む判断を心からお願い致します。

まさに71年目に王イエスが引き上げられた義の支配を見たいと願っている皆さんの兄弟。

<アモス5:20〜24;6:8>
5:20エホバの日は暗闇であって、光ではない。それは暗がりであって、明るさはない。そうではないか。
21わたしはあなた方の祭りを憎み、〔これを〕退けた。わたしはあなた方の聖会の においを楽しまない。
22また、あなた方が全焼燔の捧げ物をささげるとしても、その供え物を喜びとは しない。あなた方の共与の犠牲の肥えたものに目をとめなさい。
23あなたの歌の騒々しさをわたしのもとからのけよ。あなたの弦楽器の音色を私に 聞こえないようにせよ。
24そして、公正を水のように、義を絶えず流れ行く奔流のようにわき出させよ。
6: 8『主権者なる主エホバが自らの魂にかけてこう誓った』と、万軍の神エホバは お告げになる。『「わたしはヤコブの誇りを忌まわしく思い、その住まいの塔を
憎んだ。わたしは〔その〕都市とそこに満ちるものとを引き渡す。

7月18日(木)上訴委員会からの手紙が届く。


札幌市豊平区XXXXXXX
村山○○様気付
北海道広島会衆宮崎○○

1985年7月18日

宮坂政志兄弟

親愛なる兄弟

7月16日付のあなたからの上訴の申し出に応えて、私たちは上訴委員会を開くことにいたします。上訴委員の構成と上訴聴問会の行なわれる日時と場所は次の通りです。

上記の通りお知らせいたします。

王国のために働く
宮崎○○


上訴委員会のメンバーを見て、真面目にやる気はまったくないと判断した。藤原兄弟よりはるかに低い権威しか持たない人々で構成されていたからである。

所詮、この上訴委員会は形式的なものに過ぎなかった。初めから真剣にやる気はなかったのである。このことはメンバーの一人であった小熊兄弟が、橋本さん(研究生)に語った次のような言葉によく表れている。

「特別委員が決定したことを覆すことはできない」
(「特別委員」は通常、組織の取り決めにはない)
「藤原兄弟が説得しても駄目なものは、誰がやっても駄目である」

しかも彼は、1年余りたつと、自分が上訴委員であったことさえすっかり忘れていたとのことである。たぶん途中から特別委員の方へ移ったせいもあるとは思うが。

一回の欠席審理での排斥、事実調査さえやろうとしない不真面目な上訴委員会、組織のこうしたやりかたに憤った金沢兄弟は、王国宣教学校の教科書(長老用のテキスト)返還要求に対して次のような返書を送った。


1985年7月20日
金沢司

今回の事件の責任者の兄弟たちへ
(特に日本支部内)

何をそのように急ぐのでしょうか。再三の呼出しという王国宣教学校の教科書(p.161)の指示を無視し、何のために性急に事を進めようというのでしょうか。これがいったい誰の益になるというのでしょうか。誰を喜ばせるというのでしょうか。皆さんはよく理解されているはずです。はたして誰の精神を反映し、誰の知恵に従っているかを。よくご存知ではないでしょうか。およそ清い聖なる神エホバのみ前で良心に何の痛みもなくできるものかどうかを。それとも少しも感じないほど皆さんの良心は麻痺しているのでしょうか。

皆さんは広島会衆を分裂させ王国会館の建設を中止させてしまい、多くの羊に多大の苦しみをもたらしました。そればかりでなく、はなはだしく不公正な裁きを行ない、強引に50人以上の魂を滅びに定めようとしています。これが、エホバ神のみ前で流血の罪を負い、天の法廷を侮辱する行為となることを知らないというのでしょうか。エホバ神は生きておられ、このことをご覧になっているはずです。(歴代第二19:6)さらに質問や嘆願を反組織的行動、不従順とみなすほどの忠実を要求するのはいったい誰が持てる権利でしょうか。いかに皆さんといえども、もしそうするなら自らを神の上に高める不法の人と同列になってしまうのではないでしょうか。

A・D・シュローダー兄弟は地帯訪問で明確に述べておられなかったでしょうか。聖書預言の義は生き残るためすべての人に必要な最低の義の規準であり、大ぜいの群衆が自らの衣を白くするためには欠かせないものであることを。(啓示7:14)今回皆さんはそれとはまったく相反する裁定を出されました。それゆえ、私は長老としてそのことを統治体の兄弟たちに再びお尋ねすることにしましたが、皆さんこそむしろ率先して統治体に確認すべきではないでしょうか。(使徒15:1、2、22、30〜32)私としては、その支配71年目に義を引き上げようとされる王イエスと戦い、エホバ神を敵にまわすことなどとても考えられないことです。

したがって、今回のような神権的手順および、天的経路を無視した措置はすべてが無効であり、まったく受け入れられないものであることをお伝えしたいと思います。(アモス5:5〜7、20〜24; 6:8、13)ゆえに、王国宣教学校の教科書は聖霊が私の長老職を解くまでは皆さんに返還する必要がないことをお知らせ致します。

王の義のために働く兄弟
北海道広島会衆の長老
金沢司


7月20日(土)夜8時、電話で排斥が通知される。

7月21日(日)再度、統治体に援助を依頼する。

(4) 姉妹たちの審理

7月24日(水)特別委員会から招集状が届く。


札幌市西区XXXXXXXXX
松浦○気付
北海道広島会衆審理委員
1985年7月22日

北海道広島会衆
柳村敬子姉妹
親愛なる姉妹

北海道広島会衆審理委員は下記の通りあなたとの会合を持ち、聴問を行ないたいと考えています。ご都合をつけて出席してくださるようお招きいたします。

上記のことをお知らせし、エホバの導きをお祈りします。

あなたの兄弟
北海道広島会衆審理委員
藤原○○
松浦○
桑原○
小熊○○

※ 開拓者身分証明書をお返し下さい。


7月26日(金)排斥通知

兄弟たちが一人も審理に出席しなかったためであろう。姉妹たちも欠席すると考えたらしく扱い方は非常に事務的で、ずさんであった。ある姉妹が招集の手紙を受け取ったとき、すでにその日時が過ぎていたくらいである。

8月1,2日上訴委員からの招集


札幌郡広島町XXXXXXXXXXX
北海道広島会衆宮崎○○
1985年8月1日

親愛なる小河姉妹

あなたからの上訴の申し出にこたえて、私たちは上訴聴問会を開くことにいたします。上訴委員の構成と上訴聴問会の行なわれる日時と場所は次の通りです。

上記の通りお知らせいたします。

宮崎○○


8月3日(土)排斥通知

(5) 審理委員会への質問

加藤姉妹のご主人は家族からある程度の事情を聞いていたが、姉妹たちに審理委員会への招集状が届いた時、その文面に驚き、支部と特別委員会に質問を送ることにした。

<< 尋ねた点 >>
  1. 背教者とは何か。
  2. 分派活動とは、どういうことを指すのか。
  3. 組織の指導者は、神の救いを真剣に求める人に真に聖書的な愛の手を差し伸べているか。
  4. 人間的な権威を神の権威にすり替えようとするキリスト教会の歴史的教訓をどう思うか。

加えて、公正な態度で事実を再調査するよう求めた。しかし回答はなかった。

7月26日、姉妹たちに排斥の通知を行なっていた藤原兄弟と、加藤さんは1時間以上にわたって話し合った。その一部は次のようなものである。

「手紙は届いているが(7月24日に送った手紙)、まだ内容を読んでいない。組織(日本支部)の指導に反抗したグループに加わっているので処理された」
「なぜ判決を急いだのか。聖書や出版物には充分な説得と記されているが、どのような努力をしたのか」
「電話で一回、全会衆の前で一回」
「そのような回数だけで充分なのか」
「…沈黙…一方的な情報だけで私たちを批判するのはおかしい」
「責任者側でまとめた経過を知りたい」
「組織内部の事情なので説明はできない」
「判断する情報がないではないか」
「…無言…お父さん、組織に戻るように呼びかけてください」
「組織外の人間だから介入はできない。それらを調整するのが責任者ではないのか」
「誤りなので撤回する」
「神の言葉上の問題か、それとも組織上の問題か」
「組織上の義(私には神学上の用語なので理解できない)の解釈の相違だ」
「解釈上の相違はどこで調整されるのか。組織内で疑問が生じた場合に充分な話し合いもせず、判決だけ急ぐルールになっているのか」
「…沈黙…」
「分裂とか分派というが、少なくとも6月まで王国会館建設の動きがあり、一人の独裁的、分派的責任者と判定された者の独断で決定したものではなく、会衆の総意だと聞いている。先月まで平和な会衆であったのに、それを相争う会衆と評価するのか」
「そのような評価はしない、立派だと思う」
「ならばなぜ急いで判決を出したのか」
「私は上と下から板挟みになり、頭が混乱している」

しばらくの間無言。電話が切れたのかと思い、「藤原さん、藤原さん」と何回か呼んだ。

「突然に上部が変わった。上部で決めたので、これ以上の事は上部に聞いてほしい。お父さん、私の立場も理解して欲しい。…しばらく沈黙…私はどうなっても良い、覚悟をしている」(彼の言う意味が分からない)
「エホバの証人は“世の光となるように”と教えられていると聞いている。世俗の人々が尊敬できる行動を取って欲しい。我々は聖書につまずくのではなく、あなたがた指導者の行為につまずく。真に聖書的な解決によって、早く平和が戻ることを希望する」
「私たちもそのように努力する」
「前回の手紙についての返事を期待する」
「…無言…」

加藤さんはこの話し合いの感想を次のように述べている。「お父さん、私たちはエホバの言葉に基づいてこのように行動したのですよ」というような神の言葉に基づく説明を期待していた。しかしその話はまったく出ず、組織の決定であると繰り返すだけであった。神よりも組織が優先するとの強い印象を受けた。電話後に知って驚いた。何と彼は北海道地方の最高責任者であったということである。私は札幌の一長老だと思い、厳しい質問を控えた。

藤原さんは最初、元気よく話していたが、後半は無言とか、「頭が混乱している」と称し、意味不明なことを口走っていた。「なぜ、判決を急いだのか」との部外者からの質問には答えられず、「判決が下っても組織に戻ることができる」と弁明する。「問題、取り組みの順序が逆ではないか」と問うたら、「私が決定を下したのではないから上部に聞いてくれ」という。会衆の前で判決を宣告した裁判官が、「判決は私から出たものではない」というのである。このことを世俗では責任回避という。責任者としての権威を機械的に行使したにすぎず、その責任を果たすため充分な努力を払ったとは考えられない。責任者には権限があるが責任もある。自己の行為を反省もせず、上部に責任を転嫁する。世俗の管理者ならば尊敬されぬタイプである。

7章 本部への訪問

(1) 事件の見通し

兄弟たちは事件が長期化することを望んではいなかった。たとえ真実でないことがはっきりしていても、背教者と呼ばれるのはあまり気持ちの良いものではない。そのままの状態が続けば友人、親族などとの関係にも様々な影響が出てくる。何とか短期間で終わらせたいと思っていた。しかしそうした期待とは逆に、事件は長期化の様相を帯び始めた。二度にわたる会衆の嘆願に対して統治体からは何の返答もなかったからである。

義の裁定を尋ねる6月25日付の手紙を本部に送ったとき、兄弟たちはそれに署名をしなかった。通常、組織上の取り決めでは、そういう手紙は支部に返されることになっている。問題はただ返すか、それとも何らかのコメントを付けて返すかであったが。もちろん兄弟たちとしては、統治体の見解が出されることを期待していた。しかし本部はどうやらそのまま返したらしい。支部の裁定から判断するとそういうことになる。

本部は手紙をそのまま返しても、支部委員全体がこの事件を知るようになれば何とかなるのではないかという期待も僅かながらあった。というのも、この事件は支部のなかで権威を持つある特定のグループによって、内々に進められている陰謀のようなものではないかと考えていたからである。そういう徴候は随所に見られた。もし支部全体がこの事件を知るようになれば、それなりの自浄作用はあるはずだから、問題を正すために誰かが立ち上がるのではないかと期待したのである。しかし、そういう人は一人もいなかった。

加えて本部にも動く気配はまったくなかった。どうして真実を擁護し、問題を正してくれないのであろうか。一体どうなっているのだろう。本部の考えが分からないことには、今後の見通しが立たない。「それでは行って確かめてこようか」ということになり、本部への訪問が具体化した。そこで会衆は金沢兄弟と宮坂兄弟の二人を派遣することにした。

(2) ニューヨーク、ブルックリンへ

9月6日、午後17:30分ノースウエスト018便はニューヨークへ向けて成田を飛び立ち、予定より1時間送れてケネディ空港へ到着した。

入国手続きをすませタクシー乗り場を捜しに行こうとしたとき、「トモダチ、トモダチ」と声をかけてきた外人がいた。旅行案内所には、「この手の外人には気を付けろ」と書かれている。暴利タクシーの運転手と相場が決っているからである。それで「No,thank you」と断った。ところが、すぐにその場を立ち去らなかったせいか、「cheap, cheap」(安いよ、安いよ)と叫びながら、勝手にカバンを持って歩き出してしまった。それでも強く断ればよかったのであろうが、何しろ二人は急いでいた。本部の受付の終了してしまう時間が迫っていたのである。もし間に合わないと、ニューヨークの路頭に迷う危険性があった。「まぁ、この際仕方ないか」というわけで、その暴利タクシーに乗ることにした。

ものみの塔協会の宣伝によると、ニューヨークでは“Watchtower”というだけですぐに分かるということであったが、意外なことにそのタクシーの運転手は知らなかった。仲間の運転手や通行人に聞いても分からず、尋ねまわってようやくたどり着いた。バスだと二人で16ドルのところを何と120ドルも請求された。渋るとムードが怪しくなったので、命惜しさに110ドル支払った。

しかしさすがにスピードは速かった。交通渋滞の始まっている道を60マイル(約100Km)の速度で車の間を縫うように走って行った。それで、日は沈んでいたがすっかり暗くなってしまう前に何とか本部に着くことができた。受付を捜しながらタワーズホテルの方へ歩いて行くと、途中で白髪の兄弟が二人の行く手を遮った。彼は腰にさげた鍵の束の中から一つを取り出して、おもむろに錠を開け、「Please」といって中へ入れてくれた。その後、受付の兄弟に何やら話し、奥へ引っ込んでいった。いったい誰だったのだろう。不思議な印象を与える人であった。

ところで、受付の兄弟はすでに日本語のできる姉妹を捜してくれていた。やがて彼女と連絡がつき、電話で話をすることになった。

「お待たせしました。今、シャワーを浴びていたものですから」
「それはすみませんでした」
「兄弟たちの用件はどんなことでしょうか」
「姉妹たちに話してよいのか、どうか…ちょっと判断に迷いますが」
「それではちょっと待って下さい」

…後ろの方から、かすかに声が聞こえる。夫と相談しているらしい。「Maybe apostates」(たぶん背教者)という姉妹の言葉がはっきり聞こえてきた。

「もしもし…」
「姉妹、どうやらご存知のようですね」
「…(5秒ぐらい沈黙)」
「後ろのほうで話している声がたまたま聞こえてきたものですから」

ここで姉妹の語調がガラリと変わる。

「兄弟たちの目的がわかんないのよね。いったい何が目的なの」
「はっ、いいえ、あのう目的といわれましても、特別何かそういうことがあるわけではないんですが。もう私たちだけではどうしようもなくなりましたので、何とか助けていただけないかと。ただそれだけなんですが」
「じゃ結局、責任のある兄弟たちに会いたいということですね」
「はい、そうです」
「今日はもう遅いので、明日また来てください。タワーズホテル知ってる?すぐ向かいなんだけど」
「はっ、すみませんが良く分からないんです。ここの受付にしていただけると助かりますが」
「そう、分かったわ。ところで兄弟たちホテル大丈夫なの。べテルには泊められないのよね。巡回監督やべテル奉仕者じゃないと駄目なことになってるから」
「今晩はルーズベルトホテルに予約してあります。明日からのを手配をしていただけるとありがたいんですが」

明日の朝9時ごろ、受付に来ることを約束して電話は終わった。

タクシーを呼んでくれることになったので、しばらく待っていた。ちょうどタクシーが到着するころ、奥の方から、見事に頭の禿げ上がったかなりの年配の兄弟が出てきた。恐縮して断ったのにカバンをタクシーまで運び、渋る受付の兄弟を伴い、わざわざ見送ってくれた。排斥後、エホバの証人から受けた数少ない親切の一つであった。

(3) 9月7日土曜日本部との交渉

様々なアクシデントがあり、予定より30分くらい遅れて本部へ着いた。その日は年一回の部屋替えということで、辺りは部屋を探して歩く兄弟たちでごった返していた。受付で用件を告げたが要領を得ない。連絡がついていないらしかった。仕方がないので兄弟たちは再び最初からやり直すことにした。

「兄弟たちは何をして欲しいんですか」
「問題を正していただきたいんです」
「問題…どんな問題ですか」
「裁きの問題です」
「OK、ちょっと待ってください」

待っている間にハワイ出身の兄弟たちが声をかけてきた。三世なので日本語はもうほとんど話せないという。「私たちはべテルに入ったばかりで、これから部屋を決めに行くところです。べテル奉仕の年数に応じて、だんだん新しくて良い部屋に移っていけるんですよ」と笑いながら話していた。そうこうしているうちに、日本語のできる日系三世のフルヤ兄弟が見つかった。が、彼も部屋替えで忙しいということで、もう暫く待つことになった。その時フロントの兄弟から再び声がかかった。

「兄弟たちの問題は何だったでしょうか」
「裁きの問題です」
「審理委員会は開かれましたか」
「はい」
「では上訴したらよいのではありませんか」
「上訴委員会はもう終わりました」
「それは本当ですか」
「はい」
「ということは“より高い裁き”を望んでいるということですね」
「その通りです」
「OK、分かりました」

そうするうちフルヤ兄弟が戻ってきた。フロントの兄弟と話したあと監督たちに連絡を取ってくれたが、「会うことはできない」という返事であった。

「それはおかしい。昨日は確かに責任のある兄弟たちに会わせてくれると言ったんです。約束が違うじゃありませんか」
「そう言ったのは誰ですか」
「日本語のできる姉妹です」
「名前は何と言いますか」
「えーと誰だったかな、うーん、そう、確か…アツ子です。アツ子姉妹といいました」
「ああ、分かりました」

姉妹に連絡すると、タワーズホテルのロビーで会ってくれるということになった。

アツ子姉妹は硬い表情でロビーにやって来た。何となく渋々やって来たという感じであった。ソファーに腰を降ろすと次のように切り出した。

「兄弟たち、一年ぐらい頑張ってみたらどぉ」
(一年…それは困る、何とか短期間で終わらせたいと思って本部までやって来たのに)

それで返事をしないで黙っていると

「復帰することもできるしねえ」と復帰を勧めてきた。

(復帰とは排斥された人が悔い改めて組織に戻ること、つまり自分の違反を認めたことになり、日本支部の審理は正当なものであったということになってしまう)

復帰!とんでもない!

「そんなことをしたら罪を認めてしまうことになるでしょう」
「じゃあ兄弟たちは何をして欲しいの」
「とにかくですね。私たちは本当の背教者じゃありませんので、この背教者というのを何とかしてくれませんか」
「日本支部の方からは何も聞いてないのよね。兄弟たちからの情報だけで扱うわけには行かないでしょう」
(どうして?扱う気であれば調べることができるだろうに。本部だからそれくらいの権限はあるでしょう)
「それに兄弟、たとえ真実でも日本人は言い方によっては誤解するでしょう」
(そんなことは分かっている。日本支部が変なことをしなければ、私たちだって何もあそこまで言う必要はなかったのだ。真実だと分かっているなら何とかしてくれてもよさそうなものなのに)
「組織はね、兄弟たちが思っているより大きいのよね」
「ええ、それはこちらに来てみてよく分かりましたが」
(組織が大きいからといって神の律法を曲げてよいということにはならないでしょう)と言いたかったが、これも黙っていた。
「これは難しい問題です。非常に難しい事件です」

この時アツ子姉妹は何事か考え込むような表情をした。しかしこの事件は単に聖書に従おうとしない日本支部のおかしなグループによるものとばかり思っていた私たちは、姉妹のこの言葉を聞いて意外に感じた。

どうして。どこが難しいのだろうか。偽りや偽証を行なっている者を扱えばそれで済むことではないか。そう思ったので次のように切り出してみた。

「ものみの塔誌は『はい、は、はい』の雑誌でしょう」
「そうです」
「ではどうしてその通りに会衆で行なおうとすることが背教になるんですか」
「兄弟、そんなことは言うもんじゃありません」

厳しい声でたしなめられてしまった。それでもひるまずに

「しかしですね。地域監督が確かにそう言ったんですよね」

“私たちはそれで背教者にされたんですから”と言おうとしたが、その前に話を変えられてしまった。

「今ね、統治体は別のことに取り組んでいるのよね。だからそういう問題は直接扱わないのよ。支部にみんな任せてあるから」
「それじゃ統治体はもう何もしないんですか」
「勧告することはできるわね」

ここで宮坂兄弟がいきなり大胆な質問をした。

「支部が問題ならどうするんですか」
「それは地帯訪問で扱います」
(地帯訪問とは本部の代表者が定期的に各国の支部を訪問する取り決め)
「あのヨブの劇はどうなるんですか。劇は作っても実際そのようにはしないんですか」
(1985年の地域大会で行なわれた劇でヨブが貧しいやもめを助けて公正な裁きを行なう場面があった。彼はそのことを指摘したのである)
「……」

アツ子姉妹も返答に困ったようであった。

「支部は大会のプログラムをもう勝手に変えてますよ。そういう権限があるんですか」
「どういうことですか」
「背教のプログラムです」
「それはね、最近アメリカでもかなりの背教があったのでそういうプログラムを組んだんです」
「しかしほとんどのプログラムですよ」
「……」

アツ子姉妹が沈黙してしまったので、ここで会話は一端とぎれてしまった。この辺では、多分もう駄目ではないかと思い始めていた。責任のある兄弟には会えそうにないし、姉妹の話から判断すると、統治体には今すぐこの問題を扱う気はまったくなさそうであったからである。少し間をおいて、アツ子姉妹は宮坂兄弟の質問には答えず、次のように勧めた。

「それじゃね、兄弟たち、手紙を書き続けたらどぉ」
「……」
「とにかく手紙を書き続けることね。日本支部にも分かってくれる人がいるかもしれないじゃない。きっといるはずよ。それに兄弟たちが手紙を書き続けたら何か問題が明らかになるかもしれないしね」

日本支部には他に何か問題があるのだろうか。少なくとも統治体はそのように考えているらしい。しかしまだ扱えるだけの証拠を得ていないのであろう。残念だがそれなら今は仕方がないか。そう思うことにした。

「それから、こういう問題はサービス・デパートメント(奉仕部門)で扱っています。外人ははっきり書かないと何をして欲しいのか分からないからはっきり書くことね。自分たちが正しいと思うなら一年くらい手紙を書き続けて頑張ってみたらいいでしょう」
「雑誌は来なくなりますしね…」
「それは予約すればいいでしょう」
「文書も来なくなりますしね…」
「注文したらいいでしょう」
「王国宣教も来なくなるし…」
「それは仕方ないでしょう」

結論は出てしまった。要するに、手紙を書き続けて一年くらい頑張るしかないということである。しかも、本当に扱ってくれるのかどうかの保証もまったく無く。しかしどうにも諦め切れずに最後の抵抗を試みた。

「姉妹、法廷には天の法廷と地上の法廷があるでしょう」

“どうして統治体は天の法廷の権威を認めないのですか。いったい天の法廷の権威をどう考えているんですか”と聞こうとしたが、姉妹は話を遮ってしまった。

「兄弟たちは正しいと思う」

こう言われてはもう尋ねても無意味である。正しいと思っても扱えない事情があると判断せざるを得ない。

「残念ですね。会衆は真っ二つになったままですし」
「そうですよ。王国会館だって建つところまでいってたのに」
「……」
「では大会の主題しかありませんね」
「……」
「Integrity Keeper」(忠誠を保つ人)

話し合いは終わった。瞬く間に一時間半が過ぎ、時刻は12時半になった。アツ子姉妹は夫との約束の時間だといって席を立った。エレベーターの近くまで送って行くと最後に、「兄弟たち頑張ってね」といって去って行った。

フルヤ兄弟は話し合いを聞いていて、何とかしてあげたいと思ったらしい。それで何度か責任のある兄弟たちに連絡を取ってくれていたようである。時々席をはずしては電話をかけていた。ところが最後の電話が終わると彼の表情は一変してしまった。

「僕言われました。『これ以上関わりを持つと兄弟の組織に対する忠誠が試されます』と。何度来ても同じだと思います。恐らく駄目でしょう」。彼は震えていた。まさに恐怖に脅えているといった表現がピッタリする様子で、ニューヨーク訪問の中でも一際、強烈な印象として残った。フルヤ兄弟は本当に誠実な良い人であった。“助けになりたい”という誠意にあふれていた。それがあのたった一言で、あれ程変わってしまうとは。組織という言葉は何と強力な力を持っているのだろう。“すごい”と思った。

おそらくこの時の強烈な印象が“組織バアル”を思い付くきっかけになったものと思われる。

本部の結論が出てしまった以上、もうニューヨークにいる必要はない。飛行機の予約を変更して早目に日本に帰ろうと思い、その交渉をフルヤ兄弟にお願いした。彼は非常に困ったという様子であったが、それでも予約変更の交渉、タクシー、ホテルの手配などの親切を示してくれた。結局、予約の変更は駄目であった。

「本当にこれで終わりだろうか、これで終わってしまうんだろうか」という思いに駆られながらタワーズホテルを後にした。あれこれ考えているうちについたのはモーターホテルというところであった。チェック・インを済ませ、部屋に落ち着くと無性に日本に帰りたくなった。今考えると何ともおかしくなるが、この時はまともに日本に帰れるだろうかと本気で心配した。何しろニューヨークのどこにいるのかまったく分からなかったし、一日で500ドル(12万円)も使ってしまったからである。

ともかく昼食を取ろうと外に出た。場所を確認してみると42番街のウエストサイドであった。日本食店を探して通りを4つくらい歩いて行くと、「焼天」という店が見つかった。そこでケネディ空港に行く方法を尋ね、ホテルの近くにバスセンターがあるというのを聞いて一安心した。

(4) 国際連合、メトロポリタン・ミュージアム

結局予約の変更はできず、兄弟たちはニューヨーク見学を楽しむことにした。最初に尋ねたのは国際連合であった。

国連は近い将来、宗教との関連で極めて重要な役割を果たすことが、聖書預言の中に記されている。わずかでもそうした徴候があるかどうかを兄弟たちは見たいと思った。

月曜日の午後に見学したが、偶然月二回しかない日本語の案内が始まる15分前に国連ビルに入ることができた。見学コースを回りながら、聖書預言との関連から常任理事国について詳しく尋ねた。

「常任理事会は決められたときにしか開かれないのでしょうか。」
「いいえ、そんなことはありません。常任理事の一人が招集すれば、いつでも開くことができます」
「最近、そのようなことはありましたか」
「ええ、ありましたよ」
「常任理事会の決議はどの程度の拘束力を持つのでしょうか」
「常任理事会と国連総会の関係はどうなっているのでしょうか」

などとしつこく聞いたせいであろうか、ガイド嬢は「資料を差し上げましょうか」と言って、資料室へ案内してくれた。様々な資料(一年間の決議事項、主要機関名簿等)を入手し、国連を後にした。

二人で国連のビルを眺めながら

「兄弟、いまだ時至らずだねぇ」
「う〜ん、これは当分ないよ」

次の日、メトロポリタン・ミュージアムに出かけた。建物は非常に大きいもので、エジプトのカルナック神殿、各国のガラス細工、絵画、中世ヨーロッパの武具の展示など、陳列物の多さとその規模に圧倒され、全部を見るには疲れ果てるくらいであった。

とりわけ印象に残ったのは宗教画の数の多いことであった。いかに宗教が人々の思想に深く関ってきたかを感じさせられた。アメリカ、ヨーロッパで育った人々には、伝統的なキリスト教のイメージから離れて、反対するにしても賛成するにしても、白紙でキリスト教を考えるということは難しいだろうなと痛感した。

思わず立ち止まってしまったのは、メリバの泉でのモーセを描いた絵の前であった。激怒して岩を叩くモーセ、快楽にふけるイスラエル人、それを上から冷ややかに見詰めるみ使いたち。

「いやぁ、モーセも大変だったんだね」
「うん、そうだね。それにしても現代の民もたいして変わらんねぇ」

9月13日、午前8時、バスステーションからケネディ空港へ向かう。午前11時10分ノースウエスト017便にて帰国。

9月14日、午後19時40分千歳空港到着。

8章 Legal Case

(1) リーガルケース(法的係争)

エホバの証人は、法的手順を踏んで扱う問題をリーガルケースと呼んでいる。本部での話し合いをもとに、今回の事件をリーガルケースとして想定すると、三通りの解決のパターンが考えられた。

  1. 大会のプログラムなどから判断すると、現実的な可能性はもうほとんどなかった。単に段階を踏むために必要だと考えられた程度にすぎない。
  2. 会衆が最も期待していたのはこのコースであった。ただし支部だけが問題で、統治体と本部は正常であるという条件付きであった。
  3. この可能性は少なかった。本部と統治体は組織上は一体なので、切り離して考えることはできないからである。組織全体が腐敗しているという最悪のケースを想定した場合、統治体を経なければならなくなるので、その時に必要となる法的手順であった。

兄弟たちが帰国すると会衆は直ちにこの作業を開始した。

(2) 手順を踏む

<1985年9月中旬〜11月中旬話し合いの申し込み>

金沢兄弟は日本支部、広島会衆の代表者小熊兄弟、巡回監督の宮崎兄弟に話し合いを申し入れた。

日本支部には次のような手紙を送ってみた。


1985年11月10日

ものみの塔聖書冊子協会

親愛なる兄弟たち

言うまでもなく、偽りを語らず真実を証しすることは、伝道者以前の資格とされています。もし明確な偽りを受け入れ偽証を容認するなら、天の法廷に対して不実な者となり、罪を犯すことになってしまいます。(使徒1:1〜5)私たちは、そういう意味で人間的であることを示したいとは思いませんでした。

本部では、日本支部の中にも分かってくれる人は必ずいるとおっしゃって下さいましたので、私たちもそのことを期待しています。前の手紙にも記しましたように、私たちは神の権威とその地的ルートを心から認めていますので、何とか話し合いの道を開いてはいただけないでしょうか。話し合えばきっと理解していただけると思いますので、よろしくお願いします。

エホバの恵みと導きを祈りつつ
金沢司


ものみの塔聖書冊子協会

親愛なる兄弟たち

聖書教育のため貴重な資料を用意して下さることに、いつも感謝しています。私たちもさらにみ言葉の理解を深め、エホバに仕えてゆきたいと願っています。今回、不幸にしてこのようになったのは、本部でも指摘して下さいましたが、少なからぬ誤解や不正確な情報が原因となっていると思われますので、幾らかでもこれからお伝えすることが役立てばと希望します。

東京世田谷会衆の長谷川兄弟からの連絡によれば、私が本部に書いた手紙が問題になっているとのことでしたが、それは本当のことなのでしょうか。本部に手紙を書いて質問しても良いということを初めて聞いたのは、開拓奉仕学校に出席した時でした。その時、巡回監督の葛西兄弟に何度か念を押して尋ねましたが、問題はないとのことでした。数年後の83年12月に、それまで疑問に思っていた教義上の7つの点について質問する手紙を書きました。本部からいただいた返事は極めて啓発的なものでした。どのように、そしてどれほど役立ったかをどうしても一言伝えたくなり、今年の2月に感謝の手紙を書きました。返事を求めたわけではありませんが、親切にも返事を下さいました。ですから内容が問題になることはないと思います。また、もし本部に手紙を書くことが組織上問題になるのであれば、巡回監督が認めるはずはありませんし、本部が返事をよこすこともあり得ないでしょう。仮に何かが問題となっているとすれば、私には分かりませんし、教えていただかなければ理解できない事柄です。

さて、エホバの証人として、また真理の民としてその神エホバにふさわしく偽りを憎み、偽証を避けるべきことは自明の理であると思います。その規準もまた一般社会よりもはるかに高く、使徒5:1‐6の聖句や「崇拝の一致」のp.53に記されているレベルになると思います。言うまでもなく、自分が偽証をしなくても他の人の偽りに加わったり受け入れたりすれば、その罪に与ることになってしまいます。たとえそれが都市の監督や地域監督であっても、さらにはみ使いであったとしてもその原則に変わりはないはずです。もし、特権か立場によって左右されるとすれば、まさに神の考えではなく人間の考えを抱いていることにはならないでしょうか。(マタイ16:23)偽りの父はサタンですし、すべての問題は偽りから始まり、偽りに対する私たちの態度は、主権論争と関っているわけですから。それゆえ私は「人間であれば」と仮定したのであって、人間であると断定したわけではありません。天の法廷の前で関係する人すべてが自らの信仰を表明する機会を持つ方が、人間を喜ばせるよりも優れていると判断しました。良心と信仰は人間および組織の所有物ではあり得ないわけですから、エホバの証人としての本質的identityが関係する場合には、天の法廷に対する責務を明らかにする方を優先すべきであると考えました。加えて私たちには動機に何ら恥じるようなものはありませんでしたので、テープを取っていることは分かっていましたが、そのままにしておきました。私たちの真実を求める叫びはすべて無視されましたので、支部も人間ではないかと考え本部にお願いする以外にないと思ったのは事実ですが、9月に本部に行った時考え方を調整されました。私たちが単に反抗しているのか、それとも真実と公正を求めているのか、そのどちらであるかはヨハネ3:19-21に従って試してみればすぐにでも明らかになることではないでしょうか。

重ねて兄弟たちにお願いしますが、偽りに加わるような信頼のおけない人々ではなく、神の義の規準をしっかりと擁護する兄弟たちを遣わして、もう一度調査していただけないでしょうか。そのようにして天の法廷の前で、人間ではないことを示して下さるよう切にお願い致します。また私たちに間違っている点があれば、どうか教えていただけないでしょうか。そうして下されば、喜んで調整したいと思っています。

エホバの導きと恵みを祈りつつ
金沢司


上訴委員会の代表者、宮崎兄弟には次のような手紙を送った。


親愛なる宮崎兄弟

巡回監督として充実した日々を送っていらっしゃることと思います。増し加わった特権と同時に、羊に対する責任も痛感されておられるのではないでしょうか。7月のあの審理から4ヶ月が過ぎ去ろうとしていますが、私たちは変わらずエホバに仕え続けています。ささやかではありますが、ローマ8:38、39を実感できるのは嬉しいことです。

さて、兄弟は私たちが真理を愛しエホバに仕え続けているというこの事実をどうお考えになるでしょうか。もし真実を本当に愛する心があるなら、次の点をもう一度よく考慮してみていただけないでしょうか。

上訴委員会の決定は最終決定となるだけに、天の法廷に対する責任もそれだけ重くなるのではないでしょうか。真実と真理に基づいて審理がなされていたら、果たしてこのような事態が生じうるでしょうか。ぜひとも天の法廷に対して何を播いてしまったかをよく考えていただけないでしょうか。

私たちは兄弟の巡回区の中にいます。巡回監督は問題を扱うだけの権限と責任を有しておられるはずですので、私たちと会い話し合うことができるのではないでしょうか。兄弟は偽りを憎み、真実を心から愛していることを天の法廷に示す勇気をお持ちでしょうか。そうであることを真に期待しています。

エホバの霊が豊かに働くことを祈りつつ
金沢司


「間違っているところがあれば悔い改めるので教えて欲しい」とまで伝えてみたが、何の連絡もなかった。日本支部が最初から片付ける気であったことは、これで疑問の余地なく証明された。「援助」というのは、やはり真っ赤なウソであった。

この時期、偽りや偽証は私たちのでっちあげであるとの主張がなされたので、次の聖句をプレゼントしてみた。

「19さて、裁きの根拠はこれです。すなわち、光が世に来ているのに、人々が光よりむしろ闇を愛したことです。その業が邪悪であったからです。
20 いとうべき事柄を習わしにするものは、光を憎んで、光に来ません。自分の業が戒められないようにするためです。
21 しかし真実なことを行なう者は光に来て自分の業が神に従ってなされていることが明らかになるようにします。」
(ヨハネ3:19〜21)

自分たちが真実を語っているとの確信があるなら、調査を避けたり、逃げたりする必要はない。光を避けるのは、心の中でやましいことをしているという自覚のある証拠である。

<1985年11月中旬〜12月悔い改めの勧め>

この頃、事件の発端となったA、K二人の姉妹が悔い改めているとの情報が入った。それで支部に送った偽証に関しても悔い改めるよう勧めた。「エホバはすべてをご覧になっています。神を恐れるなら勇気をもって真実を語ってください。悔い改めが本物であればそうすることができるはずです」という主旨の手紙を二人に送った。加えて、もう二人の当事者笹山、藤原兄弟にも同様に真実を擁護するようにとの手紙を書いた。


親愛なる笹山兄弟

やはり今回の事件は、実質的にはかなり前からそれも異なった次元で始まっていたようですが、法的には何といってもあの報告、告発がすべての起点になっています。

巡回訪問のとき、瀬野兄弟にお尋ねしたところ、「自分はよく覚えていない。笹山兄弟だったと思うけれどもはっきりしない」と述べておられました。また協会の手紙にも、広島会衆を心配して協会に報告したのは瀬野兄弟ではなく、笹山兄弟であるとされています。

本来会衆のことを気にかけ、それに対し責任を負っているのは確か巡回監督だったと思いますが。そうであれば自分がinitiativeを取ったとすると、上記の反応や協会の手紙の内容はあり得ないでしょう。形式的にはどうであれ、実質上はやはり兄弟があの報告に関する法的責任者ということになります。それにinitiativeを取った本人でなければ、避ける必要もまたないでしょうから…

さて、法的レベルでしかも組織的に物事を扱う時には、特に、fact (単なる行為や事実)とtruth (真理、立証された事実)が問題になると思うのですが。もちろん兄弟もお考えになってのことでしょうけれども、是非もう一度考慮してみていただけないでしょうか。A姉妹、K姉妹、笹山兄弟が感じたこと、思ったこと、考えたこと、それは確かにfactであることに相違はないでしょう。しかし、何人かがfactと考えたことが、それだけで物事全体のtruthになるわけではありません。そのためには、確証、立証のprocessが必要とされます。兄弟自身、何度か明確にその手順を踏まなかったことを認められました。それゆえあの報告は、単なる兄弟たちの次元で事実であっても、物事それ自体および会衆のレベルでは、断じてtruthではないと言い切ることができます。それに報告の時点でその確信があるなら、その後一生懸命になって証拠を探す必要はもはやないでしょうから。そうするとすれば、truthではないことを認める行為と言えるでしょう。しかも、方法が光の子にふさわしい光の方法ではない場合はなおさらそういうことになります。

そこで次に問題となってくるのは、報告が法的係争(legal case)として扱われた場合、それは単に報告で済むだろうかという点です。言うまでもなくlegal caseで真実を語らなければ、それは偽証となります。兄弟もそのことを良くご存知ゆえ、とてもいつもの笹山兄弟とは思えないような不思議なことをなさったのではないでしょうか。ならばもう一歩進んで、地上の法廷に対してだけではなく、天の法廷に対する責任も考えてみるのはいかがでしょうか。主権論争によれば、日常の歩みすべてがlegal caseになりうるわけですし、地上の法廷がどんな決定を下そうと天の法廷が認めなければ、やがて覆されるわけですから。(申命記19:18;箴言19:5、9;21:6;25:18;26:28;使徒5:1‐5)

援助に関しては、兄弟もエホバの名にかけて真実の心があることを明言されたのですから、会衆に反抗的、非協力的な姉妹たちの利己的な訴えにより、一つの会衆を犠牲にしたという事実を顧みるべきではないでしょうか。

私たちは、変わらずエホバに仕え続けていきますのでよろしくお願いします。

金沢司

※ 参考までに

(1) 魂と霊はその人が変化すれば、いくらでも切り離すことができますし、切り離せないのはその人が霊的変化をガンコに拒む場合です。私たちは不敬虔な世の精神をしめ出して、霊的に成長するように勧められているわけですから、切り離せないというのは、「本質的変化は無理だ!しません!」ということをエホバに語っていることになります。

(2) 食物を供給するのは親の仕事であって、友の責務ではありません。食物供給は友愛のしるしではなく、ストルゲーの証明です。フィリアはやはりconfidential talk(親密な会話)及びその理解が特長となります。フィリアとストルゲーを混同すると、友としての理解が与えられなくなるのではないでしょうか。

(これは笹山兄弟の主張に対するコメントである)


ものみの塔誌、1985年11月1日号には「クリスチャン人格の美しさ」という研究記事が掲載された。その22ページには次のように記されている。

「神に属する男性は権力や目立った立場を手に入れたいという欲望のために堕落させられることはありません。特定の地位に伴う利点もその人の買収には役立ちません。その人には意志力が備わっています。謙遜さを愛していますし、嘘をつきません。エホバに対する健全な恐れを示します。(箴言22:4)これが、神に属する男性に見られるべき特質のいくらかです。神に属する男性には、良心、良い心、正しい動機があります。(Iテモテ1:5, 箴言4:23)義にかなった原則を無視して、良心に反するようなことは行ないません。良い心と正しい動機を持っているので、他の人と接する際に不正な手段を用いることはありません。(ヘブライ13:18)自分の良い動機が汚れた行為や活動によって不純なものとなるのを許しません(ホセア4:11)心が不実にならないよう常に自分を鍛錬します。原則を曲げない人として言行両面で際立っています。-詩篇15:1,2」
(下線は広島会衆)

藤原兄弟には「是非この雑誌に描かれている通りに模範を示してください」と伝えた。 以下にその手紙の一つを掲載することにする。


親愛なる兄弟へ

いよいよ寒さの厳しい季節になりましたが、公私共にお忙しい毎日をお過ごしのことと思います。

広島会衆が兄弟たちによって二つにされてから早くも5ヶ月がたちました。しかし、私たちは心を一つにして伝道、集会を今まで通り続けております。

私たちはエホバの組織に反抗したり、自分から出たのではありません。真の組織に忠誠であろうとしたとき、出されてしまったのです。

兄弟は主人との電話の際、「私は上と下の板ばさみになっている。勘弁して下さいよ」と言われたと聞いております。記憶も新しい1985年11月1日号のものみの塔研究記事にはクリスチャン男性としての美しさは何かについて詳しく載せられておりました。兄弟は立場上この記事は何回もお読みになられたことと思います。特にその中の10節には自分の過ちを認め、「すまなかった、自分が悪かった」と言えるのは特に神に属する男性の証拠であること、またもう一度繰り返して19節には、「自分の間違いを認める時、慎みと謙遜さを十分に培った証拠を提出しているのです」と書かれています。

エホバは、このような心に一片のくもりもないクリスチャン男性を喜ばれるのではないでしょうか。どうぞ勇気を出して、神に属する男性の証拠を示して下さらないでしょうか。広島会衆においでになり今度こそ真実に基づいた公正な裁きをお願い致します。

私たちはすべて間違いがなかったと言っているのではありません。少なくとも排斥になるような罪は神の前に犯してはいません。60人の命がかかっております。なにとぞよろしくお願い申し上げます。


12月初旬になると、小熊兄弟から悔い改めを勧めた何通かの手紙が返却されてきた。そのとき彼は同時に次のような手紙を送ってきた。


1985年12月6日

前略金沢司様

度々お手紙をいただいていますが、私としては、会衆の一長老として全面的にその組織の取り決めに従って歩む決意でいます。皆さんが現在排斥者であるという事実は、私が今この組織にとどまっている以上、この件に関するエホバ神と組織の取り決めを踏み越えることはできませんので、一切の交わりを持てないことを意味します。それは単に勇気とか個人的な見解の問題ではありません。私が行動できるのは、「務め」の本のp.149、150の場合のみです。例外はありません。

上記お知らせします。

小熊○○


これにより、当事者たちには真実を擁護する気も、エホバの前に悔い改める気もまったくないことが明らかになった。また彼らの心の砦は組織であること、実際はエホバよりも組織を崇拝していることが証明された。

<1985年12月下旬監督たちへの嘆願>

監督たちへの嘆願を始める前に、A、K両姉妹、笹山、藤原兄弟各人の偽証の書状を作成し、次のような手紙を添えて彼らに送った。


親愛なる…

私たちは自発的に悔い改め、正直に告白して物事を正してくださることを期待していましたが、そのようにはしていただけなかったようです。私たちとしては、できる限りこの様にはしたくありませんでしたが、エホバのみ名と真実のためにこれらの通知を送ることに致しました。

ここに上げられている偽り、偽証に関して異議があられるなら、届いてから十日以内にその旨を通知して下さいませんでしょうか。もし何の通知もなければ、広島会衆としてはこれらの告発文を承認なさったものとみなさせていただきたいと思います。

産出の規準で考えれば(10月15日号のものみの塔、第1研究記事)余地はまだ残っているのではないでしょうか。真実のエホバの証人であることを、天の法廷の前で自ら示して下さるよう期待しております。

エホバのみ名と王の義のために共に働く

広島会衆


全員が受け取りを拒否し、何の連絡もよこさなかったので、それらの書状を訴状として特別、上訴両委員会の監督たち(藤原兄弟を省く)に送り、同時に会衆全体で嘆願を開始した。

<1986年1月〜3月10日日本支部への嘆願と確認>

「特別、上訴両委員会が真実を擁護し公正な裁きを行なうよう、日本支部として指導してください」との嘆願を7名の支部委員、織田正太郎、杉浦勇、藤本亮介、本間年雄、池端重雄、ジェームス・マンツ、パーシィ・イズラブおよび阿部孝の各兄弟に送る。

特別、上訴両委員会に何の動きもないので、2月16日、日本支部に4人の偽り、偽証に関する訴状を送る。


1986年2月16日

ものみの塔聖書冊子協会

親愛なる兄弟たち

霊的パラダイスの王イエス・キリストについてすでに成就している預言の中にイザヤ11:1〜5節があります。その聖句はイエス・キリストの裁きについて次のように述べています。「彼は目で見る単なる外見によって裁くのでもただ耳で聞くことに従って戒めるのでもない。そして立場の低い者たちを必ず義をもって裁き…」言うまでもないこととは思いますが、イエスの裁きに見倣い霊的パラダイスの王によって是認される裁きを行なうとすれば、どうしても以下に記す点が必要にならないでしょうか。

非常に残念なことですが、今回の問題を扱った特別委員、及び上訴委員の監督たちはイエス・キリストに倣った仕方で裁きを行なっては下さいませんでした。それで支部の兄弟たちに是非ともお願いしたいのは、公正で義にかなった神の裁きを行なっていただきたいということです。人に誇れるようなことは何もありませんが、少なくとも排斥に値するようなことは断じて行なっていません。いかに真実が曲げられているかは、同封の偽り、偽証に関する内容を検討して下されば理解していただけるものと思います。

私たちとしては可能な限り、このようにはしたくありませんでしたので、まず問題の発端となった二人の姉妹たち、さらに笹山兄弟、藤原兄弟に、偽りを正し真実のために行動して下さるようお願いしましたが、兄弟姉妹たちはそのようにして下さいませんでした。それで私たちから見て「偽り、偽証」と考えられる点を記し、各々の兄弟姉妹に送り、内容に異議があれば申し出てくださるようお伝えしましたが、何の連絡もありませんでした。暗黙の了承とみなし、その内容を特別委員、上訴委員の監督たちに送り、偽りでねじ曲げられた裁きを正してくださるようお願いしましたが、二ヶ月ほど過ぎ去った今、何の応答もありません。このようなわけで、支部の兄弟たちに公正な裁きのお願いをするに至りました。

真理の神、エホバは偽ることができず、偽りを憎むと述べられています。そのみ子イエスは自らを真理であると語り、欺きの言葉を決して口にされませんでした。そのような神エホバとみ子イエス・キリストを代表する地上の組織であれば必ずや真実、真理のために行動してくださるものと期待しています。

エホバ神のみ名にふさわしく事を正して下さるよう心からお願いし、クリスチャン愛と共に

北海道広島会衆


2月27日、支部に最終的な確認を行なう。


ものみの塔聖書冊子協会

親愛なる兄弟たち

先に2月16日付けの手紙を送り、真理に基づく公正で義にかなった裁きを行なって下さるようお願い申し上げました。いまだ何の連絡もありませんが、扱っていただくことはできないということでしょうか。こちらの方ではすでに終わった問題なので支部が再び取り上げることはもはやあり得ないと伝えられているようですが、その通りなのでしょうか。兄弟たちの最終的な判断と決定を教えていただければ幸いです。

「聖書から論じる」の本297ページには神の組織を見分ける7つの点が記されていますが、初めの3つの項目は以下の通りです。

真理に満ちており、偽ることなど決してできないエホバ神を唯一の神として崇拝し、他のどんなものにも(たとえそれが概念化された組織であっても)相対的な崇拝を帰さない、まさに神の組織であれば「偽り、偽証」(それがどんな立場の人によってなされたとしても)を正すために何もしないということが果たしてあり得るでしょうか。聖なるエホバのみ名が汚された状態をそのままにしておくということなど考えられるでしょうか。絶対にそのようなことはないはずです。

またすでに、イエス・キリストは臨在し天の王国から支配しておられるわけですから、そのような組織の指導者、会衆の頭、王イエスを信仰の目で見、その役割を十分に認めているとすれば「真理を証しするために世に来た」といわれた模範に見倣うよう、心から努めるのではないでしょうか。

さらに「永遠に生きる」の本187ページ10節にも述べられているように、決定の規準は単なる人間の判断ではなく…人の命が関係する裁きの問題では特に…確実に究極の権威としての聖書に基づいてなされるよう見届けるのではないでしょうか。神の律法を公正に行なうことに特別の注意を払うべき霊的パラダイスの監督、君であれば(イザヤ32:1、2)必ずそのようにして下さるはずです。

私たちとしては真理の神エホバのみ名にふさわしく事を正し、そのようにして天的権威に服す神の組織であることを、日本支部の兄弟たちが示して下さるものと期待しています。

1986年3月11日まで連絡をお待ちしています。しかしもしその時が過ぎても、何も知らせがなく、何もして下さらないとすれば、もはや扱わないということが日本支部としての最終決定であるとみなさざるを得ないと思います。そして非常に残念なことですが、神の組織のidentityを示しては下さらなかった(もちろん限られた意味においてですが)と判断せざるを得ないと思います。できる限りそうは考えたくありませんので、決してそのようなことのないようお願い致します。

すべての面でエホバのご意志がなされ、そのようにしてみ名が立証されることを祈願しつつ

北海道広島会衆


広島会衆は3月10日まで600通以上に及ぶ嘆願の手紙を送った。兄弟姉妹たちが書いた手紙の一部を以下に紹介しよう。


北海道広島会衆で生じました問題において、公正な裁きをお願いしたくお手紙を書いております。

兄弟たちの熱心な働きに心から感謝しております。そのような熱心さを私も集会、奉仕、また日々の生活で、エホバの証人であることを決して忘れないことにより示して行きたいと願っております。

私は組織に反抗したのではなく、エホバの証人として、不真実、不公正を受け入れることができなかったため、排斥されてしまいました。(詩篇26:4)

それでどのような裁きが広島で行なわれたのか調査していただけないでしょうか。


真理の組織は、真実に基づいて物事を扱うものとばかり信じていましたので、不公正な裁きがエホバの名のもとに、また組織の名のもとに行なわれてしまったことを私はとても残念に思います。私たちはみ言葉に基づいて、どこが間違っているのか教えて下されば喜んで調整したいと願うものです。排斥になるほど頑なではないと思います…今回の事件では何が正しく何が間違いなのか、また正しいことを望んだ者たちが排斥されて、エホバのみ名に非難をもたらしていた人々が何の処置も取られずにいるので、混乱してしまいました。出版物で学んだ取り決めに従うことが組織に対する従順になるのか、立場のある人間に従うことが組織に対する従順になるのか、その際自分の良心や信仰はどのような位置付けになるのか規準をどこに置いたら良いのか、今後の生き方にも関係してきますので、どうぞ教えて下さい。


上訴委員会は17名の姉妹たちを1985年8月4日14:00から呼び出しました。上訴委員の出口兄弟は『同じ場所に呼び出したとしてもみんな一緒に審理するのではなく、他の人は待っていてもらうつもりであった』と述べておられました。しかし一人5分か10分で命にかかわる審理ができるのでしょうか。一人30分としても最後の人は22:30分に終わることになります。未信者の夫を持つ姉妹たちを審理する時間帯と言えるのでしょうか。上訴委員の兄弟たちにマタイ18:12〜14の精神があったらと、とても残念に思いました。


<1986年3月12日〜12月7日本部への嘆願と確認>

3月12日付けで日本支部に関する訴状を本部の奉仕部門へ送った。


1986年3月12日

親愛なる兄弟たち

サタンの世の闇が深まりゆき、人々の精神も次第に荒廃してゆく中で、ものみの塔誌が神の義の規準を確固とした態度で擁護し、霊的にさわやかなものを供給し続けて下さることに心から感謝したいと思います。私たちの直面している問題については幾度か手紙を差し上げましたので、すでにご承知下さっているものと思いますが、この度は法的に(legal case として)お願いしたいことがあり手紙を書いています。

可能なかぎり、このような形にしないで問題の解決を計ろうと、私たちなりに努力してみましたが、残念なことに、そのすべての試みは実を結びませんでした。まだ余地は残っているのかもしれませんが、周囲の状況もかなり切迫してきましたので、やむを得ず同封の訴状を送ることに致しました。私たちは本部の兄弟たちが『神の義と公正と真理に基づく、より高い裁き』を行なって下さるよう希望します。そのようにして霊的パラダイスにふさわしく事が正され(ゼカリヤ8:16、17)エホバのみ名が清められ立証されることを願っています。加えて私たちの救いも考慮して下されば本当に幸いです。

以下は1985年9月中旬から現在に至るまでの簡単な経過です。

日本に帰ってから、まず何とか解決を目指して話し合うことはできないものかとその道を模索してみました。私たちはエホバの聖書もその組織も信じており、背教の意志などまったくないこと、ただエホバ神のみ前で正しい良心を持ちたいので真実、真理を擁護して欲しいだけであることを伝えました。また理解できれば喜んで悔い改めるので聖書からその点を教えて私たちを助けていただきたいとお願いしましたが、日本支部からも他のどなたからも返事はありませんでした。それで誤解が生じていると思われる点を調整することが役立つのではないかと判断し、私たちの発言や行動で問題とされた部分の真意を伝えるよう努力してみました。しかし何の効果もありませんでした。

続いて問題の発端となった二人の姉妹、さらに笹山兄弟、藤原兄弟に正直に真実を告白し、事態を正すために勇気を持って行動して下さるようにお願いし続けましたが、広島会衆の長老がそれらの手紙の一部を返却するにおよんで無駄であることが明らかになりました。そのため私たちは『偽り、偽証』の訴状を作成し、まず各々の当事者にそれを送り、内容に異議があれば申し出て下さるようお伝えしました。期限が過ぎ去り、何の知らせもなかったのでそれを特別委員会、及び上訴委員会に提出し、偽りを正し真理を明らかにして下さるよう願い出ました。日本支部そして支部委員の兄弟たち、さらに両委員会の監督たちに会衆全体で嘆願を続けながら二ヶ月ほど待ちましたがついに何の連絡もありませんでした。

それゆえ仕方なく日本支部の方に問題を提訴することに決め2月17日に別紙Aの手紙(前掲2月16日付の手紙)を添えて直接支部に送りました。返事がありませんでしたので2月28日に確認の手紙別紙B(前掲2月27日の手紙)を出しました。3月11日が過ぎましたので私たちとしては日本支部が最終的に事を正して下さる意志はまったくないものと、少なくとも現時点ではそのように判断せざるを得なくなりました。

以上のようなわけで本部の皆さんに私たちの問題の解決をお願いするに至りました。エホバ神のみ前では無意味なことですから私たちは何も隠すつもりはありません。(ヨハネ3:19〜21)真実は調べていただければおのずと明らかになるものと思います。この事件を知った心ある人々は生じていることの意味を悟りはじめています。私たちはエホバのみ名と真の崇拝が低められ、神の組織が悪く言われるのを非常に残念に思っています。Yes means Yes の原則通り、聖書とものみの塔の出版物で勧められていることは真実に行なわれるべきものであることを日本でも、またここ広島町でも証明していただけないでしょうか。私たちはエホバがエホバであることを、エホバの業を真実に見たいと心から願っています。過分の親切と憐れみにより私たちの願いを聞き届けて下さるよう、エホバ神がこの事に目をとめて天軍を動かして下さるよう切に祈っています。

兄弟たちからの連絡を心待ちにしながら
私たちのクリスチャン愛をお送りいたします。


その後11月まで嘆願の手紙を出し続けた。以下は会衆で出した手紙のほんの一部である。


出版物を通して本部の兄弟たちは大群衆を教えておられますね。例えば1986年7月1日号では権威の正しい用い方についてこのように書いてありました。「もし官吏が不公正で権威を悪用するなら、あるいは個人または人気のない少数者を差別するならどうでしょうか。聖書はこう助言しています。『資力の乏しい者が虐げられたり、管轄地域で裁きや義が奪い取られたりするのを見ても、そのことで驚き惑ってはならない。その高い者よりもさらに高い者が見張って…いるからである』(伝道の書5:8)…」

教えておきながら書いてあることを行なわず何もしないなら、天の法廷で兄弟たちが偽善者として見られるのではないでしょうか。そのようなことはあってはならないと思います。どうぞこのことを熟考され、必ずご返事下さるようお願いします。


ものみの塔誌からの教育はいったい何なのでしょう。私たちは今でもエホバが出版物を通して私たちを導いてくださっていると確信しています。もちろん兄弟たちも同じように思っておられるはずです。そしてその中で学んだことを私たちの生活にあてはめてゆくことで、神を喜ばせてゆこうと誰もが願っていると思うのです。言葉の上だけの教育ではないはずです。

ものみの塔誌には裁きを行なう監督たちに対し次のような訓戒が載せられています。

「モーセはそのような年長者たちに訓戒を与え、次の事柄を忘れてはならない、と言いました。『裁きにおいて不公平であってはならない。小なる者の述べることを、大なる者の述べることと同じように聞くべきである。あなたがたは人のために恐れ驚いてはならない。裁きは神のものだからである』(申命記1:17)(86、6/1p.21)

私たちの問題を扱う兄弟たちもこの言葉にあるように行動していただきたいのです。監督たちはその責任をエホバ神の前に果たしていただきたいと思います。もし、それをしないなら、エホバはどのように見られるでしょうか。神はその責任を問うでしょう。(ナホム1:3)私たちはそのことを望んでいるのではありません。むしろそうならないでほしいと願っています。兄弟たちがエホバのみ名を負う民の一人であるならエゼキエル3:2〜16に述べられている、『失われたものを尋ね求め追い散らされたものを連れ戻し、打ち砕かれたものに包帯をし、病んでいるものを強める』ように実際に行動し、事態を一刻も早く正して下さい。お願いします。


皆様はイザヤ61:3にありますように、遠からず天においてキリストと共に全地を支配する言わば“義の大木、霊的巨人”と呼ばれる方々だと思います。今この地上におられる間にも、その精神を示して地の片隅の小さな存在の私たちにも注意を払って下さり、義と公正と真実に基づいて不公正な裁きに関する訴えを取り上げていただけないでしょうか。…それとも象の耳は大きすぎて、アリの声は届かないのでしょうか。象はアリを踏みつぶしても痛くもかゆくもないのでしょうか。真理の組織ならそんなことはないと思いますが。


私は、エホバの証人は唯一の真理の組織だと思っています。それは、真理を持っているというだけでなくそれを実践する組織だと思っているからです。もちろん人は誰も不完全で多くのあやまちを犯しますが、真理の組織であるというのなら少なくとも立場や状況に関係なく提出された真理(真実)の前にへりくだるのではないでしょうか。ましてや、何の根拠もなく裁かれてしまうなんて考えられないことです。何のため、また誰のための裁きなのか私には今もってよく分かりません。(II歴代19:6、7)さらに、私たちは、今まで監督の兄弟たちに「私たちの側に悪い点があれば改めたい」と述べているのに何の援助もなされないのはどうしてでしょうか。兄弟たちが真実をもっていらっしゃるのなら、その真実を私たちの前に提出することができると思いますが。


僕はじっと待ちました。8ヶ月待ちました。でも何の連らくも来ませんでした。僕は「平和」の大会に出ました。私たちが常に平和を保っていないといけないこと、神も人類の平和を望んでいること、いろいろ学びました。しかし僕の思ったことは単にそういうことだけではなく、この問題も関係あるのではないでしょうか。

神は私たちが常に平和であることを願っています。(マタイ5:9)しかしこのような分れつがあってよいのでしょうか。しかも、罪がない僕達が何故、排斥されなければならないのでしょうか。申命記1:17には、「裁きは神のもの」と書かれています。では何故日本支部が勝手にまたは一方的にあつかってしまうのでしょうか。僕はそういうことが不思議でなりません。また、こういうことがあるというのに何故かんとくさんたちはしらんぷりをしているのでしょうか。さっきの申命記1:17の前半には「小なる者の述べることを、大なる者の述べることと同じように聞くべきである」と書かれています。かんとくというのは名だけなのでしょうか。僕はそうあってほしくないと思います。

決して僕達は助言をこばんではいません。むしろ喜んで助言を受け入れます。ですからお願いします。エホバ、イエスを倣い、公正な裁きを実行してください。(詩編37:28、30)本当に僕達が悪いのなら、すぐにくいあらためます。僕達は一日も早くこの問題も解決して、イザヤ60:22の「小なる者が千となり、小なる者が強大な国民となる」ことを成しとげたいと思います。そして、ついには詩編37:29の「義なる者は地を所有し、そこに永久に住むであろう」という言葉の成就を見たいと思いませんか! 僕は見たいと思います。エホバが平和な神であることを信じて、公正な裁きを実行して下さることを信じてご連らくをお待ちしています。


11月6日ついに確認の手紙をものみの塔協会に送った。これは広島会衆にとっても一つの転機となった。というのは、この手紙を送るということは事実上組織への復帰が不可能になることを意味していたからである。


1986年11月6日

親愛なる兄弟たち

本部の皆さんの最終的な判断と決定をお尋ねするために、この手紙を書いています。1986年3月12日付けの訴状を送ってから、すでに8月近くがたとうとしています。十分に時間はあったはずですので、そろそろ取り上げて下さるのか、それとも扱う意志は全くないのか、はっきりしたことを知らせていただきたいと思います。それによって私たちも、右へ行くか左へ行くかを決めたいと考えています。(マタイ5:37;7:16〜20)

1986年12月7日まで返答をお待ちします。連絡がない場合は訴えを退けたものと受け取らせていただきます。ただし…今回の問題の内容、及びその性質からして、本部が訴状を扱わず、さらに何の連絡もしない場合には「エホバの天の法廷」の前で、以下に記す点が立証されたものと判断させていただくことにします。

(II歴代19:6、7;詩編82:1)

ものみの塔協会に関し天の法廷の前で立証されること

  1. エホバのみ名と、その神性を証しすることよりも、「組織の都合」を優先させた。
  2. 「組織」を「Concept Baal」にし、自ら「組織バアル」の崇拝者であることを暴露した。
  3. 神の唯一の組織であると主張しているにもかかわらず、そのidentityを示そうとはしなかった。
  4. 真理、真実よりも「組織論理」を重んじ、真の崇拝のidentityを示そうとはしなかった。
  5. 偽証、偽りを容認することにより、真理の道であるキリストに倣おうとはしなかった。
  6. 霊的パラダイスの監督として、「公正」に特別の注意を払おうとはせず神の義を後ろに退けた。
  7. 出版物では何度も教え、他の人には要求しておきながら、自らそれを行なおうとはしなかった。
  8. 特権の有無、およびその格差により差別をし、公平な扱いをしようとはしなかった。
  9. 真の実態は羊に仕える組織ではなく、羊に仕えさせようとする組織であった。
  10. 都合が悪ければ、誠意を示す点では、この世の良心的な組織よりはるかに劣っていた。

もちろん言うまでもないことですが、本部の皆さんが神の組織、真理の組織としてのidentityを示して下さるなら、この手紙は無意味なものとなります。私たちは、そうなることを心から期待しています。ものみの塔協会に関し、先に上げた点が立証されるとすれば本当に困ったことですし、非常に残念なことです。間違っても、「聖書の権威」より「組織の権威」の方が優れているなどという聖霊を侮るような考え方をなさるはずはないと確信していますが、ものみの塔協会を神の組織として純粋に信じている多くの人々を裏切ることのないよう、是非ともお願いしたいと思います。

真理の神、エホバのみ名が
高く上げられることを願いつつ


<1986.12.8.〜1987.3.15.統治体への嘆願と確認>

統治体の成員13名、F・W・フランズ(会長)、W・L・バリー(副会長)、A・D・シュローダー、C・W・バーバー、J・E・バー、D・シドリック、G・ギャンギャス、J・C・ブース、C・ジャラズ、M・G・ヘンシェル、M・ポエツィンガー、C・F・クライン、L・A・スィングル、の各人に嘆願の手紙を送り続けた。

まず統治体に次のような手紙を送った。


1986年12月9日

親愛なる統治体の兄弟たち

今回の事件、およびそれに伴って生じた組織崇拝の問題について、兄弟たちの見解と最終的な決定を知らせていただきたくこの手紙を書いています。

私たちも他のエホバの証人と同様、ものみの塔協会の働きを通して真理を知るようになりました。今得ている理解や知識のほとんどは兄弟達から学んだものです。唯一真の神エホバを知り得たことは私たちにも大きな喜びをもたらしました。そのことを兄弟たちに心から感謝したいと思っています。

皆さんと同じように私たちもエホバ神と真の崇拝を愛しています。神の民の中で真の崇拝が栄え、エホバのみ名が何にも勝って高められるようになるのをみたいと願っています。心を悩ます様々な状況を目にしながらも、私たちはものみの塔協会こそ、そのような神の組織であると信じてきました。しかし、現在のものみの塔協会の状態では…兄弟たちから学んだ真の崇拝のidentityと一体どのように調和させたら良いのでしょうか。

去年の6月に事件が始まって以来私たちが嘆願してきたことは、神の義と真実に基づいて公正に扱っていただきたいということでした。聖書から、そしてものみの塔協会の出版物から誤りが証明されるなら、喜んで悔い改めるので是非教えていただきたいと繰り返し伝えてきました。しかしとうとう何の連絡もなく、会って話し合おうとする人も一人としていませんでした。組織の力で真実を覆い隠そうとする日本支部の態度は、この一年と数ヶ月ついに変わることがありませんでした。どうも私たちは悪臭のごとく忌み嫌われているようで、現在では汚れた人々と呼ばれています。

「組織は拡大しています。拡大はエホバの祝福の証拠です。ですから支部は正しいのです」という主旨の日本支部の主張が再三にわたって伝えられました。集められている人々の質を問題にしなければ私たちもその通りだと思います。しかし、組織の拡大と私たちの裁きはまったく別の問題ではないでしょうか。拡大しているからといって裁きを曲げてよいということにはなりませんし、拡大がバアル崇拝を正当化することもあり得ません。

本部の兄弟たちがどのように考えているのか私たちにはもちろん分かりませんが、結果として何もせず、真実を黙殺し、天の法廷の権威をさえ受け入れようとしないのはいったいなぜでしょうか。胸のすくような仕方でキリスト教世界の偽善を糾弾してきたものみの塔協会が、どうして偽りや偽証、バアル崇拝を正そうとしないのでしょうか。日本支部ならば別に不思議とも思いませんが、本部はまさかそのようなことはないだろうと信じていましたので会衆の全員が少なからず驚いています。

これは明らかにものみの塔協会が出版物で述べていることとは異なっています。人は神の前に平等で真実に基づく公正な裁きを受けることができるとするエホバの証人の教義に反しています。ものみの塔協会の行為はYes means Yes ではありません。組織を高めることはエホバを誉め称えることであると本気で信じているかどうかは分かりませんが、組織崇拝というバアル崇拝を止めようとはしていません。少なくとも現時点ではそのように判断せざるを得ませんし、法的にはそういう結論に達します。

ものみの塔協会はカエサルの認可による法人組織ですから、ものみの塔協会の聖書的必然性は思慮深い奴隷級の代表である統治体に依存していることになります。エホバの民に対するものみの塔協会の権威と権力が統治体からくる以上、この事件とバアル崇拝の問題の最終決定は統治体の兄弟たちにお尋ねする以外にはありません。エホバの組織であるというidentityを天の法廷の前で示すのか、それともそうしないのか、私たちは是非とも知りたいと思っています。

それで、統治体としてのものみの塔協会の今回の事件に関わる行為や態度を承認されるのか、それともそうではないのか、その点を明らかにしていただけないでしょうか。YesかNoかそれだけでもかまいませんので、何らかの返答をお願いできればと思います。兄弟たちの決定をお知らせ下されば幸いです。

真の崇拝を促進して行くため魂を尽くしておられる兄弟たちの上に、引き続きエホバの霊の恵みと導きが豊かにありますように。

クリスチャン愛と共に
北海道広島会衆


続いて兄弟、姉妹たちの出した手紙の幾つかを以下に紹介することにしたい。


この事件が始まってぼくたちは、なんども手紙を書きましたが、返事はもらえませんでした。でも、統治体の兄弟たちならあつかってくれると信じて、この手紙を書きます。

エホバの組織は一致して学び、励まし合いますが、今のじょうたいではそうなっていません。エホバの組織としてはおかしくはないでしょうか。ぼくたちは早くもとにもどりたいので、いつもエホバに祈っています。エホバなら解決してくれると信じているからです。エホバに仕えている兄弟におねがいしたいと思います。どうかもとにもどしてください。


私は唯一真の神であるエホバがいることを知ってから、将来の希望、そして自分の日常生活に少しずつ光が見えてきたように感じて喜びが持てるようになりました。そして真実が必ずあることもエホバの証人との聖書研究を通して教えてもらい、自分もこの組織は信じられると思い献身しました。

でも、今回の事件で不公正、偽りなどを見たり聞いたりして失望してしまいました。唯一真の神の名が汚されている状態です。組織の中の指導の任にあたる人がそのようなことをし続けているならば、エホバの組織は汚れてしまうのではないでしょうか。また、聖なる方エホバの所に集まってくる大勢のハトのような者たちを正しく指導していけないならどうなるのでしょうか。(イザヤ60:8、9)私は本当にエホバの組織が真の崇拝で一致したものとなることを望んでいますし、その一員となりたいと思っています。


今、日本でもレーガン大統領が、イランへの武器輸出に関して議会で嘘をついたことが明らかになった事件が大きく報じられています。サタンの体制でさえも一国の指導者の道義的な罪が大問題となりますのに、真理の組織と自認しているエホバの証人の組織内で今回のような不公正な裁きが行なわれたことは、天の法廷の前には、はるかに重大な問題となるのではないでしょうか。きっと皆様も心を痛めておられることと思いますが…

神権組織が行なうことはすべて正しいという見方がなされているようですが、それは統治体ですら不謬ではないと学んだこととどう調和するのでしょうか。(崇拝の本p.120、8節)間違いを犯した場合には、真実に従って事を正す方がはるかに真理の組織にふさわしく、また協会が教えてきたことにかなっているのではないでしょうか。

どうぞ教えていることを行なうことによってエホバの証人の組織が真理の組織、愛の組織であることを証明して下さいますように心からお願い致します。


誠実なエホバの証人は、この組織が救いのための啓示を与えるべく「神に用いられている」唯一の経路であると信じています。魂の見張りとしての牧者が正しい指導をしなければ、民の命は失われます。そして何よりも真の崇拝は腐敗し、エホバのみ名が辱められてゆきます。現に私たちが知る限りにおいて、日本では、エホバの証人が新聞やTVをにぎわすことが多くなってきました。野外で会う人々の反応も、決して好意的なものではありません。しかもその理由は、多くの場合「行状の悪さ」からきています。私たちは、エホバの証人の現状に大変強い危機感を覚えます。

このことを私たちは繰り返し本部の兄弟たちに訴えてきました。

統治体の成員である兄弟、「神の子」としてキリストにあずかるバプテスマを受けておられる兄弟、どうぞその証しとして今回の事件で明らかになったことに目を向け、霊的パラダイスの確立のために事態を正して下さい。


1987年1月25日付けで日本支部、および本部の監督たちに関する訴状を統治体に送る。これをもってものみの塔協会、統治体に対する折衝のすべては終了することになった。


1987年1月25日

親愛なる統治体の兄弟たち

皆さんの決定をお尋ねする1986年12月9日付けの手紙を送って以来1ヶ月余りが過ぎましたが、結論はどうなりましたでしょうか。すでに方針は定まっていることと思いますので、ここに日本支部の監督たち、並びに本部の監督たち(奉仕委員会の監督たち、及び関係するすべての監督たち)に関する訴状を送ることに致します。

私たちは統治体がこの訴状を扱うのか、それとも無視するのか、それによって統治体が神の組織の代表なのか、それともそうではないのか、神の組織のidentityを示すのか、それとも示さないのかを問うことにしたいと思います。

言うまでもなくエホバは偽ることのできない神です。そして神の子キリストも欺きを語ることはありませんでした。エホバやキリストはそのような方々ですから、たとえご自分の組織に都合の悪いことであっても、偽りや偽証を容認されることは決してあり得ないでしょう。

では統治体の皆さんはいかがでしょうか。地上においてエホバを代表する方々としてエホバの神性を証明して下さるでしょうか。真のクリスチャンとしてキリスト教の実質とその力を示してくださるでしょうか。ぜひともそうあって欲しいと私たちは願っています。

皆さんにもいろいろとご都合があると思いますが、様々な状況を考慮しますと今回の事件もそろそろ決着をつけるべき、ふさわしい時期にさしかかっているように思います。それで訴状を提出すると同時に、連絡のための最終期限を明示しておきたいと思います。

最終期限は『1987年3月15日』です。

この日を過ぎてなお、何の連絡もなければ、皆さんもこの事件を正すことを放棄したものと受け取らせていただくことにします。

私たちは一年半に渡り証拠を提出して訴えてきました。嘆願のために出した手紙は一千通をはるかに越えています。しかし日本支部、及び本部の監督たちはこのすべての手紙を退けました。それは偽りや偽証が単なる誤解や錯覚によるものではなく明らかに意図的なものであることを証しています。エホバの証人であると唱えながら、意識的に偽りや偽証を黙認し続けることのできる信仰とその良心を考えると、この事態はもはや真のキリスト教からの背教と見なさざるを得ません。それゆえ統治体も、30人の排斥を含む日本支部の偽り、偽証を容認するとすれば、天の法廷において以下の7つの点が統治体に関して立証されたものとみなさせていただくことにします。

もし皆さんが神の義と公正と憐れみに基づいてこの問題を正そうとしなければ、以上の点が「天の法廷」の前で立証されたものと判断させていただくことにします。いかに残りの者といえども聖霊を取り去られてしまえばただの人、いかに統治体といえども聖霊を取り去られてしまえばただの人間の組織にすぎないでしょう。

聖書預言に関する私たちの理解によれば、「エホバの前で事を正す責務を負っているのは、どうしても残りの者を代表する統治体の皆さんであるべきだ」ということになります。(イザヤ41:15)

しかしあえて皆さんが脱穀ソリになることを拒むというのであれば、私たちは真の残りの者、本当の神の子を捜さねばならなくなるでしょう。そしてアブラハムの石ころを試してみざるを得ないということになるでしょうか。どうしてもその道を進まねばならないとするなら、その時にはエホバが必要な力と理解と知恵を与えて下さるものと、私たちは確信しています。

真の崇拝の繁栄とその勝利を祈りつつ
北海道広島会衆


本部の監督たちに関する訴え

(奉仕委員会の監督たち、並びに関係する責任のあるすべての監督たちに関して)


日本支部の監督たちに関する訴え


藤原兄弟の偽り、偽証

その基準:使徒5:1〜6;「崇拝の一致」p.53



笹山兄弟の偽り、偽証

その基準:使徒5:1〜6;「崇拝の一致」p.53


統治体からの連絡はやはりなかった。これで地上における法的係争のすべては終了した。残るは天的レベルにおけるリーガルケースのみとなった。

9章 この事件によって明らかになった事柄

約二年間に及ぶ今回の事件を通し、統治体とものみの塔協会に関して明らかになった点を要約すると、だいたい次のようになる。

  1. 極めて根深い偽善的な体質
  2. 組織バアル、神権ファシズム
  3. 教義上の諸問題
  4. 新世界訳聖書に関する諸問題

(1) 偽善

「言うことと行うことに違いはない」。キリスト教世界を偽善者の大集団と非難してきたものみの塔協会にとって、これは最大のセールスポイントであった。その点について「二十世紀におけるエホバの証人」は、<手本によって述べ伝える>の見出しのなかで次のように述べている。

「言うことと行うことが違うのは偽善であって、宗教上の偽善は多くの人を聖書から引き離してきました。聖書が誤っているわけではありません。………それでエホバの証人は、自分が他の人々に勧めるクリスチャン的な生き方の手本となることによっても『良いたより』を人々に伝えようとしています」(p.21)

また、「目ざめよ」はエホバの証人に対する外部の評価として、カトリックの刊行物「モンド・エッレ」から次の一文を引用している。

「自らの宣べ伝える信仰を実践する点での第一人者はエホバの証人である」('87 3/22号p.6)

この評価は誠実に努力しているエホバの証人にはその通りであっても、統治体やものみの塔協会の幹部には全く当てはまらないようである。本を執筆して教えている本人が一番駄目だというのは、宗教上はよくあることで少しも珍しいことではないが。

ものみの塔協会の現執行部はことごとくその公約を破った。偽善の決定的な証拠はこの事件そのものである。もし組織の中に偽善的な体質がなければ、このような事件は起こらなかったからである。この点についてはもう十分であると思うが、二つの例を付け加えることにする。

(I). 加藤さんは、「裁きの根拠を知らせてほしい」と支部に申し入れていたが、それに対して日本支部は小熊兄弟を通し、「知る権利がない」と回答して来た。このクリスチャンらしからぬ回答に唖然とした加藤さんは、11月1日付けで支部に質問状を送った。すると次のような返答が送られてきた。


ペンシルバニア州の ものみの塔 聖書冊子協会

1985年11月4日

北海道札幌郡XXXXXXX 加藤政治様 前略

あなたは最近、当協会の奉仕者本間年雄氏にご質問の手紙をお送りになられたようです。わたしたちは以前にもあなたから同様の手紙をいただいておりましたので、ここに当協会の見解をお知らせすることにいたします。

ものみの塔聖書冊子協会の職員もまたクリスチャン会衆内にあって聖職者の立場で働いている長老たちも自分たちの職務を果たす上で、聖書に定められている神の律法および法律が定めた種々の要求につき従うことを堅く決意しております。ご存知のように聖職者に対する刑法上の一つの規定は、刑法第二編第13章第134条にある秘密漏洩罪に関するものです。その一部をここに引用いたします。「宗教…ノ職ニ在ル者又ハ此等ノ職ニ在リシ者故ナク其業務上取扱ヒタルコトニ付キ知得タル人ノ秘密ヲ漏洩シタルトキ亦同シ」

したがって、長老の職にある者(たち)がクリスチャン会衆内での特定の業務を取り扱った結果、当人から知らされた情報のみならず、推理や調査などによって知り得た秘密の事実をまだ知らない人に告知することは、漏洩罪に相当するものです。この理由によりあなたがお尋ねになっている件に関しては、当協会のみならずクリスチャン会衆内に聖職者の立場で仕えるいかなる長老もあなたの求めに応じて情報を提供することができないことをここにお知らせいたします。どうぞご了承ください。

聖書教育に励む

Watch Tower B&T Society
OF PENNSYLVANIA


この回答の中で注目すべきなのは、長老たちを「聖職者」と述べている点である。エホバの証人なら誰でも知っていることであるが、「聖職者」とは偽りの宗教の帝国、大いなるバビロン(ものみの塔協会は自分たち以外の宗教組織をすべて大いなるバビロンと呼んでいる)の僧職者の代名詞として使われている言葉である。「聖職者」「僧職者」クラスは大患難のとき、真っ先に滅びるとものみの塔協会は教えている。

それなのに自らを「聖職者」と述べるとは!まさか自分たちの教えを忘れたわけではあるまいに。

(II). 「愛はクリスチャン会衆を見分ける鍵です。この組織は愛に満ちています。皆さんも来て、是非それを確かめてください」と、ものみの塔誌は事ある毎に宣伝している。しかし藤原兄弟は1985年7月11日、公の集会で次のように述べてしまった。

「では、その支部組織を通して私はあの突然、びっくりするほど突然任命されたのですけれども、ここに来なければならぬ羽目になったのは…別に皆さんを非難するという目的で来たわけではないので、どうぞビクビクなさらないで下さい」

藤原兄弟もつい普段思っていることが出てしまったのであろうが、この発言について、加藤さんは次のような感想を支部と本部に送った。

「同労者である講演者と会衆の間で、監督者が『ビクビク』するという恐怖心を抱かせる現実。これはエホバの権威、それとも人間の権威そのどちらですか。少なくともエホバの証人の中で人間が人間を恐れるというのは不自然なことでしょう。クリスチャン同志の交わりの中で不用意に発せられた言葉ではあっても、無神経に平然とこのようなことが講演者の口から飛び出すというのは、おおよそ理解しがたいことです。」

あらゆる面でそうだというわけではないが、全体的に組織の原理は愛の原理ではなく従順を要求する「統制の原理」である。上に行けば行くほど、この傾向は強くなる。これが決して日本だけの問題でない事は、震え上がった本部のフルヤ兄弟のことを考えれば一目瞭然であろう。

(2) 組織バアル・神権ファシズム

<<組織バアル>>

1986年12月、ものみの塔協会の副会長、ロイド・バリー兄弟は日本を訪問して講演を行なった。その時の様子をテープで聞いた金沢兄弟は、今回の事件の本質的な原因が組織崇拝、組織バアルにあるのではないかと考えるに至った。そして約一年後、次のような手紙を本部に送った。


1986年11月15日

親愛なる本部の兄弟たち

この手紙によって私はまず、今回の事件を通して表面化した崇拝の問題とそれを育んできた背後にある状況についてお知らせしたいと考えています。そして本部の皆さんが神の組織、真理の組織として、そうした問題にどのように対応なさるかを是非ともお聞きしたいと思っています。

イエス・キリストが教えられた通り真の崇拝は霊と真理にしたがって行なわれます。もし表面上真理に従っているとしても陰で行なうことが全く異なっていたり、さらに、語ることと行なうことが違うのであれば、それはもはや真の崇拝と呼ぶことはできないでしょう。崇拝の形をエホバ対バアルと考えるなら、古代イスラエルのように何らかの形のバアル崇拝が入り込んでいるということになります。私たちの事件の最後に行き当たったものは、実にこうした崇拝の本質に関わる問題であり、それは監督たちの示した次のような反応によく表れています。

彼らは「エホバと聖書には従います」というので「それではエホバにふさわしく事を正しましょう。真の崇拝者であると主張しているのだから真理、真実に従って物事を扱いましょう。やましいことがなければ光を当てることをためらったり、拒んだりする必要はないでしょう」と申し出ると最後に返ってくるのは「組織の指示です。たとえ真実がどうあろうと私たちは組織に従います。」という返事であった。その後はどう働きかけてもただひたすらだんまりである。これは期間をおいて何度か繰り返されたことでもあります。

このように口ではエホバと聖書の権威を認めると言いながら、実際そのようにはせず、願い求めても応じないということであればヨハネ4:23、24からして、これはもはや真の崇拝を後ろに退け、そのidentityを失ったとみなすより他にありません。そして、組織の名においてそういうことを行なっているのですから、真の崇拝の中に入り込んできたBaalの名は「組織」であるということになります。

こうして「組織Baal」の実在が露呈されたわけですが、彼らの言うこの「組織」という言葉がいったい何を指すのかは非常に分かりにくい問題です。組織の定義は「同一の取り決めに従う知的集団」であるとされています。これからすると、取り決めか、知的集団と言うことになりますが、監督たちの反応はこのいずれでもないことを示しています。取り決めだとすると少なくとも「ものみの塔誌」や「王国宣教学校の教科書」の指示には従うはずですが、私たちがその箇所を指摘しても彼らはそうしようとはしませんでした。では知的集団として目に見える人間…これはその徴候すらありません。どうもこの「組織」という語が指すものは建物、人、取り決め、スタンプなどの組織の諸要素のいずれでも、またその集合体でもないようです。私は監督たちが「組織、組織」と語る場面を何度も見てきましたが、まず、その意味の意味あるいはその実態が意識されていることはほとんどなかったといってよいと思います。もちろんごく一部の例外はありますが…

こうしたことからすると、この「組織」なる言葉は明確に意味が規定され、その実態が識別されたものというよりは、むしろ、漠然とした概念化された性質のものということになります。おそらく、それはaion, mode, system, administration,などのレベルに相当する「組織」というConceptではなかろうかと思います。それで一応このBaalはConcept Baalと呼ぶことにしておきます。

さてConceptは通常、意味野(Meaning Field)を形成し、中心をなす核とその周辺領域からできています。監督たちがしばしば口にする「それは協会の指示です。協会からの連絡によれば…、協会の考えでは…」などという表現から判断すると、意味野の核はものみの塔協会であり、その周辺領域にはものみの塔協会との接触のすべてが含まれると考えることができます。従って法的にはこの「組織」という名のConcept Baalは、ものみの塔協会に象徴され、そしてものみの塔協会に集約されてゆくことになるといえるでしょう。

ところが、先に述べた通りこの意味野はその核も周辺領域も、バアルのイメージではあってもバアルそのものとしては意識されておらず、実際バアルになっているわけでもありません。とすれば、本当に崇拝されているもの、実際のバアルは別のところに、すなわちConcept Baalの背後に隠れているということになります。この背後に隠れているものこそバアルの実体でありConcept Baalを操り、巧みにバアル崇拝を行なわせる正体であるといえるでしょう。

このConcept Baalの正体を考えると、まず思い出されるのは、リチャード・名幸(ナコウ)兄弟が秋田県能代会衆を1977年に訪問した時兄弟たちの前で語った次のような言葉です。

「イヌは餌で訓練するのが一番です。そうすると進歩するでしょう。同じように兄弟たちも特権で訓練するのが最善の方法です。だから兄弟たちも特権を目指しなさい。」彼はハワイ出身の宣教者で長く巡回、地域監督として奉仕していました。キリストがこのような仕方で弟子たちを励ます姿はちょっと想像しにくく思いますが、この意識でゆくと、兄弟たちはイヌ、特権はエサ、そして組織はそのエサを与える主人ということになり、組織の犬になればなるほど特権への道は近いということになるでしょうか。もちろんこれは冗談としてではなく公的な場で、しかも真剣に語られた言葉です。

兄弟たちがいかに特権を望んでいるかはなんともあさましいほどで、この組織に入ってすぐに目撃した例を一つ記します。1973年の大阪国際大会でのこと、京都の旅館に帰って風呂に入っているとき、すぐ隣で「あいつは出世せん。あんなやり方では無理だ」と大きな声で話している人を見かけました。出世するのしないのと話しているのでこれはエホバの証人ではないだろうと思いましたが、次の日大会会場で会ってビックリしました。その人はある自発奉仕部門で働いている補佐の兄弟の一人でした。

こうしてエホバの証人の中にも特権コースという出世の道があることを知るようになったわけですが、長老に任命されてからはさらに特権をめぐる醜い競争を目にする機会が多くなりました。もちろんそうではない監督たちもたくさんいるとは思いますが、大会のプログラム欲しさに無理しても開拓奉仕をしようとする長老は少なくありません。このような特権に対する典型的な姿を浮き彫りにしたのが、今回の事件で監督たちの示した態度でしょう。彼らが最後に気にしていたのはエホバの栄光でも会衆の益でもなく、自分の特権だったのですから。特権を失うことをいかに恐れたかは尋常ではなかったのです。また日本支部がこの事件に関与したほとんどの監督たちの特権を増し加えたことも、支部の考え方をよく表していると思います。

これらのことがいったい何を意味するのか、答えは明らかではないでしょうか。Concept Baalの正体は特権欲以外には考えられません。事実、「特権、特権」という人は必ず「組織、組織」という人でもあります。心の宝なる特権を与えてくれるのは「組織」ですし、特権を奪う恐ろしいものもまた「組織」なわけですから。したがって特権欲という自己顕示欲、特権を失うことへの恐れ、これらがConcept Baalの根またトゲであると言えるでしょう。この強大な力の前には、真理も真実も誠意も実にもろいものです。「あなたの組織に対する忠誠が試されます」と言われれば、ただただ恐れ震えるのです。何のことはない自分の命令に従えと言うんでしょうけれども、「組織」という言葉を持ち出されると、もう手も足も出ません。Concept Baalの威力のすごさです。これは実に強力です。人々を支配する恐ろしい力を持っています。最初は良いもの健全なものも、たちまち変質、変容させられてしまいます。さすがは空中の権威の支配者であるとつくづく感心させられます。組織が巨大になればなるほど一個人には見えなくなるという面もありますし…

しかしConcept Baalの恐ろしさはその力だけではありません。その性質、特徴にも非常に恐ろしい面があります。

一つの点はConceptと実体が心の階層の中で別々に住んでいるということです。Conceptの方は心の表層に置かれています。しかもそのConceptは、ほとんど無条件で受け入れられているものです。エホバの組織は組織のエホバです。エホバに仕えることは組織に仕えること、エホバの組織はただ一つそれ以外は皆サタンの組織、組織を悪く言うものは誰でもサタンの手先ということになります。それゆえ嘘、偽り、偽証を犯しても、それは組織のための神権的戦術、霊的殺人を犯しても組織のガンの手術になってしまいます。一方、実体の方は心の階層の最も下の方にしかも一番奥深いところに潜んでいます。心の中に広大なネットワークを作っていることは本人もほとんど意識しません。都合が悪くなるとこの実体のバアルは意識とのFeed Backをswitch offにし心の奥深くに隠れ、Conceptを砦として立てこもってしまいます。

そういうわけでBaal崇拝をしていても本人は常にエホバを崇拝していると考えることになります。だからこそ真理、真実を退けても、あの藤原兄弟のように、「心からのエホバの証人でいましょう」ということに何のためらいも感ぜず、偽善的であるとも思わないのでしょう。もっとも中にはかなり良心的に苦しんでいる人もいたようですが。嘆願の手紙を迫害と言う、笹山兄弟のような人もいましたので。私たちからすればずいぶん身勝手なことだと思いますが。それでも組織恐ろしさに何もできません。会うことも話すことも。「エホバより、いったい何を恐れるんですか。組織の神はエホバでしょう」と詰め寄れば、最後には調整者の織田兄弟が去年の12月の地帯訪問の時祈りの中で称えた「母なる組織」に、司会者の兄弟が声を高めて強調した「忠誠を保つべき組織」の中に逃げ込んでしまいます。その砦から出てきた監督は今まで一人もいません。

このようにConcept Baalには心の階層構造を最も効果的に用いるという恐るべき性質がありますが、さらに警戒を要するのは一定の期間が過ぎ、あるレベルに達するとConcept自体が一人歩きを始めてしまうという点です。ある大脳生理学者はこうした現象を「言語系の暴走」と呼び、次のように指摘しています。「これは画一化された一元的環境、組織体の中で生じやすい現象であり、条件反射的になっている言語系とエングラム(engram)の蓄積によって発生の条件が形成されてゆく。この現象を起こすには、まず動物系の欲求を押さえると同時に、それを正当に満たすことのできるConceptを設定する。続いてそのConceptを神聖で冒すべからざるものにし、条件反射のレベルまで高める。そうすると、やがて言語系の暴走が始まる。」

暴走が始まるとはもはや、その言語系Conceptを利用していた者にとっても制御不能になってゆきます。

今の組織の実情を見ていると、Concept Baalが暴走を開始するための下地は十分整いつつあるように思います。もしかしたら、もうすでに一部では始まっているのかもしれません。そうではないとしても、少なくともそれを育む背景は十分にあります。以下にその幾つかの状況を記します。

以前はそうでもなかったように思うのですが、最近会衆を訪問した巡回監督のほとんどはまずもてなしに、そして成績と数字に強い関心を持っていました。立場上仕方がないのでしょうけれども、巡回区の平均と会衆の平均を比較し、平均が下がっている分野を重点的に励ますことになります。かくして巡回監督は全国平均と、長老たちは巡回区の平均と比較し、数字の上下にひたすら一喜一憂することになります。「兄弟たちも嫌でしょうが、僕らも上から同じようにやられるんです」と正直に述べたある巡回監督は、四年後に降ろされていました。またもてなせば霊性の良い会衆、もてなさなければ(気に入る程度に)霊性の悪い不健全な会衆とみなされるのは、ごく普通のことです。今回の事件に加わった巡回監督は誉め言葉を要求し、あからさまにもてなしを求めました。彼は右ならえのタイプですから例外ということではないでしょう。本人も「どこでもやっていることですよ」と述べていましたので、これは全体的な傾向であろうと思います。

ある時協会から特開者宛にきた手紙に「協会は今の手当てで十分にやってゆけると思っています」と記されていました。この時、日本の特開者の手当ては政府が生活保護を受けている者に支給している金額の約半分でした。ですから手当てだけでまともに暮らしてゆくことはとうてい無理な話で、実際は親、親族、会衆の世話かやっかいになっています。それらはみなエホバの世話ということになってはいますが。だから親は心配します。若いうちは良くても年をとったらどうするのかと。「心配して反対すればサタンの手先にされ、困ったときには親にされる」という嘆きも出てくることになるわけです。親には反対され、会衆の世話もなく、巡回監督にはいじめられるという開拓者はそれこそ大変です。奇跡的な生活を続け、やがて健康をこわし、さらに「組織は冷たい、エホバは何もしてくれなかった」と言って霊性までこわしてしまうか、ひたすら配布に励み、区域の人々がどう思おうとかまわず頑張るかのどちらかになってしまいます。時には不名誉な失踪事件も起きるわけです。

日本は国民の九割以上が中流意識を持っているというほど物質的には豊かになってきていますので、卑しくなるなという方が無理であって、裏の世界ではさもしい光景が繰り広げられるのもやむを得ないかもしれません。こういうことは表向きは絶対に言いません。すべては裏の本音の世界で語られることになります。従って真実を知らない監督たちも増えてゆきます。本当のことを知らせても喜びませんし、また何もあえて夢をこわす必要もないわけですから。時には、「組織に対する反抗と思われるでしょう。背教とみなされたら大変だから止めなさい」という親切な助言を受けたり、「誰があなたにそうするよう指示しましたか」という円熟した答えにあって終わりになるということもあります。

こうした背後の状況とそこに出没する実体Baalの本音の世界を見ると、これは間違いなく特権欲の世界でもあるという感を強くします。特権に通じる数字論理、もてなし、感謝、励ましという接待論理がそれを支え、育んでいます。「組織」という名のConcept Baalはそこから力を得、同時にそうした状況を強化してゆき、すべてはエホバの業、エホバの祝福であると思い込ませてしまいます。何とも巧妙なからくりです。そして内部が醜くなればなるほど“あの白き壁”“象牙の塔”のごとく、べテルを豪華に飾り立て、誉め言葉、賛辞で組織を飾ることになるでしょう。また「救い」「滅び」という呪文で人々を脅してゆくことにもなります。

このような組織はいったい誰にとって好ましく麗しいのでしょうか。言うまでもなく、それはノーメンクラツーラのごとく特権の恩恵に浴すバアル崇拝者にとってです。彼らにとっては、それこそパラダイスでしょう。しかし真の崇拝者から見ると、それはまるで悪臭を放っているかのようなものです。すでに、ものみの塔誌、目ざめよ誌の組織礼賛の記事とは裏腹に「聖書は良い、真理は素晴らしい、しかし組織は嫌だ」という人は決して少なくないのです。

私はバアル崇拝がエホバの民の中に確かに存在すること、そのバアルの名と実体、育んでいる状況について述べてきました。それで、結論としてお尋ねしたいことは「ものみの塔協会は、このバアル崇拝をいったいどうするつもりか」ということです。

エホバがバアル崇拝をいみ嫌われることは言うまでもありません。それゆえバアル崇拝にどう対応するかによってものみの塔協会の実体も明らかになるものと思います。

Concept Baalは麻薬のようなものですから一掃することは大変なことでしょう。名称を変えたり、取り決めを調整したりする程度では決して消えることはないでしょう。バアル崇拝を根絶するには多大の犠牲が求められるものと思います。(I Pet. 4:17; Isa. 30:25)しかし、それでも、どんな犠牲を払っても真理の組織としてのidentityを天と地の前で示して下さるでしょうか。ものみの塔協会こそイザヤ32:15〜18を成就させる組織であることを切に期待しています。

主権者エホバの霊が豊かに注がれ
真の崇拝がこの地に確立されることを願いつつ


また宮坂兄弟は組織バアルの具体的な事例を上げて本部に送った。


1986年11月21日

親愛なる兄弟たち

私は、ものみの塔協会の組織の中でバアル崇拝が行われていることを明らかにすると共に、そのことに関する本部の皆さんの見解を問う手紙を書いています。

〔1〕 ものみの塔協会内で確かにバアル崇拝が行われている証拠 エホバの組織内におけるバアル崇拝の傾向は、今回の事件を扱った監督たちの態度に非常によく現れていました。それを証拠として提出したいと思います。

以上のような事実を冷静に考慮すれば、ものみの塔協会内において組織がかなり強力な影響を行使していることが理解できると思います。

〔2〕さて兄弟たち、ものみの塔誌の幾つかの記事が、この組織バアル的考えを助長していることにお気付きでしょうか。次の二つの記事を検討して下さい。

この兄弟が言いたいこと、また記事を取り上げた目的はわかります。しかし、このような表現をすれば、どんな誤解が生じるでしょうか。このような表現を用いれば、常に組織の言うことに従順に従い、疑問や疑念、また理解できない点でも、とにかく指示に従っていればよいということになりませんか。このような考えは、常に組織が正しいという確信に基づいていると思います。しかし、組織が真理からそれたり、支部レベルで背教が生じないと断言できるでしょうか。そのような場合でも組織に従っていればよいのでしょうか。地上の被造物で不謬なものは何もありません。すべてが誤ちを犯し誤導する危険を持っています。そのような組織に盲目的に従うことを勧めるような書き方は神の民の信仰に重大な欠点を作ることになりませんか。そして必要以上に組織に信頼を抱かせる結果、組織バアルに力を貸すことにならないでしょうか。

私は今回の事件を通して、今の神の民が特に、監督たちが霊と真理による崇拝をわきに押しやり、組織優先的考え、言い換えれば組織バアル崇拝に捕らわれていることを痛感しました。それで少しでも早くこのような事態が解決され、エホバに真の栄光が帰されることを願っています。もし、本部の兄弟が真理に従って行動するのを拒めば、日本支部と同様バアル崇拝者であることが明らかになります。それで、どうか本部の兄弟の見解を教えて下さい。手紙でも結構ですし、実際の行為でも結構です。兄弟たちが霊と真理による崇拝の模範を示して下さることを心からお待ちしています。

霊と真理による崇拝が確立されることを願いつつ


聖書の中で「バアル」は次の8つのものに関して用いられている。

古代イスラエルの後期において、バアルは主にエホバと対抗した偽りの神々を表すようになったが、基本的には所有者を意味している。

古代カナーンにおいて、多産、豊穣の神として多くの崇拝者を集めたバアル、ひたすら拡大と増加をめざして暴走する組織、ものみの塔協会にとって現代のバアルは組織そのものである。そして組織の成員にとっては「特権」が多産と豊穣の象徴になっている。 このバアル崇拝を止めることは非常に難しいであろう。現在のものみの塔協会の体質では、組織バアルを捨てることは組織の崩壊につながるからである。

こうしたバアル化現象はものみの塔協会に限らず、すべての宗教に付きまとう本質的な問題であろう。おそらく概念と実質的意味との関係を限りなくあいまいにした階層構造を作り上げ、それを巧みに利用して人を操るという点では、宗教以外の組織にも共通する一側面ではないかと思われる。

<<神権ファシズム>>

ファシズムとは絶対主義的、独裁主義的な政治形態を指す言葉である。ファシズム体制下では、治安維持の名目の下に、言論、集会、結社権などが規制され、思想、信条の自由が奪われてゆく。

ものみの塔協会の場合は自らを神権組織と称しているので、その体制は神権ファシズムと呼ぶことができる。ファシズムの特徴はものみの塔協会にもすべて当てはまる。 例えば、組織が取り決めた以外の集会を開くことは禁止されている。有志が集まって個人的な勉強会を開いたり、子供たちのための集会を取り決めたりすると、さっそく会報(王国宣教)にふさわしくない行為として載せられる。英語版の書籍(ものみの塔協会発行)を翻訳して役立てようとすると、組織に先走る僭越な行為として禁止されるといった具合である。 また、出版権は「忠実で思慮深い奴隷級」の代表者である統治体の独占下に置かれており、彼らの持つそうした権威を侵すことは背教行為とされる。

現在のこうしたファシズム的な体制の中で最も顕著なものは、情報統制である。以前からものみの塔協会は真理擁護、成員を保護するという名目で情報の統制を計ってきたが、私たちの事件後この傾向は一層強まり、ものみの塔誌上にそうした記事の載ることが多くなった。

以下にその例を幾つか上げることにする。

「パウロはクリスチャンの好奇心に付け込んで信仰を覆そうとするものに気をつけるよう警告しました。『テモテよ、あなたに託されているものを守り、聖なる事柄を汚す無駄話や、誤って『知識』ととなえられているものによる反対論から離れなさい。ある人たちは、そうした知識を見せびらかそうとしたために信仰からそれて行きました。』‐テモテ第一6:20、21
…好奇心から世の哲学を調べてみようという気になるなら、それも害を招きかねません。…人間の哲学は神の言葉を無視していますから、哲学が及ぼす危険を決して過小評価してはなりません。…しかし、奔放で病的な好奇心を持つなら、いつのまにか空論や人間の学説の泥沼に引き込まれてしまう恐れがあります。」(1987年2月1日号p.28、29)

このようにもっともらしいことを言っているが、本音はものみの塔協会が出版している以外の本を読んでもらっては困るということである。組織の代表者たちは、そのことをしばしば次のように言い表わす。

「兄弟はずいぶん余裕があるんですねぇ」
「奉仕の準備にはどのくらい時間を取っておられますか」
「もう聖書全巻をお読みになりましたか」
「他の本を読んで霊性が下がるようなことはないですか」
「読書が好きなんですねぇ」

といった具合である。

組織の理想としては他からの情報をいっさい取り入れて欲しくはないということであろう。 さらに最近号のものみの塔誌を見ると、ファシズム化の傾向が一層強化されていることが分かる。ついに、臆面もなく「組織の言うことには黙って従え」というような主旨のことまで述べるようになった。

「疑い(英文ではunquestioning)を抱かず、神への従順を示すのも、信仰の重要な一画です。」(87年1月15日号、p.13)
「高い塔の上の部署に就き、前屈みの姿勢を取りながら、昼間は地平線のあたりをじっと眺め、夜は目を凝らして闇を見据える、常に警戒を怠らない見張りの者の姿を思いに描いてください。それが、イザヤ21章8節で用いられている「物見の塔」に相当するヘブライ語(ミツベ)にこめられている主要な考えなのです。見張りの者はしっかり目覚めているので、正常な人ならこの者が報告を声高く告げることに疑いを差しはさまないでしょう。…「ものみの塔」と「目ざめよ」の両誌に掲載されるすべての記事、それにさし絵などのアートワークを含むすべてのページは、印刷に先立ち、選ばれた統治体の成員による綿密な検査を受けます。加えて、「ものみの塔」誌の記事の執筆を助けている人々はクリスチャンの長老であり、その割り当ての重大性を認識しています。(歴代第二19:7と比較してください。)それらの長老たちは多大の時間を費やし、書き記される事柄が真理であり、聖書に忠実に従っているかどうかを確認するため聖書や他の参考資料を徹底的に調べます。…ですから、「ものみの塔」と「目ざめよ」の両誌は信頼して読むことができます。」(下線は広島会衆)(1987年3月1日号、p.12、15)

神の声は常に統治体を通して響くことになっているのだから、神への従順は統治体への従順になる。統治体に代表される「思慮深い奴隷」級の権威を絶対的なものとし、組織にとって都合の悪い情報は一切遮断して、一般の信者たちに組織は高いレベルの情報を与えていると思い込ませる。これらの記事の意味することは、結局のところ、「奴隷」級の提供する以外の情報を取り入れてはならないということである。

「統治体」が、このようにものみの塔協会内で絶対的な権力を振るうことができるのは、徐々に変更された「背教」の定義によってである。

1981年に出された「王国宣教学校」の教科書166ページには、次のように述べられている。

「エホバの真の崇拝(霊と真理による)や、エホバがその献身した民の間にお立てになった秩序に逆らって取られる行動」

秩序の本来の意味から言えば、エホバが立てた秩序とは、神の定めた原則、取り決め、規範などを指す。しかしこれだと、地上の組織が神の定めた「秩序」と一致している場合には問題ないが、組織が神の取り決めに違反している場合には従わなくても良いということになり、ものみの塔協会にとっては非常に都合の悪い教義になる。またどこから突かれても大丈夫だという確信がなければ、この定義ではやがて不十分になる。

そこで数年のうちに、徐々に変更を加え、この「秩序」の適用を狭めて、ついに85年には、それが組織、すなわちものみの塔協会に当てはまるということにしてしまった。ものみの塔誌1986年4月1日号(p.31)には、背教に関する何とも歯切れの悪い記事が載せられているが、結局言いたいことは次のことである。

「神、キリスト、聖書を信じていたとしても、「今日、地上には『イエスの地上の関心事すべてを託されて』いる『忠実で思慮深い奴隷』がおり、その奴隷級はエホバの証人の統治体と結び付いているという信条を受け入れないなら、反キリストであり、背教者とみなされる」

つまり、統治体に逆らうのは神への反逆、ものみの塔協会の代表者に従わない者はみな背教者とみなすということである。

こうなると、自分たちに不都合なことを言う分子はすべて背教者として片付けることができ、しかも背教者との交渉を禁じるという名目で、一切の情報が伝わらないようにすることもできるのである。

1986年3月15日号ものみの塔誌は、背教者からの文書に関する措置について次のように述べている。

しかし、この問題に関しては、なすべきことをエホバがそのみ言葉の中で告げておられるということを忘れないようにしましょう。エホバは背教者について何と言っておられますか。「その人たちを避けなさい」(ローマ16:17、18)、彼らとの『交友を止めなさい』(コリント第一5:11)、「〔彼らを〕決して家に迎え入れてもなりませんし、〔彼らに〕あいさつの言葉をかけてもなりません」(ヨハネ第二9、10)と言っておられます。これらの言葉は強い調子で語られた明確な指示です。好奇心をそそられ、背教者として知られる人の文書を読むことは、真の崇拝のその敵をまさしく家の中に招じ入れ、共に座ってその背教者の考えを語らせるのと同じことではないでしょうか。(p.12)

エホバの指示という大義名分を掲げ、背教者との交渉を一切禁止している。本当の背教者に対するものであればこういう指示もそれなりに意義があるとは思うが、恐ろしいのは情報統制の名目に使われることである。成員は幹部の都合のいいように操られることになる。 今回の事件では、内部との交渉を一切断つことにより、真実が伝わらないようにしている。背教者として片付けてしまえばまさに「死人に口なし」である。話し合いのための面会申し込み、集会、大会への出席など、その一切が拒否され、普通の背教者に対する扱いよりもさらに厳しい指令が出されている。そのすべては特例という口実によって行なわれたのであるが、真実を語る背教者というのはものみの塔協会も困るのであろう。

一度特例を施行してしまえば、後はもう簡単である。自分たちの取り決め違反はすべて特例で片付ければよいのである。今後、組織の都合によって大いに特例が増えてゆくことであろう。

こうして明らかになったのは「統治体」の独裁支配であり、ものみの塔協会による神権ファシズムの体質であった。憂慮すべきはこれがますます強化されようとしていることである。

(3) 新世界訳聖書の諸問題

1986年7月21日、新世界訳聖書日本語版の翻訳上の問題点に関する質問を支部と本部に送った。回答がなかったので同年11月6日、創世記の翻訳について分析した手紙をさらに本部へ送った。その時、問題として上げたのは次の点である。

  1. 誤訳が多い。
  2. 極めて冗長である。
  3. 代名詞の使い方が無神経である。
  4. 難解、あいまい、不透明で非常に意味が分かりにくい表現が多い。
  5. 一般に悪訳、悪文の条件として上げられているすべての項目を含んでいる。

上記の点について具体的な事例を上げ、改訳の必要性を伝えたが何の回答もなかった。新世界訳の諸問題については、「欠陥翻訳-新世界訳」(広島会衆発行)の中で詳しく論じてある。

(4)教義上の諸問題

この事件が始まったころ、教義に関する疑問は誰も持っていなかった。悪いのはものみの塔協会の体質であって教義ではない、教えは正しいのだから、やがてものみの塔協会はエホバによって正されるはずであると考えていたからである。ところが去年の秋ごろから、次第に教義もおかしいのではないかと思うようになった。

特に転機となったのは、ものみの塔協会に対する糾弾を開始してからである。これほど偽善的で腐敗している組織に、果たして真理が啓示されるということがあるのだろうか、偽善はエホバの神性やキリストの精神と真っ向から対立するものではないか。教義だけは何も問題がないということがありうるだろうか、これはちょっと考えにくいことであった。教義も大いに検討してみる必要がありそうだと強く感じるようになった。

イエス・キリストは神がどんな人々に真理を啓示するかについて、次のように述べている。

「天地の主なる父よ、わたしはあなたを公に賛美します。あなたはこれらのことを賢くて知能のたけた者たちから隠し、それをみどりごたちに啓示されたからです」(マタイ11:25)

偽善者に真理が啓示される…天地がひっくり返らない限り、そういうことは絶対にあり得ない。だとするとものみの塔協会の教義もどこか間違っているはずである。この推測は外れてはいなかった。やがてものみの塔協会のモードから出るにしたがって、教義上の欠陥が徐々に見えるようになった。

おそらく組織が偽善的な体質になってから作られた教理や明らかにされた預言は、もう一度徹底的に調べて見る必要があるだろう。

現在はっきり間違っているといえる教理の主な項目を上げると次のようになる。

  1. 義認
  2. 神の組織、サタンの組織
  3. 大いなるバビロン
  4. 忠実で思慮深い奴隷級
  5. 信仰と不謬性
  6. 統治体
  7. 天的権威と組織の権威

問題点はこれだけではない。日常生活における様々な禁止事項にも問題のある教理は多々ある。こうした教義上の諸問題については現在広島会衆で検討中である。

今後この事件が進展してゆけば、さらに多くのことが明らかになるであろう。

10章 事件の意味と今後の展望

<<ものみの塔協会に救いはない>>

1987年5月1日号のものみの塔誌には、協会の会長F・W・フランズ兄弟の経験が載せられている。読んだ限りではどうしても偽善者が書いた記事とは思えない内容である。神の祝福と保護に対する確信、組織に対する自信に満ちあふれている。組織の実態、真実の状態を知っているならとてもあのような記事を書くことはできないであろう。やはりまったく知らされていないとしか考えようがない。

このような点を考慮すると、もしかすると統治体のメンバーの中にも、今回の事件を通して明らかになった組織の実態を知らされていない人たちがいるのかもしれない。しかし、事態がここまで進展してしまうと、組織の最高指導機関である「統治体」として、「知らなかった、報告がなかった」では済まされないであろう。

少なくとも現時点で組織を実際に指導し、牛耳っている人々は、不真実な行為を完全に意識して行なっている。彼らは叩き上げられ、鍛え上げられた偽善者である。そうでなければ、日本支部の監督たちが示す偽善的な精神が、これほど組織内に蔓延することはあり得ない。また、広島会衆が送った千通を越える手紙を一切無視することもないはずである。やはり最終的な責任は統治体にあるといえる。

法的には疑問の余地がないほど偽善が立証された今、統治体およびものみの塔聖書冊子協会に対し、以下のことが当てはまる。

  1. 統治体、ものみの塔協会は大患難を通過することができない。
  2. 神とキリストはものみの塔協会と共にはいない。
  3. 組織としての霊的パラダイスは否定された。

I. これは当然であろう。キリストの言葉によれば“偽善者”は“盲目の案内人”であり、導く者も導かれる者も共に穴に落ち込むことになるからである。偽善は「霊と真理」による真の崇拝と真っ向から対立する。偽善的な宗教指導者はゲヘナの裁き(永遠の滅び)に値すると述べられている。

II. 説明を要しない。偽り、偽証は神性とまったく相容れないものであり、公約違反はエホバの最も嫌われる事柄の一つである。

III. 霊的パラダイスという言葉は直接聖書の中には出てこないがエホバの証人はこの言葉を“回復された神との関係”を表わすものとして用いている。簡単に言えば、人の心、内面に設立されるパラダイスのような状態ということになるだろうか。

エホバの証人は長い間、「全地はキリストの支配により、まもなくパラダイスに変えられる」と宣べ伝えてきた。この音信の真偽は霊的パラダイスによって証明されることになるのでこの点は非常に重要である。

言うまでもなく、いかにパラダイスのように美しいところであっても住んでいる人々の心が醜ければ、遅かれ早かれ荒廃してしまう。パラダイスができるかどうかは、環境そのものよりむしろ、人の心に大きく依存している。

全地がパラダイスになるためには、まずその前に、人々の心の中にパラダイスが設立されていなければならない。この霊的パラダイスができなければ、全地のパラダイスの話などまったくのナンセンスに過ぎない。偽善者が霊的パラダイスを建設する…ありようはずがない。

こうした事柄はキリスト教にとっては極めて本質的な問題である。これに取り組まずして、真のキリスト教の証しを立てようとしても無意味であろう。いかに奉仕時間を多くしようとも、いかに立派なべテルや王国会館を建てようとも、それで神の律法に対する違反や偽善が贖われることはない。

この点に関するエホバの見方は、アモス書5章22、24節の中に次のように記されている。

「また、あなた方が全焼燔の捧げ物をささげるとしても、その供え物を喜びとはしない。あなた方の共与の犠牲の肥えたものに目をとめない。公正を水のように、義を絶えず流れいく奔流のようにわき出させよ」

したがって、「彼らが私を崇拝し続けるのは無駄なことである。組織の命令を教理として教えるからである」「まず杯と皿の内側を清め、それによって外側も清くなるようにしなさい」という言葉が、ものみの塔協会に当てはまるであろう。 今回の事件を通して明らかになった統治体、ものみの塔協会の実態は、私たちの予想をはるかに越えるものであった。これほど幹部が偽善的で尊大であるとは考えてもみなかった。やはり外部の指摘は正しかったのである。

「私が説明した『客観的な立場に立った取材と執筆』という態度選択が気に入らなかったらしい。渉外担当者は私に『(教団のマイナスにならない)証しが欲しい』と要求した。私は『“証し”というのが、自由な検閲を認めるとか、信者になって、批判的な表現を一切しないと約束するという意味ならそれは不可能だ』と答えた。話は物別れに終わった。
その担当者の要求には、ふつうの教団がとっくの昔に放棄しているような強い閉鎖性と、外部に批判はおろか、客観的なアプローチさえ許そうとしない“かたくなさ”があった。
『もう少し社会に教団を開いたらどうですか。急成長している教団ならなおさら、その内部を公開し、社会に教団を正確に理解させる努力が必要でしょう。またその義務もあるはず』という私の主張に対して、その担当者は教科書を暗唱するような、感情を押し殺した、それでいて妙に他人を寄せつけない声音でこういいはなった。
『私たちは私たちで一生懸命やっています。(信者になる気もないあなたや)社会一般なるものに、理解してもらおうとは思いません』…日本支部の渉外担当者の言葉をききながら、私は嫌悪感をおぼえた。よほど取材をやめようかと思った。」(「若者はなぜ新・新宗教に走るのか」p.28、29室生忠著)

幹部が腐敗している教団には一つの明確な特徴が現れると、「宗教の時代-2神様はあなたの頭の“強精剤”」という本は述べている。

「しかし、引き込まれたあと、教団がどのようなかたちでそれに応じているかというと、あいも変わらず布教のための機関紙の拡大、信者の増加といった日常活動を課しているだけである。この場合、幹部が奢り高ぶっていると、信者はかわいそうなことになる。幸福になるつもりで教団に入ったのだが、逆に苦しみを味わうことになってしまうからだ。毎日、幹部から尻をたたかれて活動にはげむわけだが、それで生活基盤を失ってしまったりすると、それはもう悲惨としか言いようがない」(p.168小田晋著)

これも見事にものみの塔協会に当てはまる。このままでは今後ますます、成員に対する「雑誌配布、文書配布、予約の獲得」の圧力は強まることであろう。これ以上悲劇を繰り返さないためにも、幹部の偽善は徹底的に糾弾されてしかるべきである。

まだすべての人の前に統治体、ものみの塔協会の正体が明らかになったわけではない。加えて決着をつけねばならない重大な問題も幾つか残っている。その中にはものみの塔協会の土台となるような教義や預言年の問題が含まれている。最終的な結論を下すには、今後少なくとも3つの点を確かめねばならないが、神が生きて活動しておられるのであれば、どのような方法が選ばれるにせよ、やがて真実は明らかになるものと思う。

<<予想される三つの段階>>

(1) 神の子たちの実態と付随する教理

統治体の実態については、はっきりした。残念ながら彼らには、真実を擁護し非聖書的な組織の体質を改めるつもりはなかった。統治体が神の用いている器でないということは、もはや疑問の余地がない。

ということは同時に、「忠実で思慮深い奴隷級」の教理もまた否定されたことになる。神のみ言葉を擁護しようとしない者は神に忠実な者ではないし、神の権威より組織の権威の方が上であると考え、み言葉を退けても無事でいられると思う者は、少しも思慮深くはないからである。

そこで問題となるのは統治体の各成員を含めた、神の子の実態である。なぜなら、この章の冒頭でも触れたように、統治体のすべての成員が事件の全容を知っているとは考えられないため、成員各人の実態について最終的な結論が出ているとは言えないからである。

統治体は、「地上に残っている神の子の代表である」と主張している。エホバの神性を証明しようとしない統治体を見て、全世界の神の子たちは果たしてどうするであろうか。

事態を正すために立ち上がるなら、確かに本物の神の子と言える。しかし組織を恐れて何もできないのであれば間違いなく“偽物”である。そうなれば14万4千人の教理が否定されることになろう。

14万4千人とは、地上から選ばれて天に上り、霊者となって地上の民を統治する人々であると教えられている。真理、真実に基づいて行動しようとせず、神の民の中でなされた不公正を正すために立ち上がろうとしない人々が、いかにして地上の神の民を公正に統治できようか。無理な話だ。

ところで、この「忠実で思慮深い奴隷」および「14万4千人」の教理はものみの塔協会の骨格をなす教理である。忠実で思慮深い奴隷級の残りの者の数が少なくなっているので終わりは近いと預言しているし、神の王国は14万4千人とイエス・キリストによって構成されると教えているからである。エホバの証人は、この『ハルマゲドン接近説』と『神の千年王国到来説』を最大のセールスポイントにして、組織内部の者には宣教の強制を、組織外の人々にはものみの塔入会の必要を強調してきた。

もし、神の子たちが神の子の証を証明しようとしなければ、神の子の教理が否定される。そうすると神の千年王国そのものも否定され、エホバの証人の伝える音信はその実質を失うことになる。

ものみの塔協会の教義と預言年が崩壊してしまうのである。

(2) 個々のエホバの証人

統治体もダメ、神の子もダメということになったら、最後はエホバの証人一人一人の問題になる。事態がここまで進めば「ものみの塔協会はものみの塔ならずして偽りの塔」になっているはずである。つまり彼らが散々非難してきた大いなるバビロンに、自ら成り下がるのである。

そうなれば次の聖句が当てはまることになろう。

「私の民よ、彼女の罪にあずかることを望まず、彼女の災厄をともに受けることを望まないなら、彼女から出なさい」(黙示録18:4)

その時、真理を心から愛する人は、迷うことなくものみの塔協会から出るべきである。エホバの証人とはエホバを証しする人という意味である以上、エホバの神性と相容れない組織に留まることは神に対して不忠実になるからである。

真理を愛さない不法の人に従うことは、滅びを意味している。

(3) エホバの存在とその神性

ものみの塔聖書冊子協会は自分たちを別名「エホバの証人」と呼び、神のみ名エホバを担う唯一の存在であると主張している。

その「ものみの塔」が「偽りの塔」に変質した時、「エホバの組織だ」という主張をいつまでも許すことは、神の神性からして到底あり得ないことである。またその中に神の聖霊の所産である霊的パラダイスができようはずもない。

ゆえに、エホバ神が本当に存在するなら、必ず統治体とものみの塔協会を裁くはずである。霊的パラダイスを本気で作るつもりであれば、何らかの方法で実現させるはずである。

しかし、ものみの塔も裁かれず、霊的パラダイスも一向に実現しないならどうであろうか。自分のみ言葉であると明言する聖書の中で述べたことを、実際に行なわない神であれば、たとえ存在していたとしても、人類にとっては存在しないのと同じである。

エホバの存在とその神性は、ものみの塔協会に天の裁きが下るか否か、霊的パラダイスが実現するか否かによって明らかにされる。

統治体は、神の子たちは、果たしてどうするであろうか。そして何よりもエホバとキリストは、天の法廷は、どんな判決を下すのであろうか。

もし神の子たちが表わし示されるなら、次の聖句が成就するであろう。

「被造物自体も腐朽への奴隷状態から解放され、神の子の栄光ある自由を持つようになるのです」ローマ8:21


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