「統治体、Governing Body」…この語の意味は辞書を調べてみればはっきりする。英語の語源は別としても、ものみの塔協会の宣伝するような「導く、水先案内をする」といった意味はない。現代の意味は「支配する、治める、統治する」である。まさに組織支配に腐心する「統治体」の実態にふさわしい名称なのである。
「統治体」とは「クリスチャンを導く一団の人々」などではない。その真実の姿は、キリストの権威に違反した「クリスチャンを支配する一団の人々」なのである。
さらに、この「統治体」という称号はキリスト教の精神に真っ向から反している。キリストの精神、その教えは「統治体」という称号とは全く逆である。
「また、『指導者』と呼ばれてもなりません。あなた方の指導者はキリスト一人だからです。」(マタイ23:10新世界訳)
この聖句は次のように言い換えることができる。
「あなた方は『統治体』と呼ばれてはなりません。あなた方の統治者はキリスト一人だからです。」
一世紀当時エルサレムには、諸会衆を管轄する「統治体」という指導機関があったとものみの塔協会は主張しているが、実際はそうではなかった。以下にその理由を列挙する。
11 わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。
12 あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。
ものみの塔協会の主張するように本当に神の組織「統治体」が全世界のクリスチャンを指導していたのであれば、誰か一人くらいは「私は組織に従います。わたしは統治体に従います」と言ってもよさそうなものであるが、パウロの記述から明らかなようにそのような人は一人もいなかった。
パウロとケファ(ペテロ)があげられているではないかというかもしれないが(ものみの塔協会はパウロとペテロが「統治体」の一員であったと教えている)、それは「統治体」存在の証拠にはならない。この記述は、彼らが「統治体」という組織としてではなく、パウロ、ペテロという個人としてみられていたことの証拠になる。
「彼らは初め必ずしもユダヤ教に反対せず、むしろその戒めと道徳的規範とに従ったが、イエスの信仰を中心として共同生活を行い、一致して義と愛とを実践し、互いに助けささえて独自の団体をなした。これが原始教会(初代教会ということもある)と呼ばれる集団で、イェルサレムから始まり、しだいに広まり、独立した教会をなしたものもあったが、ことにシリアの首都アンティオキアではユダヤ人以外のいわゆる異邦人をも交えた団体が形作られ、ここにユダヤ的律法に制約されない、すなわち純粋に信仰のみによって結ばれた新しい教会形態が始まった。」(下線は発行者) (「世界大百科事典−キリスト教会の発展史」平凡社 p.56)
「この集団の指導者層には使徒団が、とくにパウロが『柱』と呼んだ(ガラテア2:9)ペテロ、ヨハネ、それに主の兄弟ヤコブ、この三人から成る三頭政治が目立っていた。使徒行伝もこの三人には、とりわけ重要な位置を与えている。
…十二弟子は何よりもまず、エルサレムの教会、およびはやくからパレスチナに設立されたその枝教会の、霊的な指導者であって、はじめは定住していた(ガラテア1:22 。使徒行伝9:31)。彼らの権威、また彼らを通しての母教会の権威は、改宗したユダヤ人のみならず、後にパウロ書簡が証しているように、異邦のキリスト教徒にまで及んだのであった。十二弟子と教団とのスポークスマン格はある時はペテロ、ある時はヤコブであった。ヨハネはこの二人のどちらにも従属した位置にあったようである。
…エルサレム教会は、使徒の段階でも、王朝の段階でも、堅固な構造を保っていた、ヘレニストの伝道に続く、ペテロ、ヨハネのユダヤ、サマリヤ地方巡回視察(使徒行伝8:9)、ペテロのアンテオケその他の地への伝道旅行、パウロが伝道していく先々で組織的に整然となされたユダヤ教化の反宣伝等々は、はじめ異邦人伝道にかなり消極的でありながら、形成期のキリスト教界全体を自分の権威化において、思うままに形づくろうとするエルサレム教会の意志を、はっきり示したものであった。
それにくらべてパウロ教団の組織は、はるかにゆるやかなものであったようである。十二弟子は霊的な職分のうち、枢要なものは自分たちの手に集中させていたらしいのに対し、パウロ教団では、専門的に分化させていったことが分かる。」(「原始キリスト教」マルセル・シモン著 p. 44,45. 103)
ものみの塔協会が「統治体」の聖書的根拠としてあげる最大のものは、使徒15章に記されているエルサレム会議である。割礼の是非をめぐる論争によって開かれたこの会議が、ものみの塔協会によれば「統治体」の会議であったということになる。
しかしこの会議については全く逆の見方が成り立つ。つまり「統治体」に相当するような組織がなかったからこそ聞かれた会議であると。むしろこの方が自然な見方であろう。
まず、会議が開かれるに至った動機であるが、直接のきっかけとなったのは、エルサレムの教会と何らかの形で関係のある人々が、パウロたちの活動しているアンテオケ教会に来て、異邦人でキリスト教信仰に入る考に割礼を施すことを要求したため、混乱が生じたという事情であった。この人たちは、キリスト教はユダヤ教の枠内にあるとの理解に立っていたことになるが、これはその当時にあっては特に異とすべき考え方ではなかった。
しかし、アンテオケ教会 −その指導者たちはやはりユダヤ人であったが− の見解は、これとは異なる。それは、異邦人は異邦人であるままキリスト教信仰に入ることができるとし、またそれに従って実際に事を運んできていた。…アンテオケ教会、特にその指導者たちにとっては、ユダヤ主義者たちの言いなりになることは、先に述べたような彼らの信仰理解、またそれに基づく今までの実績から考えて、もちろん論外であった。しかし他方、このユダヤ主義者たちの影響を自分たちで排除することも、彼らにはできなかったようである。アンテオケ教会は、それとは別の道を選んでいる。すなわち、教会はその最高指導者であるバルナバとパウロとをエルサレムに派遣し、ユダヤ主義者たちが自分たちの背後にあるとしているエルサレム教会の指導者たちに会って、じぶんたちの福音理解と宣教活動の実際とを伝え、彼らの理解を求めさせたのであった。」(「使徒パウロ−エルサレム会議」佐竹明著 p.122,123)
この本の指摘通り、エルサレム会衆とアンテオケ会衆は、ある程度異なった路線、独自の路線を歩んでいたと考えられるのである。
エルサレム教会では割礼を初めとするモーセの律法を守ることが普通に行われていたが、アンテオケ教会ではそうではなかった。この相違は割礼の論争が起きてから生じたものではない。むしろ、相違があったからこそ論争が生じたと見るべきである。
そうであれば、この会議は「統治体」存在の証拠ではなく、逆に「統治体」などはなかったという強力な証拠になる。というのは、もしエルサレムを中心とする組織上の絶対権を持つ「統治体」が存在していたのであれば、そもそもこういう論争など生じなかったはずだからである。エルサレムからの指示に異議、異論を唱える者はすべて、ものみの塔協会で行われているように、背教者として処分されていたはずである。