断絶届の実例    by Timothy Campbell

(2002年4月22日掲載・2003年6月27日改訂)

エホバの証人を辞めるにあたり、自然消滅という徐々に離れていくかたちをとるほうが負担が軽いと感じる人もいれば、断絶届を書いて、正式に離れることを宣言する必要性を感じる人もいます。

後者を選択するにあたって心に留めておくべきことは、長老にはその届けを協会に転送する義務がなく、専用の用紙に記入するだけだということです。断絶届を協会に確実に読んでもらうためには、自分で写しを送りましょう。

私たちの知る限りでは、協会が断絶届の受領を通知することはありませんが、丁重に書かれたものには確実に目を通していると思われます。

長老と協会に届けを送ることに加え、電話帳から親しい証人の住所を控えておき、個人宛の添え状と共に断絶届を送ることもできます。親しい証人が監視の対象とならないよう、このことは断絶届の中で触れないほうがよいでしょう。

以下は断絶届の一例です。もう証人ではいられないとの結論に達したある女性が、実際に書いた断絶届を元にしています。この女性から掲載の許可を得ています。なお彼女の希望に従い、すべて仮名を使用しています。

プレザントヴィル会衆長老団 殿
写し送付先:ものみの塔聖書冊子協会統治体

ものみの塔協会が「エホバの組織」であるとの教えに私が疑問を呈した際、その理由を要約し書面にするよう求められましたので、以下のようにまとめました。

  1. 私の生い立ち
  2. 協会史の個人研究
  3. 主な問題点
    • 問題点1 歴史の隠蔽
    • 問題点2 財政面での不誠実さ
    • 問題点3 教義の変更
    • 問題点4 支配と権威
    • 問題点5 予言 
    • 問題点6 体面維持
    • 問題点7 組織至上主義
  4. 声明と法的指示
  5. 結論

皆さんには偏見を持たずにこの手紙を読んでいただきたいと思います。また上述の点が、私にどのような影響を及ぼしたのかを熟慮していただければ幸いです。私が論じているのは、心あるクリスチャンすべてにとって重要な問題ですので、真理を愛する兄弟たちには深く考えていただけるものと信じています。

私の生い立ち

私が証人になったのは、多感な17歳の時でした。1975年が終わるまでに、新しい世の始まりを目にするだろうという緊急感のある話を聞き、私は胸を躍らせました。父は「その日と時刻についてはだれも知りません」という聖句で反論しましたが、私は「そうね。でも、その年を知らないとは書いていないわ」と返しました。

1975年を数年後に控え、私は『神の自由の子となってうける永遠の生命』の本を熱心に研究し、約1年後に献身しました。その時、これこそ神の組織だと確信していた私は、教わったことを再調査する必要など感じませんでした。私には、協会の言葉が真理でした。

協会が地上における神の唯一の伝達経路ならば、どのような調査にも耐え、悠々と切り抜けられると私は考えていました。何と言っても『とこしえの命に導く真理』の1章に、自分が加わっているのがどのような宗教組織であれ、教わったことを吟味する必要があると書かれていましたので、真理を愛する者はこのような調査に恐れを抱く必要はないのだと確信しました。

協会の別の出版物には、自分の宗教に関して、できるだけ多くのことを調べるようにと書かれていて、「すべてのことを確かめる」必要性が強調されていました。学んだことすべてを注意深く調べることは、神に対しての私の責任でした。

十分な内省と祈りの後に、過去と現在における協会の活動と教えを徹底的に調べました。いわゆる「背教的」な出版物は避けましたが、必要とする情報のほとんどは協会の出版物から得ることができました。

協会史の個人研究

残念ながら、見つかったのは私の期待とは180度違うものでした。協会の歴史は、間に合わせの理論と推測に加え、計算、年表、そして奇妙な理論(ピラミッド内部の測定値、ニューヨークとペンシルバニアの二都市間の距離、惑星の配列など)で裏付けられた予言の固まりでした。協会が過去にこのような突飛な考えを持っていたことを知り、私は当惑しました。

現在と過去の出版物を比較するにつれ、情報を公表せず事実を隠すことで歴史を改竄する傾向が明白になりました。数え切れないほどの教義の変更を知り、根本的な信条は確固たるものだと信じていた私は、ひどく失望しました。その中でも特に数々の予言の失敗は深い失望の元となりました。

協会は人類史上最も重要な時代における神の唯一の「伝達経路」で、聖霊に導かれていると強く主張していました。協会の過去についてよく考えることで、厳しい質問をせざるを得なくなりました。

私たちは、統治体の現在の理解を、深く考えることなく信じるよう助言されていました。まるで協会がエホバによって直接霊感を受けているかのように、予言にせよ、聖書が明確に述べていない事柄にせよ、受け入れることが求められました。たとえ死に瀕しても協会の指示には従わなくてはならず、協会がその見解を数年後に変えるような事例では、とりわけ悲惨なものとなります。

主な問題点

問題点1.歴史の隠蔽

協会が以下の事柄を固く信じていたという事実について、なぜ私たちは何も知らされていないのか、お伺いしたいと思います。

  1. 「終わりの日」の始まりは、1799年、1874年、1915年、1914年であった。
  2. 「終わりの日」の終わりは1914年、1925年、1975年であった。
  3. イエスの再臨の時は、1874年、1914年、1925年であった。
  4. ものみの塔は、イエスが1874年に現れ、1878年に王として支配を開始したことを、疑う余地のない明白な事実であると主張していた。
  5. エルサレムの滅びは紀元前606年であった。(後に紀元前607年に変更)
  6. ハルマゲドンが始まるのは、1874年、1914年、1920年、1925年(すべてはっきりと出版物に記されている)、1975年(記事はあるが、表現はより慎重になっている)であった。
  7. アブラハムやダビデ王らが地上に復活するのは、1925年である。
  8. 人類史6,000年の終わりは、1874年である(後に1975年に変更)。
  9. イエスが目に見えない形で戻ってこられたのは、1874年である(この教理は1929年に変更が加えられた。これはイエスがすでに来られていることすら知らなかった1919年に、協会が「神の組織として選ばれた」ことを意味する)。

私たちが1914年を堅く信じているのと同じように、当時の証人たちがこのような事柄を信じていたという事実を、なぜ今日の証人のほとんどが知らないのでしょうか。協会は謙遜さを示し、私たちにこの事を知らせるべきではないのでしょうか。

問題点2.財政面での不誠実さ

出版物の配布が額を定めない「完全寄付制」に変更されたとき、情報をより入手しやすくするための措置であるとの説明を受けましたが、全容は決して知らされませんでした。

カリフォルニア州がジミー・スワガート(訳注:アメリカの有名なテレビ伝道師)の「伝道」に6%の売上税を課した際、協会(およびいくつかの教会)は「法廷助言者」申立書をスワガートのために提出しました。彼が敗訴したため、協会は売上税を払わずに出版物を「販売」することができなくなったのです。

スワガート敗訴から一カ月もたたずに、協会は「完全寄付制」に移行し、それによって課税問題を完全に解決しました。こうして協会は大金を支払わずに済んだのです。なぜ協会はこのことを説明しなかったのですか。

協会は、「金額明示の寄付」に課税される国では、任意額の「完全寄付制」で出版物を提供していますが、課税されない国では、たとえ貧しい国で寄付が大きな負担となる場合でも、家の人は明示されている額を寄付するよう求められています(アトランタジャーナル1990年3月3日号)。なぜ協会はこの情報を隠しているのですか。

メキシコの兄弟たちが集会で歌うことも祈ることもできないのは、政府の迫害のためだと聞かされました。メキシコでは宗教団体に土地の所有権が認められていないため、協会が「文化」団体として登録しているとは聞かされませんでした。「文化」団体なので、兄弟たちは宗教的側面を控え目にせざるを得なかったのです。兄弟たちの活動を制限していたのは、政府の行動というよりはむしろ協会の決定ではありませんか。

ここ北米の王国会館は、クッションの効いたイスとエアコンが備わった、清潔で快適なものです。しかしマプト(訳注:モザンビークの首都)には50会衆あるにもかかわらず、王国会館が一つもなく、屋外のござの上で集会を行っています。雑誌も十分ではないので、「正確に答える」ために暗記するか「注意深く耳を傾ける」必要があります。何十億ドル相当もの土地不動産を所有していながら、なぜ協会は無償で出版物を送ることができないのでしょうか。エホバは貧しくて余裕のない国に特別な配慮を示してはくださらないのでしょうか。

問題点3.教義の変更

協会の規則変更には長い歴史があり、人々の人生に甚大な影響を与えてきました。血の問題を考えてみてください。

かつて、すべての血液製剤は避けるべきものでした。次に一回の輸血(栄養物ではなく、薬と考えられた)なら許されるようになりました。その後、依然として「少量」の場合は許されていたものの、分画さえ受け入れが禁じられるようになりました。その後も変更は続きました。これが決して変わることのない神が導いておられる証拠ですか。「新しい光」が「古い光」に逆戻りしているのに、光が「明るさを増して」いると言えるのですか。

血友病患者はひところ血液分画を取り入れてはなりませんでした。ものみの塔1978年9月15日号で、この規則は「良心の問題」に変更されました。この号以前に、もし誰かが自らの良心に従っていれば、滅びに値するものとして排斥されたことでしょう。

1949年、臓器移植は「現代医学の驚異」と呼ばれていました(目ざめよ 12-19-49)。しかし1967年、臓器移植は禁じられました。「この種の手術を受ける人は、他の人の肉によって生きることになり、それは人食いです」。1980年、「個人の良心の問題」であるという立場に逆戻りしました。変わることのない方である(マラキ3:6)神は、ご自身の「忠実で思慮深い奴隷」の揺れ動く規則によって、人々が命を落とすことを許されるのでしょうか。

種痘、避妊、強姦、復活、そして夫婦間の性行為に関する教義は何度も変更され、何百万もの忠実な証人たちに影響を与えてきました。どれほどの人が不必要に苦しんできたのでしょうか。

エホバはご自身の「選ばれた」者に、どう行動すべきかを正確に伝えることのできない方なのでしょうか。神は、私たちが神の意図されたのとは「正反対」のものを見ることがないよう、「新しい光」を十分に啓示することのできない方なのでしょうか。真理が段階的に明らかにされるのなら、全体像を構成する部分が徐々に明らかにされる都度、それらを私たちが正確に知ることができるよう、神は助けてくださらないのでしょうか。

エホバの言葉がその民に伝わる途中で取り違えられたなどという事例は、聖書に記されていません。ノアもモーセも神の言葉を誤解することはありませんでした。人間なので間違うことはありましたが、エホバの言葉を伝える時には間違えませんでした。

問題点4.支配と権威

統治体はあらゆる面で私たちの生活を支配しているか、支配しようとします。時間の使い方、服の選び方、読むもの聞くもの、話し方、交わる相手、休暇の過ごし方、職業の選択範囲、果てはものの考え方に至るまでです。自分の良心に基づいて決定を下すことなど、実際には許されていません。もし現時点の統治体の解釈に完全に同意しないなら私たちは排斥されてしまいます。

そのような支配を行使できるとは、一体何様でしょうか。彼らが権威の拠り所としている組織を創設したチャールズ・テイズ・ラッセルは、「異邦人の時の終わり」の信憑性を証明するためにギゼーのピラミッドの回廊の寸法を用いた人です(英語版ものみの塔1922年6月15日号)。彼が1914年について書いたことをご覧下さい。

「1914年、人が考えた目印である、みずがめ座の中で天王星と木星が出会うとき、いにしえから約束されていた通り、人が自らの救いを打ち立てる業を始める時代が堂々たる開幕を告げる。これは、歴史上存在したあらゆる詩人や賢人の夢また理想の、究極の実現を保証するものでもある」

1914年という年を決定する上で、占星術とピラミッド学が一役買っていたことは明らかです。これが神から来たものだということがあり得るでしょうか。このような人が他の人すべてを差しおいて「キリストに属する者」をつかさどる者として選ばれることがあり得るでしょうか。私は、協会が1914年と紀元前607年を支持するものとして引用した典拠を自分で調べました。私は何度も、協会が提供する情報に、不正確、あるいは甚だしい意味の取り違えがあることを見出しました。それはひとえに、C・T・ラッセルの個人的考えを支持せんがためでした。

1914年という年代は、私たちが信じるほぼ全ての土台を成す重要なものです。 ある教理を「証明」するために引用元からの情報を曲げて提供しているとしたら、それはスキャンダルです。誰であれ時間を取ってこれらのことを調べ るなら、明らかに意図的な欺きを目にして憤慨することでしょう。

権威の問題に戻りましょう。もし聖書が、ある問題について明言していないのであれば、ブルックリンにいる12人の人々が、自分たちはエホバの唯一の経路であると断言し、ささいで取るに足らないこまごましたことから、生死を分ける問題に至るまで、個人の解釈を流布するのは僭越ではないでしょうか。何百万人もの人々は自分たちの下す決定のほとんどすべてを、これらの人々の、常に変わり続ける解釈に基づいて行っているのです。

問題点5.予言

大体において協会は自らを「予言者」と呼ぶことは避けているものの、実際の言動は予言者の外套を身にまとっています。以下にいくつか例を挙げます。

  • 「したがって議論の余地のない事実は、終わりの時が1799年に始まり、主の2度目の臨在が1874年に始まったことを示しています」
     「議論の余地のない事実」という言葉に注目してください。

  • 「私たちは年代を変更する理由はなんらありません。もしそのつもりがあっても、変更することはできないのです。それは神の日付であって、私たちのものではないからです。ですが1914年の終わりは、始まりの日付ではなく苦難の時の終わりであることを心に留めてください」

  • 「私たちは1874年、1914年、1918年、1925年の年代計算に関する、どんなことに対しても疑いを持ってはいません。主は1914年と1918年の上にご自身の印章を捺して封印され、決して抹消することが出来ないようにされたのです」「1914年と同様、1925年についてはいかなる疑問もあり得ません」
     1925年が根拠のないものであったことは明白である以上、彼らの論理を推し進めるなら、1914年も根拠がなかったことにならないでしょうか。

  • 「確かに、私たちが語っているのは大それた予測であり主張です。すなわち、これから26年以内に現存する諸政府は覆され、消滅するということです」
     それら諸政府は実際に覆され消滅したでしょうか。

  • 「私たちは既に1872年10月以降、第7千年紀を生きています」

  • 「この期間は1925年に終わらなければなりません。…現存する万民のうち、そのとき生存し、新秩序の義なる掟に従う人々は永遠に生きるのです。それゆえ、現時点で生存する何百万もの人々は決して死ぬことがないと確信をもって言うことができます」

  • 「私たちは、1925年がイスラエルの忠実な人々が死の状態から帰還するのを目にする年、復活させられ、人間としての完全性に戻され、地上における事物の新体制の、目に見える法的代表者にされるのを目撃する年となることを期待できるでしょう」

明らかに、ハルマゲドンは1925年に起きませんでしたし「聖なる者たち」の復活もありませんでした。このような予告の失敗の結果、何千もの人々が協会を離れました。協会によるこのように遺憾な行為の後で離れた人々を非難することができるでしょうか。

問題点6.体面維持

誰もが、1975年に起きたことを忘れようとしますが、私は忘れません…。

私が最初に学んだ地域の「会衆の監督」が、私に菜園を見せてこう言ったことがあります。「ジャガイモが見えますか。私たちはここに生えている同じジャガイモを新秩序で食べることになるのです」。長老の妻は私の息子のケビンに言いました。「あなたは新しい世の赤ちゃんよ。あなたはエホバの新しい世が来たときも、まだ赤ちゃんのままでしょうね」。

ええ、彼らは個人としてこれらのことを語りました。でも、彼らが自分でこれらのことをでっち上げたわけではありません。協会は私たちが何を考えるべきか、明白に示していたのです。以下に実例を挙げます。

「信頼に値する聖書年代表に従って言えば、人間創造以来6,000年目に当たるのは1975年です。そして人類史の第7千年期は、西暦1975年の秋に始まります。それで人間が地球上に存在するようになって以来6,000年になるのは、近い将来、すなわちこの世代のうちのことです。…ゆえにわたしたちの世代のうちに、そして多年を経ないうちに、わたしたちは、エホバ神の目から見て人間存在の第七日にあたる日を迎えることになります」

1974年の「王国奉仕」にはこのように書かれていました。

「家や資産を売って、開拓奉仕をしてこの古い体制における自分たちの残りの日々を過ごそうとする兄弟たちのことをよく耳にしますが、確かにそれは、邪悪な世が終わる前に残された短い時間を過ごす優れた方法です」

これは明らかに協会からの命令ではなかったでしょうか。協会はなぜそのような行動を奨励したのでしょうか。20年後の今、これらの兄弟たちはどこにいるのでしょうか。自分たちの犠牲に対し、彼らはどんな報いを受けたでしょうか。

1975年を巡る総崩れが始まると、協会は彼らの呼びかけに答え応じた人たちを非難しました。彼らは「実際に語られたよりも多くのことを読み取ろうとし」「エホバを待つことを望まなかった」として非難されます。協会は「私たちはエホバの名によって予言はしなかった」「エホバがこうおっしゃったとは一度も言わなかった」と言います。ですが、1995年10月15日まで「目ざめよ!」誌に毎月掲載されていた発行者の言葉をよく考えてください。

「またきわめて重要な点として、本誌は、1914年の出来事を見た世代が過ぎ去る前に平和で安全な新しい世をもたらすという、創造者の約束に対する確信を強めます」

彼らは約束をしているのがエホバであるとはっきりと述べています。彼らは神の名によって語っているのです(申命記18:21)。

発行者の言葉は、「この世代」の意味に関する理解共々、現在では変更されています。1914年に生きていた世代が死に絶えつつある以上、そうしなければならなかったのです。

エホバは決して変わることはありません。神の約束は決して破られることはありません。では、なぜ変更するのでしょうか。「目ざめよ!」誌の発行者の言葉をエホバは約束されなかった、ということはあり得るでしょうか。協会は「より明白な理解」に達した、と言いますか。それとも、謙遜に、彼らは単に間違っていたのだと言いますか。

なぜ協会はそれほど一所懸命に自らの誤りを隠そうとするのでしょうか。

問題点7.組織至上主義

私たち証人は、独自に聖書研究を行わないよう警告されています。組織の導きがなければ、聖書を理解することはできない、聖書は「組織的な書物であり、個人に属するものではない」と告げられています。

このことは聖書そのものよりも、ものみの塔と組織に、より重要性を与えるものです。「聖書研究」において、私たちは聖書の一言一句に対する、実際何百語もの協会の解釈を読むことになります。

過去一世紀にわたり、協会は数え切れないほどの予言の失敗を重ねてきました。私の目から見れば、責任ある立場にいる人たちは文字通り、ただの人です。彼らが、決して変わることのない完全な神に導かれているという証拠は何一つ目にすることができません。

それにもかかわらず、彼らは組織に対する専心の献身を要求します。単なる人間が作り、運営する組織に、です。

声明と法的指示

私はここに、自分がもはやいかなる仕方であれ、ものみの塔聖書冊子協会の会員であることを望まない旨を、確固として断言します。ものみの塔聖書冊子協会は、神にのみ認められる献身とほとんど区別がつかないほどの献身を要求します。私はこれを偶像崇拝とみなし、自分はそれに関わりません。私は「人間(つまり統治体)の追随者」にもなりません。

私はものみの塔による「背教者」の定義を受け入れません。私は神への信仰を捨ててはいません。イエス・キリストもエホバも否定してはいません。私はものみの塔を捨てただけで、それは背教とは言いません。もし皆さんが私を「背教者」とみなすとしても、それは皆さんの意見に過ぎず、その見解を私の子供も含め他の人に押しつける権利はありません。

私は、皆さんが私を「背教者」と呼ぶことを許可しない旨を明言します。これは公の場でも、自分の子供に対しても当てはまり、それでも私をそう呼びたい人は訴訟の可能性を覚悟の上で行ってください。私はまた、これ以降、自分がその場にいない限り、私の未成年の子供たちと皆さんがいかなる性格のものであれ、個人的会合を持つことを認めません。

私の子供たちのうち、まだ集会に出席しているジャニスとケビンについては、彼らは両方とも責任能力のある成人であり、自分たちが追い求める道を自分で選ぶ能力を十分持っています。私は彼らが宗教に関して下す個人的選択や、彼らが自分の子供に教える内容の選択に干渉するつもりはありません。

私の未成年の子供たちのうちトーマスについては、本人がそう望む限り、集会に出席し続けさせることを私は決定しました。とは言え、母親としての私に従うこと、敬意を示すこと、愛すること、私の指図や教えその他に従うことを否定するように教えている何らかの証拠が見られたなら、私は考え直すでしょう。

私は、エホバの証人の大多数は善良で誠実で、自分たちのしていることが正しいと心から信じているのだと思います。とはいえ、私はものみの塔協会は神の組織ではないと確信しています。協会は完全な献身を要求しているので、この決定は私が清らかな良心に基づいて下すことのできる唯一のものです。

私はこの決定を軽々しく下したのではありません。多くの考慮と祈りの末に行ったものです。私の家族がどんな決定をしようとも、私の彼らに対する気持ちは変わりません。私はいつでも彼らを愛し、自分の命ある間、彼らのために生き続けます。

結論

皆さんは私に「これからどこへ行くのか」「これが真理でないなら、何がそうか」と尋ねました。ペテロはイエスにどこに、ではなく、「誰のもとに行くべきでしょうか」と言いました。「あなたこそ永遠の命の言葉をお持ちです」と。

ペテロは組織について話していたのではありません。彼はイエスについて語っていました。「わたしは道であり、真理であり、命です…わたしを通してでなければ、だれひとり父のもとに来ることはありません」と言われた方についてです。

聖書は、私たちが命を得るために必要なものについてはっきりと語っています。組織のことは書いてありません。協会は「忠実で思慮深い奴隷」のたとえを実際、相当に拡大解釈しています。

私はすべての答えを持っているのでしょうか。いいえ。でも、協会も答えを持っているわけではありません。私は、皆さんが私についてどんな否定的なイメージを投影しようとしても、神だけが私の心の中までご覧になれることに感謝しています。神だけが私の裁き主です。

聖書は述べています。「求め続けなさい、そうすれば与えられます。探し続けなさい、そうすれば見つけます。たたき続けなさい、そうすれば開かれます」。私もそのようであることを信じています。

ザビエラ・ジェーン・ウィルソン


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