エホバの証人は、カトリックやプロテスタントなどの伝統的なキリスト教会の教えとはかなり異なった、独特の教理を有している。それらの教理は必ずしもエホバの証人がまったく独自に、しかも新たに作りだしたものというわけではないが、世界的な規模を有する宗教団体としては、やはり特異なものであろう。最近はエホバの証人というと、輸血や武道の問題が主にクローズアップされがちであるが、キリスト教のより本質的な面から言えば、以下のような教理を上げることができる。
伝統的なキリスト教の教理を否定するこうした教えこそ聖書の伝える真理そのものであり、三位一体、不滅の魂、地獄の教えなどは背教したキリスト教の教理であると信じるエホバの証人にとって、既存の聖書が満足のゆくものでなくなるのは自然の流れであろう。というのは、それまでの聖書はどれもみな伝統的なキリスト教の教理を反映するものであったからである。
検討してみれば分かることであるが、聖書翻訳には例外なくその訳者の宗教信条が入り込む。なぜなら教義上の判断ないし解釈を下さないと、どうにも訳しようのないところが、必ず出てくるからである。
そういう例の代表的なものとしては、ヘブライ語「シェオール」ギリシャ語「ハーデス」や「ゲヘナ」を上げることができる。これらには「墓、穴、黄泉、冥府、地獄」などの訳語が当てられているが、もし特定の教義上の解釈を入れないとすれば単なる音訳を選ぶことになろう。どういうふうに訳すかはその訳者や翻訳委員会の信条によって変わってくる。これらの語が抱えているこうした問題点について、新改訳聖書の「あとがき」には次のような記述が載せられている。
新約聖書で(ハデス)(ゲヘナ)と訳出されているのは、それぞれ、「死者が終末の裁きを待つ間の中間状態で置かれる所」「神の究極の裁きにより、罪人が入れられる苦しみの場所」をさすが、適切な訳語がないために音訳にとどめたのである。しかし、旧約聖書では、新約の(ハデス)に対応する(シェオル)を(よみ)と訳した。これらの訳語の統一については、さらに検討が必要であろう。
日本聖書協会口語訳(以下口語訳と略す)では「ゲヘナ」は「地獄」「ハデス」は「黄泉」、共同訳では「ゲヘナ」が「地獄」「ハデス」が「死者の国」になっている。新世界訳の場合は両者とも音訳である。
さらに、もう一つだけ教義上の解釈が関係してくる例を上げると、三位一体の問題がある。三位一体を信じる人は、父なる神(エホバ)と子なる神(イエス・キリスト)の区別があいまいになるような、そして聖霊をできるだけ人格を持つ者として印象付けるような表現を選ぶ。「エホバ」とか「ヤーウェ」という神の名を用いるよりも単に「主」や「神」という表現を好むのである。そうすれば、キリストも「主」や「神」と呼ばれているので、どっちがどっちか分からなくなってしまう。三位一体を論証しようとするにはそのような聖書の方がはるかに都合がよい。逆に三位一体を否定する人は、エホバとキリストの区別をできるだけ明確にしようと心がけるし、聖書は非人格的なものとして表わそうとする。神の名を用いることをためらう必要はまったくない。むしろ、できるだけ訳出しようとする。
このように聖書翻訳には必ず宗教信条が入り込む以上、エホバの証人が自らの真理を正しく伝える聖書が欲しいと願うようになるのは、ごく自然なことであろうと思う。
「霊感の本」は1940年代における新世界訳刊行当時のいきさつを次のように説明している。
エホバの証人は神のみ言葉の心理を把握するために用いてきた数多くの聖書翻訳すべてから受けた恩恵に感謝しています。しかし、これらの翻訳はすべて、最新のものでさえ、それぞれ欠陥があります。宗派的伝承やこの世の哲学の影響を受け、またそのためにエホバがそのみ言葉の中に書き記させた聖なる真理と完全には調和しない、一貫性の書けた所や、訳し方の不満足な箇所があります。特に1946年以来、ものみの塔聖書冊子協会の会長は、原語から訳された、聖書の忠実な翻訳ー聖書時代の理解力のある普通の人々にとってその原書が理解できたのと同じように、現代の読者にも理解できるような翻訳を望んできました。
1949年9月3日会長は協会のブルックリンの本部で、クリスチャン・ギリシャ語聖書の翻訳を完成した「新世界訳聖書翻訳委員会」が存在することを理事会に発表しました。同委員会の作成した文章が読まれましたが、同委員会はその文章により、全地で聖書知識の増進を図る当協会の非宗派的事業を認めて、その翻訳原稿の所有・管理および出版を当協会に委任しました。またその翻訳の性格や質を示す実例として原稿の一部が読まれました。理事たちは寄贈されたその翻訳を全員一致のもとに受け入れ、それを印刷するための取り決めが設けられました。1949年9月29日には活字組が開始され、1950年の初夏までに、その製本が幾万冊も完成しました。(p322、323.16、17節)
こうして新世界訳聖書は1950年8月2日水曜日、ニューヨークのヤンキー野球場で開かれた世界大会で新約(ギリシャ語)の部分がまず発表された。次いで1953年〜1960年にかけて旧約(ヘブライ語)聖書の分冊が何度かに分けて刊行され1961年には一巻にまとめられたもの(英文)が完成した。三年を経ずして、発行部数は366万2、400部に達したと報告されている。以来、新世界訳は様々な言語に翻訳され世界中のエホバの証人に愛用されてきた。
新世界訳翻訳委員会が新しい聖書を刊行するにあたり、その基本方針として採用したのは「字義訳」というスタイルであった。ものみの塔協会は新世界訳発表以来、機会あるごとに字義訳を宣伝し、その利点を強調してきた。この字義訳というのは、いわば、新世界訳の翻訳理念ともいえるものであるが、その点について1982年版新世界訳聖書の前書きには次のように記されている。
「英語の『新世界訳』は原語の本文を努めて字義通りに訳出していますから、この日本語訳もその字義訳の意図をそのまま反映することに努めています」
「字義訳」と訳しているもとの英語は、「literal translation」という語である。研究社の新英和大辞典は、これに「逐語訳、直訳」という訳語を当てている。他の辞書もほとんど同様で、もっとも多いのは「逐語訳」である。したがって、ものみの塔協会は「字義訳」と訳しているが、だいたい逐語訳と同じようなものと考えてよいであろう。ただし逐語訳には「word for word translation」という表現もあるのでそういう種類の逐語訳ではないということであろう。
言うまでもなく完全な逐語訳、そういう意味での字義訳ではとてもまともな文章にはならないから、字義訳といってもそれなりの幅を考慮に入れねばならない。新世界訳参照資料付き聖書(1985年版)の序文はその点について、次のように記している。
「聖句の意訳のための言い換えはなされていません。むしろ、今日の表現法が許すかぎり、また字義通りの訳出によるぎこちなさによって考えが覆われてしまわない範囲で、できるだけ字義通りの訳出を行なうよう努力が払われています」
さらに、ものみの塔誌1979年11月15日号には
「1950年の『クリスチャン・ギリシャ語聖書』の初版(英文)の前書きには、次のように書かれています。『聖書を意訳することはしていません。現代英語の特質の許すかぎり、字義訳のぎこちなさのゆえに意味が不明瞭にならない限り、できるだけ字義通りの訳をするよう一貫する努力が払われました。そうすることにより、一語一語、できるだけ原文に近づけた、原文そのままの陳述を良心的に求める人々の要望に一番よく答えられると思います』。このような誠実さを考えると、聖書研究者は全き確信を抱いてこの翻訳に接し、霊感による原典の考えを推し計ることができます」(P.15)
と述べられている。
これらの記述から判断すると、字義訳新世界訳とは、一語一語、逐語訳した聖書というほどではなくとも、全体としては直訳ふうに訳出した逐語訳聖書ということがいえるであろう。
新世界訳委員会が「字義訳」を選んだのはいったい何故であろうか。「霊感の本」325ページはその点について次のように述べている。
「また、翻訳の忠実さは、それが字義訳であるという点にも明示されてます。・・・・原作の趣や色彩やリズムは、字義訳によって正確に伝達できるでしょう。・・・多くの聖書翻訳者は、表現や形式の優雅さと言われるもののために字義訳の考えを断念してしまいました。それらの翻訳者は、字義訳はぎこちなく、不自然で、窮屈であると主張します。しかし、字義訳を断念したために、元の正確な真実の陳述から逸脱した表現が数多く生じました。そして、実際のところ、神の考えをさえあいまいなものにしてしまいました。・・・・・こうして、幾千もの訳文が表現の美しさに関する人間の考えという祭壇に犠牲としてささげられ、その結果、多数の聖書翻訳の中に不正確な箇所が見られるようになりました。今や、神が、明快で正確な訳文の『新世界訳』聖書を備えてくださったのは、実に感謝すべきことです」
字義訳が選ばれた理由として、まず、忠実さと正確さが上げられている。どんなに美しくかつ流麗な文章であっても不正確であれば、神に対して不忠実になるということであろう。字義訳は正確、意訳は不正確というとらえ方がこの背後にはある。おそらく、それまでに出版された意訳による聖書の弊害が著しいと考えられたせいではないかと思われる。 前にも述べたが、聖書翻訳には必ず訳者の宗教信条が入り込む。特に意訳(free translation or loose translation)の場合はそれが色濃く反映されたものとなるのが普通である。日本語の意訳(原文の一字一句にこだわらず、全体の意味を取って訳すこと・・・旺文社国語辞典)の意味は非常に良いと思うのであるが、free(自由な)、loose(勝手気ままな)ではイメージが悪かったのであろうか。ものみの塔協会には、意訳が聖書の真理をはなはだしくゆがめるものに映ったようである。もっとも、新世界訳を「独自の教理を正当化するために作った独自の聖書」と批難しているキリスト教世界からすれば、まったく逆の見方が成り立つであろうが。いずれにしても、個人の主観が入り込むのを避け、神の言葉を正確に伝えようというのが、字義訳の選ばれた第一の理由のようである。
そのほかにも、ものみの塔協会が字義訳を推奨している記事には、さらに次のような点が上げられている。
「批判的な人々からさえ優れた聖書研究者とみなされているエホバの証人は、『新世界訳聖書』が明快さと正確さの条件を見事に満たしていると考えています」(ものみの塔1985年6月15日号P.5)
「聖書全巻を収めた『新世界訳聖書』は、鮮明な読みやすい字体で印刷された聖書です。分かりやすい現代語が用いられているため、聖書が生気あるものになりました。それでも原語の聖書本文に忠実に従っています。」(ものみの塔1983年3月1日号P.32)
「11年をかけて行われた「新世界訳」(英文)の出版作業全体の数多くの特色の中でも特筆すべき点は、それが聖書の原語ヘブライ語、アラム語およびギリシャ語から新たに翻訳されたものであるということです。それは決して他のいかなる英訳の改訂版でもありませんし、文体や語彙あるいはリズムなどの点で他のどれかの訳を模倣したものでもありません。・・・新世界訳の翻訳委員会は聖書の翻訳に新たな仕方で取り組み、その結果、明確で生き生きした訳文が生まれ、神のみ言葉を一層深く、一層満足のゆく仕方で理解する道が開かれました」(霊感の本P.324)
「協会の『新世界訳聖書』は、大変正確で、しかも読みやすい日本語の聖書翻訳として、日本の兄弟たちや一般の人々から評価されています」(1987エホバの証人の年鑑P.8)
こうした字義訳に関するものみの塔協会の宣伝、それが選ばれた理由をまとめると次のようになる。
字義訳が本当にこの通りであれば、字義訳ほど素晴らしいものはないということになるのであるが・・・・はたして実際はどうであろうか。
この点を考慮するには、まず、翻訳の本来の目的や主旨について確認する必要がある。というのはそれが翻訳の良否を判断する規準となるからである。
最初に、ものみの塔協会の記述の方から見てみることにしよう。1982年6月15日号のものみの塔誌「神の言葉を忠節に擁護する」という記事は、翻訳の目標、理念について次のように述べている。
「聖書の翻訳、そしてすべての翻訳についても言えることですが、その目指すところは翻訳された言葉を読む人々が精神的にも、感情的にも、そうです霊的にも、聖書の原文を読む場合と同じような影響を受けられるようにすることです」(p.22)
ここに述べられている翻訳の目標それ自体については全く異論がないであろう。ほとんどの訳者も同様のことを述べている。例えば、「誤訳、迷訳、欠陥翻訳」の著者は、
「そこで欠陥翻訳について述べるには、理想の翻訳をまず表明しなければならないわけだが、私は、原作者の言わんとするところを正確につかんで、それを自分なりのりっぱな日本語(あるいはその他の国語)で表現したものが理想の翻訳であると、とりあえず申し上げておく」(「誤訳、迷訳、欠陥翻訳」P.10別宮貞徳著)
と述べているし、「翻訳上達法」の著者は、
「・・・・少々の誤訳であればその部分だけ活字を入れ換えるなどして訂正も可能である。しかし、原作の持つ雰囲気、リズムを移しそこなった訳はもう訂正のしようがないからである。
原文の持つ雰囲気をいかに効果的に移植するかということは、これから論議する文学作品の翻訳において、すべての技術に先行するもっとも基本的な問題点である」(「翻訳上達法」P13、14河野一郎著)
と述べている。
こうした引用からも明らかなように、翻訳の理想、趣旨、目標については、訳者間に意見の相違はほとんど見られない。見解が分かれてくるのは、その理想を達成する方法、どんな翻訳のスタイルが良いかについてである。
字義訳を推奨している新世界訳翻訳委員会によれば「字義訳」こそ、その理想に適うもの、最善のスタイルであるということになるだろうが、しかし、圧倒的に多くの翻訳者は字義訳では無理だと述べている。むしろ字義直訳は悪訳の代名詞になっているくらいである。 以下にそうした例の幾つかを記す。
「直訳が忠実、など言語道断。日本語としておかしければ、それも欠陥ということになる。これも以前書いたことだが、だいたい悪訳には二つのジャンルがある。一つは原語解釈上の悪訳、一つは日本語表現上の悪訳。このうち前者は一過性の悪だが後者は慢性で根が深い、と私は考えている」(「誤訳、迷訳、欠陥翻訳」P.10、11別宮貞徳著)
「逐語訳が諸悪の根源」
「悪い逐語訳の癖のついた人が一語一語を追って読み、日本語に直すために左から右へ流れている英語を、返り点式に右から左へ逆流させるのは、読む作業を、知らずしていたずらに妨げているわけである。文章の意味に近づこうとする努力が遂に文章の意味から遠ざかる結果になっているのである」(「直訳という名の誤訳」P32、42東田千秋著)
「どうして翻訳の多くが悪文になるのか。それを考えているうちに、文順墨守がいけないのだと思うようになった。つまり、原文のセンテンスの並んでいる順序をバカ正直に守って、それを“原文忠実”なりとする考えに責任がある」(「日本の文章」P49、50外山滋比古著)
ものみの塔協会の記述を見ると「字義訳は正確で意訳は不正確」と決めてかかっているような印象を受けるが、翻訳の良し悪しは字義訳だから、意訳だからどうのということではなくて、あくまでも翻訳の理想や目標を基準にして判定されるべきである。
そもそも「字義訳は正しくて、意訳は間違っている」といったような一義的かつ狭量な見方は成立するはずがない。字義訳を宣伝しなければならないものみの塔協会の立場からすれば、そういわざるを得ないとは思うが、翻訳の評価は、翻訳本来の主旨や目標を達成しているかいないかによってなされるべきである。正確か不正確か、忠実か不忠実か、明快かそうでないかは、そうした基準から判断すべきであって、決して字義そのものの観点からだけで判定を下すべきではない。
翻訳本来の基準で考えると、
「正確、忠実」・・・言わんとしている意味の正確さであり、字句の正確さではない。忠実も同様である
「明快」・・・字句の分かりやすさではなく、意味の分かりやすさである
ということになる。
こうした基準から判断すると、字義訳は決してベストの翻訳スタイルではないということが分かる。現実は、ものみの塔協会の宣伝とはかなり異なっている。字義訳には、意訳の弊害を避けるという利点よりも、問題点の方がはるかに多いのである。
字義逐語訳、字義直訳の問題点を上げると以下のようになる。
これらの問題点は、字義訳の利点として上げられていることとは正反対になるが、新世界訳聖書にも全て当てはまるものである。ものみの塔協会の宣伝とは大いに異なり、新世界訳聖書は逐語訳の欠陥の宝庫となっている。
次章ではその具体的な事例を上げることにしよう。