Ⅳ.ものみの塔協会は神の組織ではない 3-4

「証拠3」 教義の誤り

(4)「統治体」は非聖書的な組織である

「ものみの塔協会の主張」
「エホバの証人に指摘できる点」

解説

《統治体は非聖書的な名称》

「統治体、Governing Body」…この語の意味は辞書を調べてみればはっきりする。英語の語源は別としても、ものみの塔協会の宣伝するような「導く、水先案内をする」といった意味はない。現代の意味は「支配する、治める、統治する」である。まさに組織支配に腐心する「統治体」の実態にふさわしい名称なのである。

「統治体」とは「クリスチャンを導く一団の人々」などではない。その真実の姿は、キリストの権威に違反した「クリスチャンを支配する一団の人々」なのである。

さらに、この「統治体」という称号はキリスト教の精神に真っ向から反している。キリストの精神、その教えは「統治体」という称号とは全く逆である。

「また、『指導者』と呼ばれてもなりません。あなた方の指導者はキリスト一人だからです。」(マタイ23:10新世界訳)

この聖句は次のように言い換えることができる。

「あなた方は『統治体』と呼ばれてはなりません。あなた方の統治者はキリスト一人だからです。」

《1世紀に統治体は存在しなかった》

一世紀当時エルサレムには、諸会衆を管轄する「統治体」という指導機関があったとものみの塔協会は主張しているが、実際はそうではなかった。以下にその理由を列挙する。

(1) 指導機関としての『統治体』は聖書の中に一度も出てこない。
もし「統治体」という組織が確立されたものであったなら「統治体」の決定、「統治体」の承認、「統治体」の派遣といった表現が出てくるはずであるが、そのような記述は聖書中には一カ所もない。
(2) コリントで分裂騒動があったとき「統治体」に従うと述べた者は一人もいなかった。
Ⅰコリント1章11,12節(新共同訳)には次のように記されている。
11 わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。
12 あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。

ものみの塔協会の主張するように本当に神の組織「統治体」が全世界のクリスチャンを指導していたのであれば、誰か一人くらいは「私は組織に従います。わたしは統治体に従います」と言ってもよさそうなものであるが、パウロの記述から明らかなようにそのような人は一人もいなかった。

パウロとケファ(ペテロ)があげられているではないかというかもしれないが(ものみの塔協会はパウロとペテロが「統治体」の一員であったと教えている)、それは「統治体」存在の証拠にはならない。この記述は、彼らが「統治体」という組織としてではなく、パウロ、ペテロという個人としてみられていたことの証拠になる。

(3) エルサレムで指導的な立場にいたのは、ヤコブ、ペテロ、ヨハネであって「統治体」という組織体ではなかった。
ガラテヤ2:9 「ヤコブとケファとヨハネ、柱と目されるおもだった人々」
使徒21:18 「翌日、パウロは…ヤコブを訪ねたが、そこには長老たちが皆集まっていた。」
(4) エルサレムはニューヨーク・ブルックリンに相当するような場所ではなかった。使徒たちは一カ所に常駐しているのではなく、分散していた。
しかも彼らは、ブルックリンの「統治体」とは異なり、常時連絡を取り合いながら組織運営を行っていたのではない。
(5) AD70年のエルサレム滅亡後、「統治体」にあたるような組織体が編成されたというような記録は全くない。
(3) 〜 (5) に関する資料
<初期の組織形態>

「彼らは初め必ずしもユダヤ教に反対せず、むしろその戒めと道徳的規範とに従ったが、イエスの信仰を中心として共同生活を行い、一致して義と愛とを実践し、互いに助けささえて独自の団体をなした。これが原始教会(初代教会ということもある)と呼ばれる集団で、イェルサレムから始まり、しだいに広まり、独立した教会をなしたものもあったが、ことにシリアの首都アンティオキアではユダヤ人以外のいわゆる異邦人をも交えた団体が形作られ、ここにユダヤ的律法に制約されない、すなわち純粋に信仰のみによって結ばれた新しい教会形態が始まった。」(下線は発行者) (「世界大百科事典−キリスト教会の発展史」平凡社 p.56)

「この集団の指導者層には使徒団が、とくにパウロが『柱』と呼んだ(ガラテア2:9)ペテロ、ヨハネ、それに主の兄弟ヤコブ、この三人から成る三頭政治が目立っていた。使徒行伝もこの三人には、とりわけ重要な位置を与えている。

…十二弟子は何よりもまず、エルサレムの教会、およびはやくからパレスチナに設立されたその枝教会の、霊的な指導者であって、はじめは定住していた(ガラテア1:22 。使徒行伝9:31)。彼らの権威、また彼らを通しての母教会の権威は、改宗したユダヤ人のみならず、後にパウロ書簡が証しているように、異邦のキリスト教徒にまで及んだのであった。十二弟子と教団とのスポークスマン格はある時はペテロ、ある時はヤコブであった。ヨハネはこの二人のどちらにも従属した位置にあったようである。

…エルサレム教会は、使徒の段階でも、王朝の段階でも、堅固な構造を保っていた、ヘレニストの伝道に続く、ペテロ、ヨハネのユダヤ、サマリヤ地方巡回視察(使徒行伝8:9)、ペテロのアンテオケその他の地への伝道旅行、パウロが伝道していく先々で組織的に整然となされたユダヤ教化の反宣伝等々は、はじめ異邦人伝道にかなり消極的でありながら、形成期のキリスト教界全体を自分の権威化において、思うままに形づくろうとするエルサレム教会の意志を、はっきり示したものであった。

それにくらべてパウロ教団の組織は、はるかにゆるやかなものであったようである。十二弟子は霊的な職分のうち、枢要なものは自分たちの手に集中させていたらしいのに対し、パウロ教団では、専門的に分化させていったことが分かる。」(「原始キリスト教」マルセル・シモン著 p. 44,45. 103)

<使徒たちの足跡および消息>
ヨハネ
 神殿での奇跡(使徒3)サマリヤ人への聖霊降臨(8:14-25)エルサレム会議を報告(ガラ2章)。エペソを中心とする小アジアの教会は、使徒パウロによって築かれ成長した。しかしAD60-65年パウロ、テモテ、テトスが死に、AD70年にエルサレムが陥落して、キリスト教の中心は小アジアに移った。異端との激しい戦いがあり、ヨハネはエペソヘ行った。そこで福音書、書簡が書かれた。ヨハネは、トラヤヌス帝の治世までエペソに住んでいたといわれている。彼はAD1OO年頃死んだと思われる。(「いのちのことば社 聖書辞典」 p.730」
ペテロ
 ペンテコステ(使徒2:14-36)に始まって原始キリスト教会の活動の中心がエルサレムからアンテオキアに移るまでヤコブ、ヨハネと共に教会指導者として最も重要な役割を果たした。
 真理を無割礼の異邦人に開き(10:1〜48)エルサレム会議に、ヤコブ、ヨハネと共に、エルサレム教会の指導者として、異邦人に対する使徒パウロとの全き一致を持って(ガラ2:6,9)福音の真理の確認のために大いに寄与した(使徒15:1-29)。エルサレム会議の後、彼の名は消えている。(12:17)使徒ペテロの書簡によって知られる足跡はアンテオケ(2:11)、コリント(Ⅰコリ1:12)、またバビロン(Ⅰペテ5:13)であろう。(「いのちのことば社 聖書辞典」 p.600)
 推測の域を出ないが、ペテロが会議に参加した背後にも、アンテオケ側の働きかけがあったのかもしれない。というのは、アグリッパ一世のときの事件以来、彼はもはやエルサレムに常駐してはいなかったと思われるからである。使徒行伝11章17節は、彼はこの事件をきっかけに「他の場所へ出ていった」と伝える。エルサレム会議の席上では、ペテロにユダヤ人伝道者が委託されていることが、周知の前提とされている。(ガラテア2:7,8参照)会議の後も彼はエルサレムにとどまっておらず、まもなくアンテオケ会衆を訪ねている(ガラテア2:11。その他、Ⅰコリント9:5)これらの点を総合するならば、彼が会議のときにエルサレムにいたのは、むしろ例外的であったという感じがする。彼はエルサレム教会関係の有力者のなかではアンテオケ側の慫慂(しょうよう、誘いすすめること)でこのとき会議のために特別に上京したのではなかろうか(「使徒パウロ」佐竹明著 p.128-129)。
ヤコブ
 彼はエルサレム教会が組織された最初からその教会の最も重要な地位、恐らく牧師であったろう。(使徒12:17。15:13。21:18。ガラ1:9。2:9,12)ヤコブのことは、使徒21:18以降には何も述べられていない(「いのちのことば社 聖書辞典 p.691)。
《エルサレム会議》

ものみの塔協会が「統治体」の聖書的根拠としてあげる最大のものは、使徒15章に記されているエルサレム会議である。割礼の是非をめぐる論争によって開かれたこの会議が、ものみの塔協会によれば「統治体」の会議であったということになる。

しかしこの会議については全く逆の見方が成り立つ。つまり「統治体」に相当するような組織がなかったからこそ開かれた会議であると。むしろこの方が自然な見方であろう。

まず、会議が開かれるに至った動機であるが、直接のきっかけとなったのは、エルサレムの教会と何らかの形で関係のある人々が、パウロたちの活動しているアンテオケ教会に来て、異邦人でキリスト教信仰に入る者に割礼を施すことを要求したため、混乱が生じたという事情であった。この人たちは、キリスト教はユダヤ教の枠内にあるとの理解に立っていたことになるが、これはその当時にあっては特に異とすべき考え方ではなかった。

しかし、アンテオケ教会 ― その指導者たちはやはりユダヤ人であったが ― の見解は、これとは異なる。それは、異邦人は異邦人であるままキリスト教信仰に入ることができるとし、またそれに従って実際に事を運んできていた。…アンテオケ教会、特にその指導者たちにとっては、ユダヤ主義者たちの言いなりになることは、先に述べたような彼らの信仰理解、またそれに基づく今までの実績から考えて、もちろん論外であった。しかし他方、このユダヤ主義者たちの影響を自分たちで排除することも、彼らにはできなかったようである。アンテオケ教会は、それとは別の道を選んでいる。すなわち、教会はその最高指導者であるバルナバとパウロとをエルサレムに派遣し、ユダヤ主義者たちが自分たちの背後にあるとしているエルサレム教会の指導者たちに会って、じぶんたちの福音理解と宣教活動の実際とを伝え、彼らの理解を求めさせたのであった。」(「使徒パウロ−エルサレム会議」佐竹明著 p.122,123)

この本の指摘通り、エルサレム会衆とアンテオケ会衆は、ある程度異なった路線、独自の路線を歩んでいたと考えられるのである。

エルサレム教会では割礼を初めとするモーセの律法を守ることが普通に行われていたが、アンテオケ教会ではそうではなかった。この相違は割礼の論争が起きてから生じたものではない。むしろ、相違があったからこそ論争が生じたと見るべきである。

そうであれば、この会議は「統治体」存在の証拠ではなく、逆に「統治体」などはなかったという強力な証拠になる。というのは、もしエルサレムを中心とする組織上の絶対権を持つ「統治体」が存在していたのであれば、そもそもこういう論争など生じなかったはずだからである。エルサレムからの指示に異議、異論を唱える者はすべて、ものみの塔協会で行われているように、背教者として処分されていたはずである。