以下にこうした新世界訳聖書の欠陥を示す具体的な例を記す(詳しくは「欠陥翻訳−新世界訳」参照)。
「あなた方の中に、扉を閉じる者がだれかいるだろうか。そしてあなた方はわたしの祭壇に火を付けない−何の理由もなしに。わたしはあなた方のことを喜ばない」と、万軍のエホバは言われた。「あなた方の……供え物をわたしは喜びとはしない。」
文脈からも明らかなように、エホバはもっとたくさんの犠牲が欲しいといっているのではなく、むしろその反対で、まったく無価値な犠牲を捧げるのを止めるようにと促しているのである。そのような犠牲を捧げるよりは、神殿の扉を閉じた方が良いとみなすほど、神は偽善的な崇拝を嫌っておられたのである。
当然のことながら、犠牲を捧げるためにはその前に神殿の扉を開け、祭壇に火を付けねばならない。新世界訳のように訳すと、「どうして神殿の扉を閉じるのか。あなたがたは何の理由もなく犠牲を捧げようとしない」の意味になり、犠牲を捧げないことを叱責していることになってしまう。つまり、「もっと犠牲を捧げろ、もっと捧げ物を持ってこい」と要求する貪欲なエホバになってしまうのである。
「あなたがたがわたしの祭壇に、いたずらに火を点ずることがないように、戸を閉じる人は、だれかいないのか。……わたしは、あなたがたの手からのささげ物を受け入れない。」(新改訳)
ヨブを慰めに来た偽善的な三人の自称友は、ヨブが性的不道徳のような隠れた罪を犯しており、苦しみにあっているのは神がそれを裁かれたためではないかとほのめかした。この節はそれに対してヨブが自らを弁明しているところである。
「契約をわたしは自分の目と結んだ。それゆえ、どうしてわたしは自分が処女に対して注意深いことを示すことができようか。」
新世界訳のように「どうして注意深いことを示すことができようか」と訳すと、「そんなことはできない」と続くことになる。そうすると結局、ヨブは「処女に対して注意深くはない、言い換えれば用心、警戒していたのではない」ということになってしまう。それでは自ら不道徳を認めたも同然で、「目と契約を結んだ」と述べている前の記述と矛盾する。
「私は自分の目と契約を結んだ。どうしておとめに目を留めよう」(新改訳)
- 異国の者たちの手からわたしを自由にし、救い出してください。彼らの□は不真実を語りました。その右手は虚偽の右手です。
- 彼らは[言います]、『我々の息子たちは、その若いときに成長した小さな植物のようだ……
- 我々の牛はよくはらみ、裂傷もなければ流産もなく、我々の公共広場には叫びもない。
- [この]ようになる民は幸いだ!エホバをその神とする民は幸いだ!
この翻訳によれば、「不真実を語る異国の者=12節の彼ら、我々=15節の幸いな民・エホバをその神とする民」となる。剣でダビデを脅かし、偽りを弄して彼を欺こうとした異国の民が、何と、エホバの祝福を受ける幸いな民になってしまうのである。
- 私を、外国人の手から解き放し、救い出してください。彼らの□はうそを言い、その右の手は偽りの右の手です。
- 私たちの息子らが、若いときに、よく育った若木の……
- 私たちの倉は満ち、あらゆる産物を備えますように……
- 幸いなことよ。このようになる民は。幸いなことよ。主をおのれの神とするその民は。(新改訳)
こうすると、11節の「彼ら」と12節の「われら」は同じではなく、別の人になるので矛盾は生じない。
「そして、イスラエルがその地に幕屋を設けていたときであったが、ルベンは一度、父のそばめビルハのもとに行ってそれと寝た。そして、イスラエルはそのことについて聞いた。こうしてヤコブの十二人の息子が生まれた」
「こうして」という語は、前の部分を受けてその結果を表す接続詞である。この訳では、ヤコブの十二人の息子が生れたことの要因にルベンの淫行が関係していたことになってしまう。この記述をみたらヤコブの息子たちもさぞかし驚くことであろう。
「イスラエルがその地に住んでいたころ、ルベンは父のそばめビルハのところへ行って、これと寝た。……さて、ヤコブの子は十二人であった。」
新世界訳聖書の一つの大きな特徴は、ヘブライ語やギリシャ語のある特定の言葉に対して、同一の訳語が当てられているということである。これが不正確さの一つの要因になっている。
典型的な例の一つとして「気遣い」をあげることにする。広辞苑には、「気遣い」とは「あれこれと心を使うこと、心づかい、気がかり、心配」とあるが、今は主に他の人のために心を配るときに用いるのが普通である。「心配だ」というとき「気遣いだ」とは言わないし、「気がかりです」というのも「気遣いです」とは言わない。
こういう意味で見てみると、特にヨブ記に妙な表現が多いのに気付く。次に挙げたのはそうした聖句の中の代表的なものである。
(ヨブ7:13) 「わたしの寝床はわたしを慰め、わたしの床はわたしの気遣いを支えるのを助けてくれる」
(ヨブ10:1) 「わたしの魂は自分の命に対して確かに嫌悪を感ずる。わたしは自分についての気遣いを漏らそう。わたしは自分の魂の苦しみのうちにあって語ろう!」
(ヨブ15:4) 「ところが、あなたは、神の前に恐れを無力にさせ、神の前に気遣いを抱くのを少なくする」
(ヨブ23:2) 「今日もまた、わたしの気遣いの様子は反逆であり、わたしのこの手は嘆きのゆえに重い」
まず、7章13節の「わたしの気遣いを支える」という訳文であるが、分かりにくいのは「わたしの気遣い」という表現である。これだと自分を気遣っている(心配している)のか、それとも誰かを気遣っている(心遣い)のかよく分からない。加えて、「支える」の主語はわたし、つまり、ヨブなので、文意はヨブが自分で自分の気遣いを支えているという、何とも妙な文章になる。
ヨブの状況を考えると、ここはロバート・ゴルディスによる私訳のように「嘆き」か「苦悩」を用いる方がよい。
「わたしの臥所(ふしど)がわたしを慰め、わたしの寝床がわたしの嘆きの重さを共にしてくれる」
ヨブ15章4節はテマン人エリパズがヨブを非難しているところである。このエリパズという人は、ヨブを慰めにやって来た三人の偽善者のうちの一人であった。
15章4節を読むと明らかなように(ただし、神の前に恐れを無力にさせるというのは何のことかよく分からないが)、エリパズの「気遣いを抱くことを少なくする」という言葉は、ヨブに対する非難であることが分かる。このことからすれば、当然のことながらヨブは「神のことをあまり気遣ってはいなかった」ということになる。
ところが、10章1節の「わたしは自分についての気遣いを漏らそう(2節『わたしは神に申し上げることにする』から、この気遣いは神に向けられたものであることがわかる)」、23章2節の「今日もまた、わたしの気遣いの様子は反逆であり」から明白なように、ヨブは自分から進んで気遣いを漏らしており、しかもそれは毎日のことであったと考えられる。
一方で「少なくする」と非難し、他方で「毎日のように多い」という。これは明らかな矛盾である。
「わたしの魂は生きることをいとう。嘆きに身をゆだね、悩み嘆いて語ろう」(ヨブ10:1)
あなたは神を畏れ敬うことを捨て嘆き訴えることをやめた」(ヨブ15:4)
「今日も、わたしは苦しみ嘆き、呻きのために、わたしの手は重い」(ヨブ23:2)
ものみの塔協会は
「『新世界訳』を読む人はその言葉遣いによって霊的に覚せいさせられ、霊感を受けた元の聖書の力強い表現にすぐなじんで読むことができるようになります。あいまいな表現を理解しようとして何度も節を読み返す必要はもはやありません」(「霊感」p.330)
と宣伝しているが、実際はこれとは正反対である。
アダムとエバが住んだパラダイス、エデンは美しく肥沃な地であり、そこから四つの川が流れ出ていた。新世界訳によるとその川は四つの頭になったという。
「さて、川がエデンから発していて園を潤し、そこから分れ出て、いわば四つの頭となった」
普通「川が頭になる」といえば、まず擬人表現以外には考えられない。しかしここは事実をそのまま記述しているところであって、擬人表現を用いるような箇所ではない。
意味としてはエデンの地が四つの川の水源になっていたということなので、「四つの源となっていた」と訳すのが妥当である。
これはソロモンの知恵や繁栄に驚嘆したシバの女王の言葉である。あまりの素晴らしさに気が動転してしまったのであろうか、「?」と思うようなことを口走っている。
「あなたは知恵と繁栄の点で、私のお聴きした、聞かされたことをしのいでおられます」
「お聴きした、聞かされたこと」……? 誰でも一度は読み返すに違いない。何とも奇異な感じのする表現である。
息子アブサロムの反逆に遭い、逃走するダビデが自分に従ってきたギト人イッタイの安否を気遣い、戻るように勧めている場面である。
「あなたは昨日来たばかりで、今日わたしはどこか行こうとしているところへ行くところなのに、あなたを行かせて我々と共にさまよわせるというのか。戻って行き、あなたの兄弟たちを共に連れて戻りなさい」
突然の反逆に驚き、惑ったダビデ王は思わず舌がもつれてしまったのであろうか。「to go when I am going wherever I am going?」を上記のように訳したのであるが、中学生でもこういう訳文は作らないだろう。
新改訳の「私はこれから、あてどもなく旅を続けるのだから」や、日本聖書協会口語訳の、「わたしは自分の行くところを知らずに行くのに」ぐらいが自然な表現であろう。
人々は金や銀を求めて地底深く潜って行く。宝を得るためにはあらゆる困難をものともせず一生懸命に働く。
しかし、貴金属よりはるかに価値のある真の知恵はいったいどこに見い出すことができるのであろうか。はたして人はそれを探り出すことができるだろうか。その本当のありかは神だけが知っている。
こうしたことを詩的に表現した箇所の一部が、次の一節である。
「人は[人々が]外国人としてとどまっている所から遠く離れて立て坑を掘り下げた。足から遠く忘れられた所で。死すべき人間のある者たちは、ぶら下がり、ぶらぶらしていた」
何とも理解し難い訳である。前半の方は何とかわかるとしても、後半は思わず吹き出ししてしまいそうな訳になっている。これでは処刑される人かあるいは死のうとしている人がどこかに引っ掛かって、ブラブラしているような印象を与えてしまう。
ゲセニウスなどのヘブライ語辞典はこの聖句について、「ロープで体を縛った炭坑労働者が穴を昇り降りするときに、揺られる状態」と述べている。上記の訳のように笑いがこみ上げてくるようなものではなく、もっと危険な状況を表していたのである。
またあなたは、肉の大きなあなたの隣人、エジプトの子らと売春を行い、あなたの売春をあふれさせてわたしを怒らせた」
「ノフとタフパネスの子らもあなたの頭の頂きを食らいつづけた」
「心配のない者は、考えにおいて、消滅に対して侮べつを抱く」
「あなたは平和の地で自信があるのか。では、ヨルダン沿いの誇り高い[やぶ]の中ではどうするのか」
「わたしの目は注ぎ出されて、とどまることがない」
「それらはわたしの食物の中の変質のようだ」
「そして、離れ落ちてゆく者たちはほふりの業に深く下り、わたしは彼らすべてに対して訓戒であった」
「わたしは必ずその敵の地で彼らの心の中におじ気を入れる」
などなど、数え切れないくらいの迷訳、珍訳がある。
新世界訳はおびただしい数の接続詞や代名詞をそのまま訳出しているが、これがわかりにくさのもう一つの原因になっている。
実にくどい代名詞の例を一つだけあげる。
「それは、わたしがあなた方を追い散らし、あなた方が、あなた方もあなた方に預言している預言者たちもが、必ず滅びうせるためである。」(エレミヤ27:15 下線は発行者)
現在のものみの塔協会の体質の中で最も顕著なものは、何といっても、組織賛歌、組織主義、組織支配、組織崇拝、組織バアルである。すでに「組織」が偶像化され、崇拝を受けているのである。
その体質が反映されている問題の聖句は、出エジプト記14:31、19:9、フィレモン5節である。
「民はエホバに対して恐れを抱き、エホバとその僕モーセに信仰を置くようになった」(出エジプト14:31)
「するとエホバはモーセにこう言われた。『見よ、わたしは暗い雲のうちにあってあなたに臨む。わたしがあなたと話す時に民が聞くため、そして彼らがあなたに対しても定めのない時まで信仰を置くためである』。」(出エジプト19:9)
「わたしは、祈りのなかであなたのことを述べるさい常にわたしの神に感謝しています。あなたが主イエスとすべての聖なる者たちに対して抱く愛と信仰についてつねに聞いているからです」(フィレモン4,5)
このように訳すと、非常に重要な教義上の問題が生じてくる。つまり、信仰の点で、神と人間が同レベルになってもよいのか、人間が人間に信仰を持つことは正しいのかという問題である。
新世界訳委員会は、人間に信仰を持っても良いと判断したようで、エホバとモーセが同列に扱われているし、エホバ自らモーセに信仰を置くようイスラエルの民に勧めている。フィレモンの手紙の方は、パウロを含む聖なる者全員にフィレモンが信仰を持っており、パウロ自身もそれを誉めているということになっている。
それでは他の聖書もみなこのように訳しているのかというと、決してそうではない。例えば新共同訳は、
「というのは、主イエスに対するあなたの信仰と、聖なる者たち一同に対するあなたの愛とについて聞いているからです」
というふうに「信仰」と「愛」を分けて訳している。新改訳、現代訳の翻訳もこれと同様である。
結局は解釈の問題といえるが、どちらの翻訳を選ぶかは、人間に対して信仰を持つことが聖書の教えにかなっているのか、それともそうではないのかという教義上の判断によることになる。
聖書全体の教えや精神を考慮すると、どうしても聖書が人間に信仰を持つよう勧めているとは考えにくい。証拠は圧倒的に新世界訳に不利である。
例えば、コリント人への第二の手紙5章7節は、
「わたしたちは信仰によって歩んでいるのであり、見えるところによって[歩んでいるの]ではありません」
と述べて、クリスチャンの真の信仰は、見える者に依存しているのではないということを教えている。このように諭したパウロが、フィレモンには自らその逆のことを書き送るとは、まず考えられない。
さらに、詩編146編3節は、
「高貴な者にも、地の人の子にも信頼を置いてはならない。彼らに救いはない」
と明確に記している。
要するに、文法的にも聖書的にも「モーセに信仰を置く、聖徒に信仰を置く」と訳さねばならぬ必然性はまったくないのである。そうである以上、新世界訳の訳文はものみの塔協会の純粋な解釈または方針ということになろう。
これは組織支配、組織崇拝には非常に都合のよい翻訳である。なぜなら日本語の「信仰」の感覚では
「神・仏などを固く信じ、その教えを守り、それに従うこと(心)。また、ある物事を絶対視して、信じること(心)」(学研国語大辞典)
ということになってしまうからである(英語の「faith」も辞書を見る限りではあまり大差はない)。
ここで注目すべきは「信仰」のレベルになると、「絶対視」する傾向が出てくるということである。ものみの塔協会の場合、「現代の聖なる者」の代表は「統治体」という教義になっているので、これは統治体絶対、「組織盲従」の体質を生み出す翻訳になる。
加えて、「崇拝」とは「あるものに信仰を置くこと」なので、新世界訳は「組織」という名の神を拝むよう勧めている聖書であるともいえる。ものみの塔協会の偶像は「統治体」を頂点とする「組織神」である。
新世界訳委員会、ものみの塔協会、統治体は確かに意識して「信仰」という訳語を選んでいる。というのは、ものみの塔誌には次のように書かれているからである。
「エホバへの信仰、エホバが代弁者として用いておられる人々に対する信仰、そうですエホバの組織に対する信仰です! わたしたちが今日エホバへの奉仕に『出て行く』とき、そのような信仰を働かせるのは本当に重要なことです。」(ものみの塔 1984 7/l p.15,15節 、下線は発行者)
組織の代表者に対する信仰、組織そのものに対する信仰を持つべきであると断言している。