運営係 しえん の横顔

入信の経緯

私が小学生のころ(1975年頃)、私の粗暴さに悩んでいた母が研究を始め、参加もさせられましたが、ほどなく父の反対で研究は打ち切りになりました。中学生になってトルストイ、ダンテなどを読み、聖書の世界に興味を持ち始めたところに、偶然昔学んでいた書籍が出てきて、自分から支部に電話をかけました。まもなく(これも偶然)訪れた証人に母が「息子が関心を持っていますから」と王国会館の住所を聞いてくれたので、次の日曜日、集会に出向き、その場で研究を取り決めました。この頃の私を動かしていたのは厳格で仕事人間の父親と心の交流がほとんどなかったので自分に精神的導きを与えてくれる存在を求めていたのと、暴力的な自分を変えたいという気持ちだったようです。

活動への関わり方

とにかく生き方を変えたいというところから入り、最初から信ずるつもりでやっていたので、求めて証人中心の生活にのめり込みました。最初は私の性格の変化を喜んでいた母も、夜の集会や格技拒否の頃から良い顔をしなくなりました。集会に行かせまいとする親を出し抜くため窓から出たり、夜の鉄橋を渡ったりしたものです。今思うとひそかな反抗心が「自分は正しいことのために苦しんでいる」という殉教者コンプレックスや、証人の選民思想や排他主義にマッチしていたのかもしれません。

反対する親に気兼ねなく活動するため、また風通しの悪い田舎(都会の会衆はもっと個性を発揮できる雰囲気があると思いこんでいた)を脱出するため、大阪の大学に進学しました。以前から模範にしていた年上の証人のスタイルを真似て、計画通り、中退、開拓奉仕。しかし1年あまりで精神的・身体的に調子を狂わせ挫折し、親元に帰郷しました。1979年から1988年にかけた、14歳から23歳の「青春」はこうして幕を閉じました。

組織を離れた理由

(1) 集会の質に対する不満

これはバプテスマを受けた頃からありました。最初はものみの塔の誤訳・直訳が嫌でしょうがなかったのですが、それ以上に内容の浅さと同じことの繰り返しにうんざりしてきました。宗教であるからにはもっと心の問題(日々の生活にどう聖書を生かしていくか、傷ついた心をどう癒すか)にもっと焦点を当てるべきなのに、数字や組織の規則ばかりで、深みも刺激も感じませんでした。

最初の頃に具体的で実感のこもった話をする講演者に当たったせいか、ほとんどの講演者の話は底が浅く感じられてなりませんでした。ものみの塔研究の注解も「自分の言葉」でする人はほとんどおらず、私一人「個性的な注解」と言われつつ、その空気に抵抗していました(もっとも「自分の言葉」で注解するよう励ますのは教えの定着をめざすためで、「自分の言葉」は良くとも「自分の考え」は否定されている、ということへの反省は希薄でした)。

教理の矛盾も目につきはじめ(特に予言の失敗)、最後の頃はこれでは他の人をひっぱりこんで人生を変える責任は持てない、と周囲に漏らしていました。生きている人間を助けるレベルの言葉への欲求に限界が来て他のクリスチャンの精神科医(工藤信夫氏)の書いた本を手に取りましたが、そちらの方がはるかに魂にしみこむような聖書の読み方をしていました。ヨシュア9章の解説で「ボソボソに乾いた霊的食物しか与えられていないギベオン人」という説明を聞いたときは自分たちのことだ、と思っていました。

(2) 証人の生き方への疑問

証人の間の愛というのは結局、組織の教理を信じている限り、という条件付きのもので、それを信じられなくなったら長年の友であっても手のひらを返したように冷たくなりました。中学生の時から「幼なじみ」という感覚で心の内をさらけだしてきた証人に「もう続けていけない」と打ち明けたとき、涙を流してはくれたものの、「手紙をくれ。もし来なかったらああいう人もいたな、ということにしておくから」と言われ、その現実を改めて実感しました(もっとも、彼もその後離れて再会を果たしました)。

奉仕や集会で家庭をめちゃくちゃにしている人も目立ち、人格的欠陥集団だと感じてきました。特に後に母が研究を始めたときの司会者はその典型(後に離婚)で、あんな人の仲間と思われるのが嫌でたまりませんでした。伝道で会う他の人の方がはるかに人間味や理性があるのを見るにつけ、「みんな誠実に信じているのなら、どういう根拠で自分だけが正しいと言えるのか、それは自分の判断力が他の人より正しいと言うことに等しいのではないか」という疑問に悩まされました。現在も、自分たちのみを真理とする宗教には疑問を抱いています。

(3) 家族との関係

家族はやがて正面切って反対しなくなりました。帰省すると、とにかく体のことを心配してくれ、栄養のつくものを食べさせてくれました。伝道や議論、バイト、貧しい食生活のため、血圧150、尿蛋白が出るほど疲れていた私にとって唯一憩いの場でした。祖父が亡くなったときの焼香は拒否しましたが、妹の神前結婚には中途半端に出てしまったのも家族の絆は断ち難く感じていたのだと思います。

(4) 入信前の自分の記憶

子供のときは郷里(新潟)の日本海で遊ぶのが大好きでした。タコやウツボ、サザエの棲む岩場は私の楽園でした。その時に味わった心ふるえるような感動と「大海原の感覚」がずっと心に残り、それに比べて証人としての生活がいかに底の浅いものかにだんだん気づいてきました。研究を始める前の自分がどれほどのびのびしていたか思い出すにつけ、きまりきった毎日が殺伐と感じられてなりませんでした。キャンプや人形劇をしたこともありますが、基本的にはそういう要素を否定する空気があり、子供たちが可哀想で、組織としてそういう目配りがないことを歯がゆく感じていました。

(5) 将来への不安

人間的魅力を感じる証人は少なかったです。生活の知恵、基本的礼儀を知らない人が多いのを見るにつけ、そうしたことを学ぶ場がないまま年をとることに恐怖を感じました。また、10年後の自分の姿を想像できないのも大きな不安でした。もっと自分を生かす道があるのではないか、という気持ちにも苛まれました。アルバイトで生計を立てて開拓をしていた頃、父親に「もっと税金を納める能力のある人間が半端な仕事をして社会を支えようとしないのはけしからん」と言われ、自分たちも社会の恩恵を受けている以上、確かに一理あると思いました。

また、証人の「偽りの謙遜さ」には虫酸が走りました。弱々しい声、不自然なジェスチャー、ぎこちない日本語、このままでは正常な感覚が死んでしまうと思いました。雑誌や講演からは、指導的立場にある人の思考力、文章力に疑問を感じていました。こんなことで世間に通用するのか、責任をもって人を導けるのか。学者の引用は大好きなくせに、学問敵視。そんなことへの反発もあって神権学校の割当は徹底的に凝りました。奇をてらった紹介の言葉や、質問や例えなどのレトリックの駆使、古い雑誌から論点を補強する事実を引っ張ってきて、とにかく「こてこて」の話を作ることにはけ口を見いだしていました。

(6) 論理性への疑問

議論には負けないとプライドだけは高かったのですが、実際は協会の出版物の論理のあらや中途半端な事実考察にいらだっていました。その不安から過去の出版物を30年分くらい入手して自分なりにインデックスを作ったり、図表にまとめたりしていました。人に対しては一生懸命弁明しながら、自分の中ではいつも自信がありませんでした。神学生と進化論者に完敗した時も、相手には鉄面皮で通しましたが、集会中は内心、展開される議論に次々と反駁していました(もっともこれは末期の話です)。

(7) 自己吟味

自分が今まで続けてきたのは本当に教理を信じていたからでなく、特定の個人に決定的に惹きつけられ、同じような生き方をしたかったのだということに気づきました。最初に出会った「霊的兄貴」(直接の司会者は哲学に目覚めて離れていきましたが)の存在があまりにも大きく、人間は相対化して神との個人的関係を確立せねば、と格闘する過程で、組織自体にも相対化の作業が波及し、おかげで「白けて」しまいました。

(8) 心を開いていったもの

普段は親子らしい会話もしない父親が進学する私をプラットホームで見送ってくれた姿、「小さな恋の物語」という、少女の恋→結婚→出産を描いた漫画を読んで、自分が生まれたときの親の立場に立てたこと、NHKの時代劇「風神の門」の「見せかけの友情よりも本当の別れを選んだ俺は」というテーマ曲等、小さな鍵が少しずつ私の心を開いていきました。大学を辞めることを夜の公衆電話から一方的に宣言したときは親の期待を裏切った重さに泣き、それも大きなしこりとして残りました。

(9) 最後のきっかけ

最大の転機は母と妹が研究を始めたことです。そもそも私が学ぶきっかけを作った母は責任を感じていたようですし、妹も興味というより心配からだったようです。時折くれる手紙にはこまやかな気遣いが見られ、殺伐とした私の生活よりよほど豊かに人生を送っていると感じました。何を信じているのか、どうして正しいと思ったのか等、尋ねてくれ、他の人に宣べ伝えながら家族と心を開いて話すことのなかったことに罪の意識を感じていた私には何年来の心が溶かされる体験でした。自分のような不幸に陥らせたくない、巻き込んでからでは手遅れになる、この辺が潮時か、と思いました。大阪を去り、親の住む福島へ帰りました。

離れた後の生活

親元に帰ってから、長老の訪問を何度か受けましたが、私の弱さを責める懲罰的な態度に飽き飽きし、もし自分の気持ちを理解してくれるならもう一度やり直そうか、とかすかに残っていた気持ちは完全に消えました。正式に断絶届は出していませんが、以後一度も集会には行っていません。

もちろん、自らつながりを断ち、嫌悪していた「世」への復帰は簡単ではありませんでした。最初の1年は何もする気がなく、自宅に閉じこもっていました。母は「自分の好きな道をみつけなさい」と見守ってくれましたが、自分でも何をしたらいいか分からず、途方に暮れていました。その後アメリカの大学が市内で英語集中講座を開き、そこで出会った講師の、哲学に対する造詣の深さとユーモアのセンスにたまらない魅力を感じ、自分もああいう人間的深みが欲しいと思いました。

簡単なアルバイトにも慣れ、そろそろやりがいのある仕事をしたいと思っていた私は、自分にできるのは語学くらいかと思い、英語塾に勤め、現在はそこからある中小企業に移り、秘書として出張時の通訳や文書の翻訳をしております。

友人がいなかったのでサークル活動めいたものにも顔を出しましたが、期待するような深みが感じられなかったのと、集団主義的な空気を感じ、去ったこともありました。相手を裁く、話題がない、自尊心が低いなどの理由からなかなかうまくいきませんでしたが、それでも徐々に輪ができていきました。

親には期待に添えなかったという申し訳なさと、今までの対人パターンが妨げになって、なかなか本心を表せずにいましたが、ある時家族の前で涙を流して自分のしたことを後悔していることを言えたとき、何年分もの重荷をやっと降ろした感じがしました。父親も自分の体罰が原因だったのなら申し訳なかったと言ってくれ、親子で泣いて抱きあい、ひとまず過去の清算はできました。

その後の活動

パソコン通信(NIFTY-Serve)を通じ、元研究生に出会い、その方から書籍を何冊か紹介されました。それを読んで自分がまだ後遺症を引きずっていたことに気づき、愕然としました(輸血に対する偏見、結婚への不安、清い組織だという幻想)。その後国内外の支援団体と連絡を取り、組織の歴史や、脱退後の回復、マインドコントロール、哲学、自由主義神学、カルト問題、宗教学、精神医学等を何十冊とむさぼるように読みました。その結果自分が組織と教理に対して漠然と感じていた疑問や後遺症の克服についてかなりの助けが得られました。学んだことを他の人と分かち合おうとNIFTYで証人に関する連載をしたこともあります。あまり生き方は上手でなかったなあと思いますが、これからもいろんな出逢いから学んでいきたいと思います。よろしくお願いします。


メーリングリストシステムおよび運営係に戻る

トップページに戻る