2章 原典に不忠実、不正確

原典の精神を反映すること、文章を正確に伝えることは決して一語一語の正確な翻訳によって達成されるわけではない。これは文全体の正確な意味が必ずしも、それぞれの単語の字義的な正確さによって構成されるとは限らないことによる。もちろん、文章全体の意味が一語に集約される場合は、一つの言葉が全体の意味を決定してしまうこともあるかもしれないが、そういうことはあったとしてもごく希であろう。一つ一つの単語から文全体の意味を捕えようとすると、大変な思いをするわりには、不正確で分かりにくい文章が増えることになる。おそらく英語を学んだ人なら誰でも、次の記述に思い当たることがあるに違いない。

「これに反して英語の読めない人の場合は、原文の文章全体を読み通す能力に欠けているために、ただ苦しまぎれに各語に英和辞典の訳語を引き当てながら、いわば単語の総計で全体の意味を作り上げようとするものである。数多い訳語の中から一つを選び出すには、その事前に文章全体の意味がわかっていなければならないのにかかわらず文章全体の意味を掴む能力がなければ、訳語を選択することはもちろん無理であり、全く意味をなさない訳文をでっちあげるという結果になる。これが直訳という名の誤訳である。」(「直訳という名の誤訳」P.17東田千秋著)

ここに述べられている通り、各語の意味を決定するのはあくまでも、その語の字義ではなく文章全体の意味である。まず先に単語があってそれから文章がというのではない。先に言いたいことがあり、それから単語が選ばれてくるというのが通常の順序である。しかし、字義訳では、たいてい最も確率の高い訳語が文全体に押し付けられることになってしまう。こうした字義訳のパターンは、語の意味にかなりの幅があるとき、特に問題となる。

数多くの意味を持つ語の場合、その中のどれを取るかは文脈やメッセージの内容から判断する以外にはなく、その単語の字義だけを見ていたのでは絶対に分からない。ところが、字義訳ではまず字義が優先されてしまうので、どうしても訳の分からない文章が増えてゆく結果になってしまう。正確に訳そうと努力して字義の正確さを求めることが、逆に文章全体の不正確さに、さらには、原典に対する不忠実さにつながってしまうとは、なんとも皮肉なことである。これは字義訳の弊害の中でも最大の問題点であろうと思う。

以下はその事例である。(これ以降明記のない場合はすべて新世界訳からの引用である。)

<<マラキ1:10>> 神性を誤り伝える・・・貪欲なエホバ

神の主な属性には、愛、公正、力、知恵などがあるが、新世界訳の次の訳文によれば、数多くの犠牲を要求するという貪欲な一面が新たに付け加えられることになろう。

「また、あなた方の中に、扉を閉じる者がだれかいるだろうか。そして、あなた方はわたしの祭壇に火を付けないー何の理由もなしに。わたしはあなた方のことを喜ばない」と、万軍のエホバは言われた。「あなた方の手からの供え物をわたしは喜びとはしない」
「"Who also is there among YOU that will shut the doors? And YOU men willnot light my altar-for nothing. No delight do I have in YOU. "Jehovah of armies has said, "and in the gift offering from YOUR hand I take no pleasure."」

この節の前の方でエホバは、汚れたパンや盲、足なえ、病気の動物を捧げていたイスラエルの民を糾弾している。

神が問題としたのは彼らの精神態度であって、決して犠牲が多いの少ないのということではなかった。犠牲の質が悪いと劣るという非難はイスラエルの民の心に向けられたものであって、決して動物に向けられたものではない。文脈からも明らかなように、エホバはもっとたくさんの犠牲が欲しいといっているのではなく、むしろ実際はその反対で、全く無価値な犠牲を捧げることをやめるようにと促しているのである。そのような犠牲を捧げるよりは、神殿の扉を閉じたほうが良いとみなすほど、神は偽善的な崇拝を嫌っておられたのである。

当然のことながら、犠牲を捧げるためにはその前に神殿の扉を開け、祭壇に火を付けねばならない。「あなた方の中に、扉を閉じる者がだれかいるだろうか。あなたがたはわたしの祭壇に火を付けないー何の理由もなしに」と訳すと、「どうして神殿の扉を閉じるのか。あなたがたは何の理由もなく犠牲を捧げようとしない」の意味になり、犠牲を捧げないことを叱責していることになってしまう。つまり、「もっと犠牲を捧げろ、もっと捧げ物をもってこい」と要求する貪欲なエホバになってしまうのである。これでは神の神性がまるで正反対である。

こういう訳が出てくる原因は、「for nothing」とその前の「will not」にある。「for nothing」には、「無益に、何の理由もなく」などの意味があるので、そのうちのどれを選ぶかによって文章は異なってくる。

「for nothing」を「何の理由もなく」、「will not」を単純否定と考えれば、新世界訳のような訳文になる。しかし「for nothing」を「無益」に、「will not」を強い拒否と考えれば、「無益なことはやめるように」という正しい訳文になる。

原語のヘブライ語にも「無益に、何の理由もなく」の両方の意味があるので所詮は解釈の問題になるが、そのすぐ後でエホバは「捧げ物を喜ばない、受け入れない」と言っているわけだから、どちらが正しいかは言うまでもないであろう。私たちの確認した範囲では、新世界訳のように訳している聖書は他にはなかった。

参考に新改訳とNIVの訳を上げておく。

「あなたがたがわたしの祭壇に、いたずらに火を点ずることがないように、戸を閉じる人は、だれかいないのか。・・・わたしは、あなたがたの手からのささげ物を受け入れない。」(新改訳)
「"Oh, that one of you would shut the temple doors, so that you would notlightuseless fires on my altar ! 」(NIV)

こういう英文であれば、誤訳は生じなかったと思うが、明確な表現を選ばなかった英語版も罪つくりである。

<<ヨブ31:1>> 品性を疑われるヨブ

ヨブを慰めに来た偽善的な三人の自称友は、ヨブが性的不道徳のような隠れた罪を犯しており、苦しみにあっているのは神がそれを裁かれたためではないかとほのめかした。その節はそれに対してヨブが自らを弁明しているところである。

「契約をわたしは自分の目と結んだ。それゆえ、どうしてわたしは自分が処女に対して注意深いことを示すことができようか」
「"A covenant I have concluded with my eyes. So how could I show myself attentive to a virgin ?」

新世界訳のように「どうして注意深いことを示すことができようか」と訳すと、「そんなことはできない」と続くことになる。そうすると結局、ヨブは「処女に対して注意深くはない、言い換えれば用心、警戒していたのではない」ということになってしまう。それでは自ら不道徳を認めたも同然で、「目と契約を結んだ」と述べている前の記述と矛盾することになる。

ここで問題となるのは「attentive」という語である。ウェブスターによれば「attentive」には「paying attention (as incourting)」の意味もあるので、「処女を誘う、あるいは処女に言い寄るために(ことに)注意を払う、注意を向けることはできない」の意に解釈することもできるが、日本語の「注意深い」だけではそのように考えるのは無理である。他の翻訳では次のようになっている。

「わたしは自分の目と契約を結んだ。どうしておとめに目を留めよう」(新改訳)
「わたしは、わたしの目と契約を結んだ、どうして、おとめを慕うことができようか」(口語訳)

NIV (New International Vertion) の英文は非常に分かりやすい。

「I made a covenant with my eyes not to look lustfully at a girl」 ( lustfully : 好色に、ものほしそうに)

これなら絶対に誤訳は生じない。新世界訳の訳文ではあまりにヨブがかわいそうであろう。

<<詩編144:11〜15>> 異国の者を祝福する寛大なダビデ

この詩篇144編はダビデの作である。前半の方は、主にエホバの救いを求める祈りの歌から成っており、後半の方は、エホバを神とする民の幸いがその主題になっている。

問題なのは前半の切れ目から終わりまでの部分であるが、全部を引用すると長くなるので、以下に主な部分だけをあげることにする。

「11 異国の者たちの手からわたしを自由にし、救い出してください。彼らの口は不真実を語りました。その右手は虚偽の右手です。12 彼らは[言います]、『我々の息子たちは、その若いときに成長した小さな植物のようだ・・・・14 我々の牛はよくはらみ、裂傷もなければ流産もなく、我々の公共広場には叫びもない。15 [この]ようになる民は幸いだ!』エホバをその神とする民は幸いだ!」
「11 Set me free and deliver me from the hand of foreigners, Whose mouth has sporken what is untrue, Aud whose right hand is a right hand of falsehood, 12 Who [say]: “Our sons are like little plants grown up in theiryouth, 14 Our cattle loaded down, without anyrupture and with no abortion, And with no outcry in our public squares. 15 Happy is the people for whom it is just like [that]! ”」 Happy is the people whose God is Jehovah ! 」

新世界訳の翻訳によれば「不真実を語る異国の者=12節の彼ら、我々=15節の幸いな民、エホバをその神とする民」となる。剣でダビデを脅かし、偽りを弄して彼を欺こうとした異国の民が、何と、エホバの祝福を受ける幸いな民になってしまうのである。もっとも、敵をも祝福する寛大なダビデ、キリスト教の博愛的な精神に満ち溢れたダビデと考えれば、成り立たないこともないかもしれないが、文脈には全く合わない。この誤訳の原因は12節冒頭のヘブライ語「アシェル」の解釈にある。それを関係代名詞と取るか、それとも接続詞に取るかによって意味は異なってくる。新世界訳は関係代名詞「who」と取ったので、はなはだしい誤訳を生じさせてしまった。意味が通るように訳すには二つの方法がある。一つは新改訳、口語訳のように11節と12節をまったく分けてしまうという方法である。

「11 わたしを残忍なつるぎから救い、異邦人の手から助け出してください。彼らの口は偽りを言い、その右の手は偽りの右の手です。12 われらむすこたちはその若い時、よく育った草木のようです。・・・・13 われらの倉は満ちて様々のものを備え、われらの羊は野でちよろずの子を生み、15 このような祝福をもつ民はさいわいです。主をおのが神とする民はさいわいです。」(口語訳)

こうすると、11節の「彼ら」と12節の「われら」は同じではなく、別の人になるので矛盾は生じない。

もう一つは「アシェル」を12節以降にかかる接続詞、例えば、「in order that(ゲセニウス)」や「because」と考える方法である。「in order that(結果)」ならば、「12〜14節のような結果になります。エホバを神とする民は」となり、「because」であれば、「エホバを神とする民はさいわいです。なぜならば12〜14節のようになるからです」となる。

いずれにしても、11節の「異国の者」と12節の「彼ら」を同じ人々にすると、全体の主旨が全くおかしくなってしまうことくらいは、前後の意味を考えれば、すぐにも気が付くことではないかと思うのだが。

<<創世記4:12>> ケチな土地

創世記4章10〜12には、アベルを殺したカインに対するエホバの裁きの言葉が記されている。土地が擬人化された次の一文は、12節の前半に出てくる。

「あなたが地面を耕しても、それは自分の力をあなたに返し与えはしないであろう。」「When you cultivate the ground, it will not give you back its power」

この宣言を聞いて、カインはすぐにその意味がわかったのだろうか。おそらく普通ならば、思わず首をひねってしまうところであろう。このような一回聞いただけではよくわからない難解な表現を用いると、神の呪いの宣言も効力が半減してしまう。

自分の力とは地面の力、つまり、地力のことである。簡単に言えば「土地がやせているので何の作物もできない」ということである。したがって、全体としては「あなたが地面を耕しても、もはや何の作物もできないであろう」というような訳文になる。アベル殺害の罰として、農耕者であったカインに対するふさわしい宣告であろう。いくらヘブライ語「コハー」の字義的な意味が「力」であっても、「自分の力を返し与えない」ではいかにも受験英語ふう直訳である。

口語訳は、

「あなたが土地を耕しても、土地は、もはやあなたのために実を結びません。」

と訳している。このような分かりやすい表現を選ぶのが普通であろう。新世界訳のように土地を擬人化しなければならない必然性はまったくない。

<<II列王4:10>> 四次元ふう建築

シュネムの地に住んでいたある親切な婦人は、エリシャのために屋上に一つの部屋を作ろうと思いたった。列王第二4章10節は、彼女がそのことを夫に提案している箇所の一部である。

「ぜひ、壁の上に小さい屋上の間を造り、寝いすと机といすと燭台をあの方のためにそこに置きましょう。」

「Please,let us make a little roof chamber on the wall and put there for hima couch and a table and a chair and a lampstand」

「壁」とは「家の周囲や内部の仕切り」のことであり、天井や屋根の意味は含まれていない。新世界訳翻訳委員会はいったいどうやって「壁」の上に部屋を作るつもりであろうか。壁の横に部屋をドッキングさせる、あるいは幾つかの壁を仕切りとして立て、その上に部屋をのせるというように何とか考えられないこともないが、通常の建築ではやはり、壁の上に屋上の部屋を造るのは不可能である。

広い城壁の上ならば可能であると思うが、「wall」は城壁と訳される場合、複数形になるのが通例のようである。新世界訳は、「walls」ではなく「the wall」にしているので、そのまま訳せば日本語訳のようになる。

当時、多くの家はボックス型であり屋根も壁のように平であった。それで、屋根も壁の延長と考えられないこともないが、しかし、いくら何でも日本語の場合、屋根は屋根であって壁で屋根を表わすのはやはり無理である。「wall」と訳されているヘブライ語「キール」には「外壁の表面」の意味もあるので、「上の外側の表面」すなわち「屋根」と考えることができるが、普通そういうのは屋根とはいわず「屋上」というので、ここは新改訳のように「屋上」と訳すのが適切であろう。言うまでもなく屋上であれば部屋を作るのに何も問題もない。

「ですから、屋上に壁のある小さな部屋を作り、あの方のために寝台と机といすと燭台を置きましょう。」(新改訳)

あるいは、NIVのように「屋根」にしてしまうこともできる。

「Let's make a small room on the roof and put in it a bed a table, a chairand a lamp for him」

聖書時代、屋上は様々な仕方で用いられた。「続・目でみる聖書の世界」という本は次のように説明している。

仮庵の祭りには、屋上に樹脂で仮庵を結んだ(ネヘ8:16)時には半永久的な涼みの高殿(土師3:20)、また客室も設けられた(II王4:10)。そこは涼しいので、タビタの遺体はこのような屋上の間に安置された(行伝9:37)。窓からは展望がきかなかったので、新鮮な空気を吸いたい者(IIサム11:2)、また屋外で起こった出来事を見ようとする者は自然に屋上に上がった(イザ22:1)。屋上は個人的な談合(Iサム9:25)、哀哭(イザ15:3、エレ48:38)、祈祷(行伝10:9)などの好適の場所とされた。屋上からの墜落を防止するために、屋上の周囲に欄干(らんかん)を設けるべき規定があった(申命22:8)。それは高さ2キュビト(90cm)で腰のあたりまでとどき、体重を支えるに足りる頑丈な作りでなくてはならなかった。屋根の一隅には雨水を集めて貯水槽に送るために桶が取りつけてあった。」(p.52)

<<創世記25:22>> もがき苦しむ双子と自殺志願のリベカ

この時イサクの妻リベカはヤコブとエソウという双子を身籠っていたが、やがて、子供たちは胎内で激しく争い合うようになった。創世記25章22節にはその時に彼女が語ったことばである。

「ところで、彼女の胎内の子らは互いにもがき合うようになった。そのため彼女は言った、『こんなことなら、一体何のためにわたしは生きているのでしょう』。そうして彼女はエホバに尋ねに行った」

「And the sons within her began to struggle with each other, so that shesaid :"If this is the way it is, just why am I alive ?" With that she went to inquire of Jehovah」

ここはまず「もがく」がおかしい。もがくとは、手足を動かしてもだえ苦しむこと、苦しい状態から抜け出そうとあせることの意であるが、ヤコブとエソウは別に喫煙する妊婦の胎内にいる子供のように、もがき苦しんでいたわけではない。

この胎内の出来事は、やがてヤコブから出るイスラエル人とエソウから出るエドム人という二つの国民の激しい骨肉の抗争を予表するものであった。二人はすでに胎内にいるときから争い合っていたのである。もがくでは、とてもそういう意味合いは出てこない。もっともエドムの国は後に滅んでしまったので、エソウが代表してあらかじめもだえ苦しんでいたと考えられば、預言的にもつじつまが合うとは思うが。

リベカは自分の胎内で生じているこの異常な事態を見て、それが何を意味するのか知りたいと願ったようである。そのことは、22節の終りの「彼女はエホバに尋ねに行った」という記述に示されている。

しかし、新世界訳のように「こんなことなら、いったい何のためにわたしは生きているのでしょう」とやってしまうと、普通は「いっそ死んだほうがましではないか」と続くことになる。つまり、自殺志願のリベカになってしまうのである。普通はお腹の中で子供が暴れても元気がいいくらいで、死ぬほど苦しいとは言わないと思うだが(ママ)どうであろうか。おそらくこれではリベカの真意はとても伝わらないであろう。

現代訳はかなりの意訳であるが、簡潔でわかりやすい。

「ところが、おなかの子どもは双子で、お互いにけんかをしているようだったので、リベカは不安になった。『いったいどうなるのでしょう』と言って、主にお祈りした」

次に接続詞の誤用を二つほど上げることにする。

<<創世記19:30>> 「つまり」

「後にロトはゾアルから上っていって山地に住むようになったが、その二人の娘も一緒であった・・・・。」そして彼、つまり彼とその二人の娘は洞窟に住むようになった」

「Later Lot went up from Zo ar and began dwelling in the mountainous region, and his two daughters along with him, So he began dwelling in a cave, he and his two daughters」

「彼、つまり彼とその二人の娘」では「ロト=ロトと二人の娘」になり、物理的には不可能な表現になる。このような例としては他にも「ヨセフ=ヨセフとその父の家」「モーセ=モーセとイスラエルの年長者たち」などがある。ロトは族を、ヨセフは父の全家を、モーセはイスラエルの年長者たちをそれぞれ代表していると考えれば、意味は成り立たないとは思うが。

英文を直訳すると、「それで彼は洞窟に住み始めた、彼と彼の二人の娘たちは」となる。普通であれば、「彼と二人の娘は洞窟に住むようになった」と簡単に訳すのであろうが、字義訳方針で削ることができない、全部訳さねばならないとなると、「彼、つまり彼とその二人の娘」というような翻訳になってしまうのであろう。硬直した字義訳主義の悲劇である。

<<創世記35:22>> 「こうして」

「そして、イスラエルがその地に幕屋を設けていたときであったが、ルベンは一度、父のそばめのビルハのもとに行ってそれと寝た。そしてイスラエルはそのことについて聞いた。こうしてヤコブの十二人の息子が生れた」

「And it came about while Israel was tabernacling in that land that once Reu'ben went and lay down with Bil'hah his father'sconcubine, and Israel got to hear of it. So there came to be twelve sons of Jacob」

「こうして」という語は、前の部分を受けてその結果を表わす接続詞である。とすると、ヤコブの十二人の息子が生まれたことの要因にルベンの淫行が関係していたことになってしまう。この記述をみたらヤコブの息子たちもさぞかし驚くことであろう。ここで用いられているヘブライ語の接続詞「ヴェ」には、and, so, that, now,or, but, などさまざまな意味があるので、必ずしも「so」や「こうして」に訳さなければならないという必然性はない。

ここは次の新改訳のような訳が妥当であろう。

「イスラエルがその地に住んでいたころ、ルベンは父のそばめビルハのところへ行って、これと寝た。・・・・さて、ヤコブの子は十二人であった」

<<詩編140:5>>ツナをアミとして広げる

この詩篇140編は、ダビデが悪い者たちからの救出を神に願い求めている歌である。次の聖句は、邪まな者たちが彼にどんなことを行っていたかについて述べている。

「自分を高める者たちはわたしのために仕掛けを隠し、通り道のそばに綱を網として広げました。彼らはわたしのためにわなを仕掛けました」

「The self-exalted once have hidden a trap for me; And ropes they have spread out as a net at the side of the track. Snares they have set for me」

「綱」と「網」確かに漢字は良く似ているが、実物の「綱」を見て「網」という人はいないであろう。綱はいくら広げても綱で、網にするのは不可能である。もっともロープを編んで網を作るのであれば話は別であるが。

この詩編140編に出てくるワナは、網とロープが一体になったタイプのものである。次の絵はものみの塔誌(19753/1p.156)に載った当時のワナの絵である。

「net」を「網」と取って字義通り訳すと、日本語版のように「ロープを網として広げた」という変な訳になってしまう。「net」には「計略、ワナ」という意味もあるので、「綱を張ってワナをしかけた」と訳すこともできるが、しかし、明確な表現を選ばなかった英語版にも責任があろう。特に「as a net」という表現は問題になると思う。

次のNIVの訳と比べてみるとその点がよく分かる。

「Proud men have hidden a snare for me; they have spread out the cords of their net and have set trap for me along my path」

「the cords of their net」を直訳すると「アミのつな」になるが、これは当時のワナのイメージにピッタリの表現である。

<<ホセア10:1>> 魔法の木

ホセアは紀元前8世紀、北の王国イスラエルがアッシリア帝国に滅ぼされる直前に働いた預言者の一人である。彼は、道義的にも霊的にも腐敗していたイスラエル王国をぶどうの木に例え、次のように述べた。

「イスラエルは衰退してゆくぶどうの木。彼は自分のために実を付けてゆく。その実が満ちあふれるにしたがって彼は[自分の]祭壇を多くした。その土地が良いので彼らは良い柱を立てる」

「"Israel is a degenerating vine. Fruit he keeps putting forth for himself. In proportion to the abundance of his fruit he has multiplied [his]alters. In proportion to the goodness of his land, they put up good pillars」

「衰退する」とは「おとろえて勢いがなくなること(学研国語大辞典)、おとろえくずれること、おとろえ退歩すること(広辞苑)」という意味である。したがって、「衰退してゆくぶどうの木」といえば、「おとろえ、くずれ、枯れてゆくぶどうの木」ということになってしまう。ところが、次に「実を付けてゆく」「その実が満ちあふれる」と続いているので、このぶどうは、枯れてゆくのにたくさんの実を付けるという実に摩訶不思議な木になってしまうのである。

日本語版が「衰退する」と訳している元のヘブライ語「バーカク」は、衰退するどころかそれとは全く反対の意味を持つことばである。たいていの辞書は「beluxuriant」(繁茂する、生い茂る)「spreading」(広がって行く、伸びて行く)などの訳語を当てている。

ホセアが預言したころ、滅びが間近に迫っていたイスラエル王国は末期症状の状態にあった。偽り、偽証、殺人、淫行といった背教の腐った実が国中に広がっており、偶像崇拝の祭壇がいたるところに築かれていた。事態はもはや癒しようのないレベルまで進んでいたのである。ホセアはそうしたイスラエルの状態を生い茂ってゆくぶどうの木に例えた。イスラエルは決して衰退してゆくぶどうの木ではなく、腐った実を豊かに実らせるぶどうの木であった。

もっとも偶像崇拝が盛んになるということは逆に真の崇拝が衰えてゆくということなので、日本語版が真の崇拝という意味でイスラエルを衰退してゆくぶどうの木に例えたのであれば一応意味は通る。ただしそれだと、裁きの預言との呼応関係が完全に壊れてしまうので、文脈にはまったく合わなくなってしまう。

確かに、英語版の「degenerate」は「衰える、衰退する」なので、そのまま訳せば日本語版のようになる。しかし、「degenerate」にはその他にも「堕落する、変質する」などの意味があるので、「イスラエルは堕落する(変質する)ぶどうの木」というふうに訳すこともできるが、英語版が何故わざわざ誤解を招きやすい表現を選んだのかは理解に苦しむ。

<<ホセア6:8、9>> 仲間のせいにする祭司たち

次の節も前の10章1節と同じように、ホセアがイスラエルの悪行を糾弾しているところである。

「8 ギレアデは有害な事柄を行う者たちの町。その足跡は血である。9 また、祭司のともがらは、人を待ち伏せしているかのようであり、略奪者の群れとなっている。路傍で、シェケムで、彼らは殺人を犯す。彼らはただみだらな行いをしてきたのである」

「8 Gil'e. ad is a town of practicers of what is harmful; their footprints are blood. 9 And as in the lying in wait for a man, the association of priests aremarauding bands. By the wayside they commit murder at She'chem, because they have carried on nothing bet loose conduct」

「ともがら」とはいうまでもなく、仲間のことである。したがって新世界訳の翻訳では、略奪行為をしていたのは「祭司そのもの」ではなく、祭司のともがらすなわち「祭司の仲間」ということになってしまう。

しかし、ここは祭司の「仲間」が殺人や淫らなことを行っていたというよりは、祭司たちが「自ら」そういう行為を行っていたと考える方が文脈に合う。本来は公正な裁きやいやしを行うべき立場にいた祭司たちが、むしろ率先して、徒労を組んで略奪行為をするほど腐敗、堕落していたということである。

辞書を見ると「ともがら」と訳されている英語の「association」には、まず「団体、会、組合」というような訳語がのっている。また、仲間の意味では「association」よりも「associate」を用いるのが普通のようなので、日本語版がなぜ「ともがら」という訳語を選んだのかはよく分からない。

確かにもとのヘブライ語「ヘベル」には仲間という意味があるので、ともがらで良いといえばそういえないこともないとは思う。が、しかしヘベルには「一体、一団、一行」という意味がはっきりあるわけだから、もっと文脈を考えて訳語を決定すべきであろう。

ここは新世界訳のように「association」を用いるよりも、NIVの次の訳の方がはるかに分かりやすい。

「9 As marauders lie in ambush for a man, so do bands of priests; they murder on the road to Shechem, committing shameful crimes」

古代の祭司たちは腐敗の元凶になっていた。はたして、現代の自称「祭司たち」はどうであろうか。

<<エレミヤ29:21、22>> 偽預言者に対する神の呪いをとく

エレミヤはバビロンにいる流刑の民、第一次補囚でエルサレムから連れ去られた人々に手紙を書き送り、エルサレムは滅びること、その荒廃の期間は70年に及ぶことなどを伝えた。ところがこの時バビロンにはエレミヤに敵対する偽預言者たちがいた。次の節はそうした二人の預言者について語ったものである。

「21 イスラエルの神、万軍のエホバは、わたしの名によってあなた方に偽りを預言しているコラヤの子アハブに関して、またマアセヤの子ゼデキヤに対してこのように言われた。『いまわたしは彼らをバビロンの王ネブカドネザルの手に渡し、彼は彼らをあなた方の目の前で必ず打ち倒す。22 そして彼らから、バビロンにいるユダの流刑者の全員によって呪いが取られる。こう言うのである。「エホバがあなたを、バビロンの王が火で焼いたゼデキヤやアハブのようにされますように!」

「21 This is what Jehovah of armies, the God of Israel, has said concerning A'hab the son of Ko lai' ah and to Zed・e・ki'ah the son of Ma・a・sei'ah, who are prophesying to YOU falsehood in my own name, 'Here I am giving them into the hand of Neb・u・chad・rez’zar the king of Babylon, and he must strike them down before YOUR eyes.」 22 And from them a malediction will certainly be taken on the part of the entire body of exiles of Judah that is in Babylon, saying; "May Jehovah make you like Zed・e・ki'ah and like A'hab, whom the king of Babylon roasted in the fire!"」

22節の「彼ら」は偽預言者のアハブとゼデキアを指している。それで日本語版の訳文どおりに考えてゆくと、「呪いがかけられているのは彼ら偽預言者、そしてその呪いは彼らから取られる、それはユダの流刑者全員によって」ということになる。言い換えれば、偽預言者の上にある呪いをユダの流刑者が全員で取り去ってあげるという意味になってしまう。 しかし、そのすぐ後に続く言葉はまさに彼ら偽預言者に対する「呪いそのもの」であり、しかも、その呪いの言葉を語るようになるのはユダの流刑者たちなので、この翻訳では文意が前後で矛盾してしまう。

問題は「彼らから取る」という部分であるが、同じ取るでも「take」には「〜から取ってくる」とか「〜から引用する」というような意味がある。例えば、プログレッシブ英和中辞典には次のような例文が載っている。

The hero was taken from life.(主人公は実在の人物をモデルにしたものである)
The book takes its title from Dante.(その本の書名はダンテからとったものである)

それで英語の takeを「取る」と考えるにしても、日本語版のように「呪いを取り去る」ということではなく、彼ら偽預言者から「エホバがあなたを・・・・のようにされますように」という呪いの言葉が取られる、つまり、二人の偽預言者がそうした呪いの言葉の起源になるというふうに解釈すれば、意味は通ると思う。が、しかし実に分かりにくい表現ではある。

ここは新改訳のような次の訳が妥当であろう。

「22 バビロンにいるユダの補囚の民はみな、のろうときに彼らの名を使い、『主がおまえをバビロンの王が火で焼いたゼデキヤやアハブのようにされるように。』と言うようになる」

最後に傑作を一つ。

<<ローマ7:24>> パウロはタコを忍ぶ人

この「タコを忍ぶ人」は新世界資料付き聖書の脚注の中に登場する。本文の方は次のようになっている。

ロマ7:15または、「自分の意図する」。24「実に惨めな」。字義、「[皮膚の]たこを忍ぶ」。「わたしは実に惨めな人間です!こうして死につつある体から、だれがわたしを救い出してくれるでしょうか」

「Miserable man that I am ! Who will rescue me from the body undergoing this death ?」

パウロはこの24節の前の方で、自分の中に働く二つの律法、すなわち思いの律法と罪の律法について述べている。

内面では神の律法を喜んでいるのに、肉体は罪の律法に支配されている。戦いは罪の力の勝利に終り、結果として罪のとりこにされてしまう。パウロが「実に惨めである」といって嘆いているのはこうした状態のことである。

参照資料付き聖書の脚注によれば、この「実に惨めな」の字義が「[皮膚の]たこを忍ぶ」であると説明されている。体のどこにたこができていたのかは分からないが、パウロは「たこを忍ぶ人」であったわけである。よほどタコに悩まされていたのに違いない。

さて、文脈から明らかなように、パウロがここで論じているのは、肉と霊の戦い、そして罪の力からのキリストによる救いという人間の本性、およびキリスト教の本質に関するきわめて重要な側面である。「わたしは実に惨めな人間です!」と記されてはいるが、この記述はパウロ個人に関してというよりは、むしろ人類一般の抱えている状況について述べられたものと解釈されている。人はだれもみな罪の力に悩まされるからである。

したがって、いくら字義とはいってもこういう論議の中に、皮膚のたこのような個人的な問題が出てくるとはちょっと考えにくい。というのは、すべての人が「たこ」に悩まされているとは限らないからである。

[たこを忍ぶ]と訳されている英語は[callus-bearing]である。[callus]をたこ[bearing]をがまんする、辛抱する、忍耐すると取ると、[callus-bearing]で「たこを忍ぶ」になる。しかし、[callus]を皮膚硬結、[bearing]を生じる、抱えると考えれば、「皮膚硬結を抱える、あるいは持っている」と訳すこともできる、がやはり、たいして意味は変わらない。

かなり無理をして、「皮膚硬結」を老化現象によるものと仮定すると「人はみな年を取ると皮膚がこわばりカサカサになってゆく」という意味に考えられないこともない。それだと「実に惨めな状態です!」と嘆くこととも合うかもしれないが。